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立ン坊

文学と神楽坂

 森銑三氏の「明治東京逸聞史2」(平凡社、昭和44年)が「日本社会大辞彙」の言葉として……

立ン坊 明治41年
「社会大辞彙」には、「立ン坊」などという項目までがある。
 その名の如く、路傍や坂の下などに立っていて、の後押しその他の稼ぎに、露命をつなぐ、まことにはかない連中であるが、その仲間も、ちゃんと団体組織になっているので、他の者が勝手に入込むのを許さない。九段坂下の立ン坊は、十人とその数が定められて居り、欠員が出来ると、主だった者の紹介に依って補充する。一人一日の稼ぎ高は、二十銭から八十銭くらいまでで、荷車の後押しなどは、一回が二銭三銭という相場である。立ン坊の十中の八九まで木賃宿に泊り込むのは上の部で、大抵は神社の境内などで夜を明かすのだという。
 明治の末の九段坂など、その勾配が、今よりは、ずっと急だった。それで荷車は之の字なりに引いて上るのだが、二三銭出して立ン坊を頼めば、それだけ楽に上ることが出来たのである。繩の帯をした連中が、坂下の家の軒下にのっそり立っている。あれは東京特有のものだった。

立ちんぼ(主に仕事を待って)立ち続けている者。戦前では空巣ねらい、制服巡査。明治から大正にかけて、坂の下に立って大八車だいはちぐるまや荷車が通れば押すのを手伝って駄賃を貰う職業。現在は売春する女性で、路上に立ち、直接交渉を行う。
 ここでは大八車や荷車、人力車

大八車 Google

露命をつなぐ ろめいをつなぐ。露のようなはかない命を、辛うじて保つことで、細々と暮らしていく
はかない 果無い、儚い。束の間であっけない。むなしく消えていく。頼りにならない。
九段坂下の立ン坊 東京市公演課の「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(大正12年)ではやや遠くに荷車を押している人々が見えます。これが「たちんぼう」でしょう。

東京市公演課の「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(大正12年)

木賃宿 江戸時代、木賃(たきぎの代金)を取り旅人に自炊させて泊めた宿屋。一般に、粗末な安宿。
之の字 ジグザグ(zigzag)。稲妻形。Z字状に直線が何度も折れ曲がっている様子

『新宿区立図書館資料室紀要 ― 神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)の「古老談話・あれこれ」で古老の赤井儀平氏は……

 俗に『立ちん棒』ってのがいましてね、坂を上る車のあと押しをする人達ですが、それが坂下にいつでも立っているんです。坂の下まできて『サァ行こうか……』なんていうと、うしろからあと押しをして坂の上まで手伝って行って、1銭か2銭もらうんです。大正までいましたね。当時の1銭か2銭でもまず今の100円以上でしょうネ。一般の人達は30円か40円位の月給ぢゃなかったんですかねえ。帰りにはそこいらで必ず一杯ひっかけて行くんです。最後まで残ったのはひとり者でしたが、夏のことで、あんまり暑いのでそこの堀で行水をしているうち溺れて死んでしまったんです。それっきりあと継ぎは出ませんでした。年は50才位の人でしたかね。いい加減頭も禿げていましたから。」

 新宿区役所編「新宿区史・史料編」(昭和31年)で佐久間徳太郎氏の「古老談話」では……

 其頃の車は荷車か人力車であったが、坂の下に「立ちん棒」というのが立つていて、頼まれて荷車の後を押した。「立ちん棒」というのはれつきとした商売で車が上つてくると「旦那押しましようか」と後押しをして登りつめると一錢か二錢頂戴する。此の商賣は日露戰争頃まで見られたという。又人力車で坂の下まで來た人は一旦降りて、車が坂を登り切るまで一緒に歩かねばならなかった。こういうのは東京で珍しく、九段坂はそうであつたが他には知らないという。
日露戦争 明治37年2月から明治38年9月まで朝鮮や満州の支配権をめぐるロシアとの戦争。

 木村荘八氏の「東京繁昌記」(演劇出版社、昭和33年)では……

九段坂には車のあと押しの「立ちんぼ」を配するなど、明治の人の風景描写は叙情細やかだった。

 松沢光雄氏の「神楽坂と神楽河岸」(地図協会、昭和43年)では……

 当時は飯田橋の上に「たちんぼう」がたくさんいた。失業者で臨時の労働をまっている連中である。これが神楽坂をあがる車のあとをおして、5厘か一銭をもらっていた。

 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では引っ張る人と押す人の2人が一緒になって人力車を上に押し上げています。

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年、『ここは牛込、神楽坂』第17号に抜粋)では……

 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋に股引、しるしばんてんという服装だった。八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

 野口冨士男氏の「私のなかの東京」(文藝春秋、昭和53年)では……

震災前の神楽坂には砂利が敷かれていて、傾斜ももっと急であったから、坂下には九段坂下ほどではなかったが、荷車の後押しをして零細な駄賃をもらう立ちん棒がいたことまでが思い出される。