三業 さんぎょう。料亭(料)・待合茶屋(待)・芸妓置屋(妓)の3業種。
二業 料亭と芸妓置屋
花街 かがい。はなまち。いろまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。遊郭。花柳街
花柳界 かりゅうかい。芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の巷。
料亭 主として日本料理を出す高級な料理屋
置屋 おきや。正確には女郎置屋や芸者置屋。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
待合 まちあい。待合茶屋。まちあいぢゃや。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。ウィキペディアによると、板場がないので料理の提供はなく、仕出し屋などから取り寄せる。収入源は席料と、料理などの手数料。客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(娼妓は遊郭以外で営業できない東京では不可)
芸妓 歌や三味線、舞踊など、芸の習得に厳しい稽古を積み、酒宴で披露して客をもてなす女性。遊女とは一線を画す。
見番 けんばん。検番、見番。三業組合の事務所。遊里で芸者の取り次ぎや送迎、玉代の精算などをした所。現在の例は見番横丁で。
箱屋 はこや。三味線などを持って客席に出る芸者に従って行く男衆。見番に属する。箱まわし。箱持ち
半玉 まだ一人前として扱われず、玉代も半人分の芸者。雛妓とも。踊りと太鼓を演じるが、三味線は弾かない。大半は16歳で芸者に
源氏名 遊女や芸者の妓名。バーのホステスなどの呼び名でも使う、
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「神楽坂」タグアーカイブ
夏目漱石と神楽坂
『吾輩は猫である』
10 元禄で思い出したからついでに喋舌ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事で茸が飛んで来たり、御茶の味噌の女学校へ行ったり、恵比寿、台所と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺して見ると裏店と藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。 |
茸 正しくは「火の粉」。燃え上がる火から粉のように飛び散る火片のこと
御茶の味噌の女学校 正しくは「お茶の水の女学校」。本郷区湯島三丁目(現、文京区湯島一丁目)の女子高等師範学校附属高等女学校。戦後はお茶の水女子大学の母体。
台所 正しくは「恵比寿、大黒」。恵比寿と大黒は財福の神で、民家で並べてまつることが多かった。
藁店 わらだな。藁を売る店。店を「たな」と呼ぶ場合は「見せ棚」の略で、商品を陳列しておく場所や商店のこと。現在は固有名詞として使う場合も多く、新宿区袋町では「地蔵坂」の商店を指す。
裏店 裏通りにある家。商家の裏側や路地などにある粗末な家。
『それから』
大抵は伝通院前から電車へ乗つて本郷迄買物に出るんだが、人に聞いて見ると、本郷の方は神楽坂に比べて、何うしても一割か二割物が高いと云ふので、此間から一二度此方の方へ出て来て見た。此前も寄る筈であつたが、つい遅くなつたので急いで帰つた。今日は其積で早く宅を出た。が、御息み中だつたので、又通り迄行つて買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。所が天気模様が悪くなつて、藁店を上がり掛けるとぽつ/\降り出した。傘を持つて来なかつたので、濡れまいと思つて、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障つて、息が苦しくなつて困つた。――「けれども、慣れつこに為てるんだから、驚ろきやしません」と云つて、代助を見て淋しい笑ひ方をした。「心臓の方は、まだ悉皆善くないんですか」と代助は気の毒さうな顔で尋ねた。 |
平岡が来たら、すぐ帰るからつて、少し待たして置いて呉れ」と門野に云ひ置いて表へ出た。強い日が正面から射竦める様な勢で、代助の顔を打つた。代助は歩きながら絶えず眼と眉を動かした。牛込見附を這入つて、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄つた古本屋迄来て、昨日不要の本を取りに来て呉れと頼んで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積で」と断つた。帰りには、暑さが余り酷かつたので、電車で飯田橋へ回つて、それから揚場を筋違に毘沙門前へ出た。 家の前には車が一台下りてゐた。玄関には靴が揃へてあつた。代助は門野の注意を待たないで、平岡の来てゐる事を悟つた。汗を拭いて、着物を洗ひ立ての浴衣に改めて、座敷へ出た。 |
毘沙門 毘沙門天。仏法を守護する天部の神。四天王の一人。
『坊っちゃん』
