『文藝』9巻7号(1941年)で 山之口貘氏が詠んだ詩です。
神樂坂にて 山之口 貘 ばくさん と呼びかけられてふりかへつた すぐには思ひ出せないひとりの婦人が 子供をおぶつて立つてゐた しかしまたすぐにわかつた あるビルディングの空室でるんぺん生活にくるまつてゐた頃の あのビルの交換手なのであつた でつぷり肥つてゐた娘だが 背中の子供に割けたのであらう あの頃のあのでっぷりさや娘さなんかはなくなつて 婦人になつてそこに立つてゐた びつくりしましたよ あさちやん と云ふと 婦人はいかにもうれしさうに背中の物を僕に振り向けた あゝ もうすぐにうちにもこんなかたまりが出來るんだ 僕はさう思ひながら 坊やをのぞいてやつたりした しかしその婦人はなにをそんなにいそいだのであらう いまにおやぢになるといふ このばくさんに就てのことなんかはそのまゝここに置き忘れて たゞのひとこともふれて來なかつた 婦人はまるで用でも濟んだみたいに 中の物を振り振り 坂の上へと消え去つた。 |