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牛込氏についての一考察|⑧牛込氏と行元寺

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑧「牛込氏と行元寺」です。

 牛込氏のあった袋町の北方、神楽坂五丁目に前述の行元寺があった。『江戸名所図会』によれば、相当な大寺で総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。またその門の両側に南天の木があったので南天寺と呼ばれていたという。
 源頼朝石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣営を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたという(『御府内備考』続編、天台宗の部、行元寺)。
 頼朝が江戸入りほをしてから鎌倉まで、どのようなコースを通ったかはまだ解明されない。現在、新宿区内随一の古大寺だったこの寺に、このような頼朝立ち寄り伝説があることは、一笑することなく大切に残しておきたい話である。
 また太田道灌が江戸城を築いた時は、当寺を祈願寺にしたという(『続御府内備考』)。
行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。場所は下の通り。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

牛込氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国おおを領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
相当な大寺で…… 行元寺を参照。
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府初代将軍。治承4年(1180)挙兵したが、石橋山の戦に敗れ、安房あわにのがれた。間もなく勢力を回復、鎌倉にはいり、武家政権の基礎を樹立。建久3年(1192)征夷大将軍。
武蔵 武蔵国。武州。現在の東京都,埼玉県のほとんどの地域,および神奈川県の川崎市,横浜市の大部分を含む。
千手観世音 観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿
石橋山 頼朝は300余騎を従えて、鎌倉に向かったが、途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれて、10倍を越える平氏の軍勢に頼朝方は破れ、箱根山中から、真鶴から海路で千葉県安房に逃れた。
『御府内備考』続編 「御府内備考」の続編として寺社の沿革をまとめたもの。文政12年(1829)成立。147冊、附録1冊、別に総目録2冊。第35冊に行元寺。
頼朝えりかけの尊像 東京都社寺備考 寺院部 (天台宗之部)では
略縁起云、抑千手の尊像は、恵心僧那の作なり。往古右大将朝頼石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給ふ折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きしと霊夢を蒙り給ひしより、東八ヶ国の諸待頼朝の幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。依之俗にゑりかみの尊像といふとかや 江戸志
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
当寺を祈願寺 祈願寺とは祈願のために建立した社寺で、天皇、将軍、大名などが建立したものが多い。『御府内備考』続編は東京都公文書でコピー可能です。また、これは島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じです。「中頃太田備中守入道道灌はしめて江戸城を築きし時、当寺を祈願所となすへしとて」

御府内備考続編

 以上のようなことは、単に当寺が古刹の如く見せるために作ったものであると片づけることなく、もう一度見直してみたい。この行元寺は、前述の兵庫町の人たちの菩提寺であったろうし、最初でも述べたように古くから赤城神社の別当寺にもなっていたのであるから、大胡氏の特別の保護下にあったものと思われる。太田道灌時のように、牛込氏の祈願寺だったことはもちろんであるが、宗参寺建立以前の菩提寺だったのではあるまいか。
 天正18年(1590)7月5日、小田原は落城したが、秀吉が牛込の村々に出した禁制には18年4月とある(『牛込文書』)から、そのころすでに牛込城は落城していたのであろぅ。
 一方、小田原の落城時、北条氏直(氏政の子で家康の女婿、助命されて高野山に追放)の「北の方」が行元寺に逃亡してきたのである。寺はこの時に応接した人の不慮の失火で焼失したということである(『続御府内備考』)。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像されよう。
古刹 こさつ。由緒ある古い寺。古寺。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり寺院が家の菩提寺といわれるようになった。
別当寺 べっとうじ。神社に付属して置かれた寺院。明治元年(1868)の神仏分離で終わった。
秀吉が牛込の村々に出した禁制 天正18年4月、豊臣秀吉禁制写です。矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)では「豊臣秀吉より『武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村』に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない」
牛込文書 室町時代の古文書から、戦国時代江戸幕府までの古文書で21通。直系の子孫である武蔵市の牛込家が所蔵している。
北条氏直 ほうじょううじなお。戦国時代の武将。後北条氏第5代。徳川家康と対立したが和睦。1583年8月家康の娘督姫と結婚して家康と同盟を結ぶ。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、降伏して高野山に追放し、後北条氏は滅亡。
北の方 大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
続御府内備考 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで「天正年中に小田原北條没落の時、氏直の北の方当寺に来らる 按するに当寺の前地蔵坂の上に牛込宮内少輔勝行の城ありしと此人 北條の家人なれはそれらをたより氏直の北の方こゝに来りしにや 時に饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」

