明治27年1月、26歳の尾崎紅葉氏は「読売新聞」で医師国家試験を取り上げます。今も昔も国試は大変。なお、「紫」は国立国会図書館デジタルコレクションから取ったものではなく、1994年、岩波書店の「紅葉全集」から取りました。(つまり漢字は新字体です)
1888年(明治21年)、卒業すれば無試験で医師になれる医学校は、官立医学校9校のみ(東京、千葉、仙台、岡山、金沢、長崎、京都、大阪、愛知)で、それ以外の私立医科大学や独学、漢方医の学生などは、卒業後に「医術開業試験」を受験し、合格して初めて医師免許を取得できました。1916年(大正5年)、この開業試験は廃止し、全員が医科大学に通った学生になります。
医術開業試験は年2回、全国9か所で行い、物理学、化学、解剖学、生理学の前期と、内科学、外科学、薬物学、眼科学、産科学、臨床実験の後期の試験が必要でした。
しかし『金色夜叉』だけしか知らなかった私にとって、笑いもユーモアも十分とれる紅葉氏は真に驚きでした。
(一) 夜半の嚔
「おや、まあ気味が悪いねえ、何だか人の唸る声がするよ。お隣だ、お隣の烟草屋様の二階だ。」 |
[現代語訳] (一) 夜半のくしゃみ 「おや、まあ気味が悪いねえ、何だか人間のうなる声がするよ。お隣りだ。お隣りのたばこ屋さんの二階だ。」 とつぶやきながら、こわごわ首をもたげて、寝床から聞き耳をたてた60歳位の婆さんがいた。しなびた横顔を、同じように威勢のない煤行燈の光が、暗いよりは明るく、枕頭にぼやっと照している。 この部屋は八畳ひと間の二階で、西と東に窓がある。西が連子格子の明窓で、鴨居一杯にある棚の上には、吸物膳が十人前、藍染めがついたなます皿、蒔絵の重箱などがある箱が五つ、六つと、菓子の古折、鶏卵の空箱、ブリキの缶、銘酒のびん、そのほか不用なものはどこにもないといって放りあげている。 |
嚔 くさめ。くしゃみ。
疑懼 ぎく。うたがって不安に思うこと。
擡げる もたげる。もちあげる。おこす。増す。
勢 せい。いきおい。力。
煤行燈 魚油などを使うとすすがでる照明具。
朦朧 もうろう。ぼんやりとかすんで、はっきり見えない様子。
間 部屋の数を数えるのに用いる。例えば、「六畳と四畳半の二間」など。
欞子 れんじ。連子。櫺子。窓や戸に木や竹の桟を縦か横に細い間隔ではめこんだ格子。
鴨居 引き戸や引き違い障子などの建具を開閉するため開口部の上方に取り付ける、溝の入った横木。
藍染 藍からとった青の色素で染め染めたもの。
鱠 なます。膾。魚・貝や野菜などを刻んで生のまま調味酢であえた料理。
鱠皿 なますなどを盛る器からこの名前がついた。
蒔絵 漆で文様を描き、金、銀、スズなどの粉末を固着させ磨いたもの。
禍も三年経てば 禍も三年置けば用に立つ。わざわいも時がたてば、幸いの糸口になることがある。禍も3年。不用なものはないというたとえ。
「其が、あなた、可笑いことがあるのでございますよ。昨夜ふつと眼を覚ましますとね、唸声が聞えるぢやありませんか。其がね、あなた、此方様のお二階なんですよ。」(以下、本文は長くなり、ここでは中略) 「唸つてをりましたか。」 と矢庭に打込む唯一句で、姨様の長話は胴切になる。これで拍子抜がして、後段はぐつと簡畧に、 「私も耳が何でございますけれども、どうも唸つてゐらつしやるとしか聞えないのでございますよ。」 「唸る理はございませんがねえ。」 と女房は少時考へて、 「唸つたのぢやございません。」 と思はず頓狂に大きな声をして、 「本を読むでゐたのです。」 「あの唸つてゐらしつたのが。」 「唸つてたのぢやございません、囗の内で本を読むでたのですよ。 「まあ余何せう? 私はまた大病人のお客様でもあつて、お二階に寐てゐらつしやるのかとばかり想ひましたよ。御勉強と御病人とは、大抵の相違ぢやございませんね。」 と果は大笑になる。 「実は昨日から二階に参つてをるので、拙夫の親類筋のものでございますの。もう久しく日本橋の山路といふお医者様の弟子になつてをるのでございますが、この四月には医者の試験があるものですから、それでまあ勉強しに当分お暇をもらひましてね。当節ぢや往時と違つて、何になるのも大抵ぢやございませんよ。」 今まで気の重さうに見えた内君も、段々と口軽になつて来る。「へえゝ。」 と姨様は感心した様なものゝ、その試験といふ事が根から解らぬので、早速例の責道具の一種の「何いふ理で」を担出す。 |
[現代語訳]「それが、あなた、おかしいことがあるのでございますよ。昨夜ふっと眼を覚ましますとね、うなり声が聞こえるじゃありませんか。それがね、あなた、こちらさまのお二階なんですよ。」(以下、本文は長くなり、ここでは中略) 「うなっておりましたか。」 とだしぬけに打ち込んだただ一句で、おばさんの長話は中途半端に終わる。これで拍子抜けがして、あとはぐっと手短かに、 「私も耳がなんでございますけれども、どうもうなっているとしか聞こえないのでございますよ。」 「うなるはずはございませんがねえ。」 と女房はしばらく考えて 「うなったのじゃございません。」 と思わず頓狂に大きな声をだして、 「本を読んでいたのです。」 「あのうなっていらしゃたのが。」 「うなってたのじゃございません、囗の内で本を読んでたのですよ。」 