道草庵は漱石や山房の資料を展示しています。
正面には漱石の書籍が復刻本で7冊並んでいます。
7冊について「春陽堂刊行『複製品』 夏目漱石著 橋口五葉 装丁」は全部同じです。
1.鶉籠 明治40年(1907)1月 『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』の三篇を収めています 2.草合 明治41年(1908)9月 朝日新聞に連載された『坑夫』と、「ホトトギス」に発表した『野分』の二篇を収めています 3.虞美人草 明治41年(1908)1月 朝日新聞社に入社して最初に書いた作品です。連載中に、ここ漱石山房に転居して来ました。 4.三四郎 明治42年(1909)5月 『それから』『門』へと続く三部作の第一作。一人の青年を通じて当時の欧化主義を批判して注目されました。 5.四篇 明治43年(1910)5月 『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところヾ』という四篇の短篇や紀行文を収めています。 6.門 明治44年(1911)1月 親友の妻を奪った主人公・宗助は、易者に過去の罪を指摘され驚きます。人の心の中に内在する罪の意識を描いた作品で、題名は小宮豊隆が命名しました。 7.彼岸過迄 大正元年(1912)9月 明治43年8月の修善寺の大患(胃潰瘍)を克服し、療養生活から復帰した漱石が、約2年ぶりに執筆した長篇小説。春陽堂からは最後の出版となりました。 |
橋口五葉は版画家・装丁家で、明治14年(1881)~大正10年(1921)。 本名 橋口清。鹿児島市生まれ。鹿児島中学卒業後上京し、橋本雅邦に入門します。黒田清輝の白馬会研究所で洋画を学び、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二らに師事しました。明治37年10月から、熊本で漱石に師事した実兄・橋口貢の推薦で「ホトトギス」に口絵・挿絵を掲載。翌年2月に『我輩は猫である』続編で挿絵を担当して漱石から賞賛され、単行本や「漱石山房」の原稿用紙のデザインを手掛けました。
また、壁のボードの正面は5枚並んでいます。左から
1.新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
2.主な作品
3.夏目漱石の生涯
4.漱石山房に集った人々
5.漱石山房に集った人々
主な作品
発表年 執筆年齢 作品
1905年 37歳 『我輩は猫である』
37歳 『倫敦塔』
1906年 39歳 『草枕』
39歳 『坊っちゃん』
39歳 『二百十日』
1907年 39歳 『野分』
漱石山房で執筆した作品
*漱石が早稲田南町の家(のちの漱石山房)に引越したのは、1907年9月。
40歳 『虞美人草』
1908年 40歳 『坑夫』
41歳 『夢十夜』
41歳 『文鳥』
41歳 『三四郎』
1909年 42歳 『それから』
1910年 43歳 『門』
1912年 44歳 『彼岸過迄』
45歳 『行人』
1914年 47歳 『こころ』
1915年 47歳 『硝子戸の中』
48歳 『道草』
1916年 49歳 『明暗』(未完)
夏目漱石の生涯。ここにはいろいろな活動を書いていますが、ここは写真だけ。(ダブルクリックで拡大)。テキストは別のHTMLで。
「漱石山房に集った人々」は2つに分けてリストされます。
高浜虚子を除き、全員東京帝国大学の生徒です。安部能成は文部大臣(これは驚き)や学習院院長を勤めあげています。 右側の壁には「猫塚」と「漱石山房」、「『漱石山房』に関する新宿区の取組み」が出てきます。
猫塚 漱石没後の大正8年(1919)、『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の十三回忌にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔。『文鳥』という作品で、その死が描かれた文鳥など、夏目家のペットの合同供養塔であった。 九重の層塔で、意匠は漱石作品の装丁も手がけた画家の津田青楓による。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元されたものである。 猫塚を清掃する早稲田小学校の児童たち(昭和42年12月9日) 「猫塚」復元除幕式 この写真は、昭和28年(1953)12月9日、漱石山房跡(現在の漱石公園)で行われた「猫塚」復元除幕式の様子を撮影したフィルムから構成したものです。戦災で倒壊した猫塚が、漱石の37回目の命日に再建されたもので、式典には鏡子夫人や長男の純一氏、弟子の小宮豊隆・安部能成らが出席しており、その姿がフィルムに収められています。 夏目 鏡子 明治10~昭和38年(1877~1963) 夏目漱石の妻。戸籍名はキヨ。貴族院書記官長・中根重一の長女として広島県に生まれる。 明治28年(1895)漱石と見合いをし、翌年熊本の第五高等学校に赴任していた漱石と結婚した。2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)をもうける。漱石の没後、夫との生活ぶりを口述し、長女・筆子の夫で漱石の弟子でもあった松岡譲が筆録した『漱石の思い出』が出版されている。 |
漱石山房 夏目漱石は、明治40年(1907年)、早稲田南町に引越してきました。漱石は、この場で多くの有名な作品を生み、大正5年、49歳で「明暗」執筆中に亡くなるまで住み続けました。この、漱石が晩年を過ごした家と地を「漱石山房」といいます。 「漱石山房」の家はベランダ式の回廊のある広い家で、奥に板敷きの洋間がありました。漱石は、この洋間に絨毯を敷き紫壇の机と座布団をしつらえて書斎としていました。 漱石は面会者がとても多かったので、面会日を木曜日と決め、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け入れました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所となり、漱石没後も彼らの精神的な砦となりました。 |
「漱石山房」の変遷と漱石公園の整備 |
3.「猫塚」復元除幕式の映像。ビデオです。見たい場合は頼んでみましょう。約20分。
4.小冊子。「漱石山房秋冬」と「漱石山房の思い出」はただでもらえます。ただし、残りは僅かだと聞いています。
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