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牛込の文士達➁|神垣とり子

文学と神楽坂


 与謝野鉄幹晶子の二人がお堀向こうの五番からきて夜店で買った植木を抱えて歩いているのを見た。宇野浩二も昔の「浪花腕なし芸者」の尼姿の年寄りをつれて歩いていた。菊池寛がだらしのないかっこうをして兵児帯がほどけて地べたにぶら下っていたので「帯がほどけていますよ」と注意された。翌年のお正月に芸者が出の着物丸帯猫ぢゃらしにしめた姿をみて菊池寛が「姐さん、帯がほどけていますよ」と注意して「いけ好かない野暮天」とどなりつけられたエピソードもこの頃のことだ。
 珍らしく銀座の御常連の豊島与志雄が若い弟子をつれて肴町の方へゆくので挨拶したら、北町手島医院へゆくという。手島医院は私もかかりつけなので先生に聞くと「甥が小説家になるというんですよ」といっていたが、それが中戸川吉二だった。

五番町 大正4年から大正12年の間、与謝野鉄幹・昌子氏は麹町区富士見町五丁目に住んでいました。おそらく五番町ではなく、五丁目が正しいと思います。

浪花 大阪市付近の古称。一般に、大阪のこと。さらに浪速区は大阪市中部の区名
腕なし 実行力や技量、腕力のない者。口先だけで実際には何もできない人
尼姿の年寄り 宇野浩二と関係がある死亡したきみ子は4歳年下、「ゆめ子」モデルの原とみは8歳年下でした。母でしょうか。
兵児帯 へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
出の着物 芸者さんの礼装である黒の「」(裾を引いた着物)。お正月、初めてお座敷へ出るときに着る。


秋田魁新報
時代を語る・浅利京子(16)「出の着物」彩る正月


丸帯 礼装用の女帯。丈は約4m。幅約68cmの広幅の帯地を二つ折りにして仕立てる。
猫ぢゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。
野暮天 きわめて野暮な人。
豊島与志雄 とよしまよしお。小説家、翻訳家。東京大学仏文科に入学。久米正雄、菊池寛、芥川龍之介らと第3次『新思潮』を創刊。心理小説を多く発表。35年東京大学講師、晩年まで教職に。生年は明治23年11月27日、没年は昭和30年6月18日。享年は満64歳。
手島医院 東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)によれば、確かにありました。当時は北町でしたが、現在はおそらく新宿区箪笥町44です。

手島医院。東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)


 肴町の鳥料理やに伊東六郎がよく見えた。伊東六郎は帝大生の時、西鶴の「好色一代女」「男色大鏡」を出してその筋の忌諱にふれて騒がれた男で、あとでキネマ旬報に関係したり、妻三郎を主演にして一立商会を起した猛者だった。プロデューサーの滝村和男も学生の頃は神楽坂党の一人だった。
 矢来消防署のそばのキリスト教会の牧師に村山鳥経という童話を話す男がいた。ほうぼうの少女雑誌の読者大会で、巌谷小波久留島武彦岸辺福雄の向うを張って人気があった。そして童謡を歌う可愛い女の子がいてそれが後のダン道子になった。その弟は映画の助監督になったが、色がとても黒いので「エチオピア」といわれていた。

伊東六郎 帝国大学中からチェーホフの翻訳や詩を発表する。自から高踏書房を経営。大正11年7月、松竹本社営業部の外国部長に入社。キネマ旬報の出資者。生年は明治21年7月18日。没年は不詳。
伊東英子 小説數篇の作がある。旧『処女地』同人。のち六郎とは離婚した。生年は明治23年1月15日
好色一代女 井原西鶴作。1686年刊。恋にやつれた若者2人が山中に庵を訪れ、庵主から懺悔話を聞く。没落貴族の娘は不義の恋で宮中を追われ、踊り子、国守の妾、島原の遊女、腰元、茶屋女、湯女などを経て夜鷹にまで落ちる。60歳過ぎに解脱し。庵を結ぶ話。
男色大鏡 なんしょくおおかがみ。井原西鶴作の浮世草子。8巻40章の短編小説集。前4巻は武家、後4巻は歌舞伎役者に関する男色説話。
忌諱 きい。忌み嫌うこと。おそれはばかること
キネマ旬報 映画雑誌。現存する日本の映画雑誌の中では最古。1919年7月に創刊。
妻三郎 阪東妻三郎。ばんどうつまさぶろう。映画俳優。歌舞伎界から1922年映画界に入り『鮮血の手型』 (1923) などでチャンバラ時代劇の大スターに。生年は明治34年12月14日。没年は昭和28年7月7日。享年は満51歳。
一立商会 配給会社のひとつ。東亜キネマから独立した立花良介が、独立して一立商会を設立した(足立巻一「大衆芸術の伏流」理論社、1967)。
滝村和男 東宝のプロデューサー。
消防署 明治44年、第三消防署矢来町出張所が矢来町一丁目にでき、昭和元年、牛込消防署に昇格。昭和2年、地番改正のため、108番になりました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」が建っています。

