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矢来町|江戸、明治、現在(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 矢来町の大部分は旧酒井若狭守の下屋敷でした。

 矢来(やらい)という言葉は、竹や丸太を組み、人が通れない程度に粗く作った柵のことです。正保元年(1644年)、江戸城本丸が火災になったときに、第3代江戸将軍の家光はこの下屋敷に逃げだし、御家人衆は抜き身の槍を持って昼夜警護したといいます。以来、酒井忠勝は垣を作らず、竹矢来を組んだままにしておきます。矢来は紫の紐、朱の房があり、やりを交差した名残りといわれました。

 江戸時代での酒井家矢来屋敷を示します。なお、酒井家屋敷の右上端から左上端(牛込天神町交差点)までを、俗に矢来下(やらいした)といっています。

矢来屋敷

 明治5年、早稲田通りの北部、つまり12番地から63番地までの先手組、持筒組屋敷などの士地と、1番地から11番地までの酒井家の下屋敷を合併し、牛込矢来町になりました。下図は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年。インターネットでは農研機構)。酒井累代墓なども細かく書いています。

五千分一東京図測量原図(農研機構)
https://www.arcgis.com/home/item.html?id=c864ac7332e1423f81b154bc56105c23

 明治18年ごろは下図。池があるので、かろうじて同じ場所だと分かります。何もない荒れた土地でした。なお、以下の地図は『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会、昭和57年)を使っています。

矢来町 明治

 明治28年頃(↓)になると、番号が出てきて、新興住宅らしくなっていきます。1番地は古くからの宅地(黄)、3番地は昔は畑地。7番地(水色)は長安寺の墓地だったところ。8、9番地(赤とピンク)は山林や竹藪、11番地は池でした。それが新しく宅地になります。

矢来町color

 3番地には(あざ)として旧殿、中の丸、山里の3つができます。旧殿は御殿の跡(右下の薄紫)、中の丸は中の丸御殿の跡(右上の濃紫)、山里は庭園の跡(左の青)でした。

矢来町の3個の字

矢来町の3個の字

 11番地は庭園で、ひたるがいけ(日下ヶ池)を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚などの由緒ある建物や、古跡などがありました。将軍家の御成も多かった名園でした。 矢来倶楽部は9番地(ピンク)にあり、明治二十五年頃に設立しました。

矢来倶楽部。東陽堂編『東京名所図会』第41編(1904、明治37年)

 最後に現代です。矢来町ハイツは日本興業銀行の寮からみずほ銀行社宅になっていきます。

矢来町 現在

 牛込中央通りを見た360°写真。上下左右を自由に動かすこともできます。正面が矢来ハイツ。

矢来町|文士罷り通る

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。これは「江戸の名残り」の「矢来町」。

文士罷り通る
 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。

矢来町 下図を参照

名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。
発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 下図を参照

学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治20年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、24年からほぼ10年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治36年3月、本郷区千駄木町へ居を構えた。
竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて18歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正2年のことであった。
矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮


矢来公園

文学と神楽坂

 矢来公園です。昭和44年に開園しました。

矢来公園全体像

 はいるとすぐに、リスの親子の像があり、その隣りに「小浜藩邸跡」と「杉田玄白生誕地」の記念碑があります。この碑は平成16年(2004年)、建立し、式典では酒井家19代目、玄白の6代目の子孫も出席しました。

杉田玄白の碑

 標柱には

小浜藩邸跡
杉田玄白生誕地
寄付者 小浜市 中島辰男
設置社 福井県 小浜市

 中島辰男氏は前福井県県立若狭歴史民俗資料館長です。


小浜藩邸跡
 若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が、寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられました。
 もと屋敷内には、小堀遠州作になる庭園があり、蘭学者として著名な杉田玄白先生もこの屋敷内で生まれました。

 公園には子供の遊ぶ「砂遊び」の場所も決まっています。犬や鶏の糞が入らないよう(これはいいのですが)小さな小さな小さな小さな砂場です。

砂場

 また、「雨水(うすい)貯留(ちょりゅう)浸透(しんとう)施設」もあります。

雨水貯留

枡