前は大東京案内(1/7)です。
神楽坂の表玄関は、省線飯田橋駅。裏口に当るのが市電肴町停留場。飯田橋駅を、牛込見附口へ出て、真正面にそそり立つやうな急坂から坂上までの四五丁の間が所謂神楽坂の盛り場だが、もう少し詳しく云へば、神楽町、上宮比町、肴町、岩戸町と通寺町等々で構成され、この最も繁華な神楽坂本通りは神楽町、上宮比町、肴町の三町内。さうしてその中心は、音にも高い毘沙門さま。その御利益もあらたかに、毎月寅と午の日に立つ縁日は書き入れの賑ひ。 |
省線 現在のJR線。1920年から1949年までの間、当時の「鉄道」は政府の省、つまり鉄道省(か運輸通信省か運輸省)が運営していました。この『大東京案内』の発行も昭和4年(1929)で、「省線」と呼んでいました。
市電 市営電車の略称で、市街を走る路面電車のこと。
肴町停留場 市営電車の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」四つ角)で、大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
神楽町 現在の神楽坂1~3丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
上宮比町 現在の神楽坂4丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
肴町 現在の神楽坂5丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
岩戸町 大久保に向かい飯田橋からは離れる大久保通り沿いの町。神楽坂通りは通りません。以上は神楽町は赤、上宮比町は橙、肴町はピンク、通寺町は黄色、岩戸町は青色に書いています。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。昭和26年に現在の名前に変わりました。
プロパア proper。本来の。固有の。
善国寺 ぜんこくじ。善国寺は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の毘沙門天は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁の日。神仏の降誕・示現・誓願などの縁のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
書き入れ 帳簿の書き入れに忙しい時、商店などで売れ行きがよく、最も利益の上がる時。利益の多い時。
ショウウインドーの眩さ、小間物店、メリンス店、粋な三味線屋、下駄傘屋、それよりも煩いほどの喫茶店、甘いもの屋、レストラン、和洋支那の料理店、牛屋、おでんや、寿司屋等々、宵となれば更に露店の數々、近頃評判の古本屋、十銭のジャズ笛屋、安全カミソリ、シヤツモヽ引、それらの店の中で、十年一夜のやうなバナナの叩き売り、それらの元締なる男が、また名だゝる 若松屋近藤某。 |
小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの。
メリンス スペイン原産のメリノ種の羊毛で織った薄く柔らかい毛織物。同じ物をモスリン、muslin、唐縮緬とも。
牛屋 牛肉屋。牛鍋屋。
露店 ろてん。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
ジャズ笛屋 ジャズで吹く笛。トランペットなどでしょうか。
シヤツモヽ引 「シャツ・パンツ」の昔バージョン。
元締 もとじめ。仕事や集まった人の総括に当たる人。親分。
名だたる なだたる。名立たる。有名な。評判の高い。
若松家 「神楽坂アーカイブズチーム」編『まちの想い出をたどって』第4集(2011年)で岡崎公一氏が「神楽坂の夜店」を書き
神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私か振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家かあり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一冢)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた |
若松家はテキヤの1つだったのでしょう。なお、テキヤとは的屋と書き、盛り場・縁日など人出の多い所に店を出し商売する露天商人のことです。