街灯」タグアーカイブ

神楽坂1丁目(写真)美観街 平成2年 ID 95

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 95は、平成2年(1990年)10月19日位に神楽坂1丁目を撮ったものです。電柱はまだあり、無電柱化はまだです。

 街灯は1970年代のものから更新されています。左右にバーが突き出し、道路側はバーの上、歩道側はバーの下に6角形のランタン型の灯りがついています。
 その下にも左右にアーム(この用語は日本照明工業会規格によっています。訳すと横木でしょうか)があります。これは催事の時に告知や飾りを下げるものです。以前の街灯では、ススキや笹のような形状の飾り(神楽坂3丁目(写真)昭和54年 ID 87)を斜めに差し込むパイプがあり、季節ごとに街を彩っていましたが、これはなくなりました。
 この写真では左右のアームに「毘沙門天 おえしき」「十月十四日」と書いた提灯がぶら下がっています。おえしきは御会式と書き、日蓮宗の各寺で、日蓮の忌日(10月13日)に営まれる、宗祖報恩の法会です。さらに下のアームの「神楽坂」は常設の金属製のものでした。
 商店街の名前を示す大きな標識ポールも一新されています。向かって右が「神楽坂」左が「かぐら坂」とあり、「美観街」はなくなりました。

1990年 住宅地図。

「軽い心」の跡には複合商業施設の「カグラヒルズ」が建ちました。カグラヒルズの竣工は1982年です。看板が出ている丸和証券は1970年代には通りの向かい側にあったので(神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85、ID 86)こちらに移転したのでしょう。

神楽坂1丁目(平成2年)
  1. 電柱看板「 大久保
  2. 清水衣裳店
  1. 薬ヒグチ。ヘアケア。
  2. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店。CABIN たばこ。
  3. 地下鉄 飯田町駅
  4. 不二家。ペコちゃん。
  5. あんみつ 紀の善
  6. 床屋のサインポール
  7. 丸和証券。英会話(カグラヒルズ)

神楽坂6丁目(写真)昭和54年 ID 90, ID 11857-11858

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 90とID 11857、ID 11858は、昭和54年(1979年)1月に神楽坂6丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 90 神楽坂途上付近より坂下方向

 より鮮明な写真がID 11857として保管されていました。まるで印象が違いますが、同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11857 神楽坂上 音楽之友社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11858 神楽坂上 音楽之友社前

 車の向きから午後と分かりますが、人通りは少なく閉まっている店もあります。門松も見えるので、正月休みの間かも知れません。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、神楽坂1~5丁目と違って、蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあります。また「神楽坂 商栄会」の看板がついています。大久保通り西側の6丁目だけの商店会で、1~5丁目の神楽坂通り商店会とはライバル関係にあり、街灯も別々に整備しました。商栄会は昭和58年4月に、現在の「神楽坂商店街振興組合」に改組しました。
 この街灯とは別に、高い場所にナトリウム灯らしき別の街路灯があります。神楽坂1~5丁目の神楽坂通りが新宿区道なのに対し、6丁目の早稲田通りは都道です。恐らくは都が、商店会の街灯と別に整備したのでしょう。

2つの街灯

 電柱の上には柱上変圧器があります。
 ID 11858は、音楽之友社の向かいの「おもちゃのテルイ」をねらっています。店の前のガードレールに1対の細い棒を立て、注連縄で結んでいます。棒の足元には松飾り、店の入り口の上には正月飾りがあります。この時代、正月休みでも子ども相手に店を明けている玩具店は多かったといいます。
 向かって右のショーケース内にモデルガン、スロットカー、野球盤など。その前には女児向けの人形ハウス(キッチンなど)。左側には天井から大きな動物のぬいぐるみ、バスケットボール、樹脂製の刀(チャンバラ用)などが下がっています。店頭の歩道上にはトミー(現タカラトミー)の古いロゴマークのダンボール箱を出して、ラケットを売っています。その右、四角いケースが2つ並んでいるのはカプセル玩具(ガチャガチャ)の販売機で、空けたカプセルを足元のゴミ箱には捨てるようにしていたと思われます。
 店の左側には突き出し看板「ベビーバ(ギー) サービスショップ」があります。その下に数人の子どもが集まっているのは、何かの販売機かも知れません。