都市製図社『火災保険特殊地図』 1935年と1927年の消防署(牛込消防署『牛込消防署 70年のあゆみ』1996年)


村山鳥経 正しくは村山鳥逕(ちょうけい)。小説家、牧師。硯友社の藻社周辺作家としてデビュー。また角筈教会の牧師。生年は明治10年、没年は不明。
久留島武彦 くるしまたけひこ。児童文学者。関西学院神学部。明治39年、子どものお伽噺を中心とする団体「お伽倶楽部」を創設、日本最初の児童演劇「お伽芝居」を企画・演出。生年は明治7年6月19日、没年は昭和35年6月27日。
岸辺福雄 明治から昭和への幼児教育者。明治36年東京に東洋幼稚園を、のち岸辺幼稚園を創設。巌谷小波と久留島武彦と並んで、昔話や児童文学の作品を子供たちに話して聞かせる口演童話(story telling)の三羽烏と呼ばれた。
ダン道子 ダンミチコ。大正・昭和期の声楽家、童謡歌。山田耕筰に習い、村山道子の名前で童謡歌手として活躍。15年ピアニストのジェームズ・ダンと結婚し、ダン・道子と改名。ダン音楽教室室長。生年は明治37年9月16日、没年は平成2年3月7日。
 絵かきの鍋井克之は「ねずみ」の仇名のようにチョコマカしていた。矢来酒井伯爵お邸近くに女房子供と住んでいた。「生れ故郷の大阪を偲んで長女は澪子とつけたんや、澪つくしの澪や」 榎町お釈迦様のそばには硲伊之助がいた。鍋井克之とちがって紺がすりがよく似合った。
 ガランスをぬり奉れとよくいっていた村山槐多狂気してから母親が長唄の師匠をしていて、弟が信州の大町で「農民美術」の旗上げをした。白樺細エがおもで、朴訥というより田舎臭くて飾り物にはならなかった。妹の名が「有(あり)」というのでおかしかった。鍋井克之や永瀬義郎根岸興行部のお婿さんの高田保がてつだっていた。

鍋井克之 なべいかつゆき。大阪出身。東京美術学校卒。大正4年「秋の連山」で二科賞。ヨーロッパに留学。大正12年二科会会員。13年小出楢重らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。昭和22年、第二紀会の結成に加わる。昭和39年、浪速芸大教授。生年は明治21年8月18日。没年は昭和44年1月11日。享年は満80歳。
酒井伯爵 日本の華族。貴族院伯爵議員。旧小浜藩主、場所は酒井家矢来屋敷で。矢来町のほとんどを占めている。
お邸近く 住所は不明です。
澪つくし みおは河川や海で船が航行する水路。澪つくしは澪にくいを並べて立て、船が往来するときの目印にするもの。
お釈迦様 新宿区榎町57にある日蓮宗の一樹山宗柏寺。院号はない。寛永8年(1631)当地に創建。
硲伊之助 はざま いのすけ。洋画家。陶芸家。大正3年「女の習作」で二科賞。大正10年~昭和4年、フランスに留学。昭和8年から10年まで、再渡仏してマチスに師事。昭和11年、二科会を退会し、一水会を創立。戦後は日本美術会委員長。東京芸術大学助教授。晩年は陶芸に転じた。生年は明治28年11月14日。没年は昭和52年8月16日。享年は満81歳。
紺がすり 紺飛白。紺絣。紺地に白い絣模様のある織物。
ガランス 茜色。やや沈んだ赤色。     
村山槐多 むらやまかいた。画家。詩人。いとこの山本鼎の影響で画家を志し、日本美術院の研究所に行く。フォービスム風の作品を発表、異色作家として注目されるが、若くして結核で死亡。生年は明治29年9月15日、没年は大正8年2月20日。享年は満24歳。
狂気 結核だったという。Wikipediaでは「槐多は当時猛威を振るっていたスペイン風邪に罹って寝込んでしまう。2月19日夜9時頃、槐多はみぞれ混じりの嵐の中を外に飛び出し、日の改まった20日午前2時頃、畑で倒れているのを発見された。槐多は失恋した女性の名などしきりにうわごとを言っていたが、午前2時30分に息を引き取った。まだ22歳の若さであった」 内因性の精神病ではなく、外因性の精神異常でしょう。
農民美術 農民が制作した工芸・美術品。民具や陶磁器類など、素朴で郷土色に富み、生活に密接したもの。
白樺細エ 白樺の樹皮や根っこを使って細かい器物などを作ること。
永瀬義郎 大正-昭和時代の版画家。独学で版画をはじめ、文芸雑誌「聖盃」、のち「仮面」の表紙の木版画を制作。大正5年、日本版画倶楽部を創設、7年日本創作版画協会の結成に参加。生年は明治24年1月5日、没年は昭和53年3月8日。享年は満87歳。
根岸興行部 明治20年、茨城県出身の根岸浜吉が浅草に常盤座を建てた。「浅草オペラ」発祥の劇場である。大正12年の関東大震災で、根岸興行部も瓦解する。
高田保 劇作家,随筆家。 1917年、早稲田大学英文科卒業。1924年戯曲『天の岩戸』で認められて以来、劇作、脚色、演出などに活躍。戦後は「東京日日新聞」に随筆「ブラリひょうたん」を連載して好評を博した。生年は明治28年3月27日、没年は昭和27年2月20日。享年は満56歳歳。

