兵庫横丁
見返り横丁
見返し横丁
浅田宗伯医院跡
酔石横丁
島村抱月の終焉
尾崎紅葉と十千万堂
ピンコロ石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。また↑を叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。
ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。
下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。
遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。
上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
小さな路地も美しい。
2013年5月2日→2019年7月26日
ピンコロ石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。
『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。
石畳が美しい『酔石横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林 そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。
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神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はこことここ)と書かれています。
それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。
ここについては毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。
毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは、「むかしはいい下駄ほどすぐに割れちゃったらしいし、いまでも台車が通るとガタガタうるさい。母親を車椅子に乗せてたころも、通りづらくて困ったよ」といい、石畳なんてべつに好きじゃない、といいきる。実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。下水管工事のため、石畳をぜんぶはがさなくてはいけなかったからだ。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻した。その時にすごくきれいになったよね。それまでは、あっちこっち掘ったりしてボコボコだったけどさ」と当時を振り返る福井さんはうれしそうだ。 |
ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。
は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。
まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁と椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……
さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。
東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……
きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?
さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。
正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。
真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。
これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。
2013/5/15→2019/6/21
明治時代は1本の道なのに毘沙門横丁を通って南に進むと、出羽様下、谷がはいり、若宮小路、庾嶺坂まで、毘沙門横丁を含めて、なんと道の名前は4本になりました(明治20年の神楽坂の地図)。
ピンコロ石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。
駒坂は『ここは牛込、神楽坂』で
井上 それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎 あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上 あの階段のあるところですね。
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ほかに玉の湯階段という名前も付いています。
一応、地図で同じことを見ておきます。小さな小さな赤点は石畳がある駒坂です。長くて赤い路地も区道です。地図では立派に見えますが、う~ん噓です。
この階段は小さくて、2.7メートル。この石畳は1.96メートルでした。
下から見るとこうなっています。
ちなみにもうひとつ、区道?を上げておきます。前の右側に書いてあったところです。東側はここで、幅はたったの91センチ。
西側はここで、幅は1.55cm。
幅1メートルもないので、これは本当に区道でしょうか。
笹口幸男氏は単行本『東京の路地を歩く』で「花街の粋をたたえる格調高い路地 神楽坂・四谷荒木町」(1990年、冬青社)を書いています。
笹口幸男氏は、1940年生まれ。中央大学法学部政治学科を卒業し、ジャパンタイムズやTBSブリタニカ社、扶桑社の編集長などを経て、この当時は『International Financing Review』の東京編集部に勤務していました。
神楽坂。好きな名前である。 |
坂崎 非常に入り組んだ地形でね。階段があったり、坂があったりして。
井上 ふつうの人はまず入ってこない。
林 カギ形に入り組んでいるから『クランク坂』。交差してないから卍坂とはいえないし。
坂崎 いいネーミングだなぁ。
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ピンコロ石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
ここでは北側のひとつを見てみましょう。場所は赤城神社の下、赤城坂の傍です。赤城神社からはあっという間もなく着いてしまいます。
しかし、13年5月では石畳はちゃんとあったのですが、13年8月にはなくなってしました。
今はなくなっています。ここは区のものですから、仕方がないといえばそうなのですが。
