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自然主義小説のころ|柳田国男

文学と神楽坂

 日本民俗学の創始者だった柳田国男ですが、10代のころは、新進気鋭の短歌の歌人でした。明治25(1892)年、数えで18歳、やはり短歌の田山花袋(数えで22歳)が初めて柳田氏に会いにきています。二人は親友になりました。それから時は流れ、20代後半から30代には、柳田氏の邸宅での土曜会がでてきました。やがて、この会は自然主義の文士が集まる竜土会になっていきます。これは柳田国男が自叙伝『故郷七十年』で描いた、その当時の会の様子です。

 自然主義という言葉を言い出したのは、田山であったろう。しかも英語のナチュラリズムという言葉をそのまま直訳したのだが、はじめは深い意味はなかったと思う。田山は何か私らの分らない哲学的なことを言い出したりしたが、それはもう後になってからの話であった。それよりはもっと平たく言えば、やはり通例人の日常生活の中にもまだ文学の材料として採るべきものがあるということを認めて、それを扱ってみようとしたといえると思う。
 別に私が田山に話したような奇抜なものだけを書かなければならないわけはない。たとえば二葉亭の「浮雲」や坪内さんの「書生気質」だって、別に変ったところもないだけに、かえって広い意味の自然主義の発端といえないこともなかろう。田山は私の犯罪調査の話ばかりでなく、私が旅行から帰って来ると、何か珍しい話はないかといって聞くことが多かった。私が客観的に見て話してやったのを彼が書いたものの中には、特赦の話以外にも多少注目に値するものもあった。不思議なことには、文学者というものは、われわれの話すことを大変珍しがるものである。想像もできないとかいって感心する。いわゆる「事実は小説よりも奇なり」というわけだろう。それにこちらもいくらか彼等にかぶれて、西洋の写実派の小説などを読んでいるために、そんな例までくらべて話してやるものだから、一時は大変なものであった。そしてとうとう、あすこへ行きさえすればたねがあるというようなことになった。
 小栗風葉など一番熱心に参加した。家があまり困らないものだから不勉強で、代作などを盛んにさせた元祖であった。真山(まやま)青果(せいか)などは初めのうち、ずっと風葉の名前で書いて生活をしていた。青果の方では自分の名で出せるようになるまでは、練習のつもりで代筆をしていたわけであろう。ともかく風葉などは、私のところへ来れば新しい話があるという気で、私に対していたのである。

ナチュラリズム naturalism。自然主義。文学では客観描写を本領とする写実主義。哲学では自然を重視し、すべての現象を科学的法則で説明する。自然論。神学で、宗教的真理は自然の研究で得られるとする。
奇抜なもの 柳田国男が法制局で出会った特赦の例。子供や愛人が死亡し、自分だけが生きる悲惨な実例。
浮雲 小説。未完。明治20~89年発表。知識青年内海文三を通して明治の文明・風潮を批判し、自我の目覚めと苦悩とを写実的に描く、言文一致体の近代写実小説。
書生気質 当世書生気質。とうせいしょせいかたぎ。小町田こまちだ粲爾さんじという書生と芸妓との恋愛を中心に、当時の書生風俗の諸相を写実的に描き、「小説神髄」の理論の実践化を図ったもの
あすこ 牛込加賀町の柳田国男の邸宅。1901(明治34)年から1927(昭和2)年までこの加賀町に住んでいました。
 それからもう一人は、硯友社の川上眉山(びざん)であった。眉山は家庭が複雑で、気になることが多いためか、酒でまぎらすことが多かった。それに文筆で生活をする必要があって、骨が折れたらしい。しかも硯友社同人の立場にいながら、新興文学の端緒にも触れようという気持が強くて、森鴎外さんのものを片っ端から読んでいた。それに続いては国木田のものなどをよく読んでいた。死ぬ一年か一年半くらい前は、よく私のところに来た。
 それで十人ばかりの仲間が私の家に集まった。土曜日に催したから土曜会ということにしたが、毎週ではなく、たしか月二回ぐらいやっていたと思う。国木田がもちろん陰の黒幕で、島崎君もときどきは加わった。皆が集まった動機といえば、田山ばかりがたねをもらいに行って、うまいことをしているからということであった。明治三十七、八年のころだと思う。欧州でも二十世紀の初めで、英国の文学の一つの変り目にあたり、大陸の文学を盛んに英訳をしだした、ちょうどその時期に当っていた。フランスのドーデのものの英訳などが出始めたので、私が田山にすすめたことを憶えている。船に乗る人が盛んに買ったジャックの船上本などという英訳本が、日本にも来たものである。私は丸善に連絡をとっておいて、手元に届くたびに土曜会の連中に紹介した。この土曜会が後に快楽亭の会になり、三転して竜土(りゅうど)(かい)となったのである。

土曜会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩、小栗風葉、柳川春葉、生田葵山、蒲原有明などが集まって文学談を交わした。次第に参加人数が増え、1902年1月、麴町の西洋料理店快楽亭の会合からは会場を外に設けた。牛込赤城神社下の清風亭、雑司ヶ谷鬼子母神の焼鳥屋などに移り、柳田国男氏の年譜では1905年7月、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となった。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。

ドーデ フランスの小説家・劇作家。Alphonse Daudet。1840年~1897年。故郷プロバンス地方の風物を温かな人間味と詩的情緒豊かな作風で描いた。短編集「風車小屋便り」「月曜物語」、小説「プチ・ショーズ」、戯曲「アルルの女」など
ジャックの船上本 不明です。
快楽亭 麹町英国公使館裏通りの洋食店
竜土会 麻布竜土町のフランス料理店竜土軒から

紅葉の葬儀②|江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏は小説家で、硯友社同人、のちには大衆小説を書いています。1869年9月17日(明治2年8月12日)に生まれ、昭和2年に書いた『自己中心明治文壇史』は貴重な文壇資料になりました。これは尾崎紅葉氏の葬儀の情況です。

坪内先生の卒倒(明治三十六年の冬の下)
 紅葉の死に就て各新聞は競つて記事を精密にした。その葬儀の模様も委細に報導されたので、茲には主として、自己中心で記載するが、贈花其他は可成り長くつゞいた。棺惻に門生逹が左右に別れて從つたが、其中に異彩を放つたのは、瀬沼夏葉女史で、この人はニコライ神學校の教師瀬沼某の夫人で、露國文學に通じ、その飜譯を故人に示しなどしてゐた。
 硯友社員は棺後に直ぐつゞいた。會葬者は一人も殘らず徒歩で青山の齋場まで附随した。高田先生なども無論であつた。
 思案が行列整理の任に當つて「皆二列に並んで下さい。」と無遠慮に觸れて廻つたが、皆その通りにして呉れた。自分は柳浪と並んで行つた。
 川上音二郎藤澤淺二郎二人が、横寺町の某寺門前で、シルクハツトフロツクコートで默送してゐた。行列が神樂坂を降り、堀端を進行中に、陸軍將校が騎馬で通行し掛つて、馬の暴れを鎭め切れず、一寸行列を亂した事があつた。
森鷗外丶丶丶丶騎馬で丶丶丶紅葉の丶丶丶行列を丶丶丶攪亂丶丶さした丶丶丶。」と某新聞に記載したのは、全くの無根で、前記の軍人を鷗外に嵌めて了つたのだ。

ニコライ神学校 千代田区神田駿河台の正教会の大聖堂。正式には東京復活大聖堂。ロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライ(Nicholas)に由来。
瀬沼某 瀬沼恪三郎かくさぶろうのこと。明治23年、ロシアに留学。キエフ神学大にまなぶ。帰国後、正教神学校教授、校長をつとめる。
二人 「金色夜叉」を演じた役者たちです。
嵌める はめる。ぴったり合うように物を入れる。物の外側にリング状や袋状の物をかぶせる。

 青山齋場は立錐の地も無いまでに會葬者が詰めてゐた。
 硯友社の追悼文は、眉山が書いて、思案が讀んだが、途中から鳴咽して丶丶丶丶丶丶丶丶切々丶丶聽くに丶丶丶忍びず丶丶丶會葬者も丶丶丶丶亦多く丶丶丶涕泣した丶丶丶丶
 突然會葬者中に卒倒者を生じた丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶それは坪内逍遙先生であつた○○○○○○○○○○○○○。それを最初に氣着いて抱き留めたのは、伊臣眞であつた。早速場外へお逹れして、岡野榮の家で靜養されたが、一時は皆吃驚した。(腦貧血を起されたのであつた。)
 次ぎに角田竹冷宗匠が、秋聲會を代表して追悼文を讀んだ。之も亦泣きながらであつた。
 門弟を代表しては鏡花が讀んだ。
 自分は長年、多くの葬儀に列したけれども、紅葉の時の如く會葬者の殆ど全部が、徒歩で以て長途を行き、二列の順をくづさなかつた樣なのは、他に見なかつた。又齋場に於ける緊張味は、殆ど類を見ないのであつた。わざと成らぬ丶丶丶丶丶丶劇的光景丶丶丶丶に富んだ丶丶丶丶のは丶丶故人の丶丶丶徳望の丶丶丶現はれ丶丶丶と見て丶丶丶好からう丶丶丶丶である丶丶丶

青山斎場 現在は青山葬儀所。場所は港区南青山2-33-20。明治34年に民間の斎場として開設。大正14年に旧東京市に寄付。なお、尾崎紅葉の墓は青山霊園で1種ロ10号14側にあります。
秋声会 しゅうせいかい。俳句結社。1895年(明治28)10月、角田竹冷ちくれい、尾崎紅葉、戸川残花、大野洒竹しゃちくらが、日本派以外の新派俳人を広く糾合して創立。その趣旨は、新古調和、折衷主義で、革新的意気に欠け、作句面では遊俳とも称される趣味的傾向が強かった。
宗匠 そうしょう。文芸・技芸などの道に熟達し、人に教える立場にある人。特に和歌・連歌・俳諧・茶道・花道などの師匠。
長途 ちょうと。長いみちのり。遠い旅路。
わざとならず ことさらでない。さりげない。自然な。