 直木三十五三十三といった時冬夏社」で全集ものをやり出したが資金を使いはたして、債鬼に追われて大きな家にも帰れず「植木や」旅館の牛込支店にかくれていた。高台なので町を眺めるよい景色だった。お堀の向うに「番町の大銀杏」が夏になると北側に枝をのばして「お化け銀杏」といわれていた。
 肴町の上の消防署の近くの下宿に文士の卵がいて、その一人に富沢有為男がいた。うす紫のヘヤーネットを被ってキザな姿で、いろいろな切り紙をきざんで紙にはりつけて新しい画だといっていた。正岡容もいた。「鷲の巣」という同人雑誌をやっていた。有為男はそのうち海外へゆき「地中海」なんて小説をかき、「白い壁」も映画になった。
 坂を下りて揚場大溝を店の入口にして桝本酒店があり、そばに「葬儀や」がでかい看板をかけていたがそこが川路柳虹の細君の家だったらしい。
 竹久夢二もよくきたが何をしに来たかはよく知らない。岩野泡鳴が新しい女房の遠藤清子をつれてよく神楽坂を歩いていた。

三十三といった時 大正10年、ペンネームは直木三十一。大正12年には、直木三十二に変え、大正13年(1924)に直木三十三に変えています。
冬夏社 植村宗一(後の直木三十五)氏と鷲尾雨工氏は早稲田大学を卒業後、大正7年、冬夏社を創設しましたが、翌年、彼は手を離しています。
全集もの 「トルストイ全集」「ユーゴー全集」などです。
債鬼 さいき。相手の難儀や苦しみにおかまいなく貸した金をとりたてる人を鬼にたとえた語
資金 資金は春秋社が二万円。冬夏社は五万円。合併するつもりで名づけた名称だったし、十人たらずの株主も共通だった。
「植木や」旅館 東京旅館組合本部編「東京旅館下宿名簿」(大正11年)によれば植木屋は筑土八幡町24にありました。
富沢有為男 とみさわういお。小説家・画家。東京美術学校中退後、新愛知新聞の漫画記者となる。昭和2年、絵画を学ぶためフランスに一年間留学。佐藤春夫に師事し、昭和12年「地中海」で芥川賞受賞。生年は明治35年3月29日。没年は昭和45年1月15日。享年は満67歳。
正岡容 まさおかいるる。作家。演芸評論家。日本大学芸術科中退。 1924年『影絵は踊る』を発表。吉井勇に師事。落語や講談などの演芸にしたしみ、多くの研究書や台本をかいた。生年は明治37年12月20日。没年は昭和33年12月7日。享年は53歳
鷲の巣 大正14年(1925年)10月創刊。同人は佐々木弘之、小林理一、坪田譲二、井伏鱒二らが参加。一年足らずで廃刊
海外 フランスに一年間留学。絵画を学んだ。
地中海 昭和11年(1936年)8月号の『東陽』で発表。第4回の芥川賞受賞。フランスで起きた日本人同士の決闘。
白い壁 おそらく『白い壁画』が正しい。小説と映画化した『白い壁画』があります。
大溝 おそらく大下水。絵では青色。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

葬儀や 都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和12年)では、葬儀屋があるのかないのか、不明です。
川路柳虹 かわじりゅうこう。詩人。美術評論家。東京美術学校日本画科卒。『詩人』に発表した「塵溜」は、口語自由詩の先駆となる。生年は明治21年7月9日、没年は昭和34年4月17日。享年は満70歳。
遠藤清子 明治~大正時代の婦人運動家、小説家。英語教師、新聞記者などをつとめ、婦人参政権運動に参加。明治44年青鞜せいとう社に参加。大正2年、岩野泡鳴と結婚したが、大正6年、離婚。大正9年新婦人協会に加入。生年は明治15年2月11日、没年は大正9年12月18日。享年は満39歳。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑨

  文学と神楽坂

 以前には坂下が神楽町、中腹が宮比(みやび)、坂上が肴町で、電車通りから先は通寺町であったが、現在ではそれらの町名がすべて消滅して、坂下が神楽坂一丁目で大久保通りを越えた先の通寺町が神楽坂六丁目だから、のっぺらぼうな感じになってしまった。が、住民は坂下から大久保通りまでを「神楽坂通り=美観街」として、以前の通寺町では「神楽坂商栄会」という別の名称を採択している。排他性のあらわれかもしれないが、住民感覚からは当然の結果だろう。寺町通りにも戦前は夜店が出たが、神楽坂通りは肴町――電車通りまでという思い方が少年時代の私にもあった。『神楽坂通りの図』も、寺町通りにまでは及んでいない。