ロゴマーク 以前のトミーのロゴマークは……

めちゃくちゃエモいおもちゃ屋さん(群馬県)https://togetter.com/li/1597601

1980年。住宅地図。

神楽坂6丁目(昭和54年)
  1. 電柱。2枚重ねた貼り紙。上の紙には「〇生会 〇 10 21」、下の紙には「日本」と「生協連合会」など。10.21国際反戦デーでしょう。
  2. 音楽之友社。階段の上に門松が飾ってあります。
  3. (駐車禁止)(区間内)
  4. (塩谷医院の脇に)飲食店の立て看板。この路地の奥にID 91 チキータがあった可能性があります。
  5. 道路標識「自転車及び歩行者専用」
  6. 「趣味の御(道具)」(さぬき屋)
  7. エバーソフト(丸勝寝具店)
  8. (少し遠くの看板)「(折)井海(苔店)」
  1. おもちゃのテルイ。
  2. 街灯に「神楽坂 商栄会」の看板
  3. 「株式会社 天行社」「冠婚✺ 葵の」「葬儀・花環」 [コンサルタント  ムダなく葬いの式を行いま(す)」「衣裳」「教職員教職員組合葬(式) 葵の会 会員」「換金なしで〇 区〇葬〇 ABC」
  4. 看板「inokei」(テーラー伊那恵)
  5. かのこ美容室
  6. 電柱看板「土屋歯科」
  7. 白鷹 木村屋
  8. (協和銀の看板の下)ドライクリーニング(せいせん舎、朝日坂の角)
  9. (遠く)協和銀行

「気まぐれ本格派」32話 1977年。趣味の御道具(さぬき屋)

神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)

文学と神楽坂

 地元の方は次の情報を送って下さいました。なお【A】などの下線はたたくと元の写真が出ます。

 商店街にとって、街灯は集客のための基礎的なインフラです。神楽坂通りの街灯の歴史を写真を元に調べてみました。
【明治中期】
 新撰東京名所図会第41編(明治37年)に「神楽坂通り」と題した小さな写真【A】があります。明治30年代以前と思われます。不鮮明なのですが、中央の電柱から下がっているものが街灯かもしれません。右側の店(樽と「恵比●」の文字、さらに横看板に「BEER」が見えるので飲食店か)には軒灯を出しています。記事には「牛込区第一繁華の市街」とありますが坂道は砂利敷きで、夜の灯りも十分ではなかったでしょう。

【A】 新撰東京名所図会第41編(明治37年)神楽坂通り

 牛込神楽坂。明治35~39年頃の写真【B】には、外堀通り沿いの街灯が確認できます。市電の走る外堀通りの街灯は他の場所【C】でも確認できます。
 【B】を詳しく見ると神楽坂通りは【A】より電柱がかなり増えていて、高い電柱の間に低い柱があります。しかし街灯までは確認できません。

【B】牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

【C】新撰東京名所図会第43編(明治39年)市谷田町二丁目通

【大正期】「大正12年3月の神楽坂」の写真【D】には、明らかな街灯が写っています。角柱から丸い灯りが2つ突き出す形で、柱の上には擬宝珠のような飾りもあります。これが坂の両側に何本かある様子が見て取れます。なお、明治40年は間違いで、この写真は大正12年に撮られています。

【D】大正12年3月の神楽坂。野沢寛著「写真・東京の今昔」(昭和30年、再建社)

【大正-昭和初期】
 大正15年の3丁目の写真【E】の街灯は形状が変わり、傘をかぶった吊り下げ型の1灯になります。神楽坂が舗装された1925年(大正14年)に、同時に街灯を更新したのかも知れません。

【E】 大正15年 3丁目。毎日新聞社『法政大学(大学シリーズ)』(1971年)

 同時代の肴町(現5丁目)【F】 【G】や坂下の写真【H】にも同型の街灯が見えます。ただ良く見ると【E】の街灯の方が背が高く、明治期とよく似た擬宝珠があります。他の写真の街灯の頭頂部は四角いキャップです。

【F】大正時代の神楽坂通り。国友温太『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)