御府内備考続編


牛込氏についての一考察|⑥牛込城築城

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑥「大胡氏の牛込城築城」です。

  6 大胡氏の牛込城築城
 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は江戸城主扇谷朝興と戦い、江戸城を攻略して遠山直景城代とした。この時前述の神楽坂にあった行元寺破壊された(『江戸名所図会』)というから、牛込はその時戦場になったものと思われる。
 この動乱の時、大胡重行弁天町から袋町の高台に牛込城を築いて移り、氏綱から認められるようになったものであろう。『新宿区史』には「牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う」といっている。『牛込文書』によれば、すでに大永6年には日比谷に警備のため陣夫を出している。
北条氏綱 ほうじょう うじつな。戦国時代の武将。小田原城主。上杉朝興ともおきの江戸城、上杉朝定の松山城を破り、下総国府台の戦で足利義明・里見義堯を破って関東一帯を制圧。小田原城下の商業発展を図った。
扇谷朝興 戦国時代の武将。上杉朝興ともおき。扇谷上杉氏の当主。北条早雲によって相模を奪われ、大永4年(1524)、その子北条氏綱に武蔵江戸城を奪取された。
遠山直景 戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
破壊された 江戸名所図会では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
牛込氏が… 「新宿区史」は
牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う。そうでなければ、牛込氏は扇谷家の大きな勢力の近くにあって孤立状態になってしまうからである。北条氏は大永4年朝興を敗って、江戸城をとり、遠山氏をここに置いてから後も、朝興との争いは絶えず、大永6年12月には里見義弘の鎌倉侵入にあたり、氏綱は鶴岡に邀え戦ってこれを破っており、享禄3年6月(1530)には朝興と戦ってこれを破っている。
陣夫 じんぷ。じんぶ。戦争に必要な食糧などの物資を運ぶため領内から徴用した人夫。

 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はない。『江戸名所図会』と『御府内備考』に書かれているだけであるし、城全体の規模も不明である。しかし、伝説によれば、西は南蔵院から船河原町に通じる道、北は大久保通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は光照寺境内南の崖(崖下は空堀)で、舌状半島形をした台地の先端部分である。
 城内の構造も不明だが、大胡氏の居館は光照寺境内で、大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる十字路あたりにあったという。
江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では
牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり
御府内備考 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々
(註:いかさま:1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき)
伝説によれば 新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)の牛込要図が最も詳細にできています。ここで中央の が牛込城跡です。

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(色は当方の追加)

大手門 城の正面。正門。追手おうて

 大胡氏はなぜこの場所を選定したかは不明である。地形上からみれば、この付近で城を築くに格好の場所は、この北方のつく八幡の高台である。そこは戦国時代すでに上杉管領とりでを築いたことがある(『日本城郭全集』)ほどである。
 筑土八幡の高台では、台地突出部が狭少だから広く縄張りする必要があり、規模を大きくすると短期間では築城できなかったこと、当時の古道はだいたい今の早稲田通りだったろうから、主要道を背後にするという不つごうさがあったものと思われる。その上、神楽坂の方には部落も多く、すでに行元寺も建っていたことが引きつける理由になったものであろう。
筑土八幡の高台 上図の牛込要図では右上のC㋬です。
上杉管領 関東管領とは室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉うえすぎ憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
とりで 築土城です。
縄張り 縄を張って境界を決めること。建築予定の敷地に縄を張って、建物の位置を定めること