「まあどうしょう? 私はまた大病人のお客様でもあって、お二階に寝ていらしやるのかとばかり思いましたよ。御勉強と御病人とは、ふつうの違いではございませんね。」 と果てはお笑いになる。 「実は昨日から二階に留まっています。宿の親類筋のものでございますの。もう長く日本橋の山路というお医者様の弟子でございますが、この四月には医者の試験があるものですから、それでまあ勉強には当分の間お暇をもらいましてね。当節じゃ昔と違ちがつて、なにになるのも大抵じゃございませんよ。」 今まで気の重そうなとみえた内君も、段々と口は軽たっている。「へえ…」 とおばさんは感心した様なものだが、その試験ということが根っからわからぬので、さっそく例の責道具の一種の「どういうわけで」をかつぎだす。 |
矢庭に やにわに。その場ですぐ。たちどころに。いきなり。突然。だしぬけに。
胴切 どうぎり。胴の部分で横に切ること。輪切り。転じて「中途半端に終わること」
拍子抜け ひょうしぬけ。張り合いがなくなること。
頓狂 とんきょう。だしぬけに、その場にそぐわない調子はずれの言動をすること。
読む 当時の「読むで」は現在の「読んで」になります。
責道具 せめどうぐ。責め具。責具。拷問に用いる道具。
「その試験といふことでございますか。其は貴方かうでございますよ。何商売を始めるからつて、願ふのでございませう。ですから、お医者様を始るのでも、矢張政府から御免にならなければ可けないので、それには試験といつて、医者を為るだけの腕が有か無か、その掛の役人が力量を試して見た上で、これなら可といふことになつて、そこでまあ天下晴れて一人前のお医者様になれやうといふのですから、二階の人も今その試験の下稽古を精々としてゐるのでございますよ。」 「そりやまあお大抵ぢやございませんねえ。それぢや其試験とかいふことは、定めし難しいのでございませうねえ。」 と姨様はぐつと一つ首を撚つて、ふうと鼻の中で節を附けて唸る。是が所謂聞上手といふので、かう身を人れられると、話す方でも自と張合が出て来る。 「それは難しいの何のといつて、お話ぢやないさうですよ。その試験が又一度では済まないので、前……前何とかに、後何とかと、都合二度あつて、而して前の試験には三円、後の試験には五円納めるので、それが貴方首尾よく参ればねえ、試験も二度で、お金子も八円で済みますけれど、運が悪かつたり、勉強が足りなかつたりして御覧なさい、試験が好く参りますまい。」 「ふう、ふう、」 と姨様は益鼻を鳴らして乗出す。 「然すれば復た再試さなければなりませんわね。」 「こりやあ成程然でございませうね。」 「再試す日には、また勉強を為直した上に、またお金子を取られるのですから、愁いぢやありませんか。」 「なぜ又其度にお金子を取たものでせう。政府でもねえ貴方、そんなに取りたがらなくつても可ぢやございませんか。何かと云ふと税々ツて、徳川様時分にはとんと無かつたことで、これだけでも真個世が悪くなつたのが分りますよ。」 と昏濁した眼にも自から憂憤の色が見はれる。 |
[現代語訳]「その試験ということでございますか。それはあなた、こうでございますよ。商売を始めるからといって、願うのでございましょう。ですから、お医者様を始まるのでも、やつぱり御上から御免にならなければいけないので、それには試験といって、医者をするだけの腕があるかないか、その係の役人が力量を試してみた上で、これならいいということになって、そこでまあ天下晴れて一人前のお医者様になれるというのですから、二階の人も今その試験の下稽古をせっせとしているのでございますよ。」 「そりやまあ、大抵じゃございませんねえ。それじゃその試験とかいうことは、さだめし難かしいのでございませうねえ。」 とおばさんはぐっと首をひねって、ふうと鼻の中で節をつけて、うなる。これが所謂聞上手というので、こうやると、話す方でも自ずと張合が出て来る。 「それは難しいのなんのといって、お話じゃないそうですよ。その試験がまた一度ではすまないので、前……前なんとかに、後何なんとかと、都合二度あって、そうして前の試験には三円、後の試験には五円収めるので、それがあなた首尾よく参ればねえ、試験も二度で、お金も八円ですみますけれど、運が悪かったり、勉強が足なかったりして御覧なさい、試験がうまくいきません。」 「ふう、ふう、」 とおばさんはますます鼻を鳴らしてのりだす。 「そうすればまたやり直されなければなりませね。」 「こりやぁなるほどそうでございましょうね。」 「再試の日には、また勉強をした上に、またお金を取られるのですから、つらいじゃありませんか。」 「なぜまたそのたびにお金を取ったものでしょう。おかみでもねえ、あなた、そんなに取りたがらなくってもいいじゃございませんか。なにかというと税々って、徳川様時分にはとんとなかったことで、これだけでもほんに世が悪くなったのがわかりますよ。」 と、じょぼじょぼした眼にも自ずと憂憤の色が見える。 |
御免 免許・許可の尊敬語
下稽古 本番の前に、あらかじめ練習をしておくこと。
定めし 確信をもって推測する気持ちを表す。さぞ。おそらく。
真個 しんこ。本当に。真に。
憂憤 うれい、憤ること。