神楽町 下図で神楽町は赤色。
宮比町 下図で上宮比町は橙色。
肴町 下図で肴町はピンク。
電車通り 大久保通り。路面電車がある通りを電車通りと呼びました。
通寺町 下図で通寺町は黄色。なお青色は岩戸町です。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

神楽坂通り 現在は神楽坂1~5丁目は「神楽坂通り商店会」です。
神楽坂商栄会 現在は6丁目は「神楽坂商店街振興組合」です。
電車通りまで 本来の神楽坂は神楽坂一丁目から五丁目まで。

 寺町通りの右角は天台宗の🏠安養寺で、戦前から小さな寺院であったが、そこから軒なみにして七、八軒目だったろうか、右角に帽子屋のある路地奥に寄席の🏠牛込亭があった。私の聞き違いでなければ、藤枝静男から「あそこへ私の叔母が嫁に行っていましてね」と言われた記億がある。だから自分にも神楽坂はなつかしい土地なのだというような言葉がつづいたようにおぼえているが、広津和郎はその先の矢来町で生まれている。そのため『年月のあしおと』執筆に際して生家跡を踏査したとき、彼は《肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「🏠船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけ》て、《子供の時分から知っている店で、よくオヤツを買いに来た》ことを思い出しながら店へ入ると、《代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます》という店員の返事をきいて《大福を包んで貰》っているが、私も些少の興味をもって外から店内をのぞいてみたところ、現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。

軒なみ 家が軒を連ねて並び建っていること。家並み。並んでいる家の一軒一軒。家ごと。
セロファン セルロースを処理して得られる透明フィルム。

 矢田津世子『神楽坂』の主人公で、もと金貸の手代だった五十九歳の馬淵猪之助は通寺町に住んで、二十三歳の妾お初に袋町で小間物店をひらかせている。お初は金だけが目当てだし、自宅にいる女中の(たね)は病妻の後釜にすわることをねらっているので、猪之助は妻に死なれていとおしさを感じるといった構想のものだが、矢田はどの程度に神楽坂の地理を知っていたのか。猪之助は袋町へお初を訪ねるのに、寺町の家を出て≪肴町の電車通りを突っき》つたのち、《毘沙門の前を通》って《若宮町の横丁》へ入っていく。そのあたりもたしかに袋町だが、料亭のならんでいる毘沙門横丁神楽坂演芸場のあった通りの奥には戦前から現在に至るまで商店はない。袋町とするなら藁店をえらぶべきだったろうし、藁店なら寺町から行けば毘沙門さまより手前である。小説は人物さええがけていれば、それでいいものだが、『神楽坂』という表題で幾つかの地名も出てくる作品だけに、どうして現地を歩いてみなかったのかといぶかしまれる。好きな作家だっただけに、再読して落胆した

『神楽坂』 昭和5年、矢田津世子氏は新潮社の「文学時代」懸賞小説で『罠を跳び越える女』を書き、入選し、文壇にデビュー。昭和11年の「神楽坂」は第3回芥川賞候補作に。
小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの
寺町 神楽坂六丁目のこと
通り この横丁に三つ叉通りという言葉をつけた人もいます
袋町 袋町はここです。袋町商店はない藁店をえらぶ  商店はありませんが、花柳界がありました。商店がないが花柳界はある小説と、商店や藁店があるが花柳界はない小説。しかも表題は『神楽坂』。どちらを選ぶのか。あまり考えることもなく、前者の花柳界があるほうを私は選びます。

1990年、六丁目の地図1990年、六丁目の地図

安養寺 牛込亭 船橋屋 よしや せいせん舎 木村屋 朝日坂 有明家
 船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、🏠よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ訓導』などという映画――当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしぼった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違ってお涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズム顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。

紅涙 こうるい。女性の流す涙。美人の涙
新派悲劇 新派劇で演じる人情的、感傷的な悲劇。「婦系図」「不如帰」「金色夜叉」など
センチメンタリズム 感傷主義。感性を大切にする態度。物事に感じやすい傾向
顕現 けんげん。はっきりと姿を現す。はっきりとした形で現れる
享受 きょうじゅ。あるものを受け自分のものとすること。自分のものとして楽しむこと
チャップリン、ロイド、キートン サイレント映画で三大喜劇王。
ニコニコ大会 戦前から昭和30年代まで、短編喜劇映画の上映会は「ニコニコ大会」と呼ぶ慣習がありました。

 文明館――現在のよしやスーパーの先隣りには老舗のつくだ煮の🏠有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。
 そのすこし先の反対側――神楽坂下からいえば左側の左角にクリーニング屋の🏠せいせん舎、右角に食料品店の🏠木村屋がある。そのあいだを入った一帯は旧町名のままの横寺町で、奥へ行くといまでも寺院が多いが、入るとすぐはじまるゆるい勾配の登り坂は横関英一と石川悌二の著書では🏠朝日坂または旭坂でも、土地にふるくから住む人たちは五条坂とよんでいるらしい。紙の上の地図と実際の地面との相違の一例だろう。

