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体内から針を出す女|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 18.体内から針を出す女」についてです。実はこの話は「袋町」で起こったものではなく「牛込袋町代地」 で起こって、現在の「千代田区外神田一丁目・神田花岡町」にあたります。

体内から針を出す女
      (袋町
 袋町で文政4年(1821)5月のこと、ささやかな商売をしている友次郎の14才になる妹むめが、急に体が痛み出し、乳の下や首すじから、縫針14本がとび出して大騒ぎとなった。
 むめは、前年に台東区小島町のある薬種屋に勤めていたことがあったが、その時わけもなくしばしば座敷に小便をもらすことがあった。また毎晩夜中に便所にいくと、イタチが出てきてふとんの下へはいり、小便をして汚したことがあったという。しかしこのごろは普段何の異状もなく暮していたのである。
 体内から針が出たということは、中国にもある話で、「史記」に出ている。
〔参考〕 武江年表
袋町 「武江年表」によれば、実はこの話は袋町ではなく、「袋町代地」でした。ここは現在の千代田区の一部です。牛込袋町は享保16年(1731)火事で類焼し火除地となり、幕府は代わって「袋町代地」として外神田一丁目・神田花岡町を与えました。
台東区小島町 現在は台東区小島一丁目と小島二丁目。台東区の南部です。北部の春日通り下に「新御徒町駅」があります。
薬種屋 生薬を調剤して漢方薬を販売する店舗
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。正編8巻は天正18年から嘉永元年までで嘉永3年(1850年)に出版。続編4巻は嘉永2年から明治6年までで明治15年(1882年)に出版。火事・地震などの天災や気象情報、町の存廃、著名人の死去、催事や流行り物、その他の時勢を網羅。随所に考証の跡をうかがうことができる。

 統合失調症などの病気があると、患者は隠した針をまるで魔術師のように「身体から」取り出していきます。手品以外では普通は統合失調症などを考えます。イタチも本当に毎晩出たのか、幻視ではなかったのか、不明です。
 なお、本当に身体の内部から針が出てくるのは針生検や穿刺細胞診などの針が折れる場合です。
 逆に「針の誤飲」は普通の症状で、この針や釘は小児に多く、40歳以上になると魚や鶏の骨が多いと言われています。
 では、「武江年表」の後追記録です。

 五月、筋違御門の外、牛込袋町代地友次郎が妹むめ、身内より針を出す(友二郎は家主金次郎が店をかりて、かすかなる暮しをなす者なり。むめはことし14歳になりけるが、身内痛みて、乳の下・膝、或襟の辺より縫針14本を出す。去年、下谷小島町なる薬種屋に逗留してありし時、かの家の座鋪、又は二階へ、何とも知れず度々小便にて濡したる跡あり。又、かの薬種屋、新右衛門町へ引移し時も、ともにかしこへ行。夜中寝たる時、そばいたちのかけ行、又は蒲団の下へ入、小便にて汚しける事、毎夜の事なりし。其外にはかはりし事を覚えずとぞいひける。こくにも、また古くかゝるためし有)
筋違御門 すじかいもん。現在の内神田と外神田と間の千代田区神田須田町1丁目。枡形は寛永13年(1636)に完成、門は寛永16年に完成。明治5年(1872)、撤去された。
座鋪 ざしき。座敷。畳を敷きつめた部屋、特に客間
 いたち。

 次に「武江年表」では史記(紀元前1世紀頃、中国前漢時代に司馬遷が編纂した歴史書)と稽神録(10世紀の短編小説集)から二人の症状が書かれています。Google翻訳を使ってみると、「史記」では、家の中でうめき声を聞き、老婦人が体の痛みと無数の暗黒の色を訴え、病気は深刻で、そこで豆湯を作ってあげると、痛みはかえって悪化、直ちに黒点から1寸の針を抜き、傷口に軟膏を塗ると3日後によくなり、この病気を針疸と名付けたという。「稽神録」では、額に瘤があり、医師が解剖し、黒い碁石を見つけ、巨大な斧で打ったが、傷には変化はなく、最後に、すねに瘤ができたが、これは犬​​が瘤を噛んだためで、その中に100本以上の針があり、これを使って、病気は治ったという。はい、この翻訳が正しいかどうかは不明で、症状所見も正しいかも不明、診断は全くもって不明です。

  史記曰、張嗣伯、嘗屋中呻吟、嗣伯曰、此病甚、及、見老姥体痛、而処々有ルヲ黯黒 無数、嗣伯、送、服訖痛勢愈甚、跳スル者無数、須臾ヨリ皆抜針長寸許ナルヲ、以瘡口、三日ニシテ而復スト云、此針疸也。
 稽神録云、処士蒯亮言、其所知額角患、医為、得タリ一黒石碁子、巨斧擊テドモ、終傷レ欠、復有足脛生スル瘤者、因至ルニ親家、為猘犬ヤマヒイヌ、正其瘤、其中為タリ針百余枚、皆可、疾亦愈

呻吟 しんぎん。苦しみうめく。
老姥 年老いた女。老婆。
 となえる。名づける。
黯黒 暗黒。くらやみ
 かえる。かえす。ひきかえす。もとへもどる。
 食べ物が十分ある。必要以上に、また期限をこえて、物がある。
 飲む。服用する。
 おわる。おえる。とまる。やむ。
須臾 しゅゆ。しばらくの間。わずかの間
寸許 すんきよ。少々。
瘡口 そうこう。傷口
稽神録 古今の小説伝奇類。作者は徐鉉で、10世紀の人
処士 民間にあって仕官しない人。在野の人。浪士。浪人。
額角 こめかみ
 切り開く。割る
碁子 碁石。
 かむ。
 かじる