文壇昔ばなし②|谷崎潤一郎

文学と神楽坂


             ○
紅葉の死んだ明治卅六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目團十郎が死んでゐる。文壇で「紅露」が併稱された如く、梨園では「團菊」と云はれてゐたが.この方は舞臺の人であるから、幸ひにして私はこの二巨人の顏や聲音(こわね)を覺えてゐる。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、會ひ損つてゐる人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巖谷小波山人にたつた一囘、大正時代に有樂座自由劇場の第何囘目かの試演の時に、小山内薰に紹介してもらつて、廊下で立ち話をしたことがあつた。山人は初對面の挨拶の後で、「君はもつと背の高い人かと思つた」と云つたが、並んでみると私よりは山人の方がずつと高かつた。「少年世界」の愛讀者であつた私は、小波山人と共に江見水蔭が好きであつたが、この人には遂に會ふ機會を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、己は先に行くよ」と云つたと云ふ話を聞いてゐるから、當時水蔭はまだ生きてゐた筈なので、會つて置けばよかつたと未だにさう思ふ。小栗風葉にもたつた一遍、中央公論社がまだ本郷西片町麻田氏のの二階にあつた時分、瀧田樗陰(ちよいん)に引き合はされてほんの二三十分談話を交した。露伴藤村鏡花秋聲等、昭和時代まで生存してゐた諸作家は別として、僅かに一二囘の面識があつた人々は、この外に鷗外魯庵天外泡鳴靑果武郎くらゐなものである。漱石一高の英語を敎へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお時儀をした覺えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら聲咳に接する折がなかつた。私が帝大生であつた時分、電車は本鄕三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかつたので、漱石はあすこからいつも人力車に乗つてゐたが、リュウとした(つゐ)大嶋の和服で、靑木堂の前で俥を止めて葉巻などを買つてゐた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大學の先生にしては贅澤なものだと、よくさう思ひ/\した。

菊五郎 尾上(おのえ)菊五郎。明治時代の歌舞伎役者。市村座の座元。生年は1844年7月18日(天保15年6月4日)。没年は1903年(明治36年)2月18日。享年は満58歳。
團十郎 市川団十郞(だんじゅうろう)。明治時代の歌舞伎役者。屋号は成田屋。生年は1838年11月29日(天保9年10月13日)。没年は1903年(明治36年)9月13日。享年は満64歳。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。
梨園 俳優、特に、歌舞伎役者の世界。唐の玄宗皇帝が梨の木のある庭園で、みずから音楽・舞踊を教えたという「唐書」礼楽志の故事から。
團菊 普通は三人で、団菊左。だんぎくさ。明治を代表する歌舞伎俳優、九世市川団十郎・五世尾上菊五郎・初世市川左団次のこと
声音 声の調子。こわいろ。
有楽座 日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。1908年(明治41年)12月1日に開場。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡。
自由劇場 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。「無形劇場」で劇場や専属の俳優を持たない。
試演 試験的に上演や演奏すること。
少年世界 少年読者を対象とした雑誌。博文館発行。1895年1月創刊、1933年10月終刊。
中央公論社 雑誌『中央公論』を中心とする総合出版社。1886年に創立された西本願寺の修養団体「反省会」がその前身。1912年西本願寺から離れ、14年中央公論社と改称。坪内逍遙訳「新修シェークスピヤ全集」 (1933) 、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 (39~41) などを出版。
西片(にしかた) 東京都文京区の町名。右上図は現在の西片町。このほぼ90%が昔の駒込西片町。これに駒込東片町・田町・丸山福山町・森川町・柳町の1部が合併し、成立したもの。
 旧麻田駒之助邸は残っています。図を。
一高  昭和10(1935)年までは本郷向ヶ岡弥生町(現・東京大学農学部敷地)にありました。
聲咳に接する 正しいのは謦咳(けいがい)。尊敬する人に直接話を聞く。お目にかかる。
かねやす 東京都文京区本郷三丁目にある雑貨店。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
 つい。素材や模様・形などを同じに作って、そろえること。
大島 大島紬。おおしまつむぎ。鹿児島県奄美大島特産の伝統工芸品、紬織物の一種。高級着物地。
青木堂 文京区本郷5丁目24にありました。1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売、2階は喫茶店。青木堂はここが本店。なお、牛込区通寺町(現、神楽坂六丁目)の青木堂とは関係はないといいます。

文豪の素顔|森鴎外(1)

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が1953年の66歳の際に書かれた『文豪の素顔』です。氏は1887年3月1日に生まれ、没年は1964年5月6日なので、これは21歳に起きたことです。この日、森鴎外氏、上田敏氏、夏目漱石氏が一か所に集まったのです。これはその時の話です。

 森鴎外
 今夜の青楊会の会合は午後六時の開宴である。今は丁度三時だ。まだ彼これ三時間間があるわけである。はその間に何んとかして兄秀雄と二人分の会費を算段してこなくてはならないのである。二人で十円あれば、悠々と会へ出られるのだが、打つてもみしやいでも僕のガマロには五十銭玉がたつたひとつしか残つてゐない。まことにお寒い昨今である。兄秀雄は昨夜七時すぎに吉井勇と落合つて家を飛び出してしまつたきり、例によって膿んだでもなけりやつぶれたでもない。きつと又あのまま神楽坂の小待合へでも溺没してしまつたのであらう。きつと会がはじまる頃に、白粉くさくなつて、ひよろりと現はれるに相違ない。

森鴎外

森鴎外

森鴎外 明治・大正期の小説家、評論家。軍医総監。医学博士・文学博士。本名は(もり)林太郎(りんたろう)。生年は1862年2月17日(文久2年1月19日)。没年は1922年(大正11年)7月9日。明治41年に行った上野精養軒の会合は46歳になっていました。
青楊会 せいようかい。森鴎外氏が作った送別会などの、文学者の宴会です。「鷗外日記」によれば明治41年(1908年)「四月十八日(土) 夜上野の青楊會に往く。夏目金之助等来会す」と書いています。また、これは3回目の青楊会でした。4月25日の上田敏宛の手紙では「君を送りまつりし會より生れし青楊會の三度目に又々夏目君などと出逢い候」と書いています。

長田幹雄

長田幹雄

 長田幹雄。ながたひでお。小説家。東京の生まれ。生年1887年3月1日、没年は1964年5月6日。秀雄の弟。「明星」「スバル」に参加。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名。この日は21歳でした。

長田秀雄

長田秀雄

秀雄 長田秀雄。ながたひでお。詩人・劇作家。生年は1885年(明治18年)5月13日。没年は1949年(昭和24年)5月5日。東京の生まれ。明治大学で学ぶ。幹彦の兄。「明星」「スバル」に参加。新劇運動に加わり、史劇で新分野を開きました。この時は23歳。
みしやい 「みしゃぐ」でしょうか。押しつぶす。ひしゃぐ

吉井勇

吉井勇

吉井勇 よしいいさむ。歌人・劇作家。生年は1886年(明治19年)10月8日。没年は1960年(昭和35年)11月19日。東京の生まれ。早稲田大学中退。耽美派の拠点となる「パンの会」を結成。歌集は「酒ほがひ」「祇園歌集」「人間経」、戯曲は「午後三時」「俳諧亭句楽の死」など。22歳。
膿んだ ()む。化膿(かのう)すること
溺没 できぼつ。おぼれて沈むか、死ぬこと

 何よりも困つたのは、僕が虎の子のやうに愛蔵してゐた、あの「ゾラ全集」と「ゴンクール全集」をまんまと持ち出されてしまつたことである。兄貴のこの頃の御乱行は実さい眼にあまるものがあつた。悪友勇と一しよになると、手あたり次第に何んでもかでも持ち出してしまふ。一昨日なぞは親父の外套をきていつてしまつたので、親父は患家へ回診に出かけることも何も出来ず診察室でぷんぷん代診たちに当りちらしてゐた。真正直な温良な、実にいい親父であるだけに、僕はすつかり義憤を発して、もし深夜に兄貴が酔つぱらつて帰つてきたら今夜こそとたんにひつぱたいてやらうと思つて手ぐすねひいて待つてゐた。僕はボートできたへた腕なので、腕力では誰れにもまけない自信があつた。
 秀雄はたうとうその晩も帰つて来ず、昨日の正午頃、親父の外套は質にぶちこんだらしくふらりと帰つてきて、そのまま飯もくはずに二階へあがつて夜着をひつかぶつて寝てしまつた。実さい呆れ返つて、口がきけない。
 夕方になると、勇が叉現はれて、僕がちよつと出た留守に、二人でくだんの全集をひつかつぎ出したものに相違ない。四ケ月も五ケ月も学資の残余をこつこつためて、やつと買つた全集であるだけに、まんまとシテやられた口惜しさ! さすがの僕も腹をすゑかねた。弟のものはおれもの、おれのものはおれのもの式な、兄貴のわがままな横暴さが骨髄に徹して僕はどうしてくれようかと、全く切歯扼腕したのであつた。一たい兄貴のやうなぐうたらな土性骨のない人間はその時分でも珍らしかった。親父ももう此頃では、持余して、毎日心の中では血の涙をのんでゐるらしかった。
虎の子 虎は自分の子をかわいがって育てる。それと同じで、大切に持ち続けて手放さない。
ゾラ Émile Zola。フランスの小説家。生年は1840.4.2。没年は1902.9.29。「実験小説論」を著し、自然主義文学の方法を唱道。
ゴンクール Edmond & Jules Huot de Goncourt。フランスの兄弟の小説家。自然主義の小説を合作。また、日本の浮世絵の研究・紹介にも努めました。
代診 担当の医師に代わって診察すること
切歯扼腕 せっしやくわん。歯ぎしりをし腕を強く握り締めること。残念や怒ったりすること
土性骨 どしょうぼね。性質・性根を強めて、ののしっていう語
 さうかといって、今夜の会費だけは何んとかしてこしらへておいてやらないと、僕までが皆の前で恥ぢをかかなくちやならない。今夜は珍らしく森鴎外、上田敏夏目漱石の三先生がみえるといふので、われわれ文学青年にとつては、又とないかき入れの会合であつた。
 僕は万策つきて、たつた一枚しかないオーバーで金をこしらへるより外に手段はなかつた。幸ひ行きつけの質屋が、本郷にあるので、電車でそこへいつて、店先でオーバーをぬいで、やつと五円紙幣を二枚うけとつた。もう四月も十日過ぎ、桜の花もぽつぽつ咲きそろふ頃なので、薄地の背広一枚でもさうたいして寒くなかった。