【G】 昭和5年の神楽坂通り。改造社『日本地理大系』(1929年)

【H】 神楽坂界隈。毎日新聞社「大学シリーズ法政大学」(昭和46年)

 昭和8年『大東京写真案内』の写真【J】も、【E】と同じ笠をかぶった街灯です。しかし、この写真の右、上宮比町(現・4丁目)側には街灯が確認できません。街灯は町会単位で整備されることが多いので、もしかしたらこの時期、上宮比町には街灯がなかったのかも知れません。

【J】 昭和8年 。博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)

【昭和10年代】
「東京市内商店街ニ関スル調査」の昭和10年の写真【K】になると街灯は一変します。高い丸柱が立ち、梁状の支えが横に突き出して高い位置にドングリ型の照明がつきます。梁の下部はアーチ状の飾りがあり、飾りの下にも電灯があるようです。

【K】東京商工会議所「東京市内商店街ニ関スル調査」(昭和11年)。写真は昭和10年12月19日

「牛込華街読本」昭和12年【L】も【K】と同じ街灯です。神楽坂通りの両側に交互に街灯が立っている様子が分かります。

【L】牛込三業会「牛込華街読本」昭和12年。

 おそらくこの街灯は、戦災で街が焼ける昭和20年まで使われました。

 以上、これまでは地元の人でした。まとめると、下図のように、おそらくA(明治37年)は個別の店の軒灯、B(明治35~39年)とC(明治39年)は東京市の街灯、D(大正12年)は商店会の街灯、E(大正15年)、F(大正時代)、G(昭和5年)、J( 昭和8年)は同じ形をした商店会の街灯、K(昭和11年)とL(昭和12年)は鈴蘭灯に似た街灯だったと思います。ただし、すべて「おそらく」付きです。



神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID 64, ID 8317

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64とID 8317は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8317のほうが画角は大きくなっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8317 神楽坂入口

 大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、信号機にはゼブラ柄の背面板があります。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識と、藤の形の造花がたくさんあります。電柱の上には柱上変圧器があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできました。横断歩道はここでは2本の直線だけですが、工事で一時的に消されていて、上の1本は自動車の停止線です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64 神楽坂入口から坂上方向

神楽坂1丁目(昭和45年)
  1. Pachinco ニューバリーパチンコ。角のガラス部分は景品の交換所でした。タバコらしきものが見えます。
  2. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)「質」
  3. テント上の高い位置にTA〇〇RAYA(フルーツパーラー 田原屋)
  4. 清水本店(貸衣裳店)
  5. 生そば(翁庵
  6. 中華料理 信華園
  7. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  8. パール。ビリヤード。小栗横丁にありました。
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店。吊り看板の「公衆電話」とその下に2台の電話。さらに右に「赤井商」店と佳作座の映画広告「チキ(チキ)バ(ンバン)」
  2. (津田印店)看板を外しているので閉店?
  3. 皮膚泌尿科、婦人科、外科、内科(白十字病院)
  4. 原稿用紙 事務用品 山田紙店
  5. FUJIYA 不二家洋菓子 歩道におそらく山積みの不二家の商品
  6. 消火栓標識と消火栓広告「(ふ)とんのひしや(菱屋)」
  7. 紀の善)突き出し看板はあるが、今回は見えない。
  8. Frère WADAYA(メンズウェアー)
  9. ビル「軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
    ピージャック

1971年。住宅地図。

神楽坂1~2丁目(写真)昭和37年夏 ID 17-19

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 17から19までを見ていきましょう。ID 17と18は降雨はなく、ID 19はあります。多くは半袖です。撮影の方向は、神楽坂1~2丁目から坂上に向いています。街灯は一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。歩道の表面には文様があり、ところどころ割れています。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