これを上に上がると赤城神社です。
ピンコロ石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
ここは神楽坂通りの北側の石畳のうち「寺内公園」です。
この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装です。もう1つは大きな板を置いた舗装。最後はアスファルトで覆った舗装です。
一番前の舗装は鱗張り(扇の文様)です。右には赤茶けた石の舗装が貼っています。さらに遠くにはアスファルト・コンクリートで覆っています。ここでは手前が赤茶けた石の舗装、奥がピンコロ石畳です。
ここでは手前がピンコロ石畳で、奥がアスファルト・コンクリートです。
2019年の寺内公園です。土はなくなり、芝生になっています。
この名前については平松南氏がインターネットの「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」2004年03月01日「神楽坂学を成立させることができるか(2月27日)」にこう書いています。
神楽坂はじめての超高層26階建てマンションは、新宿区の区道付け替えで区長が住民から訴訟を起こされたが、区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」がデベロッパー側から区に差しだされた。 公園には名前がなかった。新宿区は名前がないことをとくに気にする様子もなかったが、わたしたちは「寺内公園」の名前を提案した。江戸時代ここは行元寺があり、「寺内」とよばれるようになった。新宿区の公園担当部局は、みどりや歴史のことはあまり関心がなく、わたしたちの要望はそのまま受け入れられた。 「寺内公園」では、新住民にはなにがなんだか分からなかろうということで、公園周辺の歴史や名前の由来を説明する看板をつくることになった。寺内の花柳界を昭和12年に浮世絵版画に仕立てたフランス人ノエル・ヌエットの絵も載せることにした。提供してくれたのは麹町のフランス人収集家クリスチャン・ポラックさんである。 2月初旬にそのゲラがでてきた。私は掲載直前の文章の校閲を担当した。 |
この文章の看板は「寺内公園」の案内板に書いてあります。
この奥、先にはまた階段です。この先は前に玄関があって、行っても行き止まりだと思うのは間違いです。クランク坂上につながるのです。
しかし、2016年1月に行くとこの場所はレストランが数軒集まったビルになっていました。
ピンコロ石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。
「本多横丁」の1つ、見返し横丁です。
見返し横丁の後ろから本多横丁を見たものです。右手に見えるものが東京理科大学の施設です。右をよく見てみると、新しい路地の表面が東京理科大に添ってあるですが、しかし一見しただけでは昔から全く変わっていないようにつくっています。
また下水道があるのですが、この上はまったく外と違っていません。「みなし道路」を作る場合にもっとも綺麗な道路です。どうしてここは外と違って綺麗なのか? 不思議ですが、右の建物が理科大なので、そこが違うのでしょうか。
2016年、法政大学デザインエ学部建築学科岡本哲志研究室の「東京のストリート景観と路地空間」(発行は法政大学エコ地域デザイン研究所)では……。
1945年3月と5月にあった東京大空襲では、残念ながら神楽坂一帯は焦土と化してしまう。先に検証した花街の立地変化を視野に路地を見ていくと、幾つかの路地が失われ、あるいは新たに誕生する変化を確認することができる。注目したい路地は、見返し横丁と呼ばれる路地である。この路地は現在袋小路の行き止まり路地である。先に述べた花街の変化によって、路地も変化した。 |
最後部はブロックで行き止まりになっていますが、本当は兵庫横丁につながっていたのです。
1978年には、つながっていますが
1980年には、なくなりました。
行き止まりになり、その後「見返し横丁」という名前もできてきました。
石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。 ここは「かくれんぼ横丁」です。
は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』で渡辺功一氏が発言したものの一部です。は私の説明です。また図の上下左右360度で動き、を叩くと地図は奥に進みます。
残念ながら、家のすぐ傍の土地を覆う石畳は中央を流れる石畳と流れは違っています。左側は扇の文様ですが、右側は一直線です。
これは「みなし道路」のためですね。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物建物は後ろに下げて作るのです。が、このセットバックで、路地は破壊してします。
しかし、左の流れは一見すると中央の流れと同じように見えますが、ここも違うようで、後から来た人が丹念に前と同じようにピンコロを填めていったのでしょう。残念ながマンホールは違います。
わかまつについて
今はない「わかまつ」です。2007年3月19日、火災で焼失。「神楽坂まちの手帖」第17号(けやき舎、2007年)では……
「かくれんぼ横丁」の情緒の復活を願う神楽坂の人々
持田晃(神楽坂三丁目・かくれんぼ横丁在住)
3月19目、午後12時50分ごろ、神楽坂3丁目の通称「かくれんぼ横丁」で火災が発生。火元となった「わかまつ」は、昭和30年代に建てられた古い木造家屋だったため、火はまたたく間に右隣の料亭「志の田」、左隣の馳走「紺屋」へと燃え広がりました。(中略) |
下の地図は2000年頃。「わかまつ」は赤い四角です。
「神楽坂まちの手帖」第15号の「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」(けやき舎、2007年)のイラストでは
神楽坂地区まちづくりの会「まちづくりキーワード集」(神楽坂地区まちづくりの会、1997年)では
「神楽坂の夜と昼」(アサヒグラフ、昭和63年6月3日、朝日新聞)では
伊勢藤の創業は昭和12年。しかし創業店は戦災で焼け、昭和23年に再度建築。町屋造りの酒亭です。場所はここ。
一代目はいい話だけでしか聞こえてきません。
二代目のモットーは…一、大声禁止。二、笑い声は微笑まで。三、ビールも焼酎もなく酒は燗酒のみ。四、女性の一人酒はご法度。五、感謝の気持ちで飲む。
現在は三代目。三代目はそこまでは厳しくないようですが、座敷から下品な笑い声があがるとやはり注意するそうです。
籐と藤。伊勢籐ではないか、という考えがあります。「たてかんむり」の籐 【トウ】はヤシ科のつる植物の総称。茎は強靭で、籐細工に使用。主に熱帯アジアやオーストラリア北部に分布。「くさかんむり」の藤【フジ】はつる性の落葉高木で、日本人には万葉の時代からなじみのある植物。しかし、どう考えても店の立て看板は伊勢藤だし、インターネットもほとんど全部伊勢藤と書いて「いせとう」とふりがながついています。藤という文字も「かずら(つる性植物の総称)」、「とう(木の名前)」という読み方もあります。