上田敏

上田敏

夏目漱石

夏目漱石

上田敏 うえだ びん、文学者、評論家、翻訳家。生年は1874年(明治7年)10月30日。多くの外国語に通じて名訳を残しました。明治38年、訳詩集「海潮音」を刊行。明治41年、欧州へ留学し、帰国後、京都帝大教授に。没年は1916年(大正5年)7月9日。死亡は41歳でした。この日は34歳でした。
夏目漱石 なつめ そうせき。小説家、評論家、英文学者。生年は1867年2月9日(慶応3年1月5日)。没年は1916年(大正5年)12月9日。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を教え「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になりました。41歳。

 僕はその足で白山の御殿町にゐる木下杢太郎が一番鵬外先生に親 近してもゐたし、信用も一番あつたので、木下杢太郎のところへ廻つた。といふのは杢太郎が先生のお宅へ誘ひにあがつて、ごいつよに会場である上野の精養軒へお連れするのではないかと思つたからであった。もしかさうだつたらかねがねから近づきがたい先生にたつたひと言でも話しかけてみたいと、柄にもない念願をおこしたからであった。
 その時分の一しよのグループであった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇の面々の間で、僕は年も二つや三つ下だし、それよりも第一秀 雄の舎弟とあっては一向に頭角を現はすわけにいかない。皆さうさうたる売り出しの詩人達であるから僕のやうな才の薄い散文家は、いつも卑屈な立場に立たされた。上眼づかひをしながら心にもないおベンチャラをいつてゐるしか手がない。だから秘蔵の書籍なんか遊蕩費がはりに持ち出されても実さいは、先輩や兄貴を張り倒すわけにもいかない退け目があつたわけである。お前はまだ処女膜が破けてゐねえんだなぞと人前でボロクソにいはれて、三下奴でへこへこしながらくッついて歩いてゐる情なさといったら全くなかった。一度なぞは勇が幹さん、その時計をかせッと叫んで僕の袴の紐へ手をかけて、何んともいへぬ貧ランな殺気をみせた。つまり僕の時計で金をこさへてもうひと晩吉原へいかうといふのである。僕はこれが文学のうへの先輩でなければ、むろん地面へ叩きつけてやつたに相違ない。僕だつて反面は狭量な一徹者であつたから、酔つてフラフラしてゐる勇ぐらゐひッぱたくのはへいちやらであつた。
 しかし彼の「酒ほがひ」にある一連の名歌を思ふと、碌すつぽなものもかけない自らを省みて何としても彼の頭へ鉄拳を加へるなんていふ勇気は、いつの間にかへなへなと消し飛んでしまふのである。しかし心の中ではいつも今にみやがれッと絶叫して虎視たんたんとしてゐたのは事実である。全くあの時分の吉井勇は名詮自称、無頼漢であり、智能人にすぐれてゐるくせに、手のつけられぬ洛陽の酒徒であった。秀雄、勇の徒は自分で質屋で金をこさへてくると、こっそり一人遊びをやるし、他人が金をもつてゐると弟だらうが先輩だらうが卜コトンまでタカつて素裸にしてしまふ。古風な蕩児らしいエゴイズムと残忍さをつぶさに身につけてゐた。

御殿町御殿町 白山御殿町。町の大部分は白山御殿の跡です。左手に東京大学付属の小石川植物園があります。

木下杢太郎

木下杢太郎

北原白秋

北原白秋

木下杢太郎 きのした もくたろう。詩人、劇作家。後に東京大学医学部皮膚科教授。生年は1885年(明治18年)8月1日。没年は1945年(昭和20年)10月15日。本名は太田正雄。23歳。
精養軒 明治期の上野精養軒せいようけん。東京都台東区上野恩賜公園内にある最も古い西洋料理の店。図は明治期の上野精養軒
北原白秋 きたはら はくしゅう。詩人、童謡作家、歌人。生年は1885年(明治18年)1月25日。没年は1942年(昭和17年)11月2日。23歳。
三下奴 さんしたやっこ。博打(ばくち)打ちの仲間で下っ端の者。
貧ラン どんらん。貪婪。とんらん。ひどく欲が深いこと
一徹者 いってつもの。思いこんだことはあくまで押し通す人
酒ほがひ さかほがひ。吉井勇の歌集。 1910年刊。718首を収録した第1歌集。青春の挫折感から酒と愛欲に耽溺した境地をうたったものが多く祇園を舞台とした歌が特に有名。「ほかう」は望む結果が得られるようなことばを唱えて神に祈ること。後世には濁って「ほがう」の形になりました。
虎視たんたん 虎視眈眈。こしたんたん。虎が鋭い目つきで獲物をねらっている様子。転じて、じっと機会をねらっているさま
名詮 みょうせん。仏語。名がそのものの性質を表していること
洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。洛陽に京都という意味もありますが、吉井勇氏は東京生まれなので、この場合は洛陽は東京でしょう。
蕩児 とうじ。正業を忘れて、酒色にふける者

文豪の素顔|森鴎外(7)

文学と神楽坂

 きちんと二十分お邪魔をして、それから千駄木の裏坂を根津権現の方へおりていつた。もう夕暮れで、あの崖下の町はすつかりたそがれかかつてゐる。豆腐屋のラッパがあつちでも、こつちでも聞えて、吹く風も寒々としてゐる。
 とある横丁の角を曲ると、そこに二階建ての、こぢんまりした下宿屋がある。ずらりと並んだ二階障子に赤黄い灯がともつて、樹影からすけてみえる崖上の灯影の重なりをみてゐると、旅にゐるやうな情趣と哀愁が限りなく湧いてくる。
「ねえ、杢さん。あすこにみえてゐるあの灯が鷗外先生のお書斎ぢやないですか。」と、いふと、杢さんは脊丈のびをして、
「さうだ。あれメートルの書斎だ。わりに近くみえるね。」
「僕、この下宿へ移つて来ようかしら。」といふよりも早く、もう僕の決断はたちどころに極つていきなり入口の硝子戸をあけて入ると、髪の毛のふさふさしたおかみさんか応対に出てくる。二階の四畳半が賄つきで、月十一円五十銭だといふ。幸ひ千朶山房の真下に窓があいてゐる部屋なので、私は一も二もなくその場で契約をきめてしまつた。玄関の土間へつッたつて待つてゐた杢さんの大学生姿が、きつとおかみさんの信用をかつたのであらう。僕一人だつたら、或は断わられたかもしれなかつた。何にしろもう十二月にかからうといふのに、寸のつまつた一枚、よれよれになつた繩のやうなボロ兵児帯といふ僕のかつかうは、決して、見よい風態ではなかつた。三寸以上もある長髪を蓬々とちぢらして頬骨のつッぱつた血色のよくない顔に、鉄ぶちの眼鏡をかけてゐようといふのであるから、どうみたつてヤクザな文学青年か、雑誌ゴロ以上にはふめなかつた。
千朶山房と根津神社

千朶山房(赤い矢印)と根津神社(緑)

根津権現 ネズゴンゲン。根津神社。東京都文京区根津にある神社。地図では緑色で描いてあります。
賄つき 賄い付き。まかないつき。下宿・寮などで、食事も付いていること
千朶山房 せんださんぼう。森鴎外氏は1年2か月ほど暮らし、地名である千駄木に由来して「千朶山房」と呼びました。また夏目漱石もここに居を構え、このときは「猫の家」と言われています。この家屋は愛知県犬山市にある「明治村」に移築、公開されています
 あわせ。裏地のある和服。10月から5月までの間に着るもの
<b兵児帯> へこおび。男子、子供用の帯。並幅の布を胴に2、3重に回し、うしろで結ぶ。
蓬々 ほうほう。髪やひげがのびて乱れているさま
ゴロ 「ごろつき」の略。あちこちをうろついて他人の弱みにつけこんで嫌がらせをする悪者のこと
ふむ 前もって見当をつける。見積もりや値ぶみなどをする

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(2)

文学と神楽坂

 その間にあつて、杢太郎ばかりは、いはゆる朱に染まない、純真な学徒であり、芸術家であつた。僕のやうな三下奴が心ひそかに敬慕もし、頼りにするのは当然の話であつた。
 杢太郎の家へいくと、彼はもうきちんと大学の制服にきかへてゐて、にやにやしながら「今君の親父の家へ電話かけたら、秀さんは昨夜つから帰らんといふぢやないか。吉井と一しよなら、どうせ悪所だな。あのディオ二ソスにも困つたもんだよ。はゝゝゝ。」と真四角な口をあけて、歯並のそろつた歯を出して大きく笑ふ。意志的な、英知の表情である。
 僕がソラやゴンクールが消えた話をすると「そいつは愉快だなア、彼らにはソラやゴンクールは、およそ猫に小判だからね。仕様がないな。幹さん、そば杖で大損害だつたね。しかし秀さんも勇も、何んにも読まずに、徒らにヴィナスバッカスばかり追つかけてるのはつまらんな、今にアルチザン以上のものにはなれんぞ。」と、いつになく、生真面目な顔になる。一たい杢さんの顔の皮膚は血行が不安定で、笑ふとみずみずしい赤色を呈してくるが、渋面つくると、毛細管が皺にそうて収縮するかして、黄色い太い線を残すのが特徴であつた。
 僕は今更ら秀雄や勇の愚痴をいふのも馬鹿くさいので、鷗外先生の方へ話をもつていくと、杢さんは例のくせの鼻をクンクン鳴らして、

