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上村一夫が「寺内」から描いたもの|古賀八千香

上村一夫氏

文学と神楽坂

 平成13年(2001年)『ここは牛込、神楽坂』第18号に「上村一夫が『寺内』から描いたもの」という小文があります。
 古賀八千香氏がこの文をまとめましたが、彼女は雑誌に関わっているらしいこと以外は不明です。まあ、ここは上村氏が問題なので……。しかし、古賀氏も本当にうまい。

上村一夫が「寺内」から描いたもの
 上村一夫の作品は『同棲時代』くらいしか知らない人も、彼の描く女の顔は、すぐ見分けられるはずである。あの特徴的な眼。それが好きかどうかは別として、魅力的であることは否定できない。彼は1986年に45歳で亡くなっているが、最近再び人気が高まっているという。
 その上村一夫が、まだ劇画家としてスタートしたばかりの頃、神楽坂の「寺内」に仕事場を持っていた。1970年頃のことである。ほどなく人気作家となり、手ぜまになったのか、駒場のマンションに移ってしまったため、期間は短い。しかし、神楽坂は彼にとって印象深く、相性の良いまちだったようである。83年発表の『帯の男』というシリーズでは、舞台を神楽坂にもってきて、まちの情景を存分に描き出しており、作品的にも成功している。この『帯の男』を参照しながら、上村一夫にとっての神楽坂、というものを考えてみたいと思う。
同棲時代 双葉社『漫画アクション』の漫画。1972年から1973年まで80回連載。
特徴的な眼 魅惑の眼差しはたとえば代官山蔦屋書店で上村一夫の生誕80周年を記念する作品展(2020/7/24-8/9)があります。
83年 昭和58年

 上村一夫が神楽坂で仕事をしたのは、1968年から1971年頃である。はじめのごく短い期間は、毘沙門様近くの置屋の二階を借りていた。そこから移った本格的な事務所が「寺内」にあったのである。当時の関係者の30年前の記憶から、およその場所はすぐにわかったのだが、何しろあの辺りは特に変化の激しいところだ。事務所のあった建物も、とうになくなっでいるらしく、ここだ、という決め手がなかなか見つからなかった。古くて暗い感じの建物で、やはり二階を借りていたということしかわからない。
 そこで、上村一夫がしょっちゅう出前を取っていた店、という線から探ってみることにした。すぐ近くにあった店で、確か名前は「ひろし」。この店も今はない。が、近くで聞き込みをしたら、読売新聞販売所の方がよくご存知だった。しかもその店の元店長が、今は津久戸町のスナック「佳根子」のマスターをなさっていることまで教えてくださったのである。
 さっそく1970年の航空地図を持ってお訪ねしてみた。上村一夫が生きていたら、あまり年が違わない感じの、ダンディーな方である。事務所のことハッキリ憶えておられ、地図を見るなり「料理・白菊」という建物を指さされた。「これこれ、この白菊が旅館をやめてアパートにして、二階を上村さんに貸してたんだよ」
「白菊」は、まさにあのマンション建設予定地にあったのだった。隣が今井クリーニング店である(今井クリーニング店の方に、あとで白菊のことをたずねてみたが、上村一夫のことはご存知なかった)。今井クリーニング店の隣の隣が「ひろし」、正しくは「」だ。今、山崎パン店になっているところである。上村一夫は、とにかく「寛」のハヤシライスが好きで、出前はもちろん、ひとりでふらりと店に来ては、いつもハヤシライスを食べたという。
置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
読売新聞販売所 当時は青色の家。2020年には、焼き鳥屋「酉刻」に変わっていました。
航空地図 航空地図とは空中写真を元にした地図でしょうか。航空地図の定義はかなり調査してもなさそうです。ちなみに空中写真とは飛行機に搭載した航空カメラを使って撮影された写真。住宅地図は建物の形状や居住者名等が記された大縮尺の地図。現在は、住宅地図を使っているようです。
料理・白菊、今井クリーニング店、寛 1967年の住宅地図では、赤が白菊、橙色は今井クリーニング店とひろしです。