新宿歴史博物館 ID 18 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

新宿歴史博物館 ID 19 神楽坂下から坂上方向

神楽坂1~2丁目
  1. 甘味 桜井。ここは1丁目。
  2. パール ビリヤード。現在はないが、小栗横丁にあった。
  3. 小栗横丁に行く小道
  4. 壁面看板の「花 田口屋」。ここから2丁目
  5. 電柱看板で「川島歯科」。現在はないが、藁店にあった。
  6. 志満金
  7. オザキヤ
  8. たばこ ☎(果実 田金)
  9. (食品 丸八)
  10. タイヤモンド毛糸 大島糸店
  11. 松本商店
  12. 菓子 神楽屋
  13. 夏目写真館
  14. クスリ
  15. 林屋
  16. (十奈美)
  17. エスヤ
  1. ここは2丁目。白い建物の1階はテーラー和田屋、2階が理容バンコック。2階に床屋のサインポール
  2. メトロ映画で「九ちゃん音頭」公開は1962年7月と「男度胸のあやめ笠」公開1962年6月
  3. 白い建物はスナックとバー みなみ
  4. 麻雀⇒(志乃多の前から麻雀ルビーに入ることができる)
  5. 志乃多寿し
  6. グロンサン 山一薬品
  7. パチンコマリー
  8. ニューイトウ靴店
  9. レストラン京屋(奥にあった)
  10. ビリヤード 神楽坂(奥にあった)
  11. 喫茶 音楽 坂
  12. 陶磁器 陶柿園
  13. (旅館 かぐら苑)
  14. クラウン
  15. (美容室 リカ)
  16. ポーラ化粧品
  17. (鮨 亀井)
  18. 資生堂化粧品 さわや

 メトロ映画では1962年の夏用に映画2本立てを出しています。
 ID 17にはきれいなアスファルト舗装が広がります。はるかに彼方に別の舗装があるようで、反射も違っています。ID 18ではオザキヤ頃から上にこの舗装があるようです。しかし、よく見ると、Oリングはまだつけていないようです。

新宿歴史博物館 ID 18の一部

 ID 19もOリングはなく、つまり、1962年7月はOリングのないものを使って舗装をしたのです。おそらく1962年末にはOリングもついているはずです。
 この舗装はコンクリートではなく、石敷いしじき、石だたみでした。地元の方によれば「当時の車のエンジンはパワー不足で、アスファルト舗装では坂を上れなかった。表面のザラザラした石敷だった。ただ石が割れて飛ぶことがあったので、コンクリートに替えることにした。しかしコンクリートでも使っているうちにツルツルになって滑るので、Oリングの溝が必要だった」といいます。

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 28-30

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 28からID 30を見ていきましょう。今日は晴れ。長袖の人が多く、夏以外の季節。撮影の方向は、ID 28からID 29は坂上を、ID 30は坂下を見ています。簡素でまん丸の街灯は電笠もなく、これは昭和28(1953)年以前にあたります。昭和28年、新宿歴史博物館 ID 21には鈴蘭灯がありました。また歩道はどぶ板しかなく、平気で道を歩いています。

新宿歴史博物館 ID 28 神楽坂途中、2丁目付近

 メトロ映画では「情無用の街」という洋画をやっていました。日本の初演では1952(昭和27年)1月19日でした。理髪バンコク館があり、電柱看板「旅館 碧逢」があります。小栗横丁への入口の左側から日光がさしています。中央に横書きで「ニュー」がありますが「ニューイトウ」です。

1952年、火災保険特殊地図

新宿歴史博物館 ID 29 神楽坂途中、2丁目付近

 最左端は「生花や」で、田口屋生花店です。隣には鰻の「志満金」、尾崎屋(靴店)、田金果物店、八食品、大島糸店と続きます。のぼり旗は「歳末大売り出し」で、良く見るとID 28でも確認できます。
 郷土出版社の「新宿区の100年」(2015年)では……

神楽坂、志満金前(昭和20年代後半)
現・神楽坂2丁目。手前が鰻料理の老舗として名高い「志満金」。大売出しの日、各店の人たちが勢ぞろいした一コマ。神楽坂界隈は戦災でほぼ全焼に近い打撃を受けたが、戦前からの馴染み客たちの後援もあって、早くから復興した。志満金は現在もグルメスポットの一店である。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 30 神楽坂途中から坂下方向

