それに往年の大震災には、下町方面は殆ど全部灰塵に帰して、今やその跡に新たなる東京が建設されつゝあるので、その光景も気分も情調も、全く更生的の変化を示しているが、わが神楽坂通りをはじめ牛込の全区は、幸にもかの大火災を免れたので、それ以前と比べて特に目立つほどの著しい変化は見られない。路面がアスファルトになったり、表構えだけの薄っぺらな洋式建物が多くなったり、カッフェーやメリンス屋が多くなったりした位のもので、昔と比べて変ったといえば随分変ったといえるが、同じようだといえばまた同じようだといえないこともない。だが兎に角神楽坂は、私にとっては東京の中で最も好きな街の一つだ。こないだも芝の方に住んでいる友達が来て私にいった。 |
灰塵 かいじん。灰と塵
更生 生き返ること。よみがえること。蘇生すること
表構え おもてがまえ。外側から見た、家屋・塀・門扉などの造り。「表構えのりっぱな家」
メリンス メリノ種の羊毛で織った柔らかい毛織物
芝 以前の芝区。昭和22年3月、赤坂区、麻布区、芝区の3区が合併し、現在の「港区」が誕生。現在は港区芝地区。
「君は主にどこへ散歩に出かけるかね」 「そりゃ勿論神楽坂だ。殆ど毎晩のように出かける」と私は立ち所に有りのまゝを答えた。 「そんなに神楽坂はいゝかね」 「そう大していゝということもないけれど、一寸いゝよ。それに昔からの馴染で、出るとつい自然に無意識に足が向いてしまうんだよ。銀座あたりまで出かければ兎に角、外にちょっと手頃な散歩場がないからね」 「銀座なんかと比べてどうかね」 「そりゃ勿論とても比較にも何にもならないさ。すべてがちっぽけで安っぽくて貧弱で、田舎臭くてね。どうしても第三流的な感じだよ。併しその第三流的な田舎臭いところが僕には好きなんだ。親しみ易くてね」 「ふゝん」友達は微かな冷笑をその鼻辺に浮べながら頷いた。「併し僕には、神楽坂は山の手の銀座だとか、東京名所の一つだとかいわれるのがちょっと分らない。あれ位の所なら、外にも沢山、何処の区にでもあるじゃないか」 「そりゃそうだ、殊にあすこは夜だけの所で、間は実につまらないからね。だが夜になると全く感じが違ってしまう。何処だってそういえばそうだが、殊に神楽坂は昼と夜との違いがはげしい。昼間あんな平凡な殺風景な所が、夜になるとどうしてあんなにいゝ感じの所になるかと不思議な位だ」 |
立ち所に 時を移さず、その場ですぐに。たちまち。すぐさま
第三流的 二流よりもさらに劣った、程度が低いもの
山の手の銀座 銀座は下町なので、山の手の銀座は神楽坂だといっていました。「山の手の銀座」がいつごろからこう使ったのか、はっきりしません。たぶん関東大震災ごろからでしょうか。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では
大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた。 |
関東大震災後、神楽坂は3~4年繁栄しましたが、あっという間に繁栄の中心地は新宿になっていきます。『雑学神楽坂』の西村和夫氏は
市内で焼け出された多くの市民が山手線の外周、そこから延びる東横、小田急などの私鉄沿線に移り住んだことによるものだ。 |
と説明します。
「実際夜は随分賑かだそうだね」 「賑かだ。四季を通じてそうだが殊に今頃から真夏にかけては甚だしい。場所が狭いからということもあるが、人の出盛り頃になると、殆ど身動きも出来ない位だからね」 「別にこれといって何一つ見る物もないし、ろくな店一つないようだがね。矢張り毘沙門様の御利益かな、アハアハヽヽ」 「アハヽヽ、何だか知らないが、兎に角われも/\といったような感じでぞろ/\出て来るよ。牛込の人達ばかりでなく、近くの麹町辺からも、又遠く小石川や雑司ヶ谷あたりからもね」 「どうしてあんな所があんな繁華な場所になったのかね、君なんか牛込通だからよく知ってるだろう」 「いや、知らない、又そんなことを知ろうという興味もない。それこそ元は毘沙門様の御利益だったのかも知れないが、兎に角昔から牛込の盛り場としてにぎやかなので、だから人が出る。人が出るからにぎやかなんだという現前の事実を認めさえすればいゝんだ。併し単ににぎやかだとか人出が多いとかいうだけならば、今君がいったように同じ山の手でも神楽坂なんかよりずっと優った所が少なくないよ。例えば近い所では四谷の通りなんかもそうだし、殊に最近の新宿付近の繁華さといったら素晴らしいものだ。すぐ隣の山吹町通り、つまり江戸川から矢来の交番下までの通りだって、人出の点からいえば神楽坂には劣らないだろう。けれどもそれらの所と神楽坂とではまるで感じが違ってるよ」 |
麹町 旧区名。千代田区の一部で、近世は武家屋敷が多く、現在はビジネス街と高級住宅地です。
小石川 旧区名。文京区の一部。文教・住宅地区。
雑司ヶ谷 元来は北豊島郡雑司ヶ谷村。1889(明治22)年、東部が小石川区(現在の文京区)に、残部は巣鴨村に編入、小石川区雑司ヶ谷町と巣鴨村大字雑司ヶ谷に。1898(明治31)年、小石川区は東京市の一部に。1932(昭和7)年、西巣鴨町が東京市に編入され、豊島区雑司ヶ谷町1-7丁目に。
四谷の通り 1878(明治11)年11月、東京府四谷区が発足。1947(昭和22)年3月、本区、淀橋区、牛込区の3区が合併し、東京都新宿区に。四谷の通りは現在は「新宿通り」
山吹町通り 現在は「江戸川橋通り」
江戸川 現在は「江戸川橋交差点」。これは1971年3月まで都電の停留所名と同じでした。「江戸川」はかつての神田川中流(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1 kmの区間)の名称。
矢来の交番下 矢来町交番(現在は矢来町地域安全センター)は矢来町27番にあります。ここで西からくる早稲田通りと、北からくる江戸川橋と、東からくる神楽坂通りの3つが一緒になって、交差点「牛込天神町」を作り、その南側に矢来町交番(地域安全センター)ができました。