 大胡重行は、前述のよう天文12年に死去し、弁天町宗参寺に葬られた。重行の子勝行は、北条氏康の重要家臣となり、天文24年(1555)正月6日には、宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏と改めた。これはすでに呼び名となっていたものを公的に認めて貰ったものであろう。そして牛込から赤坂、桜田、日比谷あたりまで領することになった。
 牛込勝行は、弘治元年(1555)9月19日に、牛込御門に移されてあった赤城神社を現在地の赤城元町遷座した。また勝行の子勝重の妻に、江戸城の遠山綱景(直景の子)の娘を迎えたのである(児玉、杉山共著『東京の歴史』)。
牛込勝行 北條氏康につかえ、弘治元年(1555年)姓の大胡氏はやめ、牛込氏に変える。牛込、今井、桜田、日比谷、下総国堀切、千葉等の地を領有した。天正15年(1587年)死亡。年85。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱うじつなの嫡子。永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」を作成。永禄4 年、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築く。
宮内少輔 くないしょうゆう。令制の第二等官である次官すけのうちで下位のもの。従五位。
遷座 神体、仏像などをよそへ移すこと。
遠山綱景 とおやま つなかげ。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。
児玉、杉山共著『東京の歴史』 児玉幸多と杉山博の共著で「東京都の歴史」(山川出版社、1977年)でしょう。その135頁は……
 江戸城代の遠山氏の次代は、丹波守綱景である。かれは隼人佑・藤九郎・甲斐守ともいった。かれは、氏綱・氏康にしたがって、府台うのだい攻撃に参加したり(天文7年)、鶴岡八峰宮の造営に協力したり(天文8~10年)、妙国寺の濁酒醸造の免除を命じたり(天文17年)、六所明神の本地仏の釈迦像を修理したり(天文21年)、浅草の総泉寺や品川の本光寺に禁制をだしたり(天文23年)している。またかれは、連歌師の宗長とも交際があった。また綱景の娘は、江戸の名族の牛込勝重・島津主水・猿渡盛正らのもとに嫁している。
 こうして綱景は、婚姻政策によっても、自家の勢力を江戸とその周辺にのばしていったが、永禄7年正月4日、国府台合戦で戦して戦死した。

註:丹波守綱景 遠山綱景。永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣である遠山直景の子(長男とも)。天文2年(1533年)、父に引き続き江戸城代となる。
国府台攻撃 国府台合戦。天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回、下総国国府台(現 千葉県市川市)で房総勢と後北条氏の間に行われた合戦。後北条氏が勝利し、覇権は安泰になった。
天文7年 1538年。
永禄7年 1564年。

「江戸氏文書」室町時代

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)「1 牛込の夜明け前 (3)牛込文書と江戸氏」です。この本では『牛込文書』のうち江戸氏の文書7通について解説をしています。年代は1340年から1449年までで、室町時代にあたります。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

牛込文書と江戸氏
 牛込氏の直系の子孫である、牛込本家(武蔵市西久保在住)所蔵の『牛込文書』という古文書が21通ある(東京都文化財)。この文書は中世後期(室町—戦国期)の新宿区域を、最も、具体的で正確に物語っている貴重な史料である。その古い時代のものから番号をつけると、①から⑦までが何故か江戸氏関係のものである。
 江戸氏は平安末期から鎌倉、南北朝時代にかけて、武蔵在地の武士団、武蔵七党の一つ、秩父党の分かれで、秩父重継の代から江戸庄を領として、江戸氏を名のり、代々、鎌倉幕府の家人を務め、その嫡男庶子を各地に配し、「八ヶ国の大福長者」と称されていた。以下、『牛込文書』江戸氏の項を要約すると次の通りになる。
武蔵七党 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。
秩父党 平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つのだま党だが、その中に秩父氏を名乗るグループがあった。例えば秩父孫次郎は北条氏綱による鶴岡八幡宮の再建に協力している。
秩父重継 平安時代末期(11世紀)の武将。武蔵江戸氏初代当主。
江戸庄 「庄」は「庄園」「荘園」ともいい、奈良時代から戦国時代までの中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態。個人が開墾したり、他人からの寄進により大きくなった。鎌倉末期以後、武士に侵害されて衰えた。荘。
家人 かじん。家の人。家族。家臣。らい
八ヶ国の大福長者 八ヶ国とは関東。武蔵国千束せんぞく郷石浜(台東区)に着岸する交通のようしょう。東京湾内の漁船、太平洋海運で航行した西国舟が集まり、水陸交通を通じて富も集中。大福だいふくとは 非常な金持。

