小生とは石川啄木のことです。明治42年「スバル」の2月号、短歌は六号活字となりました。小さいのです。
「スバル」消息 ◎本誌の編輯は各月当番一人宛にてやる事に相成、此号は小生編輯致し候。随つて此号編輯に関する一切の責任は小生の負ふ所に候。 |
『スバル』第一巻第二号を編集するのは石川啄木だけだといっています。さらに
締切までに小生の机上に堆積したる原稿意外に多く為めに会計担任者と合議の上、紙数を増す事予定より50頁の多きに達し、従つて定価を引上るの止なきに到り候ひしも、猶且その原稿の全部を登載する能はず、或は次号に廻し、或は寄稿家に御返却したるものあり。謹んで其等執筆諸家に御詫申上候。 ◎また本号の短歌は総て之を六号活字にしたり。此事に関し、同人万里君の抗議別項(119頁)にあり。茲に一応短歌作者諸君に御詫び申上候。 ◎万里君の抗議に対しては小生は別に此紙上に於て弁解する所なし。つまらぬ事なればなり、唯その事が平出君と合議の上にやりたるに非ずして全く小生一人の独断なる事を告白致置候。平出君も或は紙致を倹約する都合上短歌を六号にする意見なりしならむ。然れども六号にすると否とは一に小生の自由に候ひき。何となれば、各号は其当番が勝手にやる事に決議しありたればなり。 ◎活字を大にし小にする事の些事までが、ムキになって読者の前に苦情を言はれるものとすれば、小生も亦左の如き愚痴をならべるの自由を有するものなるべし。 ◎小生は第一号に現はれたる如き、小世界の住人のみの雑誌の如き、時代と何も関係のない様な編輯法は嫌ひなり。その之を嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文芸に対する態度と覚悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作る如きは或意味に於て小生の遊戯なり。 ◎小生は此第二号を小生の思ふ儘に編輯せむとしたり。小生は努めて前記の嫌ひなる臭味を此号より駆除せむとしたり。然れどもそは遂に大体に於て思つただけにやみぬ。雑録に於て、口語詩、現時の小説等に対する小生の意見を遠慮なく発表せむとしたれども、それすら紙数の都合にて遂に掲載する能はざりき。遺憾この事に御座候。僅かに短歌を六号活字にしたる事によりて自ら慰めねばならぬなり。白状すれば、雑録を五号にしたるも、しまひに付ける筈なりし小生の『一隅より』を五号にするため、実は前の方のも同活字にしただけなり。敢て六号にすれば遅れますよと活版屋が云つた為にあらず。それは一寸した口実なり。 ◎愚痴は措く。兎も角も毎号編輯者が変る故、毎号違つた色が出て面白い事なるべく候。 ◎末筆ながら、左の二氏より本誌の出版費中へ左の通り寄附ありたり。謹んで謝意を表しおき候。 一金五円也 上原政之助氏 一金一円也 相田蕗村氏 (校了の日 印刷所の二階にて 啄木生) [『スバル』第一巻第二号 明治四十二年二月一日]
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スバル 森鴎外、与謝野寛(鉄幹)、与謝野晶子が協力して発行し、石川啄木、平野万里、吉井勇が編集し、この3人に加えて、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋らが活躍しました。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
消息 人や物事の、その時々のありさま。動静。状況。事情
六号活字 横約3ミリで、英語の8ポイント活字と比べると、わずかに小さい
万里 平野万里。当時は24歳。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表しました。石川啄木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。
平出 平野の間違いでは。もう少し調べて見ます。