木村屋 正しくは「神楽坂KIMURAYA」。『神楽坂まちの手帖』第2号で、「創業明治32年菓子の小売から始まり、昭和初期に屋号を「木村屋」に。昭和40年代に現在のスーパー形式となり、常時200種が並ぶワインの品揃えには定評がある」と書かれています。「スーパーKIMURAYA」の設立は昭和34年(1959年)。法政大学キャリアデザイン学部の「地域活動とキャリアデザイン-神楽坂で働く、生活する」の中でこう書かれていました。現在のリンクはなさそうです。

―キムラヤさんは、初めはパンとお菓子をやられていたんですね。
 それは、明治ですね、焼きたてのパンを売ってたからものすごく売れたんですね。スーパーじゃなくて、パン屋をやりながらお菓子を売っていました。お菓子のほうがメインだったんです。その頃、焼きたてのパンなんて珍しくてね、パンをやるんだから銀座のキムラヤさんと同じ名前でいいんじゃないかって「キムラヤ」ってなったわけで、銀座のキムラヤさんとは全く関係ありませんからね(笑)

竹久夢二|神楽坂

文学と神楽坂

筒井筒直言
 1905年(明治38年)6月18日(20歳)、夢二の最初の絵「勝利の悲哀」が「直言」(「平民新聞」の後継)に掲載されました。世に出た夢二の最初の作品のコマ絵です。白衣の骸骨と泣いている丸髷の女が寄り添う姿で、日露戦争の勝利の悲哀を描いています(左図)。 一方、「中学世界」増刊号には竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」が出ます(右図)。1905年10月(21歳)、竹久夢二は『神楽坂おとなの散歩マップ』によると、神楽坂3丁目6番地の上野方に住んだといいます。『竹久夢二 子供の世界』(龍星閣 1970)の『夢二とこども』で長田幹彦氏は

 “東京の街から櫟林の多い武蔵野の郊外にうつらうと云ふ、大塚の或淋しい町で”と、いうのは、当時、明治三十八年十一月号の『ハガキ文学』に、絵葉書図案が一等で当選して居り、その図版の傍に印刷されて″小石川区大塚仲町竹久夢二″というのがあるから、明治三十八年頃大塚にいたことのあるのはたしかである。掲載の前月の十月には、“神楽坂町三ノ六上野方ゆめ二”という手紙を出しており、翌々月の十二月の『ヘナブリ倶楽部』二号には“詩的エハガキ交換希望”として名前が出ているが、その住所は“東京淀橋柏木一二八竹久夢二”となっている。まことにめまぐるしい転々さである

 江戸時代、3丁目6番地はもともとは松平家の敷地で、大きさは他の敷地(1番地など)と比べて10倍以上もありました。しかし、翌月はもう場所が変わっています。実際に下宿はこれから何回も変えています。

 1907年(明治40年)1月(22歳)、竹久夢二はたまき(戸籍上は他満喜)24歳と結婚して「牛込区宮比(みやび)(ちょう)4に住んだ」と書いている本が多いようです。しかし、明治、大正時代には宮比町はありません。(今もありません。全くありません)。

 あるのは(かみ)宮比町と(しも)宮比町の2つです。台地上を上宮比町、台地下を下宮比町と呼んでいました。昭和26年、上宮比町は神楽坂4丁目になります。下宮比町は変わらず同じです。

 新宿区の『区内に在住した文学者たち』では「上宮比町であるか下宮比町であるかは不詳」と書いています。一方、けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』では「竹久夢二がたまきと結婚し下宮比町に住む」と書いています。三田英彬氏の 『〈評伝〉竹久夢二 時代に逆らった詩人画家』(芸術新聞社、2000年)では

 二人は二ヶ月余り後に結婚する。夢二が彼女の兄夫婦を訪ね、結婚の申し込みをし、許しを得たのは明治四十年一月。牛込区宮比町4に住んだ。たまきによると「神楽坂の横丁下宮比町の金さん」という職工の家の2階の6畳を借りたのだ。

 実際に岸たまきも「夢二の想出」(『書窓』 昭和16年7月)でこう書いています。

 当時夢二は神楽坂の横町下宮比町の金さんという造弊の職工に通い居る息子のある頭の家でした。二階の六畳に一閑張の机が一つあるきりの室でした。

 では、上宮比町四はないのでしょうか。明治40年4月7日、夢二氏は「府下荏原郡 下目黒三六六 上司延貴様」に葉書をだして(二玄社『竹久夢二の絵手紙』2008年)

四月七日 さきほどは突然御じゃま いたし御馳走に相成候 奥様へもよろしく御伝へ 下され度候  上宮比町四   幽冥路

 と書いています。 神楽坂3丁目6番地と上宮比町四と下宮比町四については、下図を。結局、上宮比町がいいのか、下宮比町がいいのか、どちらもよさそうで、本人は上宮比町、妻は下宮比町と書いています。わからないと書くのがよさそうです。

 明治41年(1908)2月(23歳)、長男虹之助が生まれます。 明治42年5月(24歳)、たまきと戸籍上離婚。12月15日(25歳)には、「夢二画集」春の巻を出版。これがベストセラーになります。