 なお、この稽神録のエピソードには和訳がありました。再録します。

蒯亮
処士蒯亮が言うには、かれの知人が額に瘤を患ったので、医者が切ってやると、一つの黒い碁石が見つかった。巨斧で撃ったが、結局壊れなかった。さらに脛に瘤を生じたものがおり、親戚の家にゆき、猛犬に咬まれ、まさにその瘤を齧られたが、中から針百余本が見つかった。すべて用いられ、病も癒えた。(稽神録/補遺

漱石と『硝子戸の中』19

文学と神楽坂

十九

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、そのじつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、さびってかつさむしく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引しゅびきうちか朱引外か分らない辺鄙へんぴすみの方にあったに違ないのである。

馬場下 馬場下町で、東京都新宿区の町名です
宿場 江戸時代、街道の要所要所にあり、旅行者の宿泊・休息で宿屋・茶屋や、人馬の継ぎ立てをする設備をもった所。
高田の馬場 東京都新宿区の町名
朱引 江戸の図面に朱線を引いて、府内(江戸市内)と府外(郡部)を分けたもの。朱引内は江戸の管轄内、朱引外は管轄外です。馬場下はかろうじて朱引内(江戸市内)になっています(図)。一方、高田の馬場は朱引外です。

馬場下

それでも内蔵くらづくりうちが狭い町内に三四軒はあつたろう。坂をあがると、右側に見える近江屋伝兵衛おうみやでんべえという薬種屋やくしゅやなどはその一つであった。それから坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北おきたさんの長唄ながうたは何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私のうちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、佇立たたずんでいた事がある。その御蔭おかげで私はとうとう「旅のころも篠懸すずかけの」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
近江屋 『吾輩は猫である』第7章でも「近江屋」は登場します。『猫』に出てくる爺さんの言葉を引用すると…

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした」
御北さん 『草枕』では「御倉さん」として登場します。

小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

内蔵造 土蔵づくりの家。土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った家屋。倉のように四面を壁で作った家屋。
薬種屋 薬を調合・販売する店。平成21年施行の改正薬事法で登録販売者制度が創設し、薬種商制度は廃止に。
小倉屋 延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業。元禄7年(1694年)、二代目半右衛門の頃、堀部安兵衛は高田馬場の決闘の前に、小倉屋に立ち寄り升酒を飲みました。
渡辺翠氏の「高田馬場の仇討」では、江戸時代、米の酒は奈良でしか作られず、江戸では1升3万円かかったそうで(若松地域センター「地域誌 このまちに暮らして」平成9年)、芋酒を飲んだといいます。またこの升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
倉造り 土蔵づくりの家。内蔵造と同じ。
堀部安兵衛 赤穂事件四十七士のひとり。
枡酒 枡に盛って売る酒
長唄 古典的な三味線歌曲
篠懸 修験者(しゅげんじゃ)が衣服の上に着る麻の法衣。この文言は長唄「勧進帳」の歌い出しです。

このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋かじやも一軒あった。少し八幡坂はちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃもあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋とんやの仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際つきあいからいうと、まるで疎濶そかつであった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水ていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞ひとぎきに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ、、、だのがれん、、、だのという符徴ふちょうを、ののしるように呼び上げるうちに、しょうが茄子なすとう茄子のかごが、それらの節太ふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

八幡坂

棒屋 樫材の木工品を作る家。臼、まな板のみならず、大型水車や荷車も作りました。木工品ならなんでもつくったようです。
鍛冶屋 金属を打ち鍛え、諸種の器具をつくることを仕事とする人
八幡坂 高田町の坂。馬場下町から西北に向かいます。西に穴八幡神社があります。下は馬場下町と穴八幡幡神社を地下鉄早稲田駅前から見たものです。八幡坂
やっちゃ場 青物市場のこと。「大言海」(昭和7-10年)によれば「やっちゃば」は「やさいいちば」から訛ったものではないかという。
貞水 講釈師真龍斎貞水のこと
矢立 矢立(すずり)と筆を一つの容器におさめた筆記用具。
ろんじ 六の合い言葉
がれん 五の合い言葉

 どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐屋とうふやは無論あった。その豆腐屋には油のにおいんだ縄暖簾なわのれんがかかっていて門口かどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗きれいだった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺せいかんじという寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門のうしろは、深い竹藪たけやぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤おつとめかねは、今でも私の耳に残っている。ことにきりの多い秋から木枯こがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくてつめたい或物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。
豆腐屋 『二百十日』では圭さんの幼時の経験として出てきます。

「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋とうふやがあってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」(中略)
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆をうすく音がする。ざあざあと豆腐の水をえる音がする」
しょう 鉦中国・日本・東南アジアなどで用いられる打楽器。銅や銅合金製の平たい円盤状で、撞木しゅもくばちで打ちます。カンカンと鳴るようです。

ふたたび『二百十日』の圭さんの幼時の経験です。

「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪おおたけやぶばかり見えて、本堂も庫裏くりもないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんとかすかに敲くのさ。冬の朝なんぞ、しもが強く降って、布団ふとんのなかで世の中の寒さを一二寸の厚さにさえぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃いしだたみと、倒れかかった山門さんもんと、山門をうずめ尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかをのぞいた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具のうち海老えびのようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」

縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。転じて、居酒屋・一膳飯屋などのこと。
門口 家や門の出入り口
西閑寺 喜久井町にある誓閑寺のこと。今では小さな小さな寺になっています。誓閑寺の梵鐘は天和2年(1682)製作。区内最古の梵鐘です。文化財は2つあります。
御勤 おつとめ。御勤め。仏前で読経すること。勤行ごんぎよう

誓閑寺