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とうふ屋のラッパ|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の「牛込地区 31. とうふ屋のラッパのはじまり」では……

 とうふ屋のラッパのはじまり
      (津久土町七)
 大久保通りの十字路を左折して飯田橋に向う。200メートル位歩いた右手の都自動車会社の所には、東京一のとうふ屋だった尾張屋があった。祖先は江戸草分けの旧家で、水戸家から帯刀も許されていた。明治時代には市内で指折りの資産家に数えられて、30余の支店を出していたものである。とうふ屋が行商をする時ラッパを鳴らしたが、そのラッパを使うことを明治時代にはじめたのはここで、17代の長谷川金三郎であった。
〔参考〕 明治話題事典

左折して飯田橋に向う 神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)を北西方面から入ってきて、左折して、北東方面の飯田橋に向かう。
右手の都自動車会社 下図を参照。実際には都自動車会社には津久土町8にありました。

昭和5年「牛込区全図」

 では小野秀雄編の「新聞資料 明治話題事典」(東京堂出版、昭和43年)を見ていきましょう。

 牛込区築土町七豆腐屋尾張屋といへば市内屈指の資産家にて、また東京一の豆腐屋なり。水戸家より帯刀御免となり江戸草分の旧家にて当主長谷川金三郎まで17代なり。今は三十余の支店を有せるが豆腐行商にラッパを用ひしもこの人の草案なり。<明42・8・20、万朝>
<解説>豆腐屋が天びん棒をかついで行商した明治、大正から昭和になり、自転車行商と変遷した。吹きならすラッパは円太郎馬車の御者も同じで一種の哀調を帯び庶民的である。
(豆腐は)中国では二千年前からあるそうである。日本に渡来したのは奈良朝時代である。豆腐は読んで字の通りをすると納豆の方がピタリとくるであろう。一般に常食になったのは茶道の盛んになった室町以後らしい。異名「おかべ」と呼ぶ。むかしの料理書には壁とか白壁と書いてある。宮中の大掃除の日に給食されたのは煮た豆腐に白ミソをかけた田楽でんがくミソだったという。
豆腐百珍』二編など珍しい。もめんごし・絹ごし・笹の雪など、ぎせいどうふ・冷奴・氷どうふ・高野どうふ・諸国名物いろいろある。
 ラッパは洋式調練と同時に入った。明治になって三年にラッパ師の名簿が見える。小篠秀一という人はフランス人ギッチから学び山田顕義兵部少輔に認められ、曽我祐準中将の下でラッパ士となり、陸軍軍楽隊を作った。戦時中まで在営、タテトテのむずかしい音律のうち食事ラッパをよく覚えた。日本の兵隊はどうも調子がわるく、外国兵のはうまい。まずいラッパをスカスカラッパとあざけった。呼吸が洩れて吹き出してしまうからである。
築土町七 大日本都市調査会『東京区分職業土地便覧 牛込区之部』大正4年では下図を参照で。なお、築地や築土町と書いていますが、現在はおそらく津久土町でしょう。

『東京区分職業土地便覧』大正4年

豆腐行商にラッパ 現在も行っています。軍隊信号ラッパ、熊よけラッパ、行商ラッパに分けられます。
天びん棒 てんびんぼう。天秤棒。両端に荷を掛けて、中央に肩をあて、かつぎ運ぶのに用いる棒。
円太郎馬車 明治時代の乗合馬車の愛称。落語家4世たちばな円太郎がこの乗合馬車の馬丁の吹くラッパを高座で吹いて評判になった。乗合馬車も、御者がラッパを吹きながら馬車を進ませたという。
おかべ 宮中言葉で豆腐の意味
白壁 豆腐の異称。
宮中の大掃除の日 平安時代に宮中では神様を迎える「煤払い(すすはらい)」を行いました。『江戸府内絵本風俗往来』(1905)では「煤払いの式の膳部は里芋・大根・牛蒡・人参・焼豆腐・田作(ごまめ)の平盛(ひらもり)、豆腐の味噌汁、大根・人参・田作の生酢、塩引鮭の切身の調理にて酒を汲む。勿論家例により大同小異ありと知るべし。また町家にては蕎麦の振舞あり」とあります。焼き豆腐は、堅めに造った木綿豆腐を水切りしてから、炭火やガスなどで焼いて焼き目を付けもので、一般に市販しているものと全く変わらないそうです。
豆腐百珍 とうふひゃくちん。天明2年(1782年)に出版した料理本。作者は「何必醇」だが、文人が趣味で記載したもので、一説に篆刻家の曽谷学川が書いたもの。豆腐は6種に分けられるという。