 似た文章は他にありまして、武蔵野ふるさと歴史館の「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)です。やはり「江戸氏文書」だけの前書を書いています。

 鎌倉幕府滅亡後、内乱が全国に及ぶと武蔵国でも南朝と北朝による戦乱が起こり、武蔵国の武士も多く参陣し、武功を挙げました。暦応2年(1339)に高師冬が関東執事に任命され、足利義詮の下で北畠顕家の追討にあたります。顕家の関東撤退後、義詮、鎌倉公方足利基氏により関東支配が進められますが、師冬、上杉憲顕の両執事の対立や関東管領畠山国清の追放の後、鎌倉公方 (基氏系譜)を関東管領上杉氏が補佐するという形で関東での内乱は終息することとなります。
 暦応3年(1340)、牛込郷の名が史料上初めて登場します。この時、鎌倉幕府滅亡後に幕府に仕えていた武士の没収地である荏原郡牛込郷の支配を足利方についた江戸近江権守が任されます。また、『鎌倉大草紙』によれば、応永23年(1416)に勃発した上杉禅秀の乱において江戸近江守が参戦し戦功を挙げるも討ち死にしたことが記されています。その後、応永30年(1423)には、豊島郡桜田郷内の沽却地(売地)を江戸憲重が取得します。こうした所領の給与は、戦に参戦し戦功を挙げた際に得られることも多く、中世の武士にとって、主君の戦に従い戦功を挙げることは名誉であり、生きる道でもあったのです。
 江戸氏はその後も代々の鎌倉公方との関係を構築していたようで、足利成氏、政氏にそれぞれ酒樽や鯛などを送っている様子がうかがえます。また武蔵平一揆による江戸惣領家の没落、永享の乱、享徳の乱における江戸氏庶流の鎌倉公方・古河公方方への参陣の様子から、江戸氏の衰退および牛込・桜田郷への支配権の喪失も関東における戦乱の中で起こったものと考えられます。

 では、文書を開いてみます。

「足利義詮御教書」暦応3年(1340)
 時代は室町幕府創設直後、当時の鎌倉府の義詮(尊氏長子)が執事のこうのもろふゆに命じて、江戸氏の所領であるいも郡(現埼玉騎西町)の替地として、荏原郡牛込郷けつ分(所有者のない知行地)を与えたものである。恐らく、鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立期の混乱時に牛込郷は不知行地になっていたのであろう。

 この本文は一瀬幸三氏のものですが、他に[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] あれば新宿区役所の「新宿区史」(昭和30年)[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)、[D] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)も加えています。文書①から⑦までの数は一瀬幸三氏の数字です。

① [A] 武蔵国守護の高師冬が鎌倉公方足利義の意を奉じて、江戸近江権守に崎西郡芋茎郷に替えて、闕所となっていた荏原郡牛込郷(現新宿区)を預置くことを通達している。牛込郷の初見史料である。暦応の年号を持つが、全体的な筆勢・花押共に弱い。(矢島氏)