学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。 君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪るいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣った事がある。それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜しいと云ったら、赤シャツは顋を前の方へ突き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極まってる。釣や猟をしなくっちゃ活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢な話だ。 |
『野分』
百円を懐にして室のなかを二度三度廻る。気分も爽かに胸も涼しい。たちまち思い切ったように帽を取って師走の市に飛び出した。黄昏の神楽坂を上ると、もう五時に近い。気の早い店では、はや瓦斯を点じている。 毘沙門の提灯は年内に張りかえぬつもりか、色が褪めて暗いなかで揺れている。門前の屋台で職人が手拭を半襷にとって、しきりに寿司を握っている。露店の三馬は光るほどに色が寒い。黒足袋を往来へ並べて、頬被りに懐手をしたのがある。あれでも足袋は売れるかしらん。今川焼は一銭に三つで婆さんの自製にかかる。六銭五厘の万年筆は安過ぎると思う。 |
『僕の昔』
落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。 |
芸妓と料亭
神楽坂の花柳界は幕末の安政4年(1857)行元寺の横丁を入ったあたりに神楽坂花街(牛込花街)として出現しました。しかし、本格的に発展したのは明治になってからです。11年後の明治元年(1868)、以降は町人の街となり商業の発展とともに花街も発展していきます。
しかし、明治の花街はいばらの道でありまして、最初は4流の場所でした。
夏目漱石の『硝子戸の中』(大正4年)ではこう書いています。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」 「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」 私は肴町を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋の角の細い小路の入口に、ごたごた掲げられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定して見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。 「なるほどそう云えば誰が袖なんて看板が通りから見えるようだね」 「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家ってね。ちょうどそら高田の旦那の真向でしたろう、東家の御神灯のぶら下がっていたのは」 |
この東家は寺内の吾妻家のことで、『ここは牛込、神楽坂』でここだと書いています。
さて西村和夫氏の『雑学神楽坂』によると
日清戦争の始まる前はわずか7~8軒だった待合は戦争の終わる頃には(わずか2年で)15~16軒と倍近くにまで増加した。さらに明治37、8年の日清戦争の景気は神楽坂の待合の数を一挙に50軒に増やし、芸者の数も増えていった。 |
大正12年の関東大震災は幸いに神楽坂は火災を免れ、さらに賑わいを増しました。
昭和初期は神楽坂の検番は旧検と新検との2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒であり、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。もっとも発展した時期です。
第2次世界戦争が始まり、昭和30年3月の『新宿区史』では
当然の事乍ら昭和19年に料理店、待合、芸妓置屋、カフエー、バー等に営業停止令が出された。神楽坂、荒木町、十二社の芸妓は女子挺身隊として、軍事工場を重点として各種重要産業部門に向けられた。…4月に入って、13日・14日に160機のB29攻撃を受けて、四谷、牛込、淀橋の大部を焼失した。…5月25日に絨毯爆撃によって、四谷、牛込、淀橋地区の残存の大部を焼失した。そして、29日にはその残りを失ってしまった。 |
しかし、戦争後、朝鮮戦争で再び花街のブームに火がつきました。また、1952年(昭和27年)、神楽坂はん子『ゲイシャ・ワルツ』が大ヒット。(『ゲイシャ・ワルツ』は次の動画で聞くことが出来ます)
しかし、昭和33年、売春防止法以来、環境が急に変化していきます。
西村和夫氏の『雑学神楽坂』では
高度成長期、接待費がふんだんにある企業がお馴染みさんになって神楽坂の景気を導いた。だからバブルがはじけるとたちまちお馴染みさんとの関係は切れ客足は引いていった。 |
平成9年8月には料亭5軒と芸妓25名だけになりました。平成13年は料亭は4軒だけです。
各4軒について
「うを徳」は大正9年創業。25,000円(通常平均)、20,000円(宴会平均)、15,000円(ランチ平均)。
「千月」は昭和10年創業。コースは26,250円。
「牧」は21,000円、カウンターは10,500円。
「幸本」は昭和23年創業。10,500円。席料3,150円~(税込)(クレジットだと「一見さんお断りの料亭」でもOKです)。
四軒についてはhttp://www.kagurazaka-kumiai.net/ryotei.html
神楽坂の由来は?
