牛込馬場下の小倉屋は酒店で、延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業しました。
元禄7年(1694年)、小倉屋は2代目で、堀部安兵衛は小倉屋に立ち寄り、升酒を飲み、高田馬場の決闘に急ぎました。米の酒は奈良でしか作られない江戸時代、1升は今の金額で3万円。そこで芋酒を飲んだといいます(平成9年、渡辺翠氏『高田馬場の仇討』、若松地域センター『地域誌 このまちに暮らして』)。また堀部安兵衛の升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
う~ん、升に残った芋焼酎も金庫にねむっているわけで、なにか立派になった気がします。
辻 四つ辻。十字路
帛紗 方形の絹布。進物の上にかけたり物を包んだりする。茶の湯では、道具をぬぐったり盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。
さて『吾輩は猫である』第7章では「近江屋」が登場します。
「ゆうべ、近江屋へ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸の潜りの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずに行んだげな。御巡りさんか夜番でも見えたものであろう」と大に泥棒の無謀を憫笑した |
また、1907年(明治40年)の『僕の昔』では「小倉屋」がでています。
父親は馬場下町の名主で小兵衛といった。別に何も商売はしていなかったのだ。何でもあの名主なんかいうものは庄屋と同じくゴタゴタして、収入などもかなりあったものとみえる。ちょうど、今、あの交番――喜久井町を降りてきた所に――の向かいに小倉屋という、それ高田馬場の敵討の堀部武庸かね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいう桝を持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家があった。もう今は無くなったかもしれぬ。 |
1915年(大正4年)の『硝子戸の中』14でも「小倉屋」がでています。
(泥棒)は、他を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。 (略)その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦り傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪られずにしまった。 |
『硝子戸の中』19でも小倉屋は登場します。
坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。 |
なお、小倉屋にはこれ以外のほかのアルコールもはいっています。特筆するものは、ここの商店会連合会の「地ビール早稲田」、早稲田大学・京都大学の「ホワイトナイル」ビール、「ブルーナイル」ビール、吟醸酒「夏目坂」と吟醸酒「高田馬場 堀部安兵衛」などです。
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