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

① [B] この文書によると、江戸近江権守は今まで持つていた崎西郡芋茎郷が何らかの理由で没収されることになり、その替所として牛込郷が闕所になつていたので、それを足利氏から貰ったことが分る。従つてこれによると、本区牛込がはじめて史上に明文を見、江戸氏の領地になつたことを知るのである。しかし鎌倉時代の節に述べた如く、江戸氏は古くから本区と関係があると思われ、江戸近江権守が牛込を領したのが、江戸氏の本区支配の最初であつたとは思われない。逆に暦応に牛込の闕所地を江戸氏が領したのは、古くから縁故の土地であったためではなかろうか。(略)
 江戸氏が室町時代に於いて足利氏の配下にあったことは「太平記」、「後鑑」に見えるが、更に曆応3年の「牛込文書」によると、江戸氏は高師直の息参河守師冬の配下に属していたのではないかと思う。そうすると師冬は当時下総・常陸にいた南朝の軍と戦っていたのであるから(保暦間記・後鑑)、江戸氏もその軍に加わっていたのではあるまいか。その後、貞和5年に尊氏の息基氏が関東に下り、関東管領となったが、基氏はその時僅か十歳であった。そのため師冬はその補佐にあたっていた。従って江戸氏も亦自然基氏に属することになったらしい。(新宿区史)
① [C] 前年に関東執事に就任し、関東平定を推し進めた高師冬が足利義詮の意を奉じた文書。冬軍には多くの武蔵・相模国の中小武士らが従いましたが、長期の戦闘に疲弊し帰国を希望する者もあったといい、高幡不動本尊像内文書(国指定重要文化財 日野市・金剛寺蔵)には参戦した武士の実態が記されています。江戸氏も冬に従い戦功を挙げたと考えられ、本文書はその際の戦功として牛込郷の領有を認められたものです。(武蔵野ふるさと歴史館)
① [D] 鎌倉公方の足利義詮(尊氏の子)が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷(現騎西町内)の替地として、牛込郷の欠所分(不知行地)を付与したもの。宛名の江戸氏は庶流で名は不明。牛込郷のみえる最初の史料であり、荏原郡に属していたことも明らかである。(新宿区文化財総合調査報告書)

闕所 けっしょ。中世、没収や、領主が他に移ったりして、知行人のいない土地。闕所地。
預置く 預け置く。あずけおく。人や物を他の人に託して、保管・管理を任せる。

② 「前遠江守打渡状」応永30年(1423)。
③「一色持家書状」応永33年(1426)
 この書からは、当時の幕府管領と鎌倉府の対立状態が鮮明にわかってくる。

② [A] 前遠江守有秀が江戸憲重に対し、施行状の通りに豊島郡桜田郷の沽却地を打ち渡している。発給者の有秀の名字は未詳だが、署名・花押が小さいことから鎌倉府の奉行人クラスの存在と推定される。(矢島氏)

「前遠江守打渡状」応永30年11月21日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

沽却地 こきゃくち。「沽却」は売り払う。売却。沽却された土地。売買の対象となる土地。
② [C] 江戸憲重が桜田郷内の沽却地(売地)を与えられた際の打渡状。室町時代の武蔵国においては、鎌倉公方の命令により遵行を命じる奉書が作成されると、守護・守護代は遵行状(伝達命令文書)を作成しこれを取り次ぎ、遵行使を派遣して知行人に証状として打渡状を交付しました。応永23年(1416)の上杉禅秀の乱後に、足利持氏方についた武士らの還補(何らかの理由で失った土地を取り戻すこと)が認められており、桜田郷は以前から江戸氏が領有していたため、本文書も桜田郷の一部を江戸氏に還補された際のものと考えることもできます。(武蔵野ふるさと歴史館)
② [D] 江戸憲重の買得地である豊嶋郡桜田郷の下地を、江戸上野入道を証人として憲重に沙汰するという内容。(新宿区文化財総合調査報告書)


③ [A] 甲斐守護武田長と鎌倉公方足利持氏の合戦に関わるものである。鎌倉府奉公衆で武田信長討伐軍の総大将であった一色持家が、甲斐国田原(現山梨県都留市)に在陣中の江戸憲重の労をねぎらい、足利持氏に戦功を注進する旨を伝えている。端裏には切封墨引があるが、線に勢いがなく、切封の上に墨を引いた跡というより点を二点打ったような書き方になっている。(矢島氏)