悪所 悪いところ。花街でしょう。
ディオ二ソス Dionysos。ギリシャ神話で、酒の神。バッカス。
猫に小判 貴重なものを与えても、本人にはその値うちがわからないことのたとえ
そば杖 喧嘩のそば(づえ)。他人の喧嘩のとばっちりをうけること。
ヴィナス ビーナス。Venus。ローマ神話の愛と美の女神。
バッカス Bacchus。ローマ神話のワインの神。ディオ二ソスの異名バッコスがラテン語化してバックス、英語化してバッカス。
アルチザン artisan。技術的には熟練し精妙な腕を発揮しながらも芸術的感動に乏しい作品を作る人々を批判的にいう言葉。

「いや、千駄木町のメートルはね、陸軍省から、真直に精養軒へいくといつてたよ。だから、もし幹さんがいくんなら、精養軒へずつと一しよにいかうか。」と、すつかり当てがはずれたことになつてしまふ。
 僕は杢さんと一しよに歩くだけでもむろん楽しいので、二人肩を並べて、戸外へ出た。杢さんはとてもよく歩く人で、白山の停車場へきても、電車に乗らうとはいはない。追分の方へどんどん歩いていく。どうやら向岡へ出て、上野までぽくぽく歩いていくつもりらしい。
 僕も何んにもいはずに、歩いていつた。
 杢さんはしきりに鼻をクンクンやる。さういふ時には、至極御機嫌なのである。
「ねえ、幹さん、君一昨日蒲原さんのところをベズーフしたさうだね、君はよくいくんだね。」
「え、僕、とつても、有明先生が好きになつちやつたんですよ。あのビンズル尊者はお顔をみてるだけでも、深遠で、神聖で、頭がさがりますね。」
「僕らはもつと、有明を勉強しなくちやいかんな。上田敏や白秋のけんらんもいいが、技巧ばかりで内容は稀薄だね。」
「さういふ感じがしますね。」

メートル フランス語maîtreから。先生。親方。長。この場合は森鴎外です。
白山、追分、向岡 白山は現在の「白山上」、追分町は「本郷追分」、向岡は当時の「向ケ丘弥生町」で、これは現在の「弥生町」の方が現在の「向丘」よりもいいと思います。ここを通って精養軒に行くわけです。

精養軒

最新大東京案内図 昭和17年(1942年)から

Kambara_Ariake蒲原 蒲原(かんばら)有明(ありあけ)。詩人。東京生れ。生年は1875年(明治8年)3月15日。没年は1952年(昭和27年)2月3日。複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人で、薄田泣菫と併称し、北原白秋、三木露風たちに影響を与えました。
ベズーフ ドイツ語でBesuch(ベズーフ)は「訪問」「訪問する」
ビンズル 賓頭盧(ビンズル)。釈迦の弟子。十六羅漢の第一
白秋 北原白秋のこと。

「何か面白い話あつたの。」
「例によつて、アーサー・シモンズでもちきりで、とても僕、興奮しちやつた。一たい先輩つてものは、やけにわれわれに布教したがるもんですけど、有明先生ばかりは御自分の傾向にあふやうなことばかりひとりでしづかにアーサイドしてゐて、ちつとも教化しませんね。いやならそッぽむいてろつて調子で、妙に相手を突き放してゐる態度が僕、立派だと思ふんです。青年にちつとも媚びませんからね。」
「君は散文的なみかたをするから、リアルをみるんだね。」
「今度の『河岸蔵』の詩なんか、まるで印象派の画だな。魂に黒点を印しますよ。僕はね正直のところ、北原君や吉井君のあの朗々すべき声調つていふかな、ああいふのは才気だけの問題であつて、もうぢき飽きられやしないかと思ふんですがね。」
「いや、さうでもないよ。あれはあえかな青春といふものにつながつてるからね。人間が不朽のリリシズムを謳歌する以上、やはりあの浪曼主義は、亡びないね。はゝゝゝ。但しちと甘いがね。」と、杢さんはいたずららしくちよいと舌の先を出す。
 池の端へ出ると、東照宮五重塔がぼやッと夕靄にとけて、縮緬皺の無数によつた不忍池には、立ちおくれた真鴨が暖かさうに浮んでゐる。ぬくたい夕風がほこりッぽく顔を撫でてくる。
「どつだい、池の水が白く光つてゐるところへ蓮の枯れた幹がによきによき突つたつてゐる効果はちょいとオツじやないか。日本の風景にだつてなかなかいいニュアンスがあるんだよ。なにも、パリまで出かけなくたつていいさ。」と、自嘲の調子でいつたかと思ふと、藪から捧に、「ああ、こんな風が吹くと長崎へいきたくなるな。あの支那寺ドラが聞きたくなるよ。はゝゝゝゝ。」
と、板ッ片をぶッつけるやうに笑ひだして、急に大股にとつとと歩きだす。これは杢さんの一流のくせであり、発想法であつた。

アーサー・シモンズ Arthur William Symons。英国のデカダン詩人。生年は1865年2月28日。没年は1945年1月22日。「デカダン詩人」は長田幹雄氏自身の『青春時代』解説による評価で、「デカダン」は退廃的なという意味です。
アーサイド あまりいい英語やフランス語はありません。arsideはあればいいのですが、ありません。asideは英語もフランス語もわきへ、かたわらに、離れて
リアル real 。真実の
河岸蔵 かしぐら。河岸に建っている倉庫
黒点 太陽の光球面に出現する黒い斑点
北原 北原白秋。詳しくはここに
 ぎん。声を出して詩や歌を歌うか作ること
あえか か弱く、頼りない。きゃしゃで弱々しい
リリシズム lyricism。叙情詩的な趣や味わい
浪曼主義 Romanticism。ロマン主義。主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパや諸地域で起こった運動。感受性や主観に重きをおいた運動。恋愛を賛美し、民族意識を高揚し、中世への憧憬があります。その反動として写実主義・自然主義などを出てきました。
東照宮 上野東照宮(とうしょうぐう)。東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧正式名称も東照宮。他の東照宮との区別のために上野東照宮と名前を付けています。
五重塔 元々は上野東照宮の五重塔でしたが明治の神仏分離によって寛永寺の帰属となり、戦後は東京都が管理。現在、上野動物園の中にあります。
夕靄 ゆうもや。夕方に立ちこめるもや
縮緬皺 ちりめんじわ。縮緬のように一面に細かく寄ったしわ。支那寺
不忍池 上野公園南西部にある池。台地の谷間に入り込んだかつての海が潟湖として残りました
ぬくたい (ぬく)い。ぬくとい。あたたかい。
藪から捧 藪から棒。やぶからぼう。予期せぬことが唐突に起こること。また、出し抜けに物事を行うことのたとえ。
支那寺 長崎市鍛冶屋(かじや)町にある黄檗(おうばく)崇福寺(そうふくじ)のこと。聖寿(しょうじゅ)山と号し、俗に福州寺(ふくしゅうでら)あるいは支那寺(しなでら)とよばれます
ドラ 銅鑼。中国の楽器。
dora_zildjianッ片 「いたっぺん」と読むのでしょうか。板の切れ端。

文豪の素顔|森鴎外

文豪の素顔|森鴎外(6)

文学と神楽坂

 僕は二年間の旅をおわつて、又風のごとくにへうへうと東京へ帰つてきた。明治四十四年の秋である。親父の家へ帰り度くても何だか敷居が高くて、帰りにくい。とにかく僕は、早稲田大学で相当真剣に勉強をしてゐて、決して学生として恥ずべき行為はしてゐなかつたにも拘らず、父がたうとう最後の手段として兄貴にの勘当をくはした。僕も実はそのそば杖をくつて、勘当の同伴を命じられたわけである。それといふのも僕の母親が秀雄を糞ッ可愛がり可愛がつてゐたので、親父への面当てに僕も追ひ出してしまへといふことになつたのである。こんな不条理な、封建的なことが平気で親子の間で行はれた時代が、日本にもごく最近まであつたのである。
 僕は窒息しさうな汚濁の雰囲気を離脱してたつた一人で北海道へ渡つてしまつた。二年間の放浪でずゐぶん苦労もしたので、人生の甘くないこともしみじみ感じとつてゐた。もう二度とふた度ああいつた詩人のグループなんかへ帰つていく気はしない。多愛のない芸術至上主義なんてものか、阿呆ッくさくみえてたまらなかつた。
 何にしろ長い間、東京を留守にしたのであるから、再び生活の根拠をきづきあけるのにひと骨折りをしなければならなかつた。当分の間は、収入の道が全くないのであるから、やむを得ず、友人の家をごろごろして歩くより外に暮らしやうがない。
 さういふ場合詩人たちは全然頼りにならなかつた。酒を飲むときには莫逆の友になるが、いざ生活のことになると、実さい酷薄をきはめたものであつた。尤も自分自身が既に無能力者で、手も足も出なかつたからであらう。いつの世にもさうだが、詩人の生活なんていふものは、溝川に消えてゆくあぶくのやうな頼りないものである。
 そこにまた美しさがあるのかもしれない。
 僕はある日杢さんを訪ねていつた。いつも変らなかつたのは、杢さんひとりである。
「やあ、よく帰つてきたね。たびたびおたよりありがたう。今度はほんとにいい経験をしたな。はゝゝゝゝ。」と、心から温情を示してくれる。
 さしづめ兄貴のゐどころが分らないので、それを聞くと、
「秀さんかね。秀さんは相変らず、あの浜町の桶屋の二階にくすぶつてるよ。一昨日もちよつと永代橋附近をスケッチして歩いたんでその帰りに寄つたがね。あすこは相変らす、梁山泊だな。今にあの天井裏のサロンもやがて壊滅するね。秀さんには、生活能力なんてものは全くないんだからな。」
「吉井君は。」
「吉井は下谷あたりに隠れてるらしいね。この頃ちつともパンの会も出て来ないがね。」といつて杢さんはぶきつちよな手つきで煙草に火をつけながら、「とにかく北海道のくさい匂ひのぬけないうちに、何かいいものをかくんだな。幹さん、今がチャンスだよ。」