この神楽坂の由来は区の標柱では
- 坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから(江戸名所図会、大日本地名辞書)
- 津久戸明神(築土明神)が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから(江戸名所図会、新編江戸志)
- 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから(江戸名所図会、江戸鹿子)
- この坂に赤城明神の神楽堂があったから(望海毎談)
がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。
江戸名所図会は次の通り。なお、割注は()で書いています。
同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしか号くとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975) |
望海毎談は、江戸時代中期に、江戸名所旧跡の伝説を描き、作者は不明。「燕石十種第3」5輯に出ています。以下は「望海毎談」です。
牛込行願寺 牛込通りの行願寺と云る天台宗は東叡山開闢よりはるか古よりの大寺にて今の牛込御堀端より西手は酒井空印の御屋敷邊まで此寺の境内なり神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよしも赤城明神は行願寺の地守なり今の社地は元の宮所にあらず尤行願寺の持を退たり此寺東叡山の末寺にして香衣の院家の地なり今以て二千餘坪の地面にて借地せし人多し |
江戸志(別名、新編江戸志)を引用した御府内備考では……
市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸志 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志 |
ほかにも
- 市谷八幡の祭礼に、神輿は牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したから(江戸砂子)
- 軽子坂にあわせてかくら坂になった(新宿区教育委員会「新宿区文化財」)
- 穴八幡の旅所がここに来る以前から、祭礼のときはこの場所で神楽を行っていた。その後、穴八幡の旅所ができて、さらに神楽をおこなうので神楽坂と呼んだ(牛込町方書上)。あるいは
- 築土明神は揚場坂で御輿が重くなり、この地に供物を備え神楽を行い、揚場坂は神楽坂といった(牛込町方書上)
- 猿楽練習説(神楽坂界隈20周年記念号、みずのまさを)
- 「かぐら」は高く聳えているものを見上げるときに命名する。断崖のこと。(班目文雄「神楽坂は神楽に非ず」『ここは牛込、神楽坂』)
- カミクラ坂(カミは神、クラは谷・崖)だったのが江戸弁でミがなくなった。
ここで御旅所とは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿を鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。
寛政1789年
文政1818年
ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、まあ、どれでもいいですね。
毘沙門横丁|路地
2本のうち、先が行き止まりの路地を「ひぐらし小路」(場所はここ)と名付けようと、『ここは牛込、神楽坂』は提案しています。理由は「なんか夏になると、ひぐらし蝉が鳴くような気がして」。
このまま道を辿っていくと道は左に曲がります。この正面はアフリカ料理(でした。転居。)現在は「西洋バル フルール フィオーレ」に変わりました。 右側にはマンションがあります。このマンションに以前の料亭松ケ枝がありました。この料亭の創業は明治38年。昭和50年代にこの料亭はなくなり、現在はこのマンションに変わっています。
左に曲がると、路地は「出羽様下」に変わります。
内務省地理局(上図、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「神楽坂付近の地名」45頁。1970年)では「出羽様下」と書いています。『ここは牛込、神楽坂』の竹田真砂子の「振り返れば明日が見える」では同じようなことを書いていますが、違う点もあり、松平出羽守は宮坂金物店(今のお香の店「椿屋」)の横丁を入った所に屋敷を構えて、この辺りを「出羽様」といったそうです。
松平出羽守は明治7年の「東京大小區分絵図」(1874年、下図。新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」298ページを参照)では本多家に並ぶ大きさがありました。
神楽坂|本多横丁の有名な店
江戸中期から明治初期まで、この通りの東側すべては本多家の邸地でした。旗本から最後は大名になり、藩知事になったのですが、廃藩置県にともなって免職となりました。一時「本多横丁」は「すずらん通り」となりますが、昭和50年ごろには元に戻っています。また「すり横丁」ともいわれました。作る料理人のほうが金をなくすというのです。