1967年 住宅地図

『帯の男』の源次郎も、酒を愛する男だ。初老の源次郎はアパートに独り暮らしで、しばしば酒の店「いせや」に現れる。「いせや」は明らかに「伊勢藤」がモデルで、店のつくりや雰囲気がそっくりだ。ただ、店の人物は創作で、「いせや」の女主人、お涼さんは源次郎の心の女性でもある。第二話では二人の過去が明かされるが、「いせや」の場面は、六話全部において重要な役割を果たす。(中略)『帯の男』で描かれるのは、路地のピンコロ石や、料亭の黒塀毘沙門様といった、いわばガイドブック的な神楽坂だけではない。待合だった「松の家」の外観が、置屋「松乃家」として出てきたり、岩戸町繁栄稲荷神社が、なぜか好んで描かれたりする。神楽坂通りにいたっては、看板や電信柱まで、ていねいに描きこまれており、妙にリアルで面白い。
伊勢藤 いせとう。神楽坂4-2にある日本酒居酒屋。まるで昭和の風情がある飲み屋。下図での上は兵庫横丁、下は飲み屋の伊勢藤の内部。
 なお、伊勢藤、毘沙門、松の家(現在はTrunk house)、繁栄稲荷神社の地図を出しておきます。拡大できます。ピンコロ石 こぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。
黒塀 柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀。防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出した。
毘沙門 日蓮宗鎮護山善国寺です。

昭和56年頃の毘沙門天。(加藤八重子著『神楽坂と大〆と私』詩学社、昭和56年)

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)

現在の毘沙門天

松の家 新宿歴史博物館の「新宿区の民俗⑸牛込地区篇」(平成13年)の29頁では待合「松ノ家」は戦前までは神楽坂3丁目にあったと書いてあります。戦後はなくなります。都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和12年)では本多横丁から一歩入った、現在はかくれんぼ横丁(360°カメラ)の家でした。2019年、Trunk house(一軒家のホテル)に代わり、2021年3月では、1泊632,500円(プライベートバトラー、プライベートシェフ、朝食付き。税込。4名まで宿泊可)。宴会は3時間で15万円。
繁栄稲荷神社 新宿区岩戸町7にある神社。

神楽坂通り 下図を見てください。赤い円の縁石はごく普通で、高くなっています。一方、青円の縁石は低く、なだらかになっています。どうしてこういう形になっているのでしょう。もちろん、車が乗り越えるためで、車道の反対側、歩道の奥、住宅街のほうには、多分、車がはいれる駐車場や袋小路があるのです。
 下図も同じですが、50年ほど昔なので、どこを絵にしたのかは、わかりません。少し上に登った場所でしょうか。
 さらに下図。「つもりらしいけど」の台詞があり、その下を見てください。やはり同じような袋小路にあると思います。
 またこの漫画の絵には「坂」と思える看板も見え、全体に奥の方が高くなっています。これは神楽坂2丁目にある袋小路を描いた絵でしょう。
 実際はこの三点は特定できると地元の方。
 なお、電柱広告の「(質)大久保」商店は、神楽坂仲通りの右側にあり、芸者新路を越えてすぐの位置にありました。

1980年、住宅地図。


 また、「大島歯科」は神楽坂2丁目の袋小路からほぼ反対側にありました。

1980年、住宅地図。





寺内で会った人々|水野正雄

文学と神楽坂

 平松南氏が編集する「神楽坂まちの手帖」第5号(けやき舎、2004年)で、水野正雄氏は寺内で起きた喜怒哀楽(というと大げさだけど)を取り上げます。神楽坂はん子、柳町金語楼、若山富三郎と勝新太郎、花柳小菊、水谷八重子、泉鏡花などのオールドスターがでてきます。

「新宿・神楽坂暮らし80年」④
新宿郷土研究会会長 染め物洗張り「神楽坂 京屋」 水野 正雄
 歌手で有名な神楽坂はん子さん。はん子さんも芸者だったが、神楽坂5丁目読売新聞販売所があるでしょ、あの隣りがはん子さんの家でした。それが白銀町の私の家の隣りのお風呂屋に来るんですよ。私もその頃、お風呂屋に行ってましたけど。見はからって? いいや偶然(笑)。そうするとね、女湯の方で「あらこんにちは」なんて挨拶しているのが聞こえた。それがいい声でね。
 はん子さんの隣りが金語楼お妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。はん子さんは勘定ぱらいはよかったですよぉ。それから今の高層マンションの中央あたりに、杵屋勝東治っていう長唄のお師匠さんが住んでいて、そのお妾の子が若山富三郎勝新の兄弟。彼らが20代早々のときに3年ほど神楽坂に住んでいた。出口の床屋(お風呂屋へ抜ける道の大久保通りのところにあった床屋)で何回か会ったことがあるんだが、勝新太郎は生意気なことばかりいっていたよ。映画界に入る前で、なんだかアメリカへ行ってきたらしく、そのことを鼻高々で話していた。
 それから花柳小菊さんも、毘沙門さまの地蔵坂から入ったところに住んでいました。小菊さんも芸者で。はん子さん、小菊さん、水谷八重子、鏡花の嫁さんの桃太郎さんもみんな家のお客さんです。水谷八重子は守田勘弥お妾さんだが、6丁目の横寺のちょっと手前に金物を売っている家があるでしよ、そこは墓場なんですけど、そこに「蒲(かば)」つていう医者の家があって、その隣りが先代の水谷八重子の家でした。兄貴の竹紫っていうのと住んでいたの。神楽坂にはずいぶん、お妾さんが住んでいたんだね。
 鎗花のおかみさんの桃太郎さんは、親父の話ではちょっときつい顔をしていたから、あんまり売れっ子じゃなくて。それで鏡花とお座敷で同席して仲良くなったっていうんだね。