へうへう 「へうへう」と書いて「ひょうひょう」と読みます。漢字では「飄飄」。足元がふらついているさま。また、目的もなくふらふらと行くさま。
たうとう 「たうとう」と書いて「とうとう」と読みます。物事が最終的にそうなるさま。ついに。結局
 「おさ」でも「ちょう」でも。多くの人の上に立ち、統率する人。
面当て つらあて。快く思わない人の面前で、わざと、あてこすりを言ったり意地悪をしたりすること。また、その言動。あてつけ
汚濁 よごれること。にごること。
多愛のない 他愛無い。たあいのない。しっかりした考えがない。また、幼くて思慮分別がない
芸術至上主義 芸術のための芸術を主張し、芸術の社会的・道徳的効用を否定する思潮
莫逆 ばくげき。 心に逆らうこと()しの意で、非常に親しい間柄。ばくぎゃく。
酷薄 こくはく。残酷で薄情なこと。
溝川 どぶがわ、どぶかわ。雨水・汚水などが流れる小さな川。どぶのように汚い川
浜町 日本橋浜町。下図を参照
永代橋 隅田川に架かる橋。中央区新川と江東区永代とを結ぶ。
梁山泊 りょうざんぱく。豪傑や野心家の集まる場所
下谷 したや。東京都台東区の町名。地図では赤くて長い場所
 ニシン。鰊とも。全長約30センチ。北太平洋に広く分布し、沖合を回遊。春季、産卵のために接岸する。卵は数の子です。

橋名前

「さういつてもらうとほんとにうれしいんですが、……実はひとつかいたものがあるんで「スバル」の編集へ届けてあるんですがね。」
 杢さんは思ひ出したやうに、
「あ、それかね。平出君は推せんしてゐるが吉井が反対なんで、のせられないんださうだね。もつともあの連中は、散文は分らないからね。」
 僕はそんな消息は全く初耳なのである。とにかく僕のかいたものが、編集で一応問題にはなつてゐるのだなと思ふと、胸が熱くなつてきた。
 杢さんはしばらくすると、とにかく久振りだから何処かへ出ようといふ。例の小型のスケッチ・ブックをポケットヘ押し込んで、大学の制帽を眼深かにかぷつて、自分が先に格子戸を出る。
 追分のところまで来かかると、杢さんはふつと立ち止つて、
「ねえ、幹さん、ちよつと千駄木町のメートルのところへ伺候してみようぢやないか。」といつて「今日は日曜だからむろん家にをられるだらう。」
 僕は願つたり、叶つたりである。鴎外先生にお眼にかかれやうなんていふことは、北海道以来考へたこともなかつた。最近のお作を拝見すると、何んだかあまりにも底光りがしてゐて、全くこわれわれ青年には近づき難かつた。
 千駄木町のお宅へいつてみると何のこともない、先生は無雑作に御自分で玄関へ出てみえて、
「やあ、木下君、今日は生憎仕事をやり出したんでね、長くは逢つてゐられないが、まあ二十分位ならいいだらう。」と、笑つて奥へ入つていかれる。
 すぐ下に崖地のみえる八畳で先生と対座した時には僕はもういくらか気持が落ちついてゐた。うつかりしたことをしゃべつて、軽蔑されては大変だと思ふせいか、つい言葉も淀みがちである。両肩はしきりにこつてくる。喉は乾いてくる。
 先生は夜来のお仕事で疲労してゐられるとみえ、お顔色も冴えないし、眼も濁つてゐた。はじめは杢さんと、何か独逸語で、医学上の話をしてをられたが、やがて僕の方をむいて、煙草の火をみながら、
「長田君、君は長田フイスとでも呼ぶべきだね。ジュマフイスのフイスだ」と、かうかふやうに笑つて、「昨日、平出君がきてね。今度君は大変にいいものを「スバル」にかいたやうだね。どういふもんだ。いづれ北海道の材料なんだらう。」
 僕はどもりながら、煙草をもつ手をふるはして、
室蘭でみてきた事実なんです。」
「なるほどね。噴火湾の夜景が実によくかけてゐるといつて、平出君が激賞しとつたよ。君は詩をやめて、小説をかくんだな。」

平出修スバル 「明星」の後進の詩歌雑誌。平出修が経営。同人平野万里、石川啄木、吉井勇が交互に編集。スバルは森鴎外の命名。
平出 平出(ひらいで)(しゅう)。評論家、小説家、歌人、弁護士。浪漫主義系の文学者。生年は1878年(明治11年)4月3日。没年は1914年(大正3年)3月17日。明治法律学校卒業。「明星」の同人として活躍し,その廃刊後は石川啄木や吉井勇らと「スバル」を刊行。一方で神田神保町に法律事務所を開業するリベラルな弁護士でもあり、幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。
消息 動静。様子。状態
眼深か めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
千駄木町 千駄木町。東京都文京区の町名。ここに森鴎外が住んでいました。住所は本郷ほんごう駒込こまごめせん町57番地。現在は文京区向丘2丁目20番7号です。下図を。猫の家
伺候 しこう。目上の人のご機嫌伺いをすること
底光り そこびかり。うわべだけの飾った輝きではなく,その物の本質に根ざした光
> フイス アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)。フランスの劇作家、小説家。小さな世界をしっとりと描くのが作風。高級娼婦(クルチザンヌ (英語版))マリー・デュプレシと出会い、1848年2月、24歳の時に思い出を小説『椿姫』として書き上げて出版し、これが代表作です。
室蘭 北海道南西部の市。内浦湾(噴火湾)に突き出す絵鞆(えとも)岬と地球岬がある
噴火湾 内浦湾。うちうらわん。北海道渡島(おしま)半島東側にあるほぼ円形の湾。実際は噴火ではないと考えられる。

噴火湾

 杢さんは自分のことのやうによろこんで、
「僕も常にそれをいつとるんです。われわれとはテムペラメントのうへでも、幹さんは既に異端者なんだから。はゝゝゝゝゝ。ゾラと懸命にとッ組んでゐるのはいいことですよ。」
「ゾラヘ入つていくのか。フローベルは何を読んだ。」
「『ボバリー』と『感情教育』と『セント・アントアヌの誘惑』です。」
「フランス語でよんどるのかね。」
「とんでもない。むろん英訳です。」
「ふむ。君は早稲田だつたね。」
「は、英文科です。」
坪内君のシェークスピアの講義は面白いといふぢやないか。」
「は、声色入りで、寄席へいくより面白いです。」と、答へて、私は苦いお茶をいただきながら、
「いつでしたか『マクベス』をやつとられてあんまり歌舞伎調の台詞が神に入りすぎたんで、学生たちがうつかりわッと拍手喝釆をしたんです。ところが先生は激怒されて、それつきり講義はふいになつてしまひまして。」
 鴎外先生はさも可笑しさうに、大笑されて
「はゝゝゝゝ。面白いね。僕はシェークスピアのやうなクラシックでもやはり現代語で訳した方がいいんぢやないかと思ふんだ。それで何かい、君はもう早稲田を出たのかね。」
「いいえ、これから論文を出して、むりにも卒業させてもらはうと思つてゐるんです。」

テムペラメント temperament。気質、気性。character は特に道徳的・倫理的な面における個人の性質。personality は対人関係において行動・思考・感情の基礎となる身体的・精神的・感情的特徴。individuality は際立った個人特有の性質。temperament は性格の基礎をなす主として感情的な性質
ゾラ エミール・フランソワ・ゾラ。Émile François Zola。フランスの小説家。生年は1840年4月2日。没年は1902年9月29日。自然主義文学の方法を唱道。その実践として「居酒屋」「ナナ」「大地」などの作品を含む「ルーゴン‐マッカール叢書」20巻を発表しました。
フローベル ギュスターヴ・フローベール。Gustave Flaubert。フランスの小説家。生年は1821年12月12日。没年は1880年5月8日。ルーアンの外科医の息子として生まれ、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年、4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。
ボバリー ボヴァリー夫人 。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、作者の代表作。1856年10月から12月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載、1857年に風紀紊乱の罪で起訴されるも無罪判決を勝ち取り、同年レヴィ書房より出版されるやベストセラーに
感情教育 19世紀も半ば、2月革命に沸く動乱のパリを舞台に多感な青年フレデリックの精神史を描く。小説に描かれた最も美しい女性像の一人といわれるアルヌー夫人への主人公の思慕を縦糸に、官能的な恋、打算的な恋、様々な人間像や事件が交錯。
セント・アントアヌの誘惑 聖アントワヌの誘惑。フローベールが30年の歳月をかけて完成した夢幻劇的小説。紀元4世紀頃、テバイス山上にて隠者アントワヌは、一夜の間に精神的生理的抑圧によって見たさまざまな幻影に誘惑されながら、十字架の許を離れず、生命の原理を見出して歓喜する。
坪内 坪内逍遥。つぼうち しょうよう。小説家、評論家、翻訳家、劇作家。生年は1859年6月22日(安政6年5月22日)。没年は1935年(昭和10年)2月28日。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』とシェイクスピア全集の翻訳
シェークスピア ウィリアム・シェイクスピア。William Shakespeare。イングランドの劇作家、詩人。洗礼日は1564年4月26日。没年は1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)。「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残しました
マクベス 荒筋は11世紀スコットランドの勇敢な武将マクベスは魔女の暗示にかかり王ダンカンを殺し悪夢の世界へ引きずり込まれていくというもの。