では、まずなくなった店…というのもおかしいのですが、「旧見(旧検)」がありました。「旧検番」の略で、民政党の一派が作る検番です。「新検」とライバル関係にありました。この芸者新道と本多横丁があう南側、今は「ほてや」の場所にありました。
呉服屋「ほてや」の開業は大正初期。いまのところにかわるまで、いろいろ変わってきたようです。最初は本多横丁、戦前は三菱銀行の隣、戦後は坂の交差点角の階段を上がったところ、しかし花柳界の反対があり、最後はここです。
次は「たつみや」です。昭和23年開業。うなぎ屋。ジョン・レノンとオノ・ヨーコも来たそうです。常盤新平が直木賞をとった場所もここ。
さらに進むと、美容院「ラ・パレット」の創業は大正11年。一時本多横丁には髪結いが4軒もあり、「髪結い横丁」とも呼ばれたそうです。創業者は中井よし氏。もともとは日本髪の職人でした。
「鳥せづ」は女将さんがやっています。道路側の神楽坂で80年続く鶏肉店鳥静商店の三代目です。鳥せづは2000年ごろからやっています。
さらに料亭「牧」は現在ここには4軒しかない料亭です。
以下はMATU(669)さんの「食べログ」の要約です。
神楽坂の芸妓渡辺和子さんが一代で築き上げた名料亭で、「牧」はいまだに一見さんお断りの店ですが、料亭の隣に割烹が近年併設し、こちらの店は初回でも予約が可能です。コースは一人12000円以上。カウンター割烹をクリアーすれば次はいよいよ料亭で、女将さんに名刺を渡しておけば、お座敷の予約は多分可能です。芸者は一人呼ぶと5万円ぐらい。後日請求書が来るので、銀行振り込みに支払います。2人で食べてちょっと飲んで5万円ぐらい |
神楽坂の通りと坂に戻る場合
神楽坂|本多横丁 由来
本多横丁の由来になった旗本「本多家」のことです。まず標柱では
本多横丁 Honda-yokocho |
江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった。 |
国立国会図書館の御府内沿革図第11巻切絵図のコマ番号180では、「本多修理屋敷脇横丁」とあります。
ここは西側にも武家屋敷の並ぶ道でした。
昭和24年頃、商店会は「スズラン横丁」に変更しました。しかし、旧名の本多横丁の復活を望む声が多く、昭和27年頃、本多横丁商店会に変えています。実際、明治20年も同じ本多横丁でした。
竹田真砂子氏の『ここは牛込、神楽坂』第2号の「振り返れば明日が見える2…銀杏は見ている」ではこう書いています。
本多横丁の由来になっている旗本の本多家は、幕末になって、大名の列に加えられた。知行地は三河国西端藩、現在の愛知県碧南市である。 維新直後、本多家当主は藩知事になったが、廃藩置県にともなって免職となり、東京と改称した江戸に戻った。 |
ご母堂の智氷子刀自は、今年83才。本多家最後の当主を見覚えている。「お目にかかったのは、多分、昭和の初め頃」であったという。 本多の屋敷跡は、明治十五、六年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正十年十月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。 |
神楽坂の本多家は、本家筋からは分家のそのまた分家の家筋に当たります。本家筋では、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が知られていますが、系譜をさかのぼれば、藤原兼通(六代関白925~979)につながります。 名家藤原の末裔の姓が本多に変わっていく経緯にまでは手が届きませんでしたが、いつの頃か、三河国宝飯郡伊奈郷に移り住んだという記録があります。分家の六代目本多康俊(元和九年1623没)が伊奈城主だったのも興味のあるところです。この康俊の二男忠相(修理 美作守 八千石 天和二年 1682没)が分家からまた分かれ、神楽坂の本多家の初代となります。 本家も分家も代々城持大名ですが、分家の分家は上級旗本として幕府に仕えていくことになります。 初代忠相は、慶長10年(1605)七才の時に三河國西尾より江戸に下向し、将軍秀忠に拝謁を許されます。元和元年(1615)父に従い大阪夏の陣で功をあげ小姓番となり碧海郡(現碧南市)に知行干石を給わり、84才で没する時には、ハ干石の旗本になっています。 以下、少し系図を追ってみますと、初代忠相→二代忠将(修理 対馬守備前守 御書院番頭 九千石 元禄四年1691没)→三代忠能(修理 因幡守 定火消 大番頭 延享元年1744没)→四代忠敞(修理 播磨守 定火消 御書院番頭 延享2年1745没)→五代忠栄(左京 対馬守 定火消 百人組頭 大番頭 伏見奉行 安永5年1776没)→略→忠鵬(明治2年頃、三河國碧海郡西端藩 1万500石 子爵)…となります。 |
ウィキメディアでは