「一色持家書」7月26日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

③ [B] 関東管領の下にあった刑部少輔一色持家から、長い間の在陣の労を謝し、忠節をつくしたことに対する感謝状がある。これが何時のもので、何処で誰と闘つたものか明確を欠いている。(新宿区史)
③ [C] ④号文書と関連する文書で、一色持家が応永33年の武田信長征討における江戸憲重の在陣の労をねぎらい、その忠節を足利持氏に報告するという旨を伝えた文書。持家の注進により④号文書が発給されました。(武蔵野ふるさと歴史館)
③ [D] この年(1426)6月に、鎌倉公方足利持氏は、甲斐の武田信長を攻めるため一色特家を遣わした。この文書は、従軍した江戸憲重の忠節を、持家が持氏に注申すると約束したもの。(新宿区文化財総合調査報告書)

④ 「足利持氏感状」応永33年(1426)。
⑥ 「足利成氏書状」。
⑦「足利政氏書状」。
 ⑥、⑦は共に年末詳。以上の三通の文書から、江戸氏は鎌倉幕府時代から御家人であり、終始、鎌倉府方に属し、やがて、その後引き起された「永享の乱」(1439)にも公方に従い、江戸を離れ、常陸へ移り、自ら衰亡の結果をつくっていった。

④ [A] 足利持氏が一色持家の注進を受けて憲重の田原での戦功を賞している。これは前者を受けて発給されたものである。全文一筆と思われるが、持氏の花押のバランスが悪く、寸法もやや大きい。筆跡も応永期より下ると思われることから、写と判断した。(矢島氏)

「足利持氏感状」応永33年8月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

④ [B] 関東管領足利持氏からの感状がある。多分この二通の文書(③と④)は関係のあるものであろう。そうすると江戸氏が戦っていたのは甲州田原の戦争であったことが分る。(新宿区史)
④ [C] 鎌倉公方足利持氏が江戸憲重に与えた直状。持氏が自らの花押を据えて戦功があった憲重に与えた文書で、直状のなかでも戦功に対する賞を述べるものは感状といいます。「田原陣」は甲斐国都留郡にあった田原郷をさし、持氏に従わない武田信長を一色持家率いる軍勢が征討にあたりました。憲重は持家に従い参戦しており、江戸氏と鎌倉公方との主従関係をうかがうことができます。(武蔵野ふるさと歴史館)
④ [D] 足利持氏も自ら甲斐国田原に出陣し、一色持家の注申に従って、江戸憲重の戦功を賞した。武田長は8月25日に征圧された。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑥ [A] 足利成氏が江戸越後守に宛てた書状で、酒等の贈答品に対する礼を述べている。江戸越後守は憲重・重方の一族と思われるが、実名は判らない。この文書に据えられた成氏の花押はバランスが悪いうえに重ね書きをしていることから、写の可能性がある。(矢島氏)

「足利成氏書状」12月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑥ [C] 江戸越後守が酒樽などを贈答したことに対する足利成氏の礼状。成氏は足利持氏の子で、永享の乱により滅亡した鎌倉府を再興した人物です。成氏が対立する関東管領上杉憲忠を殺害したことがきっかけとなり、およそ30年にわたる享徳の乱へと発展します。乱勃発後まもなく成氏は鎌倉を奪われ、下総国古河に拠点を移しました。江戸城などを奪取した上杉氏は武蔵国からも多くの武士を動員しています。本文書は発給年代が不明であり、江戸氏が享徳の乱の最中に上杉と鎌倉・古河公方のどちら方で活動していたかは定かではありません。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑥ [D] 成氏は持氏の子で、康正元年に古河に入り、文明末年まで家督していたのでその間のもの。榼(酒だる)到来の礼状。江戸氏が古河公方に従っていたことを示すものである。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑦ [A] 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状である。この鯛は、憲重・重方が桜田郷に所領があったことから、桜田郷の海辺から納められた可能性が高い。また裏書の記載から、牛込氏の分家に際しては江戸氏文書も分割して相続されていたことがうかがえる。(矢島氏)