 マーサー美容院の巨大な看板「パーマネント」があり、すぐ下には将来の「神楽坂仲通り」があります。右側にも隙間があり、これは「神楽坂仲坂」です。すぐ下には大きな壁面看板があり、太陽堂です。横断幕「火」も出ていますが。「火の用心」でしょう。地元の方は「新宿歴史博物館 ID 28-29には横断幕はなく、逆にID 30には『歳末大売り出し』が見えない。電柱の電線の数(横木の数)はID 30の方が少ない。よってID 30の方が古い写真と思われます」といいます。
 地元の方は「①は戦前からあった「大松閣」で、神前式結婚式を創始した東京大神宮の結婚式場だった。今は式場は隣接施設に移り、「大松閣」跡は貸しビルになっている。②は国鉄飯田橋駅西口駅舎。③は東京ルーテルセンター教会の塔。塔の左側(背後)は暁星学園か、母体の修道院(いずれも千代田区富士見)。④はメトロ映画。⑤はニューイトウ(後に靴店)。⑥はその隣で陶柿苑。写真に写っているような下りの車が誤って突っ込んだわけです。⑦は「喫茶 七福」。良く見ると下の看板にもコーヒーカップの絵が見えます」

新宿歴史博物館 ID 30

 地元の人は「謎が、ようやく解けました。角に『七福』はあったんです。仲通の角が少しへこんでいて(正確には、建物の中に三和土のような場所があり)マーサと七福は入り口を共有していたと思われます。解説図を添付しました。新宿歴史博物館 ID 8 ID 10では七福はなくなっていますが、マーサの入り口が凹んでいるのが分かります」
 しかし、私にとっては「パーマネント」の「ト」の下にマーサー美容院の入口があるとも思えています。

住宅地図。人文社。1962年 喫茶 七福

住宅地図。住宅協会地図部

神楽坂|昭和36、7年(写真)観光案内 vs ID 17

文学と神楽坂

 2枚の写真を比べてみましょう。昭和36年と37年です。最初は昭和36年、1961年です。場所は神楽坂1丁目から2丁目です。図は拡大できます。

県別・写真・観光日本案内 東京都 昭和36年

 右側の前から見ると……

  1. 神楽堂。パンなどの店舗
  2. 何も書いていないけど、紀の善。甘味処です。
  3. MEN’S WEARの前に神楽小路が見える
  4. 白い建物の1階はテーラー和田屋、2階が理容バンコック。MEN’S WEARとWA⚫⚫YA。道路には床屋のサインポール
  5. ダンス。神楽小路の奥にあった小柳ダンス教室
  6. メトロ映画で「江戸っ子肌」公開は1961年2月と「兵六大臣行状記」公開は1961年2月。最初に封切りをする1番館でした。
  7. トリスバー
  8. 「志乃多寿し」
  9. 1軒が間に入り、パチンコマリー

 次は1962年です。昭和37年で、新宿歴史博物館のID 17です。場所は神楽坂1丁目から2丁目です。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

 最初は左側の前から後ろに向かっていきます。

  1. 甘味 桜井。ここは1丁目。
  2. パール ビリヤード。現在はないが、小栗横丁にあった。
  3. 小栗横丁に行く小道
  4. 壁面看板の「花 田口屋」。ここから2丁目
  5. 電柱看板で「川島歯科」。現在はないが、藁店にあった。
  6. 志満金

 次は右側の前から後ろにです。場所は2丁目です。

  1. 床屋のサインポール
  2. メトロ映画で「九ちゃん音頭」公開は1962年7月と「男度胸のあやめ笠」公開1962年6月
  3. 白い建物はスナックとバー みなみ
  4. 志乃多寿し
  5. 山一薬品
  6. パチンコマリー

 しかし、1961年と1962年の場合、もう1つ、大きな違いがあります。つまり、街灯が違っているのです。1961年はいわゆる「鈴蘭灯」で、下向きの2つ、上向きが1つの電灯がありました。おそらく1955年ごろから使ったものです。

 これは「神楽坂下の夜景(写真)」でもみられます。

 1962年は極めて簡単で、大きな電灯は1つだけです。

 1961年2月に街灯は変えられたと考えています。

すずらん通り(写真)本多横丁 ID 5092

文学と神楽坂

 本多横丁はかつて「すずらん通り」といっていました。記憶に頼ると、巨大なアーチ看板もあったと思います。しかし、写真はない。本当にない。そこで新宿歴史博物館に聞いてました。なんと「すずらん通り」がはいった写真は1枚だけで…