元治元年(1864年)、9000石を知行していた本多忠寛が、江戸警備の功績などから1万500石に石直しを許され、ここに本多氏は諸侯に列して西端藩が立藩した。慶応3年(1867年)5月20日、忠寛は病気を理由に隠居し、嫡男の本多忠鵬が後を継いだ。忠鵬は明治元年(1868年)、新政府に与して陣屋を兵営として貸し与えた。 翌年6月、農民兵を募集して様式訓練を行うなどの藩政改革を行ない始めた。同年6月23日、版籍奉還で忠鵬は藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で西端藩は廃藩となった。その後、西端県を経て額田県、そして愛知県に編入されたのである。 |
神楽坂の本多家は、禄高も役職も、最上級旗本だったことが判ります。ここで注目したいのは、三代忠能から定火消の役を代々引き継いでいることで、この本多家が神楽坂に居を移してきた理由と時期に、関係があるのではないかと思えます。 |
この定火消については籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の「新宿区 神楽坂・弁天町コース」にある程度載っています。
本多家の始祖は徳川四天王の筆頭本多平八郎忠勝(1548~1610)と伝えられ、分家六代目の本多康俊の次男忠相(1598~1682)が旗本の身分と千石の知行を安堵されて分家した。やがて八千石を拝領した忠和が神楽坂の本多家初代になるが、神楽坂に50間四万の広大な屋敷地を賜ったのは、元禄五(1692)年に三代目を襲封した忠能(1744年歿)が定火消の役務を任じた後と目されている。忠能は江戸城の西北部、つまり神楽坂方面の防火と警備を担当した |
神楽坂5丁目
毘沙門天から先の神楽坂5丁目は昔は武器、兵器庫があり、このあたりは「兵庫町」と呼ばれていました。徳川3代将軍家光の鷹狩りの帰途のたびごとに、町民は魚を献上し、家光は酒井讃岐守忠勝に命じ「肴町」と地名変更をさせました。このため明治、大正、戦争前は肴町でした。たとえば明治20年の地図では肴町です。「神楽坂5丁目」に変わったのは昭和26年です。理由は文京区の肴町と誤認されやすいことなどが上げられています。
「玄品ふぐ神楽坂の関」の所にかつては「田原屋」が開いていました。「五十鈴」は現在もあります。
さらに行くと、左に高くなる「藁店」です。かつては上に行く途中で寄席の牛込亭や映画の牛込館がありました。これを藁店横町ともいいますが、藁店のほうが普通です。
「相馬屋」は現役。その隣にかつては酒屋の「万長」と「紅谷」が店を出していました。河合陶器店もなくなりました。
旧万長の横は寺内と呼ぶ地域があります。昔は地内とも呼びました。その場所はここ。ここからすこし向こうに寺内公園があり、その場所は巨大な高層マンションがあります。明治40年(1907)まで、高層マンションではなく、行元寺という寺があり、その跡地を「寺内」「地内」と呼んでいました。
ほかに近江屋、山せみ、キッコ、美濃屋かアジアンタワン、くるみ、本の武田芳進堂、マルゲリータなど。
最後に現在「神楽坂上」の交差点は当然昔は「肴町」の交差点になっていました。交叉点の名前は横の交通は「大久保通り」、縦の交通は「神楽坂」か「早稲田通り」です。標高14mほど。
坂上の信号機を渡り、つまり大久保通りを渡ると、右側は神楽坂6丁目ですが、左側の数軒はまだ神楽坂5丁目です。戦前にはデンキヤホールもここにありました。
善国寺|毘沙門天
善國寺です。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。
この前に標柱があります。
神楽坂 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。 |
となっています。詳しくはここで
では中に入ると……
善國寺毘沙門天です。別名を多聞天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。
明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。
昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の仮本堂と毘沙門堂を再建します。昭和46年に新しい本堂と庫裡、書院などを建てていて、落慶式を行いました。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。
1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。
文化財についてはここに。4月頃、藤棚が開きます。
「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。 『続日本紀』には神の乗り物、神馬を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。
木柾を叩いて読経します。
「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。
中を読むと
