神楽坂6丁目は神楽坂上から西に行き、矢来町になるまでの場所です。
江戸時代は「通寺町」と呼ばれていました。現在と比べると、神楽坂6-25などを中心とした小さな小さな町でした。下の地図では青色の四角が江戸時代の通寺町で、赤色で囲んだ多角形が明治時代の通寺町(昭和26年に名前が変わって神楽坂6丁目)でした。
江戸時代、各町の地誌『町方書上』(文政8~11年、1825~28)を見ると
當町之儀者往古、武州豊嶋郡野方領牛込村之内二有之候處、其後町屋二相成候、起立之義者書留等焼失仕、相分り不申候、町名之起り者牛込御門通、寺町二有之候間、町名通寺町与相唱申候 |
[現代語訳]この町は昔は武州豊島郡野方領の牛込村内にあったが、その後、町家になった。起立年は書き留めてあったが、焼失して、わからない。牛込見附を通る道(神楽坂通り)に面して、寺が多くて寺町になっていたため、通寺町と呼んだ。 |
明治時代、通寺町は拡大し、現在の神楽坂6丁目に相当するようになりました。東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…
牛込通寺町 牛込肴町の西に在り。牛込橋通の寺地なるを以て此稱あり。當時狭少の一市街なりしが、明治二年四月附近の寺地及安養寺、養善院.三光院、正蔵院の門前を併せ.五年七月又組屋敷其他士地を合せり。 |
肴町 現在、神楽坂5丁目。
寺地 てらち。寺の敷地。寺の土地。
組屋敷 江戸時代、与力組や同心組など組に属する下級武士が居住していた屋敷地。
安養寺、船橋屋、スーパーよしや、花豊、コボちゃんの像、キムラヤ、音楽之友社などは活動中。
昔の店舗としては、いろは、牛込亭、ヤマニバー、舛屋、蝋燭屋などがあげられます。新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」(64頁)では
通寺町1番地に牛肉の第十八いろは、通寺町75番地(明進軒の先)に料理屋求友亭など。さすが花柳堺が近いので料亭も多かった。まだこの外にも牛込勧工場、呉服の浜野屋、瓦せんべいの近江屋、茶の明治園、蒲鉾の山崎、菓子の小まつ、紙の小松屋、洋酒の青木堂、千とせ鮓、蒲焼の橋本、甘藷の児玉、しるこの松月、缶詰の越後屋、洋酒と煙草の青木堂、乾物の西川、洋傘の東条など目白押しに両側に並んでいたL、東裏通りには宮内省へ納めていた大阪鮨で有名な店があった。 |