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牛込電話局(細工町)

文学と神楽坂

地元の方からです
 このブログに以下のような記事があります。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂06
 牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ……

電話局 正確に言うと、新宿区北町ではなく、細工町3-12にありました。新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』では大正12年にはまだなく、昭和4年になると、ここにあったようです。以来ずっとあって、現在はNTT牛込ビルです。

 文中の「牛込第一の大建築」が気になって調べてみました。
 明治中期に電話の普及が始まってからしばらくの間、神楽坂周辺の電話管轄は「番町電話局」(東京中央電話局番町九段分局)でした。
 東京区分職業土地便覧 牛込区之部(大正4年)で見ると
赤井儀平(神楽町1丁目、足袋店)番町2859
青木堂(通寺町、洋酒・食料品)番町275
升本喜兵衛(揚場町、酒類問屋)番町62
あまさけ屋(市谷田町、呉服商)番町125
といった具合です。電話を早く備えた方が若い番号と思われます。

 おそらく電話加入が増えたためでしょう。官報によれば、新たに「牛込分局」を開設し、電話交換業務を開始したのは大正12年(1923)1月28日でした。これ以降、神楽坂周辺の電話は「番◯◯◯」から「牛◯◯◯」に変わります。

 牛込電話局の設計者は、逓信関係で実績のある山田守です。

東京中央電話局牛込分局。
放物線アーチ屋根の階段室や半円アーチの屋根を持つ。山田の独自色を打ち出した最初の作例。外壁の付柱が屋上まで延長し、その天端は放物線形状をなして繰返している。

 4階建て(一部5階)は、なるほど目立つ建物だったでしょう。また独特の外観は、東京中央電信局(1925年完成)の先駆的作品とされます。
 山田守は後に、東京逓信病院(千代田区富士見)、東京厚生年金病院(新宿区津久戸町)を設計したことでも知られています。

 牛込電話局の開業から7カ月後の9月1日、関東大震災が発生します。震災では真新しい庁舎の外壁などに亀裂が生じました。

 しかし火災は免れ、第二次大戦の終戦後も使われました。

 電話局は地域の回線を収容する拠点なので移動は難しく、今もNTTの牛込ビルが建っています。

赤城神社(写真)神輿蔵 眺め ID 14133, 14159-60 昭和44年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133、ID 14159-60は昭和44年頃の赤城神社の写真を撮っています。ID 14133は神輿蔵を、ID 14159は赤城神社からの眺めを、ID 14160は赤城神社境内を撮っています。

(1)神輿蔵

あ 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133 赤城神社 神輿蔵

 神輿みこしぐらは下の地図で「おみこしソーコ」と書いてある所です。氏子が町会ごとに神輿や山車を保管しておく建物で、左側の2棟には赤城神社の社紋である左どもえ紋()と「水道町」や「細工町」の町名があります。石造りの立派なものも、木造の漆喰塗りらしき小ぶりなもの、木の扉や錆びた扉もあり、管理状態はまちまちです。
 ただ終戦直後の航空写真には何も映っていないので、いずれも戦後に再建されたものでしょう。これらの神輿蔵は、平成22年(2010年)の新社殿では本殿の下(人工地盤の下)に移設されました。
 冬に撮影らしく立木は葉が落ちて、幹には「こも巻き」をしています。

赤城神社 住宅地図 2000年

(2)赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14159 赤城神社からの眺め

 左に赤城神社北参道の門柱。右側のビルの塔屋には「はいばら」と書かれていて「榛原記録紙工場」でしょう。左端には崖下の店の「小料理」の看板が見えます。

住宅地図 昭和42年

(3)赤城神社境内
 石敷きの参道の左側から北参道の方向を写しています。境内では子供が何人か遊んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14160 赤城神社境内

 左から……

  1. 東宮殿下碑
  2. 北参道の鳥居と門柱
  3. しょうちゅう。大山巌碑。初代の陸軍大臣大山巌が揮毫
  4. 手前に裸電球のような境内灯。石の土台から長い旗竿。
  5. 赤城会館(結婚式場)
  6. 赤城神社の社殿(拝殿)
  7. 出世稲荷神社(摂社)の鳥居

1948年1月18日(昭23)赤城神社付近(地理院地図)