往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。 このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。 皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。 |
小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は
神楽坂 令百由旬内無諸衰患 南無 開運・除厄 大毘沙門天守 受持法華名者福不可量 善国寺
と書いてあります。
さらにひめこばんについて、まとめてみました。
ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。
もう一つは境内のトイレのそばで
○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主
とかかれた慰霊塔の裏に
昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫
と書いてありました。
家畜慰霊碑は
東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部 |
と書いてあります。
本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。
またその奥、出世稲荷に小さな社があります。
また書院では隔月で落語をやっています。
「拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では
毘沙門前
通りをつっ切り境内へ入る一平。
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最後に下図は1993年の神楽坂。
神楽坂3丁目 熱海湯階段
いかにも私道に見えるほうに進みましょう。私たちの方角では左のほうで、見番横丁とは反対の方向です。この路地にはいっていきます。
下図について、矢印(手のアイコン)を叩くと地図は奥に進み、それ以外の場所をにぎって動かすと、360度回ります。
ととととと歩くと…
それで終わりです。この階段や路地は「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「フランスの坂」、「芸者小路」、「カラン坂」などと呼んでいます。
なぜ有名になったのか? やはりテレビ番組「拝啓、父上様」ではないでしょうか? それまではこの階段、まあ有名でも、ものすごく有名ではありませんでした。それが、階段を下りる「ナオミ」の持つ箱からりんごが何十個かこぼれて落ちて、主役の「田原一平」役の二宮和也はリンゴを何個も拾い上げて、 これで田原君は1目ぼれです。 なぜナオミはこの階段にいたの? りんごはどこで買ったの? りんごをどこにもっていくの? などとは聞かないこと。しかし、この階段、和可奈の兵庫横丁よりも沢山でてきます。
なお、2017年以前のいつかから、少し変わりました。テラスができたのです。
しかし、この階段が大好きな人もいます。たとえばパリジェンヌのドラ・トーザンです。『東京のプチ・パリですてきな街暮らし』の一節で
私は熱海湯のところから鳥茶屋別邸を横に見て上がっていく坂をフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。 |
当時「熱海湯」を上がった芸者はここを通って神楽坂に行ったといいます。この下に音声ガイドつきの「芸者小路」がありますが、行ったときは電話の相手は不通になっていました。なお、芸者はここで書いています。
もとに戻って神楽坂4丁目へ行く場合は
見番横丁に行く場合は
神楽坂の通りと坂をご覧ください
神楽坂|御旅所について
さらに神楽坂通りを上がりますが、左に細い路地があります。ここを入ってみます。かのテレビドラマ「拝啓、父上様」でリンゴが20個ぐらい転がった階段がここにあるのです。
しかし、そこに行く前に……
最初は「高田穴八幡御旅所」について。下の絵では四角で囲んだ場所が3つあり、上は「毘沙門堂」、右は「こんぴら」、左下は「高田八まん御旅所」です。また、この画讃には『月毎の寅の日には参詣夥しく植木等の諸商人市をなして賑へり』と書かれています。
御旅所とは神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩や宿泊する場所です。
この「高田八まん御旅所」は、安政4年改「市ヶ谷牛込絵図」(1857年)では「穴八幡旅所」ときちんと書いてあります。西早稲田にある穴八幡宮からの神輿がこの御旅所にやって来て、神輿はよく奏し、これが神楽坂の名前になったという説があります。
この御旅所の場所はヤマダヤや丸岡陶苑などがある場所でした。
ちなみに1860年、御旅所はもうなくなっています。下に青色の代地の隣にあったはずです。いったいどうしたのでしょうか。不思議です。
しかし、「不思議です」と書いていながら、明治6年には御旅所はまだありました。小栗横丁を向いて、現在は「神楽坂かつのとうふ」などがあります。