 明治43年6月(25歳)、大逆事件関係者の検挙が続く中で、夢二は2日間、警察に拘束。警察から帰るとすぐに有り金を持って、九十九里方面に逃避します。 明治44年1月(26歳)、大逆事件で幸徳秋水らが処刑され、夢二はあちこち引越しをくりかえしています。そのころ自宅兼事務所兼仕事場として牛込東五軒町に住んだこともあります。竹久夢二自書の『砂がき』では

 その頃私は江戸川添の東五軒町の青いペンキ塗りの寫眞屋の跡を借りて住んでゐた。恰度前代未聞の事件のあつた年で、平民新聞へ思想的な繪をよせてゐたために、私でさへブラツク・リスト中の人物でよくスパイにつけられたものだつた。夢に出て來る「青い家」は、たしか東五軒町の家らしい。その家は恐らく今もあるだらう。夢の中の橋は、大曲の白鳥橋だと思はれる。

明治40年夢二がいた場所 一番上の赤い四角が東五軒町の一部です。江戸川添なので、川のそばにあったのでしょう。

 その下は下宮比町4です。

 その下で最小の長四角は上宮比町4です。

 最後の赤い多角形は神楽坂3丁目目6番地で、ここは巨大です。

初代・水谷八重子|芸術座

文学と神楽坂

 水谷八重子は、1905年8月、東京市牛込区神楽坂で時計商の松野豊蔵・とめの次女として生まれ、5歳のときに父親が死亡、母とともに名妓だった姉と義兄、編集者の水谷(みずたに)竹紫(ちくし)のもとに住みこんでいます。竹紫氏(本名は武)は島村抱月氏が芸術座をつくる際に中心的な役割を果たしていました。

水谷八重子 芸術座の園遊会

 1914年(大正3年、9歳)、芸術座に『内部』で出演、1916年(大正5年、11歳)には帝劇公演『アンナ・カレーニナ』で松井須磨子氏演じるアンナ役の息子役で出演しました。

 自書の『芸 ゆめ いのち』(1956年、白水社)では

芸術座の旗上げ公演は、この年の九月、有楽座で行われました。出し物はメーテルリンクの『内部』と『モンナ・ヴァンナ』がとりあげられることとなりました。そして、この『内部』が、意外にも私の舞台出演のキッカケとなりました。
『内部』は、舞台の正面に窓を飾りつけ、外の群衆の動きや表情で、部屋の中の出来ごとを見せるという酒落れた芝居でしたが、その群衆の子役をやらされたのです。
 もちろん、義兄がその話をもちかけてきました時は、「嫌よ」と、かぶりをふったのですが、いろいろなだめすかされ、とどのつまりは、黙って抱かれているだけでよいからということで、やっとうなずきました。もっとも、子供の泣き声をきくと、とたんに不機嫌になる義兄だけに、これまで殆んど口をきいたことのない仲でしたが、その義兄が笑顔をみせて私に話しかけるのが珍しくもあり、つい興味も手つだって、出ることを約束したようにも思われます。しかし、二、三度お稽古につれて行かれるうち、私にどうしてもセリフをいわせて、舞台の効果をだそうとしたらしく、初日の舞台があく前になって、「見えないから、どいてよ!」というセリフを大声で言うように申し渡されました。恥かしかったせいもありましょうが、子供心にも約束が違うといって、とうとう楽の日まで言わずじまいでした。相当の強情ッぱりでもあったようです。
 私の初舞台は、正式には大正五年九月、帝劇で『アンナ・カレニナ』のセルジーをやったことになっていますが、実際はこの『内部』でした。この芝居で、松井須磨子さんや沢田正二郎さんにお目にかかりましたが、お二人とも毎日、奪いあうようにして私の顔の拵えをして下さいました。また群衆の一人に秋田雨雀先生が出演なさっていたのを記憶しております。先生は『内部』の翻訳者で、文芸部に席をおいておられましたが、人手が足りないため、出演なされたそうです。みるからにお優しそうな、小柄な方でした。

有楽座 明治41年12月1日に開場し、大正12年9月1日の関東大震災で焼亡。日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。坪内逍遥らの文芸協会、小山内薫らの自由劇場、池田大伍らの無名会、島村抱月らの芸術座、上山草人らの近代劇協会ほか、新劇上演の拠点になったことなどで知られる。

 1970年の『私の履歴書』(日本経済新聞社)では

「内郎」のけいこ中、室内のベッドで、他の恐怖を待つ屋外に、村人が集まってくるシーンがある。群衆の一人に子供かほしい、との希望が出た。結局、近くで遊んでいた私がかり出された。もちろん台詞はない。かわいそうとあって、「見えないからどいてよ」のひとことを与えられたのを思い起こす。
 これが私の舞台へ出た最初である。が、初舞台は、二年後、芸術座の帝劇公演、トルストイ作「アンナ・カレーニナ」の子役セルジーということにしている。というのは、「内部」の場合、役の名とてなく、その場に居合わせてのを場だったのだか、セルジーは違う。脚色の松居松葉(のち松翁)先生が私の出演を祝って、母親アンナとかれんな子供との別離場面を、特に一景書きたしてくれたのであった。

