本多横丁の近江屋ビルから宮崎ビルまでを眺めてみます。
最初は新宿区教育委員会から『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(新宿区教育委員会、昭和45年)➊です。
ここでは神楽坂通りから本多横丁に入って、左側(北側)の店舗をみていきます。「竹川靴」から「豆フ・米沢」までの8店舗あります。
次は戦前の形➋です。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「戦前の本多横丁」(平成7年)では神楽坂通りから紅小路までの店舗は4店舗(竹川靴店、山本コーヒー、中村屋、そば・海老屋)でした。ここで➊で「朋月堂」は紅小路の下に、➋で「せんべい明月堂」は紅小路の上になっています。また「豆フ・米沢」と「豆腐屋」も同じです。
❸も戦前で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)です。紅小路を見てみると、その直下に「ソバヤ」があります。この上➋でも同様で、「そば・海老屋」があります。「ソバヤ」から3店舗離れて「床ヤ」がありますが、❶では「大内トコヤ」は紅小路のすぐ上にあります。どうも、この❶の「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)ではないか、と考えています。
次は戦後で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和27年)➍です。「海老屋そば」は同じですが、その上は「松月堂菓子」となり、➋の「明月堂」や➊の「朋月堂」とも違っています。どれが正しいのでしょうか。「ここは牛込、神楽坂」第5号のインタービューで女将は「明月堂」だと答えましたので、正しくは「明月堂」でしょう。
「たつみや」は戦後に出てきたものです。さらに、紅小路はこの時期、通れないようになっています。
次は「住宅地図」の昭和35年➎です。「たつみや」と「竜見」は同じ店舗を指しているのでしょう。海老そば、明月堂パンも出てきます。
では、1990年➏に飛びます。近江屋だけは近くの一軒を飲み込み、大きくなりましたが、その他は何も変化しません。宮崎氏の宮崎ビルは「明月堂」と同様に、氏が創設し、今でもオーナーとして子孫が働いています。1世紀以上に渡ってこの地域では同じオーナーたちが同じ場所を占めているのです。(まあ、普通)。ただし、テナントの多くは新しいものになっていますが。
まとめ。「古老の記憶による関東大震災前の形」に大きく違いはなかった。しかし2つだけは間違いで、1つ目は「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)でした。2つ目。松月堂菓子や朋月堂ではなく、明月堂でした。
住所 | 3-2 | 3-2 | 3-5 | 3-6 | 3-7 | 3-8 | |
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建物 | 近江ビル | たつみや | 神楽坂Tkビル | 海老屋ビル | 紅小路 | 宮崎ビル | |
大震災前 | 竹川靴 | 貴金属岡本 | 山本コーヒー | 洋服屋/洗い貼り | 唐物 | 朋月堂 | |
戦前 | 竹川靴店 | 染物・中村屋 | そば・海老屋 | せんべい明月堂 | |||
1952 | 近江屋ハキモノ | 3 | 蒲焼・たつみ家 | 京染 | そば・海老屋 | 松月堂・菓子 | |
1960 | 酒やかた | 明月堂パン | |||||
1963 | |||||||
1990 | 近江屋ハキモノ | 栗原 | 宮崎ビル |
なお、コロナウイルスのために飲食店に路上利用を緩和するという動きが始まっています。これって、神楽坂ではできるのでしょうか。
牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」では
●竹内小学校は結構な学校でした。 おせんべの「明月堂」宮崎なおさん96歳 私はここで生まれたんです。明月堂つていうおせんべ屋の一人娘で。学校は竹内小学校というところに通ってました。うなぎの志満金さんの横を入りまして、ちょっと行きますと結構な校舎がございましてね。幼稚園もありました。運動会や遠足も盛んで、鎌倉に行ったのを覚えています。でも、そのうちさびれてしまって、津久戸小学校と一緒になりました。 若い頃はあらゆるお稽古をしたものです。お友達もたくさんいて、神楽坂に何か食ぺに行ったり。とくに本多横丁の「若松」はこじんまりしたいいお店で、お友達と「若松」行こう、行こうって。 昔は、いまの「ほてや」さんとこが検番で、それは賑やかでした。夕方になると検番は忙しくなって。芸者衆はみんな縁起をかついでお水を汲んだりしてお座敷を待つんです。待合や料亭さんは、なめつけたようにきれいに掃除して。このへんは芸者屋さんや料亭さんも多くてそれはたいへんなものでした。 もっといろいろ覚えているといいんですけど、もう96ですからね。みんな忘れてしまって、お返ししちゃったことが多いんですよ。 |
●ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと。 うなぎ「たつみや」高橋たまさん75歳 ここは戦前、山本コーヒー店がドーナツをつくっていたところなんです。私は戦前、新見附にいて、娘の頃は毎日神楽坂に遊びにきていました。それで、戦後店を持つとき、ぜひ大好きな神楽坂でと、ここへ来たんです。 お店は23年の丑の日に始めました。そのときは向かい側で、料亭への出前が中心でした。お父さんは料亭さんの旦那にかわいがっていただきましてね。戦後の神楽坂も芸者さんが多くて、新内流しなども来て、よかったですよ。 ジョン・レノン? ええ、オノ・ヨーコさんと見えました。週刊誌にうちのことが出たので、それを見て来てくれたようで。亡くなったのはあれからじきでしたね。 週刊誌に書いてくださったのは作家の森敦さんで、以前は近くの印刷会社で経理をなさっていました。お父さんを聶厦にしてくださって、芥川賞をとられた後もよく来てくださいました。 それから常盤新平さんが直木賞をとられたときは、うちで報せを待ってたんですよ。大勢の方とご一緒に。 写真家の荒木(経惟)さん、山田洋二さん、久米宏さんなどもご聶厦にしてくださって。松平健さんが見えたときはサインをいただきました。お父さんも私も「暴れん坊将軍」のファンなものですから。お父さんは軽い脳卒中をやりましたが、ええ、もういいんですよ。 |
かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」神楽坂1丁目~2丁目辺りで
海老屋(そば屋) お店の前の自転車がすごかった。年季の入ったボディは鈍い光を放ち、フレームにぶら下がったぼろぼろの看板には海老屋の文字がかすかに見える。革のサドルはひびわれておじいちゃんの手みたいになっていた。この自転車がお店の味だった。 |