泉鏡花氏の「草あやめ」(明治36年)で、その2です。
物干の竹二日月に光りて、蝙蝠のちらと見えたる夏もはじめつ方、一夕、出窓の外を美しき聲して賣り行くものあり、苗や玉苗、胡瓜の苗や茄子の苗と、其の聲恰も大川の朧に流るゝ今戸あたりの二上りの調子に似たり。一寸苗屋さんと、窓から呼べば引返すを、小さき木戸を開けて庭に通せば、潛る時、笠を脱ぎ、若き男の目つき鋭からず、頬の圓きが莞爾莞爾して、へい/\召しましと荷を下ろし、穎割葉の、蒼き鶏冠の、いづれも勢よきを、日に焼けたる手して一ツ一ツ取出すを、としより、弟、またお神樂座一座の太夫、姓は原口、名は秋さん、呼んで女形といふ容子の可いのと、皆緣側に出でて、見るもの一ツとして欲しからざるは無きを、初鰹は買はざれども、晝のお肴なにがし、晩のお豆府いくらと、先づ帳合を〆めて、小遣の中より、大枚一歩が處、苗七八種をずばりと買ふ、尤も五坪には過ぎざる庭なり。 隱元、藤豆、蓼、茘枝、唐辛、所帶の足と詈りたまひそ、苗賣の若衆一々名に花を添へていふにこそ、北海道の花茘枝、鷹の爪の唐辛、千成りの酸漿、蔓なし隱元、よしあしの大蓼、手前商ひまするものは、皆玉揃ひの唐黍と云々。 |
〔現代語訳〕物干の竹が8月2日の月に光っている。コウモリも出てくる初夏のある夕方、出窓の外に美しい声を出した行商人がやってきた。苗、稲の苗、キュウリの苗、ナスの苗はいらんかね…と、その声は隅田川が流れる今戸地区あたりで聞こえてくる三味線のリズムに似ている。ちょっと苗屋さんと、窓から呼ぶと、へいへい、どれにしましょうかと荷を下ろし、穎割や、緑のヒトツバなど、どれも勢いはよい。日に焼けた手で、1つ、1つと取り出してきた。年寄りも、弟も、お神楽座の太夫も…これは姓は原口、名は秋さんで、女形という様子のいい奴だが…みんな縁側にでて、見ている。どれもこれもほしい。私は初鰹などは買わないが、昼のお魚がこれだけで、晩のお豆腐はこれだけでと、まず帳簿を確かめて、小遣の中で、大枚を一分使って、苗の七、八種をずばりと買う。もっとも五坪もない庭なのだが。 インゲン豆、藤豆、蓼、ゴーヤ、唐辛子は、くらし向きのプラスになりましょうといって、苗売りの若衆はいちいち名前に花の言葉をそえている。手前どもが商いをするのは、北海道産の花ゴーヤ、鷹の爪の唐辛子、沢山生えるほうづき、インゲンにはツルがなく、良い悪いはわからないけど大蓼、種のそろったトウモロコシなどですという。 |
二日月 ふつかづき。陰暦2日の月。8月2日の月
玉苗 たまなえ。苗代から田へ移し植えるころの稲の苗。早苗と同じ。
大川 吾妻橋付近から隅田川の下流の通称。
朧 ぼうっと薄くかすんでいるさま。
今戸 台東区北東部の地名。隅田川西岸の船着き場として栄えました。
二上り にあがり。三味線の調弦法。第2弦を1全音(長2度)高くしたもの。派手、陽気、田舎風の気分をあらわす。
木戸 庭などの出入り口に設けた簡単な開き戸。
笠 日光・雨・雪などが当たらないように頭にかぶるもの。「傘」と区別する。
召す 「買う」という意味の尊敬語
穎割葉 かいわりば。芽を出した植物が最初に出す葉
鶏冠 ヒトツバ。葉が鶏のトサカのように切れ込む常緑のシダ。右図を。
神楽座 芝居のはやしの一種。
太夫 能、歌舞伎、浄瑠璃等で上級の芸人。
帳合 現金や在庫商品と帳簿を照らし合わせ、計算を確かめること。
〆 締め。しめ。金銭などの合計を出すこと。
大枚 多額のお金。大金。
一歩 一文(一歩)銭の寛永通宝は昭和28年まで法的には通用し、4文で一両(一円)に替えられました。明治初めの一円は二万円ぐらいなので、1歩は約5000円でしょうか。
隠元 インゲン豆。マメ科の蔓性の一年草。ツルナシインゲンは蔓のない栽培品種。
藤豆 ふじまめ。マメ科のつる性一年草。熱帯原産。食用とするため広く栽培。
蓼 たで。タデ科タデ属の植物の総称。特にヤナギタデは辛みがあり、食用として刺身のつまなどに。
茘枝 ここでは蔓茘枝のこと。別名はニガウリ、ゴーヤ。ウリ科の蔓性の一年草。黄色い花を開き、実が熟すと黄赤色になり、若い実は食用に。
所帯 一家を構えて独立した生計を営むこと。そのくらし向き。
罵る ののしる。ここでは「盛んにうわさされる。評判になる」
鷹の爪 トウガラシの栽培品種。果実は小形の円錐形で上向きにつき、赤く熟す。
千成り 数多く群がって実がなること。
酸漿 ナス科の多年草。初秋、果実が熟して赤く色づく。
よしあし よいとも悪いともすぐには判断できかねる状態。
玉揃い キャベツなどの結球野菜で、結球の発育が似たようになること。