昭和20年代。新宿歴史博物館蔵

しかもピンボケ。でも電柱2本に「すゞらん」と書いてある。

すゞらん通り(拡大図)

 ちなみに、下水はこの時点で汲み取りのおかげで、きれいでした。

 新宿歴史博物館はもうひとつ写真を貸してくれました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5092 神楽坂 本多横丁

 こちらは2階建ての家が少ないことから、時代は少し早く、まだ「すゞらん」と書いていません(と思う)。また、昭和20年代の本多横丁の街灯は、昭和30年代に神楽坂通りで見た街灯(↓)とは少し違っています。

昭和34年。坂下から坂上を見る。『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

 一方、この本多横丁の戦前(ID 96)と戦後の街灯がよく似ています。ただし、電灯の形は違っているようです。

 では地図を見ておきます。これは昭和27年の地図です。中央は本多横丁で、一番下は神楽坂通り。

本多横丁(火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年)

 その次は昭和35年の住宅地図しかありません。これは左に神楽坂通りがあり、真ん中が本多横丁です。

住宅地図。昭和35年

 神楽坂通りに近い場所から写真を撮ったものです。

本多横丁(年は不明)
  1. 「うなぎ」で、「たつみや」
  2. 「中村屋本店」。戦前からある染め物と洗い張り屋。京染(きょうぞめ)とは京都で染めた、また京都風の染め物の総称。
  3. 「めん類食堂 海老屋」
  4. 「松月パン」。この時代は明月堂ではなかった
  5. 「ニン」
  6. 「コーヒー」
  1. 「神楽坂グリル←」
  2. 「飯田橋 犬猫の診療所」。場所は不明
  3. 「パーマネント(みすず)」
  4. すのこの下に「神楽坂」「53部」
  5. おでん
  6. 「神楽坂グリル」
  7. 「㐂らく寿司」。現在もあります。
  8. 電柱看板「パーマネント 大(場)」

20/12/10→21/11/6

いつ「本多横丁」になったのか|スタンド看板

文学と神楽坂

 本多横丁の串カツなどの店舗「本多てつまる横丁」の前に「本多横丁」について書かれたものがあります。

本多横丁について

本多横丁について

      本 多 横 丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が本多家の邸地てあったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、禄高一万五百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したか、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
    昭和60年7月
本多横丁商店会


御府内沿革図書 ごふないえんかくずしょ。江戸の延宝年間から幕末までの地図集。1808年に収集を開始。
本多修理 本多家の三代目の本多修理忠能が神楽坂に移動。元禄五(1692)年以降である。
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。関東大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
旧名復活 本多横丁は昭和24年頃「スズラン横丁」に変更し、昭和27年頃、本多横丁に戻しました。

 問題は、この旧名復活です。「スズラン横丁」から「本多横丁」に戻したのですが、それはいつでしょうか。上の「昭和27年ごろ、本多横丁に戻した」というのは、本当でしょうか。

 新宿ルーペでは

昭和24年頃、戦災で焼け残ったスズラン型の街灯にちなみ、「スズラン横丁商店会」として発足。その後、旧名の本多横丁の復活を望む声が多くなり、27年頃「本多横丁商店会」に改名。

と書いてあります。昭和27年に商店会としては「本多横丁商店会」に変えたとしても、「すずらん通り」という大きな街灯看板も残っていました。その街灯看板を変更したのは昭和50年ごろです。たとえば「神楽坂を良く知る教科書」(2015年)では

本多横丁
 名称はこの横丁の東側にあつた徳川家家老「本多対馬守」屋敷に由来する。一時「すずらん通り」と呼ばれたが、昭和50年ごろに戻された。両側に寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び「芸者新道」、「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やかな坂である。

 町をよく知る人は「憶測ですが、街灯には区の補助が出るので正式な名前を変えにくかったのかも知れません。『本多横丁の旧名復活を期して商店会発足』し、その記念にスタンド看板を立てたのが「昭和60年7月」というのが自然に思えます」といっています。