 平成7年『ここは牛込、神楽坂』の第5号で、娘・水谷良重氏と聞き手・竹田真砂子氏は『神楽坂談話室。水谷良重』による座談会を載せています。

水谷 その抱月、須磨子一座の「アンナ・カレーニナ」のアンナの息子役のセルジーというのが(水谷八重子氏の)正式な初舞台だったようです。そのときは竹久夢二さんがお人形の絵を書いてくださって、それを手拭に染めて配ったとか。

 残念ながら竹久夢二氏の「お人形の絵」はどんなものなのか分かりません。そこで、氏の「人形の絵」を調べました。参考までにこんな絵があるそうです。

 1923年(大正12年、18歳)9月1日の関東大震災を迎えます。

 かれこれ一ト月もたったでしょうか。九月一日のお昼ころです。裏庭に近い墓地の蝉の声をきくともなくききいっていますと、だしぬけに、ガラガラと屋鳴りがおこりました。思わずおフトンを頭からかぶりましたが、屋鳴りはやまず、その上にこんどは上下にゆれて、まるで船の難破を思わせるように激しくなってきます。余りのこわさに「お母さーん」「アーちゃま!(姉の愛称)」と叫びましたが、実は大きな声も出ず、ハネおきて柱や障子づたいに台所から裏庭へとびだしました。病床に長く寝ていましたので起き上れなかったのですが、驚いて立ち上ったわけです。墓地のそばに寝間着のままで、ちぢこまっておりますところに、母と姉が「よく起き上がれたね」といいながら血の気のひいた姿で、家からとびだしてきました。二人ともおびえながらも、私をかばうようにして、成行をぼう然と見守っておりましたが、ここで過ごした数刻は、本当にこの世の最後の阿修羅場かと思われました。幸いに私の家は無事でしたが、私の寝床にはいつのまに落ちましたか、屋根を打ちぬいて、一抱えもある墓石が落ちていました。これには二度びっくりしてしまいました。こうした騒ぎのなかを、友田さんがご自分の小石川のお家が焼け落ちたのにもかまわず、私がどうしているだろうと、お見舞に来て下さいました。(『芸 ゆめ いのち』)

 数日後、牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。

 義兄が私をつれて、神楽坂中腹、牛込会館の屋上にあがったのはいつだったろうか。日数のたっていなかったことだけは確かである。神田、日本橋、下谷にかけて、見わたすかぎり、蕭条とした焼け野原、痛ましいながめに、胸が熱く締められた。感情の激しい義兄竹紫は「日本はどうなるだろう」と、ひとこともらしたあとで「八重子、しっかりしよう。この会館が残っているかぎり、芝居はやれるよ」と言った。その目に涙のにじんでいたことを忘れない。(『私の履歴書』)

『ここは牛込、神楽坂』第5号で水谷八重子氏の「神楽坂の思い出」では、編集者註として

 古老の話などによると水谷八重子さんは、もと通寺町35(現神楽坂6丁目)、駿河屋さん(昔は油屋でいまは模型の店)の横を入ったところとのことなので、横寺町は記憶違いでしょうか。

大正11年東京市牛込区

 大正11年の地図では通寺町35は赤の場所です。地図上では確かにここが通寺町35になるのですが、しかし「現神楽坂6丁目の駿河屋さん」は通寺町64(緑色)になります。通寺町35か、通寺町64か、どちらかが間違えています。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項によれば、氏の住所は大正6年頃~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年頃~15年頃は通寺町61(上図で青色)になっています。

 大正12年に関東大震災が起こっていますから、通寺町35ではなく、水谷竹紫氏は実際には通寺町61にいたのでしょう。現在も住所としては同じでです。「現神楽坂6丁目の駿河屋さんの横を入ったところ」が正しいと、住所も通寺町61が正しいのでしょう。

 それからは、義兄は文字通りに日夜奔走しまして、十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。出演者は花柳章太郎、小堀誠、石川新水、藤村秀夫さん等、新派の“新劇座”の方たちが中心で、そのなかに私も加えて頂きました。
 牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました。私は『ドモ又の死』と『夕顔の巻』の雛妓に出演いたしました。衣裳など何一つありませんので、私や義兄の着物はもちろん、神楽坂の芸者さんからもいろいろお借りして問にあわせました。
 楽屋で顔をつくりながら、ふと窓の外をながめますと、入口から遙か牛込見付まで延々と坂に行列をつくったお客さんが、たちつくしておられました。開場後、はみでたお客さんのなかには、「横浜から歩いてきたのだからみせてよ」と、入口で嘆願している方もあり、いまさら芝居とお客さんの結びつきの深さを感じさせられました。
 一方、この公演の成功で自信を得ました義兄は、私を中心に“芸術座”再興の肚をきめて、一路その準備をすすめて行きました。(『芸 ゆめ いのち』)