「北海道にをつた間、休んでをつたのかい。」
「さうです。」
「論文は何をかく。」
「思ひ切つてスカンヂナビアの文学をやつてみようと思つてゐます。」
イプセンか、ストリンドベリーかい。」
「いいえ、僕はビヨルンソンです。」
 先生はさも意外さうに、
「ビヨルンソンとは不思議なものを掘り出してきたね。何を読んだの。」
「『マンサナ大尉』や『母の手』『ソルバッケン』」
 先生は煙草の吸殻をぽいと放つて、
「まあ、とにかく勉強することだね。小説は四十過ぎてからかいて丁度いいんだから、あせる必要はない。君の兄さんが此間何かにかいとつかね。『司祭と猫』といふ詩さ。あれはいいものだつたね。」
 杢さんは傍から口を入れて、
「ありやいい詩でしたね。秀雄にしちや珍らしく色感のすぐれたもんでしたね。」
「まるで白秋そつくりだつたね。」
 僕はぎよッとしてしまつたのである。兄貴はあの『司祭と猫』まで自分のものにかきかへて世間へ出してゐるのかと思ふと、僕は腹がたつよりも、兄貴の生活の窮迫さが眼にみえるやうで、脊筋がひやッこくなつてきた。『司祭と猫』はわづか二枚ほどの散文詩で、僕はノートの隅へかきつけて机の抽出しへ放り込んでおいたのである。道理でそのノートは、今度かへつてきて調べてみると、いつの間にか紛失してしまつてゐた。僕が北海道へいつてゐた間ぢゆう、僕の机と木箱は親父の家へ頂かつてもらつてゐたのである。その机の抽出しから持出したものらしい。

スカンヂナビア スカンジナビア(Scandinavia)。ヨーロッパ北部の半島。西をノルウェー、東をスウェーデンが占めます
イプセン ヘンリック・イプセン。Henrik Johan Ibsen。ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。生年は1828年3月20日。没年は1906年5月23日。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家る。代表作には『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』など。
ストリンドベリー ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ。Johan August Strindberg。スウェーデンの作家。生年は1849年1月22日。没年は1912年5月14日。
ビヨルンソン ビョルンスティエルネ・ビョルンソン。Bjørnstjerne Bjørnson。ノルウェーの作家。生年は1832年12月8日。没年は1910年4月26日。1903年にノーベル文学賞を受賞。
意外 実は鴎外が訳したものもあるのです。これから22年ほど先の1913年、「新一幕物 人力以上」です。
マンサナ大尉 原語ではKaptejn Mansana。英語訳はCaptain Mansana。日本語訳はなさそうです
母の手 不明です。
ソルバッケン Wikipediaの訳書では「アルネ シンネエヴェ・ソルバッケン 手套」。原語ではSynnøve Solbakken。農夫の物語
司祭と猫 本当にあったのでしょうか。ほとんどの詩集には出ていません。不思議です。

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(3)

文学と神楽坂

 精養軒へあがると、玄関のホールのダイバンのところには、もうちやあんと秀雄と勇が一足先にやつてきて、ビールなんか飲んでゐる。秀雄の方は宿酔とみえ顔も何も土気色をしてゐたが、フラフフラたつてきて、杢さんと挨拶をかはしたあとで、駄々ッ子のやうに、「杢さん、ちよつと。」と、眼顔で合図をする。
 杢さんは秀雄と一しよに奥廊下の入口まで入つていつたが、頭をかきながら帰つてきて「あひにく、僕は余分なラルジャンをもつとらんのだよ。」と、赤い顔をしてゐる。
 ははア、こりや二人とも杢さんに会費をタカるつもりだなと気づくと、僕は恥かしくなつて、耳たぶが熱くなつてきた。
 早速帳場へいつて、僕は秀雄と自分のと二人分払つた。たしか三円だつたから六円払つたと思ふ。と、秀雄はそれをみてゐて、
「おい、幹さん、吉井のも払はなけやダメぢやないか。」と、口を尖らかして、そんなことは当りまへだといふやうにカサにかかつていふ。
 僕は忌々しいとは思つたが、年少の人のよさでいはれるとほり潔よく払つた。あと一円しか殘らない。外套をころして、人の分まで払はせられるとは、全く情けなかつた。そのオーバーも今入れたんぢや、今年の十二月まではむろん出せッこないのはわかつてゐる。

ダイバン ダイバンには大盤、台盤、台板などがあるようです。大盤は食物や水などを入れるための大きな器。台盤は、食卓の一種で、食物を盛った(さら)をのせる台のこと、台板は物や人をのせる板のこと。
土気色 つちけいろ。土のような色。生気を失った人の顔色
ラルジャン l’argent。銀貨のこと
たかる (たか)る。人に金品をせびる
かさにかかる 嵩にかかる 威圧的な態度でのぞむ
ころす 質屋の担保(質草)に入れる

 そこへあまり脊丈のたかくないひとりの軍人が、かちやかちや剣鞘をつきならしながら颯爽と入つてきた。鷗外先生であつた。声望隆々たる陸軍軍医局長であるから、昭和時代ならむろんピカピカした四万台の自動車で、威風堂々あたりを払つて御入来といふところであらう。しかし明治四十何年かのことであるから、電車でさへも珍らしい時代であつた。先生は山下の広小路まで市電でみえて、あれから人力車に乗られたんぢやないかと思ふ。上田敏先生も、夏目漱石先生も辻待ちの人力車であつた。鷗外先生はまつ先に杢さんをみつけて、片頬でにつこり笑つて、無雑作に会釈をされる。頭も軍人風のイガ栗ではなくうすい髮毛を分けてゐられるので、何んだかちつとも軍服がイタにつかない感じである。ただ少し右の肩がいかつてゐるのが、いかにもきかぬ気らしいヒョウ悍さをみせてゐる。その時分、雑誌ゴロか、暴力団か何かが、陸軍省の玄関先で先生に失礼なことをいひかけて、突き倒されたとか、殴られたとかいふデマが盛んにとんでゐた。とにかく日露戦争からずつとつなかつてゐる初期軍国主義的気分が社会にほうはくしてゐる時代であつた。
 杢さんは例の真赤な顔でいんぎんに挨拶をしたが、吉井勇はにやにやするばかりで、たちもしなかつた。それでゐて気嫌をとるでもなく、お愛想をするでもなく、にいッと唯笑うだけのそのかねあひが、実に勇の名演技中の名演技であつた。やはり伯爵の御曹子だけの貰祿はあつて、誰れでも勇のこの表情にはころりとまゐらせられたものである。薩摩人らしいおほらかな怜悧さである。
 鴎外先生もこつちへ歩いてみえて、
「吉井君、昨日與謝野君から手紙をもらつたよ。」と、笑ひながら煙草に火をつけられる。
 勇はコップをもつたまま、例のコツで、
「さうでしたか。僕もこの頃は御無沙汰してゐるんです。」
と、極めて素朴な青年らしさをみせる。
「與謝野君は晶子さんが歌集を出すさうだから、何かかいてくれといふんだが。」
「さうですか。何かかいてやつて下さい。お願ひします。」
「しかし僕は、今ひどく忙かしいんでね。もし君逢つたら、うまく断つといてくれないかね。」
 さういひながら鴎外先生は杢さんと二人で、食堂の控室の方へ入つていつてしまはれた。僕はていねいにお辞儀をしたが、一顧にも値しなかつたらしく、むろん黙殺である。
 寂しかつた。急にウイスキーががぶ飲みしたくなつた。

剣鞘 けんしょう。剣の刀身の部分を納めておく筒
颯爽 さっそう。姿や態度・行動がきりっとして、見る人にさわやかな印象を与える
四万台 4万円台と書き換える以外にいい方法はなさそうです。
辻待ち つじまち。人力車などが道ばたで客を待つこと
板につく 経験を積んで、動作や態度が地位・職業などにしっくり合う
きかぬ気 人に負けたり、人の言うなりになったりすることを激しく嫌う性質
ヒョウ悍 剽悍。ひょうかん。すばやい上に、荒々しく強いこと
雑誌ゴロ ゴロは「ごろつき」の略。無職・住所不定で人の弱点につけいる、ならずもの<
ほうはく 磅礴。広がり満ちること。満ちふさがること
怜悧 れいり。賢いこと。利口なこと
與謝野 与謝野寛晶子与謝野鉄幹。詩人・歌人。本名は(ひろし)。生年は1873年(明治6年)2月26日。没年は1935年(昭和10年)3月26日。新詩社を創立し、「明星」を創刊。妻晶子とともに明治浪漫主義に新時代を開きました。
晶子 与謝野晶子。よさの あきこ。歌人、作家、思想家。生年は1878年(明治11年)12月7日。没年は1942年(昭和17年)5月29日。
一顧 いっこ。ちょっと振り返って見ること。ちょっと心にとめてみること

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(4)

文学と神楽坂

 さて食堂でどんなことかあつたか、さすがに今では一々記憶してゐないが、秀雄は二度立つてきて、底光りのする眼でおどかすやうに、
「おい、幹さん。金もつてないか。」と、酒くさい口でしつこくこだはつた。それからすぐ斜向ふで、上田先生が、自分の煙草の煙にむせながら、ルノアールの話をしてをられたのを、はつきり覚えてゐる。あの角刈りの頭を横にふつて、煙草のやにで黒くなつた歯を出してあッはッはッはッとあけッぱなしに笑はれる顔を思ひ出すと、今でもとてもなつかしい。上田先生はなかなかの男前であつた。
 夏目先生は、一番むッつりであつた。面白くなささうな白ばッくれた顔をして腕ぐみばかりしてをられた。『猫』のクシヤミ先生が鼻毛をぬいてゐるかつかうそつくりである。
 鷗外先生はお酒をあがると、つやつやしたお顔になつた。細い鬚をふるはして、感慨深さうに何かしきりに杢さんに話してをられる。
 ひよいとした拍子に、「センズリ」といふ言葉が、かなり高調子にはつきりと先生のお口から洩れたので、一座の人たちはぎよッとしたらしかつた。さうした露骨な下品な表現は、その時分の文壇では許されなかつたものである。あんまり唐突であり、しかも先生は笑ひもせずに話してをられるので、若いわれわれが聞き耳をたてたのはむりもあるまい。
 だんだん伺つてゐると、やつと話の経緯がわかつてきた。何んのきつかけからか性的事実の話題がもちあがつて、先生はつまりキンゼイ報告のやうなものを、平気でしやべつてをられるのであつた。或ひは軍医学上の観点から兵営に於ける兵士たちの性生活に関する()()()()を傾けてをられるらしくも思はれた。何にしろさながら試験管中の現象について語るごとくに、いかにも平静に、しかも科学的に、露骨な固有名詞を用いて滔々と諭じてをられるので、私たちはうつかり笑ふことも出来ない。みんな息をつめて、厳粛な顔をして傾聴してゐた。
 その中で今でも覚えてゐるのは、某師範学校の女子部の寄宿舎における夜中の自瀆行為の描写であつた。若い女教員の卵たちが性慾の悩みにたへかねて、いろんな不自然な行為をするのが、私たちの好奇心を極度にそそつた。深夜突如、非常呼集をやつて、女学生たちのベットを一々視察してみたら、実に意外な性器具を発見した。なかでも一番傑作だつたのは、宵のうちに校外から焼芋をかつてきて、さんざ食ひ散らかしたあげく、そのあまりをつぶして、克明にコンドームヘつめ、それを体温で温めて用いてゐたといふ実例である。
 夏目先生もその話の時はくすくす笑つてをられた。腕組が一層堅つくるしくなつた。
「どうも、手数のかかつた、浅間しいことをやるもんだなあ。」と、感嘆してをられたが、それは数の少い発言の中の一番出色のものであつた。その晩は夏目先生の、胆汁質な、対抗意識みたいなものばかり、僕はみせつけられた。