木の芽田楽・きじやきでんがく・あらかねとうふ・むすびとうふ・ハンペンとうふ・高津湯とうふ・草の八杯とうふ・草のケンチェン・あられとうふ・雷とうふ・再炙ふたたびでんがく・凍りとうふ・速成凍とうふ・すり流しとうふ・おしとうふ・砂子とうふ・ぶっかけ饂飩とうふ・しき味噌とうふ・ひりょうず・こくしょう・ふわふわとうふ・まつかさねとうふ・梨とうふ・墨染とうふ・よせとうふ・鶏卵とうふ
やきとうふ・油揚とうふ・おぼろとうふ・絹ごしとうふ・油揚でんがく・ちくわとうふ・青菽あおまめとうふ・やっことうふ。葛でんがく=祇園とうふ、赤みそのしき味噌とうふ。
なじみとうふ・つととうふ・今出川とうふ・一種の黄檗とうふ・青海とうふ・浅茅でんがく・雲丹でんがく・雲かけとうふ・線麺とうふ・しべとうふ・いもかけとうふ・砕きとうふ・備後とうふ・小竹葉とうふ・引きずりとうふ・うずみとうふ・釈迦とうふ・撫子とうふ・砂金とうふ・叩きとうふ。
蜆もどき・こほりとうふ・精進の雲丹でんがく・まゆでんがく・みのでんがく・六方焼目とうふ・茶礼とうふ・粕入りとうふ・鮎もどき・小倉とうふ・縮緬とうふ・角ヒリョウズ・焙炉ほいろとうふ・鹿の子とうふ・うつしとうふ・冬至夜とうやとうふ・味噌漬けとうふ・とうふ麺・蓮根はすとうふ
光悦とうふ・真のケンチェン・こうでんがく・こぎでんがく・鶏卵でんがく・真の八杯とうふ・茶とうふ・石焼とうふ・からすきやき・炒りとうふ・煮抜きとうふ・精進の煮抜きとうふ・五目とうふ・空蝉とうふ・海老とうふ・カスティラとうふ・別山焼・包油揚
油揚ながし・辛味とうふ・つぶてでんがく・湯やっこ・ゆきめし・鞍馬とうふ・真のうどんとうふ

食事ラッパ 実際に自衛隊が食事ラッパを吹く様子。
タテトテ 不明。音程のコントルールの難しさと関係がある?

 最後に、山田竹系著『四国風土記』「とうふ屋のラッパ」(高松ブックセンター、1962年)について記事がありました。

 とうふ屋のラッパ
 とうふ屋のラッパといえば、さきごろ亡くなった随筆家の石川欣一氏が、ある時知人の二世から、とうふ屋のラッパを買ってくれと頼まれた。
 その二世は、永年東京に住んでいて、夕方に、プープイと吹いて来るあのとうふ屋のラッパに日本の音を感じ、アメリカに帰っても、日本が恋しくなったら、このラッパを吹いて自ら慰めようというのである。
 石川氏は、二つ返事で引きうけた。
 ところが、このラッパはどこにも売っていない。
 金物屋にもないし、とうふ屋にもむろん売ってはいない。
 困り果てて、ある日、西銀座のある料理屋のおやじに聞いてみたら、そのおやじも首をかしげたが、出入のとうふ屋さんに電話で尋ねてくれた。
 その結果、あのラッパは、東京都とうふ小売販売同業組合という組合で配給するのだということが判った。
 それで、その組合に手を廻し、400円也で一つのラッパを入手したが、そうなると手ばなすのが惜しくなって、自分の机の上に置いて、時々これを吹いて楽しんでいるということで、亡くなられた今日、あのラッパはどうなったか、と心配するわけではないが、ちょっと気になる。
 このラッパは、もう一つ使い途がある。
 北海道でクマに出会ったら、このラッパを吹くと、クマが逃げるのだそうである。
 ある人が、北海道へ渡ってから、このラッパを持参するのを忘れ「ラッパオクレ」と 東京の家人に電報したというはなしを、半年ほど前さる雑誌で読んだことがある。
石川欣一 新聞人で翻訳家。東京大学を中退し、プリンストン大学英文科を卒業。毎日新聞社に入社し、米英特派員、ロンドン支局長、のち文化部長、サン写真新聞社長。日本ライオンズ・クラブ初代ガバナー。生年は明治28年3月17日。没年は昭和34年8月4日。64歳。
東京都とうふ小売販売同業組合 残念ながら、この組合はなくなっています。

ご維新前後の牛込

文学と神楽坂

新宿郷土研究第2号

 新宿郷土研究第2号に「ご維新前後の牛込」(新宿郷土会、昭和40年)がでています。なお、筆者は「KI生」だと書かれていますが、この本では編集者の「一瀬幸三」以外には名前は書いていません。「KI生」と一瀬幸三氏、似ています。一瀬氏は東大農学部の獣医で、満洲の動物園や雪印乳業で働き、退職後は郷土史家でした。
 江戸から明治に変化し、武士の俸禄はなくなり、そこで慣れない商売に飛び込み、また武家屋敷を茶畑や桑畑に変えた人も少なからずいました。

