[大まかな現代語訳]
○風俗
東京は広い。関東道を通って120kmの大きさだ。東京を2つに分割し、下町と山ノ手に分ける。その気だても風俗も少々違い、同様に芸者も違っている。ここの芸者の客筋は、陸軍武人、あるいは官僚の使用人、書生などの田舎者が多く、そのため気力も競争も習い事もない。ただ首をおしろいで白く塗り、ふしだらで、客がべろべろになれば、芸者としてはもう十分だ。音曲などの芸能についてはカッポレや民謡ができれば客も大喜びで、1円も祝儀をもらえる。芸能がうまいというのは、ここでは聞いたことはない。でも神楽坂に芸者がなくなれば、山ノ手に歌う芸者がいなくなったといいたい。思うに時折、みめかたちがいいのもいるからだ。
神楽坂辺りの芸者はいい声をだす。牛込御門の外から来た客は涎を流す。道を休める時に山園では豊かな産物は少ない。野生の鶯は自分で春の美しい姿をほめたたえている。
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○風俗
洛陽や広し関東道にして三十里 その洛陽 城前を下町と唱へ その後を山の手といふ 而して意気風俗稍異なり 妓に於けるも亦然り 本地の芸者は陸軍武人 或は鯰公の執事 書生等の田舎漢多きに居る故に 意気地立引きの習いなく 唯その首を白くし その尻を軽くし 客をして沈湎泥の如くならしむるの術あれば 妓の役は済むを以て 技芸の如きはペコシヤカと 猾惚甚句を奏すれば 客意に投じ 円助の祝儀頂戴に至る故に 勝ちを技に取らんとするものは 曽て見聞せざるなり 然れども 若し神楽坂に芸者なくんば 余は断然山の手に 歌妓なしと云はんのみ 置し折りに姿色の取るべきもの出づればな里。
神楽坂ノ辺妓咽ヲ弄シ。牛籠門外客涎ヲ流ス。道ヲ休メテ山園物華薄シト。野鶯亦自ラ春妍ヲ頌ス。
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洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。
関東道 律令制下では、「関東道」は、相模国、武蔵国、常陸国、下総国、上総国、安房国と6国がらできていました。現在の南関東です。
三十里 近世では一里は36町(3.6~4.2㎞)。明治24年に一里は3.9272727…㎞と定めて、30里は約117㎞。大体、東京駅から日光までです。相模国の最西端から常陸国の最東端まで約30里だったのでしょう。
城前 皇居の前
意気 事をやりとげようとする積極的な気持ち。
稍 やや。すこし。いくらか。
本地 ほんち この土地。当地
鯰公 明治の元勲の多くは侍といっても、足軽なみの出。劣等意識の裏返しか髭をたくわえ鯰公といわれました
執事 屋敷における最高位の使用人
意気地 事をやりとげようとする気力
立引き ある目的のために競い合うこと
習い 学ぶこと。学んだこと
尻が軽い 女が浮気である
沈湎 ちんめん。酒色にふけってすさんだ生活を送ること
術 じゅつ。わざ。技能
技芸 ぎげい。美術・工芸などの技術
猾惚 俗曲の曲名「カッポレ カッポレ」。俗曲とは幕末から明治にかけて流行した俗謡と滑稽な踊り
甚句 じんく。民謡の一群。参加者が順番に唄い踊る形式。
客意 客の意向
円助 えんすけ。1円のこと。明治・大正期、花柳界での隠語
頂戴 ちょうだい。チヤウダイ。もらうこと
断然 態度のきっぱりとしているさま
姿色 美しい容貌
な里 なり
咽 のど
弄シ いじる〔いぢる〕
物華 中国の言葉で「物華天宝、人傑地霊」とは「豊かな産物は天の恵みであり、優れた人間はその土地の霊気が育む」という意味。(はい、東京理科大学からとりました。 (https://www.tus.ac.jp/search/?q=物華天宝)
妍 けん。優美なこと。美しいこと
頌ス しょう。人の徳や物の美などをほめたたえること