ルノアール ピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)。フランスの印象派の画家。生年は1841年2月25日。没年は1919年12月3日。
白ばッくれた しらばくれる。知っていて知らないさまを装う。しらばっくれる
センズリ 千摺り。 男性の自慰。手淫。
キンゼイ報告 米国の動物学者キンゼイ(A.C.Kinsey)が全米の男女を対象に行った性行動に関する調査の報告書。1948年に男性編、53年に女性編を発表。Sexual Behavior in the Human Male。キンゼイ報告はまだこの時代では発表されていないので、「ようなもの」なのです。
うんちく 蘊蓄。薀蓄。蓄えた深い学問や知識。
滔々 とうとう。次から次へとよどみなく話すさま
師範学校 旧制の小学校教員養成機関
自瀆 自慰。マスターベーション
堅苦しい かたくるしい。気楽なところがなくて窮屈
胆汁質 ヒポクラテスの体液説に基づく気質の4分類の一。激情的で怒りっぽく攻撃的な気質。胆液質。

 上田先生は知らん顔で、誰れかと巴里のオペラの話をしてをられた。先生のとこまでは聞えなかつたらしい。
 誰れだつたか、へうきんな調子で、
「ねえ、先生。僕がきいたところでは、電燈のグローブなんかも用ゐるさうですね。」
 鷗外先生は尢もらしく鬚をひねるかつかうをしながら、
「いや、それは何処でもやるらしいね。敬天堂病院の医員にきくと、一遍腟内で破裂して早速手術をしたんだが、手術が不成功に終つてたうとう死んだといふ実例もあるさうだよ。」
「いよいよもつて、浅間しき限りですね。」
「腟内で粉々に破裂したんぢや処置なしだよ。危いことをやるもんさ。」
 それから性病の話になつて、モウパッサン脳梅毒の話にまで発展していつた。勇はしかめッ面をして、わざと大向うめあてに、
「われわれも慎しむべきだなア。」なんて、場あたりめかしいことをのめのめといつて、わあッと皆を笑はせる。
 と鴎外先生は、
「ほんとに気をつけないといかんよ。吉井君なんざその方にかけちや猛者中の猛者だからなあ。長田秀雄君の『歓楽の鬼』のテーマもそれだからな。」
 秀雄は盃をふくみながらジロリと僕の方を睨んだ。
 小山内薫氏が自由劇場で演出した兄貴のあの有名な『歓楽の鬼』は、今だから白状するけれど、あれは実は僕がかいたものなのである。僕は一生懸命に苦心をして、脳梅毒の末期の患者を主題として、『暗い血の谿谷』といふひと幕ものの習作をかいてゐた。僕がそれを朗読して聞かせると、兄貴ドラマツルギーとしては成つてゐないなぞと、酔つぱらつてさんざんコキ下ろしたくせに、いつの間にかその原稿が僕の机の抽出からふつと姿を消してしまつた。
 兄貴の『歓楽の鬼』は、三田文学に掲載されたものである。兄貴は度はづれの怠けものなので、折角三田文学から執筆を頼まれてゐながら、どうしても締切に間に合はない。そこで苦しまぎれに僕の『暗い血の谿谷』を『歓楽の鬼』と改題して、僕に断りもしないで「三田文学」へ送つたわけである。むろん自己流にだいぶ手は入れてあつたが、台詞なんか、利きぜりふは僕のほとんどそのままそつくり使つてゐた。しかしさすがに兄貴だけあつて、幕切れなんかあの通り、実にうまく改作してあつた。
 後年小山内薫氏が僕のことを罵倒して秀さんは『歓楽の鬼』をかいてすぐれた芸術的純粋さを示したが、幹さんは依然としてセンチメンタルメロドラマチストだと面と向つて僕を批難したのには、まことに恐入つた。それ以来僕は批評家といふものを心から信じることか出来なくなつたのである。
 それからも秀雄は僕のものでしばしば原稿料をかせいだ。第二次世界大戦の初まる頃まで兄弟義絶して、十数年間遂にお互に仲直りをしなかつたのも、兄貴のあまりにも放埒な破廉恥な所業が原因をなしてゐるのである。兄貴は自分の債務のためにしばしば僕の家へまで執達吏をよこした。僕は肉親を超えた芸術家として兄貴の背徳行為を今でもいいことだとは思つてゐない。
 だから故久米正雄氏が、「新潮」にかかれた『文壇会合史』なるものをよんだ時には、ひそかに哄笑するより外はなかつた。世の中には裏の裏までみぬく人はないものである。僕は久米氏に「不徳のいたすところ」などとまるで筋遠ひなことをいはれても、いささかも俯仰天地恥ぢない。通俗作家が不道徳で純文芸の作家はみんな清節の士のやうにいつたあの時分のヘナチョコなヒロイズムほどあべこべに文壇を毒したものはあるまい。『会合史』は僕に関する限り相当出鱈目なものであることを、数々の資料によつて実証することが出来る。

巴里 パリ。フランス共和国の首都。パリ盆地の中心にあり、セーヌ川が貫流。川中島のシテ島を中心に同心円状に発展。
グローブ globe。電灯の光をやわらかく広く散らすための、ガラスなどで作った球状の覆い。
モーパッサン アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant)。フランスの自然主義の作家、劇作家、詩人。生年は1850年8月5日。没年は1893年7月6日。先天性と後天性梅毒があったと考えています。
脳梅毒 梅毒第三期に主として神経系がおかされた状態。
歓楽の鬼 明治43年、長田秀雄はイプセンの影響を受けて戯曲「歓楽の鬼」を発表、 翌年小山内薫の自由劇場で上演、新進劇作家として注目されました。「歓楽の鬼」の主人公は洋行したパリで性病になりますが、この時代では脳梅毒などが大きな原因でした。
自由劇場 2世市川左団次と小山内薫が主宰。 1909年11月イプセン作の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を有楽座で2日間試演。10年間に9回の公演と試演を断続的に行い、日本の新興脚本や新興演劇術のために一つの道を開いた。
ドラマツルギー 戯曲の創作や構成についての技法。作劇法。戯曲作法。演劇に関する理論・法則・批評などの総称。演劇論。
抽出 ひきだし。引き出し、引出し、抽き出し、抽斗。たんす・机などの物をしまっておく抜き差しできる箱。
三田文学 文芸雑誌。 1910年5月創刊。森鴎外、上田敏の斡旋で新帰朝の永井荷風を慶應義塾大学教授に迎え、同大学文科の発展を期して創刊された。
利きぜりふ 普通の会話の中に、金言や格言のようなセリフを入れること
センチメンタル 感じやすく涙もろい。感傷的
メロドラマチスト メロドラマとは音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇から、今日では、通俗的、感傷的な演劇、映画、テレビドラマなど。メロドラマチストはその作者、演者など
債務 借金を返すべき義務。
執達吏 執行官の旧称。国の代理人として、強制執行の具体的作業を取り仕切る人
久米正雄 久米正雄小説家・劇作家。生年は1891年(明治24年)11月23日。没年は1952年(昭和27年)3月1日。第三、四次「新思潮」同人。のち感傷的作風の通俗小説に転じ流行作家となりました。
新潮 佐藤義亮が新潮社を興し、1904年、『新潮』は創刊。100年以上も続いています。
文壇会合史 『微苦笑随筆』という本の「文士會合史」を読んでいますが、この「文士會合史」では「不徳のいたすところ」と話す場面はありません。おなじ通俗作家とレッテルを張られた人同士、久米正雄氏が長田幹彦について話すときに、あまり悪意は感じられません。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
俯仰天地… ふぎょうてんちにはじず。俯仰天地に愧じず。孟子の言葉で「かえりみて、自分の心や行動に少しもやましい点がない」

文豪の素顔|森鴎外

[漱石雑事]

木下杢太郎「南蛮寺門前」

文学と神楽坂

木下杢太郎」 木下(きのした)(もく)()(ろう)に「南蛮寺門前」の中で石川啄木のことを書いている場面があります。昭和5年4月『冬柏』第2号に投稿したもので、木下杢太郎全集第14巻によっています。
 小さな6号活字がここでも問題になっています。
 1年前、北原白秋や木下杢太郎はこの小さな活字に怒ったことや、ほかの理由もあり、与謝野寛のもとから脱退し、『明星』も第100号で廃刊。以来、与謝野寛氏にとっては失意が続きます。また、木下杢太郎が石川啄木をどうやってみているかもわかります。
 明治42年(1909年)1月には、森鴎外は47歳、伊藤左千夫は44歳、与謝野鉄幹と上田敏は35歳、斎藤茂吉は26歳、平野万里と北原白秋は24歳、木下杢太郎氏と石川啄木は23歳、吉井勇と古泉千樫は22歳でした。