 士族の商法
 無血革命によって、慶応4年(1868)は明治元年と改たまり江戸は東京というようになった。
 その頃は、
 上からは明治だなどと、いうけれど、治明(おさまるめい)と、下から読む。
 上方のぜい六どもがやってきて、とんきよう(東京)などと、江戸をなしたり。

などの落首が流行した。
 徳川旗下の数万人は無祿となり地所は上地され、ちょうど終戦後の軍人と同じような境遇となった。そこで新政府へ抱えられるか、駿州(静岡)へ移住しなければならなくなった。しかし、多くは3000石以下の者でそのまま残って帰農、帰商するものが多かった。
 牛込辺も祿高の多い旗本屋敷や大名の下屋敷が多かったので、にわか商人が誕生した。それを当時『士族商人の見立番付』の3枚物が出版された。それによると、牛込辺では、
〇牛込大坂(逢坂)あまさけ大安売り
〇市谷大坂(逢坂)ろうそく
根来組八百屋の大安売り
〇牛込つくど(築土舟ばやしのつけもの
牛込御門もろみおろし
〇牛込わら店の茶店
市谷本村水油売り
 とくに評判だったのは市谷柳町通りの加賀屋敷の久貝因幡守の屋敷で豆腐屋を始めたことであった。何しろ1500石取りの豆腐屋というので、お客が恐縮して受取るということだった。
『評判武家地商人』に、
  市谷柳町
        名代とうふ
  元祖久貝亭
 と、いうは名ぶつ、風味極上、其外かんぶつ、つけ物、あら物、品は上々安うりあきない。遠近こぞってしらぬものなく、こん度元祖の大商人。
 しかし、いわゆる士族の商法として長くつづかなかったようである。

ぜい六 ぜいろく。ろくでもない奴。江戸時代、江戸の者が関西の人を嘲(あざけ)って言った呼び方。
とんきょう 頓狂。だしぬけで調子はずれなこと。あわてて間が抜けていること。
落首 らくしゅ。時局の風刺や権力者を批判、嘲笑した匿名の文章や詩歌のうち、とくに詩歌形式のものを落首という。
無祿 祿がないこと。知行・給与のないこと。
上地 領主が配下の者から没収した土地。
舟ばやし わかりません。はやし(噺)は能・狂言・歌舞伎・長唄・寄席演芸など各種の芸能で、拍子をとり、または気分を出すために奏する音楽。
もろみ 酒や醤油、味噌などの醸造工程において複数の原料が発酵してできる柔らかい固形物。
おろし 大根・わさびなどを擦り崩したもの。
水油 みずあぶら。液状の油の総称。頭髪用の椿油や灯火用の菜種油など。灯油の異称。
かんぶつ 乾物。魚、肉、海藻、野菜などを日光や熱風などで乾かし、水分を少なくした比較的保存性のある食品
あら物 荒物。ほうき・ちり取り・ざるなど、簡単なつくりの家庭用品。

□茶畑と桑畑
 牛込は屋敷を取りこわして、茶畑にしたところは意外と少くなかった。もっとも朱引内外といって、東は本所扇橋川筋を限り南は品川県境より北は小石川伝通院、池ノ端、浅草、橋場を限りこの範囲なら士族の住居を認めたことにもよるものであろう。
 それ以外に武家屋敷では新政府へ明け渡したり、取りこわされたりしたもので、勝手に処分はできなかった、当時の俚謡に、
 お江戸見たけりゃ今見ておきやれ
    今にお江戸は原となる
と、いうのがあった。
 明治2年(1869) 武家屋敷をうち捨てておくのは不経済であるというところから「桑茶を植えるべし」と、東京府知事の発令があった。
    今般東京府下民産別立之為諸邸宅上地之分御郭内外市在共総て桑田茶園開墾被仰付云々
 この当時の地価は牛込神楽坂でも千坪十円から25円位が通り相場であった。しかし、外囲いの費用がかかるので、誰れも引受け手がなかったということである。
 牛込で土蔵3ヵ所、表長屋1棟、表裏門共に16両で売り払ったという有名な話もある。
 土地はまもなく払い下げられたが、桑茶畑にならないところは便所と屋敷神としての稲荷社のみが残ってうす気味わるく、さびしいものであった。
 その頃の俚謡に、
      花のお江戸へ桑茶を植えて
         くわでいろとは人は茶に
と、いうのがあった。
(KI生)

朱引 しゅびき。江戸時代、江戸の府内と府外を地図に朱を引いて分けたもの。府内と府外の境界線。
俚謡 りよう。日本の民謡の古称の一つ。俚はいやしい、ひなびたなどの意味
桑田 桑を植えた畑。くわばたけ。
外囲い そとがこい。建造物や敷地などの周囲を囲うもの。塀・さくなど。
くわでいろとは人は茶に わかりません。