春の夜の鐘うなりけり九人力
それは、その李の花、花の李の頃、二階の一室、四疊半だから、狹い縁にも、段子の上の段にまで居餘つて、わたしたち八人、先生と合はせて九人、一夕、俳句の會のあつた時、興に乘じて、先生が、すゝ色の古壁にぶつつけがきをされたものである。句の傍に、おの/\の名がしるしてあつた。……神樂坂うらへ、私が引越す時、そのまゝ殘すのは惜かつたが、壁だから何うにも成らない。――いゝ鹽梅に、一人知り合があとへ入つた。――埃は掛けないと言つて、大切にして居た。
|
[現代語訳] 春の夜 鐘がうなるよ 九人力
すももの花、つまり花のすももの季節になり、二階の一室に、四畳半だから、狭い部屋のへりでも、梯子の上の段でも、人間が集まってくる。わたしたちは八人、尾崎紅葉先生を加えて九人で、ある夕方、俳句の会があり、興に乗じて、先生が煤色の古壁に下書きをしないで書いたものである。句のそばには各自の名前がしるしてあった。……神楽坂へ、私が引越す時、そのまま残すのは惜しかったが、壁だからどうにもならない。――いい工合に、一人の知り合いが後に入った。――ほこりはかけないといって、大切にしていた。 |
縁 物の端の部分。物の周りで一定の幅をもった部分。へり。
一夕 いっせき。ひと晩。一夜
すす色 すすいろ。煤色。煤の色。薄い墨色。すす。 #887f7a
ぶっつけがき 打っ付け書き。下書きをしないで、すぐに書くこと。
あんばい 塩梅。按排。按配。味の基本である塩と梅酢の意の「えんばい」と、物をぐあいよく並べる意の「按排」とが混同した語。料理の味加減。物事や身体のぐあいや様子。
――五月雨の陰氣な一夜、坂の上から飛蒐るやうなけたゝましい跫音がして、格子をがらりと突開けたと思ふと、神樂坂下の其の新宅の二階へ、いきなり飛上つて、一驚を吃した私の机の前でハタと顏を合はせたのは、知合のその男で……眞青に成つて居る。「大變です。」「……」「化ものが出ます。」「……」「先生の壁のわきの、あの小窓の處へ机を置いて、勉強をして居りますと……恁う、じり/\と燈が暗く成りますから、ふいと見ますと、障子の硝子一杯ほどの猫の顏が、」と、身ぶるひして、「顏ばかりの猫が、李の葉の眞暗な中から――其の大きさと言つたらありません。そ、それが五分と間がない、目も鼻も口も一所に、僕の顏とぴつたりと附着きました、――あなたのお住居の時分から怪猫が居たんでせうか……一體猫が大嫌ひで、いえ可恐いので。」それならば爲方がない。が、怪猫は大袈裟だ。五月闇に、猫が屋根をつたはらないとは誰が言ひ得よう。……窓の燈を覗かないとは限らない。しかし、可恐い猫の顏と、不意に顱合せをしたのでは、驚くも無理はない。……「それで、矢來から此處まで。」「えゝ。」と息を引いて、「夢中でした……何しろ、正體を、あなたに伺はうと思つたものですから。」 |
[現代語訳] ――五月雨の陰気な一夜、坂の上から飛びかかるようなけたたましい足音がして、格子をがらりと開けたと思うと、神楽坂下のその新宅の二階へ、いきなり飛び上がって、驚いた私の机の前でハタと顔をあわせたのは、知り合いのその男で……真っ青になっていた。「たいへんです。」「……」「化けものが出ます。」「……」「先生の壁のわきの、あの小窓のところに机を置いて、勉強をしておりますと……こう、じりじりと灯りが暗くなりますから、ふいと見ますと、障子のガラス一杯ほどの猫の顔が、」と、身ぶるいして、「顔ばかりの猫が、すももの葉の真っ暗な中から――その大きさといったらありません。