亡くなった母は、私が巣鴨へいってきたというと、お地蔵様をお参りしてきたか、と訊ねるのを忘れなかったが、また神楽坂へいったといえば、毘沙門さんへお詣りしたかい、と念を押したものだった。神楽坂生まれの毋は、「寅毘沙」の縁日の賑わいのなかで育ったわけだ。 神楽坂演芸場のあったのは、坂を登って、毘沙門天の少し手前、宮坂金物店の横丁を曲がった直ぐの処だったというが、ここで、月の晦日に、柳家金語楼の独演会が開かれていた。祖父の安永舎の代から出入りだった小石川・戸崎町の色刷り印刷屋さん、この内儀が大変な金語楼贔屓で、私のことを、一刻も早く金語楼にあずけろ、そうすれば、一生、左うちわで暮らせる、と口を酢にしていう。 「ナニ、師匠には、あたしから頼んだげます、って、石黒さンたら、演芸場へいくたンびに、真顔でいうンだから」と、母は憶い出しては笑った。 金語楼は、毎回、新作を三席発表し、むろん、私の方は、例の小原沢先生の時間のネタ採りで懸命だったはずだが、それらの噺は、一つも覚えていない。ただ「三原山」という外題で、「ほんとうに、どうして、こんなに沢山の人が三原山で死ぬンでしょうねえ」、「それがソレ、みんな、ミハラ出た錆です」というオチだけを記憶している。大島の三原山で投身自殺が流行したのだった。地元や警察の厳重な讐戒の目をかいくぐって、自殺者は跡を絶たず、大島通いの汽船会社が、片道切符を売らなくなったという話があった。自殺者の数は、男四〇八名、女一四〇名(昭和八年中)に及んだ、と記録されている。赤い椿に夢のせて、恋し懐かし三原山ァ――と、歌の声は甘かったけれど。 |
巣鴨 東京都豊島区の巣鴨駅を中心とする街。とげぬき地蔵で有名な高岩寺がある。
地蔵様 高岩寺は曹洞宗の寺院。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。一般にはとげぬき地蔵で有名。
毘沙門 善国寺は新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院。本尊は毘沙門天。開基は徳川家康。正式には善國寺。
寅毘沙 寅の日は毘沙門の縁日
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。
神楽坂演芸場 神楽坂下から来ると「椿屋」の直前から左手に曲がり、10メートルも行くと駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。寄席の1つで、柳家金語楼などが有名でした。
宮坂金物店 宮坂金物店は現在はお香と和雑貨の店「椿屋」です。
柳家金語楼 やなぎや きんごろう。喜劇俳優、落語家、発明家。生年は1901年2月28日。没年は1972年10月22日。エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人として有名でした。
左うちわ 右手で必死に仰ぐ必要はなく、左手でゆっくりとあおげはいい。これから転じて、優雅な楽な暮らしぶり。
口を酢に 口酸っぱく。くちずっぱく。同じ言葉をなん度も繰り返して念を入れて言うこと
小原沢 安田武氏の小学校の担任の先生。
外題 巻子・冊子の表紙に書く書名・巻名
ミハラ出た錆 正しくは「身から出た錆」。「三原山」がかけたもの。「身から出た錆」は、刀の錆は刀身から生じるところから、自分の犯した悪行の結果として自分自身が苦しむこと。自業自得
赤い椿… 大島のイメージを変えるために、1933年、 西條八十作詞、中山晋平作曲の「燃える御神火」が作られました。3番までありますが、版権を考えると1番だけしか載せられません。
1 赤き椿の 夢のせて ゆきて帰らぬ 黒潮や ほのぼの燃ゆる 御神火に 島の乙女の 唄悲し 恋しなつかし 三原山 山の煙よ いつまでも
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