「足利政氏書状写」12月9日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑦ [B] 該文書は基氏が江戸氏から贈物をもらつたのでその礼の手紙である。この文書が何時頃のものか年号がないので分らないが、基氏は「後鑑」巻34貞和5年(1349)10月26日の条を見ると、『是月、以将軍家次子亀若丸鎌倉管領、以上杉越後憲顯、高三河守師冬執事』とあって、貞和5年僅か10歳で鎌倉に降り、関東管領となっているから、それから彼が死んだ貞治6年(1367)まで約20年の間のものであろう。(新宿区史)
⑦ [C] 古河公方である足利政氏から江戸越後守の鯛など贈答に対して送られた礼状。政氏は延徳元年(1489)に足利成氏から家督を譲られます。本文書の発給年代は不明ですが、江戸氏が古河公方と主従関係があったことがうかがえます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑦ [D] 政氏は成氏の子。長享2年頃家督し、永正12年まで文書がみられる。鯛到来の礼状。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑤ 「江戸憲重譲状」文安6年(1449)。<
clear=”left” /> 江戸氏内部で、所領の桜田郷、牛込郷の一部を憲重から江戸重方に譲渡するという内容であり、江戸氏が牛込の地を領有していたことを示す最後の文書である。

⑤ [A] 江戸憲重が同重方に対し、桜田知行分・牛込郷からそれぞれ5貫文、手作分などを譲り渡す旨を記した譲状である。これより重方は憲重の子息と考えられる。重方は既に文安元(1444)年に牛込赤城大明神(現赤城神社)に大般若経を奉納しており、これ以前から牛込郷の支配に関わっていたと思われる。この文書は全文一筆だが、筆勢・花押ともに大変弱く、写の可能性も否定できない。(矢島氏)

「江戸憲重詫状」文安6年5月15日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑤ [B] この二つの文書(②と⑤)により、江戸憲重が牛込・桜田の両郷を領有していたことを知る。更に又以上の文書よりして江戸近江権守と江戸憲重は父子か孫の関係ではあるまいか。江戸重通・江戸淡路守・江戸房重・江戸近江権守は同時代の人物と思われるが、「江戸氏系図」にも名前がなく横の関係は分らない。しかしこれ等江戸氏はいずれも一族であり、鎌倉時代の江戸氏の正統を継ぐものであろう。江戸氏は主として、桜田・牛込・浅草を中心とした地域に拠をしめ、その庶流は室町初期の頃までには更に拡がっていたらしい。(新宿区史)
⑤ [C] 江戸憲重が江戸重方に桜田知行分と牛込郷からそれぞれ5貫文と手作(直営の耕作地)等を譲与する旨を記した文。重方は、文安元年(1444)には牛込郷の鎮守である赤城神社(現新宿区早稲田鶴巻町)に大般若経600巻を奉納しており、この頃には牛込郷の知行にも関わっていたと思われます。そのため重方は憲重の嫡子と考えられます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑤ [D] 江戸憲重が知行地の全部を重方に譲与するというもの。とくに桜田郷の内の年貢五貴文と牛込郷の内の年責五貫文とが中心であり、このほか手作地(屋敷まわり)なども重方に譲与するというもの。年貴高反当り500文として、両郷で二町の土地になる。(新宿区文化財総合調査報告書)

 以上、7通の解説を読んでみました。①②⑤は領有地に関する問題で、他は戦功の感謝や酒や鯛を送ったことに対するお礼です。

暦応3年13408月23日① 鎌倉公方足利義詮は北埼玉芋茎郷の替地として江戸氏に牛込郷を付与。
応永30年142311月21日② 江戸氏が桜田郷を領有していたことが判る。
応永33年14267月26日③ 一色持家から江戸憲重氏の忠節を足利持氏に報告する。
応永33年14268月11日④ 関東管領足利持氏から武田氏との戦で江戸氏は感状を貰う。
文安6年14495月15日⑤ 江戸氏が桜田郷のほか牛込郷を領していた。
12月11日⑥ 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状
12月9日⑦ 足利成氏が江戸越後守に贈った酒等の贈答品に対する礼

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(緑色は当方の追加)