そ、それがほとんど時間はなく、目も鼻も口も一緒に、僕の顔とぴったりとくっつきました。――あなたのお住居の時分から怪猫がいたんでしょうか……本当に猫が大嫌いで、いえおそろしいので。」それならばしかたがない。が、怪猫は大袈裟だ。陰暦5月の暗やみに、猫が屋根をつたわらないとは誰がいえよう。……窓の灯を覗かないとは限らない。しかし、おそろしい猫の顔と、不意に鉢合わせをしたのでは、驚くのも無理はない。……「それで、矢来町からここまで。」「ええ。」と息を吸い、「夢中でした……何しろ、正体を、あなたにうかがうと思ったものですから。」 |
一驚 いっきょう。驚くこと。びっくりすること。
きっする 吃する。喫する。(よくないことを)受ける。こうむる。
五分 あとに打消しの語を伴って)ほんのわずか(もない)。「五分のすきもない」
五月闇 さつきやみ。陰暦5月の、梅雨が降るころの夜の暗さや、暗やみ。
今は昔、山城介三善春家は、前の世の蝦蟆にてや有けむ、蛇なん極く恐ける。――夏の比、染殿の辰巳の山の木隱れに、君達、二三人ばかり涼んだ中に、春家も交つたが、此の人の居たりける傍よりしも、三尺許りなる烏蛇の這出たりければ、春家はまだ氣がつかなかつた。處を、君達、それ見よ春家。と、袖を去る事一尺ばかり。春家顏の色は朽し藍のやうに成つて、一聲あつと叫びもあへず、立たんとするほどに二度倒れた。すはだしで、その染殿の東の門より走り出で、北ざまに走つて、一條より西へ、西の洞院、それから南へ、洞院下に走つた。家は土御門西の洞院にありければで、駈け込むと齊しく倒れた、と言ふのが、今昔物語りに見える。遠きその昔は知らず、いまの男は、牛込南榎町を東状に走つて、矢來中の丸より、通寺町、肴町、毘沙門前を走つて、南に神樂坂上を走りおりて、その下にありける露地の家へ飛込んで……打倒れけるかはりに、二階へ駈上つたものである。餘り眞面目だから笑ひもならない。「まあ、落着きたまへ。――景氣づけに一杯。」「いゝえ、歸ります。――成程、猫は屋根づたひをして、窓を覗かないものとは限りません。――分りました。――いえ然うしては居られません。僕がキヤツと言つて、いきなり飛出したもんですから、彼が。」と言ふのが情婦で、「一所にキヤツと言つて、跣足で露地の暗がりを飛出しました。それつ切音信が分りませんから。」慌てて歸つた。――此の知合を誰とかする。やがて報知新聞の記者、いまは代議士である、田中萬逸君その人である。反對黨は、ひやかしてやるがいゝ。 |
[現代語訳] 今昔物語集によれば、山城国次官の三善春家は、前の世ではがまだったのか、蛇を非常に恐れていた。――夏のころ、築山が藤原良房の邸宅から南東方にあり、その木陰で、貴人二、三人と春家は涼んでいた。春家がいた側から、1メートルぐらいの黒っぽい蛇が這い出てきたが、春家はまだ気がつかず、ところが、貴人は、おい見てくれ、春家、と、袖から30cmほど離れた蛇を指さした。春家の顏の色は腐ったように青色になって、一声あっと叫び、立とうとして二度倒れた。裸足で、その藤原邸の東門から走り出て、北方に走り、一条より西へ、西洞院、それから南へ、洞院下へと走った。家は土御門西洞院にあるので、駈け込むと同時に倒れた、という説話がある。その昔については知らないが、この男は、牛込南榎町を東に走って、矢来中の丸から、通寺町、肴町、毘沙門前を走って、南に神楽坂上を走りおり、その下にあった路地の家へ飛びこんで……倒れるかわりに、二階へ駈け上ったものである。あまり生真面目だから笑うこともできない。「まあ、落ち着きたまえ。――景気づけに一杯。」