 ここでは「牛込見付」ですから神楽坂下に人が流れています。神楽坂上に流れたような日もありました。下では「肴町」、これは「神楽坂上」に流れて行っています。

 牛込会館での初日を待ちかねて集まってきた観衆は、中腹から坂上の昆沙門様前を越し、肴町の電車通り近くまで列を作った。会場は、高級寄席のような建物だったので、収容人員も、すしづめにしで、五百人も入れたらギリギリだったろう。(『私の履歴書』)

 1924年(大正13年)、義兄の水谷竹紫が第二次芸術座を創立し、その中心メンバーとして活躍します。


「ゴンドラの唄」と芸術座|神楽坂

文学と神楽坂

「ゴンドラの(うた)」は、1915年(大正4年)芸術座第5回帝劇公演に発表した流行(はやり)(うた)です。吉井勇作詞。中山晋平作曲。ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を劇にした『その前夜』の劇中歌です。大正4年に35回も松井須磨子が歌いました。

『万朝報』ではこの劇は「ひどく緊張した場面は少いが、併し全体を通じて、甘い柔かな恋の歌を聞いてゐるやうな、美しい夢を見てゐるやうな心持の好い感じはした」と書きます。

『ゴンドラの唄』の楽譜は翌16年(大正5年)セノオ音楽出版社から出ました。表紙は竹久夢二氏です。ゴンドラの唄。セノオ新小唄。大正5年(1916)

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(あか)(くちびる)()せぬ()に、
(あつ)血液(ちしほ)()えぬ()に、
明日(あす)月日(つきひ)のないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ()()りて()(ふね)に、
いざ()ゆる()(きみ)()に、
ここには(たれ)れも()ぬものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(なみ)にたゞよひ(なみ)()に、
(きみ)柔手(やはて)()(かた)に、
ここには人目(ひとめ)ないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)黒髪(くろかみ)(いろ)()せぬ()に、
(こころ)のほのほ()えぬ()に、
今日(けふ)はふたゝび()ぬものを。

 1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいでこの『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実はこれが有名なのはこのシーンのせいなのです。
 実際にはシナリオの最後で主人公が歌う歌は決まっていませんでした。脚本家の橋本忍氏の言ではこうなります。なお小國氏も脚本家です。これは橋本忍氏の『複眼の映像』(文藝春秋社、2006年)に書かれていました。

私と黒澤さんは、警官の台詞からカットバックで、夜の小公園に繋ぎ、ブランコに揺れながら歌う、渡辺勘治を書いていた。
    命短し、恋せよ乙女……
 だが私は、黒澤さんの1人言に似た呟きを、そのまま書いたのだから後の歌詞は全く見当もつかない。
「橋本よ、この歌の続きはなんだっけな?」
「知りませんよ、そんな。僕の生まれる前のラブソングでしよう」
 黒澤さんは英語の本を読んでいる小國さんに訊いた。
「小國よ。命短し、恋せよ乙女の後はなんだったっけ?」
「ええっと、なんだっけな、ええっと……ええっと、出そうで出ないよ」
 私は直ぐに帳場に電話をし、この旅館の女中さんで一番年とった人に来てほしい、一番年とっている人だと念を押した。
 暫くすると「御免ください」と声をかけ襖が開き、女中さんが1人入ってきた。小柄で年配の人だがそれほど老けた感じではない。
「私が一番年上ですけど、どんなご用件でごさいましょうか?」
 私は短兵急に訊いた。
「あんた、命短しって唄、知ってる?」
「あ、ゴンドラの唄ですね」
「ゴンドラってのか? その唄の文句だけど。あんた、覚えている」
「さぁ、どうでしょう。一番だけなら歌ってみれば……
「じゃ、ちょっと歌ってよ」
 女中さんは座敷の入口の畳に正座した。握り固めた拳を膝へ置き、少し息を整える。黒澤さんと小國さんが体を乗り出した。私も固唾を飲んで息をつめる。女中さんに低く控え目に歌い出した。声が細く透き通り、何かしみじみとした情感だった。
   命短し、恋せよ乙女
   赤い唇 あせぬまに
   熱き血潮の 冷えぬまに
   明日の月日は ないものを……
 その日は仕事を三時に打ち切り、早じまいにした。

 この作曲家の中山晋平氏は映画館で『生きる』を見ましたが、翌日、腹痛で倒れ、1952年12月30日、65歳、熱海国立病院で死亡しています。死因は膵臓炎でした。
 さて「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。

  • 売れっ子アナウンサーだった逸見政孝氏は自分でこの唄を歌ったと娘の逸見愛氏が『ゴンドラの詩』で書き、
  • 『はだしのゲン』で作者の中沢啓治氏の母はこの唄を愛唱し、
  • 森繁久彌氏は紅白歌合戦でこの唄を歌い、
  • 『美少女戦士セーラームーンR』では「花のいのちは短いけれど いのち短し恋せよ乙女」と書き、
  • NHKは2002年に『恋セヨ乙女』という連続ドラマを作り、
  • コーラス、独唱、合唱でも出ました。

 まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。この本、1曲の唄がどうやって芝居、演劇、音楽、さらに社会全体を変えるのかを教えてくれます。ただし高くて3,360円もしますが。『甦る「ゴンドラの唄」』は図書館で借りることもできます。