 今でも僕は殘念に思つてゐるのだが、それは僕の戲曲の第一作の「南蠻寺門前」をば、先生が校正の時添削して下さるといふのを、その時の第2號の編輯を引受けてゐた石川偏執からその機會を失したことである。此事は同じ名の僕の戲曲集のにも書いて置いたが、も一度回想して見る。
 時は明治42年の1月2月の頃である。その時分には「パンの會」と「觀潮樓歌會」とが屡〻有つた。たとへばその歳の1月の9日には午後からパンの會があり僕等は6時半にそれを濟まして、夜森先生の御宅の短歌會に出た。その時の出席者は昴の第2號に據ると、主人の他與謝野寛上田敏伊藤左千夫小泉千樫、石川木、斎藤茂吉平野萬里及び僕で、題は「舞」「清」「吝」「構」「或」であつた。僕の日記には「雲降る。10時過帰宅。」と書いてある。

 スバル。森鴎外、()()()(ひろし)鉄幹(てっかん))、与謝野晶子(あきこ)が協力して発行し、石川啄木、平野(ひらの)万里(ばんり)吉井(よしい)(いさむ)が編集し、この3人に加えて、木下杢太郎、高村(たかむら)光太郎(こうたろう)北原(きたはら)白秋(はくしゅう)らの文芸雑誌。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点になった。。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
偏執 かたよった考えをかたくなに守って他の意見に耳をかさないこと。
 ばつ。書物や書画の終りに,その来歴や編著の感想・次第などを書き記す短文。あとがき。
パンの会 明治末期の青年文芸・美術家の懇談会。反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場。1908年(明治41年)12月、第1回会合は隅田川の右岸の両国橋に近い矢ノ倉河岸の西洋料理「第一やまと」で。高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会し、耽美派のメッカに。白秋の『東京景物詩』、杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。
観潮楼歌会 観潮楼かんちょうろうとは森鴎外が住む家のことで、森鴎外が『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著しました。観潮楼歌会はここでの歌会のこと。場所は文京区千駄木1-23-4。
屡〻 「しばしば」。何度も。たびたび。〻は二の字点、ゆすり点で、主に縦書きの文章に用い、上の字の訓を重ねて読むときに使います。現在は「々」で代用。
短歌会 観潮楼歌会と同じ。
古泉千樫 こいずみ ちかし。木下杢太郎氏は小泉と書いていますが、正しくは古泉。左千夫が脳溢血により50歳で急逝すると、千樫はアララギ派の中心的歌人として多くの秀歌を残しています。
平野万里 ひらの ばんり。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表。石川啄木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。

 1月13日の水曜日も雲であつた。午後4時から上野精養軒で「靑楊會」があつた。是れは第何回のものであつたか。靑楊會とは、上田敏先生の洋行送別會が上野の精養軒であつたのを第一の機曹としてその後その家で時々催されたものである。僕の日記には唯「上田氏怪氣焰。永井荷風。」と記してあるばかりである。然しかう云ふ斷片的のものから當時の文學的雰圍氣を通つて來たものには直ぐいろいろの聯想が附くことと思ふ。
 その1月の間に僕は南蠻寺門前の小戲曲に着手し、前半はわけもなく出來たが、後になるに從つて思想が纏めらなくて閉口した。
 當時の交友は新詩社を中心とした諸君で、1月17日の日曜日には午後2時本郷森川町の蓋平館本店といふ下宿に石川木を訪ねた。石川が昴二月號の編輯をやつてゐたことは既記の如くである。そこに吉井勇が居た。吉井と共に寓居に歸り、夜はまた南蠻寺にかかつた。あと五六枚のところで煩悶してゐたのである。
 1月18日も午後から雪となった。さんざ苦しんだ揚句豫期しなかつた着想を得て、膝を打ち、午後4時半に至つて到頭書き上げた。そして女中に糊入の美濃紙を買はして、大急ぎで淨書し、森先生の御宅へ電話をかけると、來てもよいといふ返事であつた。
 晩餐の後直ぐ家を出たが、その途中ふと追分なる島村盛助の宿へ立ち寄つて此原稿を見せた。
 談後島村が批評を始めて、中々言葉が切れない。こちらは氣が氣でなかつたなどといふことも思ひ出される。

青楊会 せいようかい。靑楊會の場所は上野(せい)(よう)(けん)で。食べながら話を聞いたり歌を詠んだりなどしたのでしょう。
新詩社 しんししゃ。正式には東京新詩社。1899(明治32)年、与謝野鉄幹を中心に創設。1900年創刊の機関誌《明星》は08年廃刊まで浪漫主義文学の拠点でした。妻晶子を始め、高村光太郎、平野万里、北原白秋、木下杢太郎、石川啄木、吉井勇ら新人が輩出しました。
美濃紙 岐阜県美濃市で()かれている和紙の総称
島村盛助 しまむら もりすけ。24歳。英文学者、翻訳家、教育者で、明治42年に東京帝国大学英文科を卒業しました。岩波の英和辞典の編纂者の一人です。

 森先生は直ぐ僕の原稿を讀み始められた。僕は傍から今どの邊が讀まれてゐるかを眺めた。
 森先生はそれを讀み了ると、はははははと笑つた。そしてだいぶいろんなものか並べてあるねと揶揄せられた。
 その時どう云ふ批評をされたか。餘り細くは批評せられなかつたやうに思ふ。今も覺えてゐることは、劇的のZuspitzung(これは獨逸語で言はれた)が足りない。それから修辭がまづいと斷ぜられたことである。森先生は當時ユリウス・バツブを讀んで居られ、その説に同感して居られるやうに見えた。それで僕はとに角校正の時は見てやらうと先生をして言はしむるまでに成功した。
 平野萬里君もあとから見えたので、一緒に森邸を辭した。その時は雪は已に息んでゐた。

Zuspitzung 激化、先鋭、先鋭化、尖鋭
修辞 しゅうじ。言葉を美しく巧みに用いて効果的に表現する技巧や技術。レトリック(rhetoric)。
ユリウス・バツブ Julius Bab。ドイツの劇作家と劇場批評家。『演劇社會學』の著者。

 1月19日。火曜日の朝は7時からのバツフさんの佛蘭西語の講義を一時間聽き、8時⒛分に石川木の宿に行き、その寐てゐるのを起して、疇昔の原稿の掲載方を頼んだ。そこに北原白秋も來り、二人で午食の振舞を受け、夜は與謝野さんの御宅に往き、原稿中の經文に振假名をして貰つた。この時は北原、石川も多分一緒であつたらう。「電車を四谷にて下り、天ぷら屋にて酒を飮み、藝術の事を談ず。」と日記に書いてある。
 1月22日、金曜日に石川の處に行くと、吉井君、平野君とも一人の人がそこに居た。當時石川は平野君に對して反感を有してゐた。その主な原因は昂をば短歌を主とすること明星の如くはせず、短歌をば六號活字で組まうと論じ、平野君の反對を受けたことにあるらしい。その不平をば三間ばかりの長い手紙に書いてよこした。その後この手紙を捜したが、どこかに行つてしまつて見つからなかつた。
 この頃僕に多大の感激を與へた本リヒヤルド・ムウテルの佛國印象晝派とゲオルグ・ブランデスの19世紀思潮論であつた。またアアサア・シモンズマアテルリンクが流行で僕も之を拾ひ讀んだ。
 1月23日の土曜日にはまたパンの會があつた。人が集まらないで、明治座の山崎紫紅の破戒曾我を立見をしたりなどした。その日のパンの會には石井柏亭、北原白秋、長田幹彦、平野萬里、栗山茂等が集まつた。
 島村抱月の洋行土産の欧洲近代繪畫論は面白いが、肝腎の畫そのものは少しも分つてゐないのだと皆が判定した。予はその批評を書く役になつて、翌日その原稿を石川の處に持つて行くと平野萬里君が来た。

疇昔 ちゅうせき.過去のある日。昔。疇は「以前」の意味
六號活字 六号活字。縦横約3ミリで、8ポイント活字と比べると、わずかに小さく、約7.5ポイント
リヒヤルド・ムウテル リヒャルト・ムーテル。Richard Muther。ドイツの批評家と芸術の歴史家
ゲオルグ・ブランデス ゲーオア・ブランデス。Georg Brandes. デンマークの評論家。ヨーロッパ文芸を痛烈に批評。
アアサア・シモンズ アーサー・シモンズ。Arthur William Symons. 英国の詩人、文芸批評家、雑誌編集者。
マアテルリンク モーリス・メーテルリンク。Maurice Maeterlinck。ベルギーの詩人、劇作家、随筆家
山崎紫紅 やまざき しこう。34歳。劇や歌舞伎の作家。主な作品は「破戒曾我」など
石井柏亭 いしい はくてい。 27歳。版画家、洋画家、美術評論家。東京美術学校洋画科を中退。
長田幹彦 ながた みきひこ。22歳。小説家、作詞家。早稲田大学英文科卒業。
栗山茂 くりやま しげる。23歳。東京帝国大学卒業。外務省入省。日本の元最高裁判所判事。

 2月になつて昴の第2號が出た。成程短歌は皆6號活字で組んであつた。そして早野君の「抗議」が插人してあり、「短歌を6號にした事に就ては僕は一言の相談も受けなかつた。組んで來たのを見て僕は驚いて了つた。云々」と書いてある。それに對して石川君がまた「消息」といふ處でむきになって應戰してゐる。「小生は第1號に現はれたるが如き、小世界の住人のみの如き雜誌は嫌ひなり。その嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文藝に對する態度と覺悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作るが如きは或意味に於て小生の遊戲なり。」云々。
 さう云ふ木が後來短歌によつて世評を得たのは、今考へると中々面白い。
 ところが僕の南蠻寺の原稿は少しも直つて居なかつた。あとで木を責めると、時日が切迫して森先生の處へ校正を廻すことが出來なかつたのだと言って辯解したが、僕は心の中ではそれは口實だと考へざるを得なかつた。木は何にでもかんにでも反感を持つ男で、自らは大家の添削を受けるなどといふことを好まなかつたので、僕の意を蹂躪したのであらう。その故に僕は千載一遇の機を失したのであつた。

蹂躪 じゅうりん。ふみにじること
千載一遇 せんざいいちぐう。千年に一度しかめぐりあえないほどまれな機会