「いいえ、帰ります。――なるほど、猫は屋根を伝って、窓をのぞかないものとは限りません。――わかりました。――いえ、そうしてはいられません。ぼくがキャッといって、いきなり飛びだしたもんですから、あの人も。」とは情婦で、「一緒にキャッといって、裸足で露地の暗がりに飛びだしました。それっきり音信がわかりませんから。」慌てて帰った。――この知い合いは誰だろう、かの報知新聞の記者、いまは代議士の、田中万逸君その人である。反対党は、ひやかしをしてみるがいい。 |
山城介 山城国の次官
染殿 そめどの。摂政藤原良房の邸宅。
辰巳 たつみ。方角の名。南東。辰と巳との間。
山 築山。つきやま。庭園などに小高く土を盛って作ったもの。
君達 ここでは、貴人や目上の人をいう語。お方。
朽ちる くちる。腐ってぼろぼろになる。
すはだし 素裸足。足に何もはいてないこと。はだし
斉しく ひとしく。等しく。全体的に一様で。どれも同じ。同様。ともに。そろって同じ行動をとる。同時に。一斉に。するや否や。
今昔物語集 平安後期の説話集。編者未詳。1059話(うち本文を欠くもの19話)を31巻に編成。ただし巻八、巻十八、巻二十一は欠巻。本朝部の説話はあらゆる地域と階層の人間が登場。生き生きした人間性を描写。
南榎町 牛込。右図を。以前の鏡花氏の家が見えます。
矢来町中の丸 右図を。
通寺町 右図を。現在は神楽坂6丁目
肴町 右図を。現在は神楽坂5丁目
毘沙門 右図を。
神楽坂上 右図を。
露地の家 今(当時)の鏡花氏の家です。
が、その夜、もう一度怯かされた。眞夜中である。その頃階下に居た學生さんが、みし/\と二階へ來ると、寢床だつた私の枕もとで大息をついて、「變です。……どうも變なんです――縁側の手拭掛が、ふはりと手拭を掛けたまゝで歩行んです。……トン/\トン、たゝらを踏むやうに動きましたつけ。おやと思ふと斜かひに、兩方へ開いて、ギクリ、シヤクリ、ギクリ、シヤクリとしながら、後退りをするやうにして、あ、あ、と思ふうちに、スーと、あの縁の突あたりの、戸袋の隅へ消えるんです。變だと思ふと、また目の前へ手拭掛がふはりと出て……出ると、トントントンと踏んで、ギクリ、シヤクリ、とやつて、スー、何うにも氣味の惡さつたらないのです。――一度見てみて下さい。……矢來の猫が、田中君について來たんぢやあないんでせうか知ら。」五月雨はじと/\と降る、外は暗夜だ。私も一寸悚然とした。 |
[現代語訳]] が、その夜、もう一回、おびやかされた。真夜中である。その頃階下にいた学生さんが、みしみしと二階へくると、寝床だった私の枕もとで大きな息をついて、「へんです。……どうもへんなんです――縁側の手拭掛けが、ふわりと手拭をかけたままで歩くんです。……トントントン、ふいごを踏むように動きましたっけ。おやと思うと斜めになって、両方へ開いて、ギクリ、シャクリ、ギクリ、シャクリとしながら、後退をするようにして、あ、あ、と思ううちに、スーと、あの縁の突きあたりの、戸袋の隅へ消えるんです。へんだと思うと、また目の前へ手拭掛けがふわりとでて……出ると、トントントンと踏んで、ギクリ、シャクリ、とやって、スー、どうにも気味の悪るさったらないんです。――一度見てみて下ください。……矢来町の猫が、田中君くんについて来たんじゃあないでしょうか。」五月雨はじとじとと降り、外は闇だ。私もちょっとぞっとした。 |
たたらを踏む 踏鞴を踏む。たたらは送風装置のふいごのこと。ふいごを踏んで空気を送る。勢いよく向かっていった的が外れて、から足を踏む。