神楽坂 長~い3丁目
昔は神楽坂は坂ではなく、階段でしたが、明治初期になくなりました。明治20年の神楽町三丁目はここ。
現在、3丁目は菱屋、龍公亭、助六、丸岡陶苑、ヤマダヤ、椿屋、五十番(五十番は2016年から4丁目になりました)などがあります。
2丁目から3丁目に入った場所で、神楽坂通りの上を向いて右側の歩道で、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。
また、昔の木村屋(今は上島珈琲店)、二葉、神楽坂演芸場があったところです。
神楽坂通りで丸岡陶苑のあたりが最大の高さです。これから神楽坂上に行っても下がることになります。三沢浩氏の『神楽坂まちの手帖』「神楽坂、坂と路地の変化40年④」によれば
外堀通りの角、元「アカイ」前の道端を0mとすると、坂上の「丸岡陶苑」と向かいの「ナカノ洋裁」が12m230の最高所。毘沙門天から大久保通りへ向こうに連れて6m余りも下がる。 |
と書かれています。
明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では
最高点から神楽坂下を見たところは…
最高点から神楽坂上を見たところは…
左にはいると見番横丁です。
すこし先に行くとまた左側に行く三叉路があります。ここを左側に曲がって、10mぐらい歩くと左手に駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。これは寄席の1つで、柳家金語楼などが有名でした。
では三叉路に戻りましょう。すこし上に歩くと、右側に「本多横丁」が顔を出してきました。ここを超えると神楽坂通りの4丁目です。ちなみに神楽坂通りの左側は3丁目から直接5丁目になってしまいます。4丁目は一番歴史も雰囲気もいっぱいある、そんな土地です。
本多横丁です。
なお、5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間には「毘沙門横丁」と呼ぶ小さな路地が出てきます。このあたりは芸妓が沢山いた場所です。
北原白秋|物理学校裏
石川啄木はこう書いています。
明治41年10年29日 啄木の日記から。 北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。 |
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家で、新詩社脱退事件の1人でした。
この「物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える」については、北原白秋氏は詩集『東京景物詩及其他』の「物理学校裏」でこう描いています。
物理学校裏Borum. Bromun. Calcium. |
Borumの1行 ラテン語で金属元素のホウ素。次は正しくはbromumで臭素。カルシウム。
Chromiumの1行 クロム、マンガン、カリウム、リン
Bariumの1行 バリウム、ヨード、プラチナ、水素
Sulphurの1行 硫黄、 塩素、ストロンチウム
日が暮れた、淡い銀と紫—— C2H2O2N2+NaOH=CH4+Na2CO3……… |
棕梠 シュロ。普通のヤシのこと。写真は…
花穂 かすい。穂のような形で咲く花のこと。ススキ、エノコログサ、ケイトウなど
聚団 しゅうだん。聚は「しゅう」か「じゅう」で、「多くのものを一所に集める」
黄 九州で「黄色」のことを「きな」と呼びます。黄粉もそう。
沃土ホルム ヨードホルム。殺菌剤などに使う。
亢奮 興奮/昂奮/亢奮は物事に感じて気持ちが高ぶること。 刺激によって神経の働きが活発になること
C2H2O2N2・ 正しくはCH3COONa(酢酸ナトリウム) +NaOH(水酸化ナトリウム)→CH4(メタン)+Na2CO3(炭酸ナトリウム)
ムウド ムード
くもりガラス すりガラス
メタン 燃料用のガスになります
東京物理学校 現在の東京理科大学
Tîn ……tîn……tîn. n. n. n……tîn.n …… 静かな悩ましい晩! |
Tînの1行 琴の音でしょうか
コルタア コールタール。トタン屋根の塗料として使う
Lamp ランプ
胡瓜と茄子 キュウリとナス
汽笛が鳴る……四谷を出た汽車のCadenceが近づく………… 暮れ悩む官能の棕梠 そのわかわかしい花穂の臭が暗みながら噎ぶ、 歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。 |