読売新聞販売所 現在はなくなった販売所ですが、1990年には道路の一番左側から3番目にありました。1963年ではやはり左側から3番目に山下氏があり、ちなみに、その2番目は「〇〇〇焼」でした。1960年では、三幸、お好焼き、山下、安井と並んでいます。1952年も左側から3番目は料理・山下でした。

1990年と1963年。住宅地図。

1960年。住宅地図。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

あの隣り 1960年、山下氏の一方の隣りはお好焼き。したがって反対側の安井氏の家の方でしょう。
お風呂屋 1960年には熊乃湯でした。
お妾さん 実際の愛人。愛人の子として山下敬二郎氏がいる。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ここで新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)の「神楽坂の料亭街」を簡単に見ておきます。地元の人は神楽坂5丁目の一部だといっていて、私もそうだと思っています。
 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。
 なお、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13792でも全く同じ写真です。

新宿時物語

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13792 神楽坂付近か

 ここで➃は「料理 山下」で、柳家金語楼のお妾さんの家、後に読売新聞販売所になり、大久保通り拡幅工事のため、市谷柳町の牛込神楽坂読売センターと統合し移転し、現在はLe petit Bistro RACLER(ル・プティ・ビストロ・ラクレ)になりました。➂は民家で、一時は神楽坂はん子の家になり、現在はなくなり、普通の道路になりました。➀は「芸妓 分まん」、➁は「法律OF 野町」で、➀➁ともに神楽坂アインスタワーになり、➄は「芸妓 富沢」、現在神楽坂茶寮本店です。

山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。享年は満72歳。
昔々亭桃太郎 落語家。柳家金語楼の弟。生年は1910年1月2日。没年は1970年11月5日。享年は満60歳
高層マンション 神楽坂アインスタワーです。
杵屋勝東治 きねや かつとうじ。長唄三味線方。生年は1909年10月16日。没年は1996年2月23日。
お妾 実は正式な妻。
若山富三郎 わかやま とみさぶろう。俳優。本名は奥村勝。生年は1929年9月1日、没年は1992年4月2日。
勝新 勝 新太郎。かつ しんたろう。俳優。若山富三郎の弟。本名は奥村利夫。生年は1931年(昭和6年)11月29日、没年は1997年(平成9年)6月21日。
床屋 1952年の地図で、赤い四角の「トコヤ」
花柳小菊 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

馬場さん 塀じゃなくてさ。壁が。「三笠屋」側は波板が貼って鳴らしながら通ったんだよ。子どもんときに。
相川さん ちょっと記憶がないな。その後ろに小菊さんがいたんだよ。花柳小菊さん。三笠屋の真後ろ。私んところの玄関の前に小菊さんがいた。


三笠屋は現在の手打ちそば「山せみ」なので、「三笠屋の真後ろ」は4枚目ほど前の図になるのでしょうか。
アメリカへ行く 1954年、23歳で、アメリカの巡業を行った。映画の撮影所で俳優ジェームス・ディーンに出会い、感化されて映画俳優になることを決意する。
守田勘弥 もりた かんや。歌舞伎役者。昭和10年、14代勘弥を襲名。江戸前の二枚目を得意とした。初代水谷八重子と結婚。実子に水谷良重。生年は明治40年3月8日、没年は昭和50年3月28日。享年は満68歳。
お妾さん 水谷八重子氏は「お妾さん」ではなく、正式に妻でした。
水谷八重子の家 ブログによれば、通寺町61でした。

(昭和12年)火災保険特殊地図