二十年此方ない暑さだという恐しい暑がこの上もなく慶三を喜ばした理由は、お千代の裸躰と合せてお千代の住む妾宅の其の周圍の情景であつた。 神樂坂上の横町は、地盤全軆が坂になつてゐるので、妾宅の二階から外を見ると、大抵は待合か藝者家になつている貸家がだん/\に低く、箱でも重ねたように建込んでゐて、其の裏側を此方へ向けてゐる。夏にならない中は一向気が付かずにゐたので、此頃の暑さにいづこの家も窓と云はず、勝手の戸口と云はず、いさゝかでも風の這入りさうな處は皆明けられるだけ明け放つてあるので、夜になつて燈火がつくと、島田の影が障子にうつる位の事ではない。藝者が兩肌抜いで化粧してゐる處や、お客が騒いでゐる有樣までが、垣根や板塀を越し或は植込の間を透して圓見得に見通される。或晩慶三は或晩そよとの風さへない暑さに二階の電燈を消して表の緣側は勿論裏の下地窓をも明放ちお千代と蚊帳の中に寝てゐた時、隣の家――それは幾代といふ待合になつてゐる二階座敷の話聲が手に取るやうに聞えて來るのに、ふと耳を傾けた。兩方の家の狭間へ通ふ風が何とも云へないほど涼しいので隣の二階でも裏窓の障子を明け放つてゐるに違ひない。喃々として続く話声の中に突然、 「あなた、それぢや屹度よくつて。屹度買つて頂戴よ。約束したのよ。」 といふ女の聲が一際強くはつきり聞えて、それを快諾したらしい男の聲とつゞいて如何にも嬉しさうな二人の笑聲がした。お千代も先刻から聞くともなしに耳をすましてゐたと見え、突然慶三の横腹を輕く突いて、 「どうもおやすくないのね。」 「馬鹿にしてやがるなア。」 |
勝手 かって。台所。「勝手道具」
両肌を抜ぐ 衣の上半身全部を脱いで、両肌を現す
円見得 丸見え。見られたくないものなども全部見える
そよ (多く「と」を伴って)しずかに風の吹く音。物が触れあってたてるかすかな音。
縁側 和風住宅で、座敷の外部に面した側につける板敷きの部分。雨戸・ガラス戸などの内側に設けるものを縁側、外側に設けるものを濡れ縁という。
下地窓 したじまど。壁の一部を塗り残し、下地の木舞(壁の下地で、縦横に組んだ竹や細木)を見せた窓。茶室に多く用いられる。
狭間 ざま。はざま。すきま。せまいあいだ。ひま。
ひあはひ ひあわい。廂間。廂が両方から突き出ている場所。家と家との間の小路。
喃々と 「喃」はしゃべる音。小声でいつまでもしゃべっている
慶三はどんな藝者とお客だか見えるものなら見てやらうと、何心なく立上つて窓の外へ顔を出すと、鼻の先に隣の裏窓の目隠が突出てゐたが、此方は真暗向うには燈がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴が丁度二ツあいてゐるのがよく分つた。慶三はこれ屈強と、覗機關でも見るように片目を押當てたが、すると忽ち聲を立てる程にびつくりして慌忙てゝ口を蔽ひ、 「お千代/\大變だぜ。鳥渡來て見ろ。」 と四邊を憚る小声に、お千代も何事かと教えられた目隠の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。 隣の話聲は先刻からぱつたりと途絶えたまゝ今は人なき如く寂としてゐるのである。お千代は暫く覗いてゐたが次第に息使ひ急しく胸をはずませて來て、 「あなた。罪だからもう止しましようよ。」 と此の儘默つて隙見をするのはもう氣の毒で堪らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を凝して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに最一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角する中に慶三もお千代も何方からが手を出すとも知れず、二人は真暗な中に互に手と手をさぐり合ふかと思ふと、相方ともに狂氣のように猛烈な力で抱合つた。 かくの如く慶三はわが妾宅の内のみならず、周圍一帯の夏の夜のありさまから、絶えず今まで覺えた事のない刺戟を受けるのであつた。 |
何心なく 何の深い意図・配慮もない。なにげない。
目隠 布などで目をおおって見えないようにする事。おおうもの。
屈強 頑強で人に屈しない。
覗機関 のぞきからくり。のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物
隙見 透見。すきみ。物のすきまからのぞき見る。のぞきみ。
下記の相磯凌霜氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)では「夏すがた」の発売禁止について昭和31年にこう書いています。
「夏すがた」は大正三年八月に書下ろされたもので、翌四年一月籾山書店から発行されたが、直ちに発売禁止の憂目にあってしまった。猥雑淫卑な今の出版物に比べて、いったい何処がいけないのか、どうして発売禁止になったのか、今の読者は恐らく疑問を抱かれるであろう。当時、内務省警保局と言うお役所はややともすれば発売禁止と言う所謂伝家の宝刀を振りかぎして作家や出版社を震え上らせておった。従って出版社側でもお役所対策には万善を期し如何にしたら無難に検閲が済されるか、可なり苦心の存する所であったらしい。この「夏すがた」の時は、特に金曜日を選び警保局へ検閲の納本をするや電光石火、土曜日中に販売店に新刊「夏すがた」を配布して日曜一日で一千部近い冊数を売り尽してしまった。月曜日になると、果してお役所から風俗を紊すものとの極印が付いて発売配布を禁止する通達があったが、時既に遅く版元にはいくらの残本も無かった。いや怒ったのは警視庁で、即刻主人に出頭せよと厳しいお達しだ。警察官が押収に来た時「一冊もございません」では到底無事には済されまいと一同額を集めての大評定、とにかく警視庁へは当時その方面に顔のきく小山内薫氏を頼んで代りに行ってもらい、百方哀訴嘆願する一方眼にも止らぬ早業で四、五十冊を作り上げてしまった。幸い小山内氏の顔と幾度となく足を運んだお蔭で、どうやら大事に到らず作者も出版元もホットー息つくことが出来た。 |
淫卑 性的に乱れたさま。みだらな様子
紊す 乱す。秩序をなくする。
極印 金銀貨や器物などの品質を保証するために打つ印形
評定 ひょうじょう。評議して取捨、よしあしなどを決定する。相談する
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面。種々の方法。多く副詞的に用いる。
哀訴 あいそ。同情をひくように、強く嘆き訴えること。哀願。
嘆願 たんがん。事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。