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な………… そこここの明るい角窻のなかから。 Sin……, Cosin…….Tan……,Cotan…….Sec……,Cosec……. etc …… Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton. Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花 摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc………… 棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、 無意味な琴の音の稚なびた Sentiment は 何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。 汽笛が鳴る……濠端の淡い銀と紫との空に 停車つた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。 静かな三分間。 |
角窓 カクマド。四角形の窓
sinの一行 サイン、コサイン、タンジェント、コタンジェント、セカント、コセカントで三角関数です
ionの一行 イオン、発電機、レントゲン、ボイル、ニュートン
lensの一行 レンズ、サイホン、スペクトル、テスラ(磁束密度の単位)
Bunsenの一行 ブンゼン、電位、アルキメデス
Sentiment センチメント。情緒,情操
せうことなし しょうことなし。すべき手段がない。しかたない
悩ましい棕梠の花の官能に、今、 Neon. Flourum. Magnesium. |
メランコリイ メランコリー。落ち込んだ気分
Passion パッション。情念, 感情, 激情, 熱情
Neonの一行 ネオン、ラテン語のfluorumが正しくフッ素、マグネシウム
Natriumの一行 ナトリウム、ケイ素、酸素
Nitrogeniumの一行 窒素、カドミウム、スチビウム
神楽坂1丁目 神楽坂下
神楽坂を神楽坂通りの向かい側から見ています。交差点は「神楽坂下」です。1980年代初頭までは「牛込見附」という名称の交差点でした。
南北(横)の道路は「外堀通り」です。 東西(縦)の道路は「神楽坂通り」、あるいは「早稲田通り」です。神楽坂下の標高は6m。ここを真っ直ぐに上がっていくのが「神楽坂」で、現在は「神楽坂1丁目」。かつては「神楽町一丁目」でした。
その前に左を見ると、スターバックスが見えます。(前にはパチンコ店でした)。さらに昔(江戸時代)のスターバックスは牛込「牡丹屋敷」でした。道路の右側に神楽坂の標柱があります。神楽坂のいわれを書いたものです。
神楽坂 | 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。 |
平成14年3月 新宿区教育委員会 |
これ以外にも諸説があります。
ほかには全部のお店を描いたものがあり、これはインターネットでもでています。http://kagurazaka.in/map/kagurazakamap2017.pdf
江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で
神楽坂1丁目 これは戦後の改称であって戦前は神楽町1丁目と称していた。現在では外濠の電車も取払われて,牛込橋を下って神楽坂を上る両側坂口が1丁目となっている。右端軽子坂より左は庾嶺坂まで1丁目である。江戸時代此の辺は片側町屋で、坂の右側は武家地であった。嘉永切図を見ても分る通り、右角松平祐之亟、その上近藤儀八郎、国領正太郎の屋敷があって、右へ曲って新小川町の通りとなる。軽子坂の上を新小川町へ下ると此処が三年坂又は三念坂という。だが1丁目は薄っぺらな町で三念坂の通りは今2丁目になっている。1丁目、坂の入口の左側の角には牡丹屋敷があった。そのあとに戦前は本所亀沢町で有名な最中を売っていた寿徳庵の支店があったが戦後はない。 |
石黒敬章氏が編集した『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)では
【牛込神楽坂】 |
平成14年(2002年)、電線はなくなりました。
神楽坂上を見て左側 昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
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陶仙亭中華 | 田口屋花屋 | |
東京堂洋品 | 炭火串焼やき龍 | 三経第22ビル |
須田町食堂 | 翁庵 そば | 會田ビル |
翁庵 そば | 清水貸衣裳 | モスバーガー 神楽坂下店 |
伊勢屋乾物 | ||
空き家 | エイブル 飯田橋店 | |
畔柳氷店 | ||
壽徳庵 | ニューパリー | スターバックス コーヒー |
神楽坂上を見て右側 昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
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紀の善寿司 | 紀の善甘味 | |
小間物 みどりや | 不二家洋菓子 | |
斎藤洋品店 | 地下鉄 | |
山田屋文具 | のレン | |
萩原傘店 | 薬ヒグチ | |
田中謄写堂 | カレーボナッ | |
赤井足袋店 | カフェベーカリー ル・レーブ | アパマンショップ |