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牛込の文士達⑤|神垣とり子

 くろご朗読会というのがあって芝居好きの二十前後の若者たちがより集ってお互いに役割をきめてやる。発起者は築地六芳館の甥で中川某、「修善寺物語」の姉娘など寿美蔵ばりでよかった。うづまき石鹸の本舗の主人が森ほのほという劇評家なのでよくきていて若いくろご朗読会のめんどうを見ていた。口の大きい福地もよくやってきた。
 芝居の総見もやった。泰三は芝居にあんまり興味がなかったが若い連中とよくつきあった。それに大正日日という新聞社へ里見弾と一緒に入社したので「御社(おしゃ)」といわれる芝居の二日目に芝居へ出かけ、新聞に劇評をかくので役にたった。もっとも「新演芸」の内山佐平に、「御所の五郎蔵」の落入り胡弓がはいるのをヴァイリンかといって笑われたぐらいだけど。
くろご朗読会 ラジオの脚本朗読に加わった団体のひとつだ、と遠藤滋氏の「かたりべ日本史」(雄山閣、昭和50年)
築地六芳館 「憲政本党党報」第3巻749頁では「12月22日出京、京橋区築地六方館に投宿」と書いてあります。旅館でしょうか。
寿美蔵 市川寿美蔵(すみぞう)。上方の歌舞伎役者。
修善寺物語 戯曲、歌舞伎作品。一幕三場。岡本綺堂作。面作りにかける夜叉王の職人気質や頼家暗殺のドラマなどを織り込み、舞台は大評判に。
姉娘 年上の娘
うづまき石鹸 「日本橋街並み繁昌史」262頁によれば、日本橋横山町二丁目の近江屋天野磯五郎店が石鹸「ウヅマキ」を販売したようですが、石鹸を生産したのかは不明です。
森ほのほ 京都の劇評家、狂言批評家。
福地 不明ですが、新聞記者、政治家、劇作家の福地源一郎氏では? 歌舞伎座を建設するのですが、生年は天保12年3月23日(1841年5月13日)、没年は明治39年1月4日と、少し早く死亡しています。
総見 そうけん。総見物の略。全員で見物すること。芝居・相撲などの興行を支援するため、団体などの全員が見物すること。
大正日日 1919年11月、大阪で創刊した日刊新聞。大阪の商人の勝本忠兵衛が破格の資本金200万円で創設。先発の大阪毎日新聞、大阪朝日新聞から仇敵視され、妨害を受け、翌20年7月、大本おおもと教に買収。
御社 御社日。おしゃび。演劇・興業の世界では、演劇関係者や記者の公演招待日
新演芸 大正5年~14年、出版社の玄文社が「新演芸」誌を作り、毎月、東京の各劇場を総見して批評した演劇合評会が有名だった。
内山佐平 大正5年~14年、出版社の玄文社の社員。その後、JOAK(現、東京放送局NHK)に移ってラジオ番組を制作した。
御所の五郎蔵 歌舞伎狂言「曽我そが綉侠もようたてしの御所染ごしょぞめ」の後半部分の通称
落入り おちいり。歌舞伎で、息の絶えるさまをする演技
胡弓 こきゅう。東洋の弦楽器。形は三味線に似て小形。弦は三本か四本。馬の尾の毛を張った弓でこすって演奏する。
ヴァイリン バイオリン。管弦楽や室内楽において中心的役割を果たす擦弦さつげん楽器。おそらく泰三が胡弓を間違えてバイオリンといったのでしょう。

 「生きている小平次」の作者鈴木泉三郎第一書房長谷川巳之吉玄文社のお歴々が神楽坂へよくやって来た。鈴木泉三郎は四谷銀行の行員の伜で、大番町の水車のある川岸に家があって山形屋小間物店の娘を嫁にもらってちょっと評判になった。「八幡やの娘」や「美しき白痴の死」を書いたが若死にをして惜しかった。
 坂本紅連洞という名物男がいた。長い黒いマント姿で、顔が長く文士の誰彼をつかまえて、やい1円出せ。税金取り立てよりこわいらしく誰でも出す。いやだという者は1人もいないのが不思議だ。島村抱月もとられた一人だった。『ヤイ島村』と呼びつけられても怒らなかったそうだ。何の会でも木戸御免でまかり通っていた。谷垣精二の近くの弁天町に独身で間借りしていた。どういう風の吹きまわしか私は気に入られていた。グレゴリー夫人作の「月の出」が有楽座にかかった時入場券をくれたり、トルストイの「闇の力」の入場券をくれた。
生きている小平次 鈴木泉三郎作の戯曲。三幕。大正13年『演劇新潮』に発表。大正14年6月新橋演舞場で、六世尾上菊五郎などで初演。内容は、歌舞伎囃方の太九郎は役者の小幡小平次から妻をほしいといわれ、舟の外に突き落としてしまう。10日後、役者の小平次は妻の前に現れたが、太九郎が現れ、役者を殺してしまう。太九郎と妻は江戸を逃げ出すが、小平次のような旅人がついていく。ここで終わり。
鈴木泉三郎 すずきせんざぶろう。「新演芸」を編集し、戯曲「八幡屋の娘」「ラシャメンの父」「美しき白痴の死」などを執筆。12年2月6代目尾上菊五郎が「次郎吉懺悔」を上演し好評だった。玄文社の解散にともない、以後文筆生活に入る。絶筆の「生きてゐる小平次」は代表作。生年は明治26年5月10日。没年は大正13年10月6日。享年は満32歳。
第一書房 1923年、創業。1944年3月、廃業。絢爛とした造本の豪華本を刊行
長谷川巳之吉 はせがわみのきち。雑誌・書籍編集者。「玄文社」に入社、『新演芸』などを編集した。生年は明治26年12月28日、没年は昭和48年10月11日、享年は満79歳
玄文社 大正5年~大正14年、東京の出版社。単行本の他、月刊雑誌『新家庭』『新演芸』『花形』『詩聖』『劇と評論』も発行。
四谷銀行 明治30年10月、東京市四谷区伝馬町(現在の東京都新宿区四谷)に設立。大正11年11月、京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎが始まり、本行も休業し、このまま整理中。最終的に昭和2年に廃業した。
大番町 四谷大番町。現、新宿区大京町。
山形屋小間物店 山形屋は宝暦元年(1751年)に創業した鹿児島の百貨店?
八幡やの娘美しき白痴の死 国会図書館で鈴木泉三郎戯曲全集を無料閲覧中
木戸御免 きどごめん。相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
グレゴリー夫人 アイルランドの劇作家・詩人。Isabella Augusta Gregory。アベー座を開場し、アイルランド伝説の収集に努力し、そこに基づいた戯曲を書いた。一幕物「月の出」は1907初演。生年は1852年3月15日、没年は1932年5月22日。

 花柳はるみ中野秀人と神楽坂を歩いていたり、長田幹彦の兄の秀雄が新婚の細君と仲よく田原やへ姿を現わしていた。神楽坂の中途にある牛込会館汐見洋金平軍之助八重子を座長にして芸術座を起したので、俳優達も街を賑わしていた。ダルクローズの体育学校を出てきた山田五郎の弟子がステッキを妙な風について得意がって歩いていた。
 近代劇場というのが出来て、「時事」美川徳之助――美川きよの実兄――が「リリオム」で舞台にたって浅野慎次郎田中筆子が参加した。田中筆子は沢田正二郎東京明治座で旗上げした時に初舞台をした気のきく子役で、その時これもやっぱり早稲田の学生で、俳優になって島村抱月を崇拝し教授の片上伸の名をとって月村伸と名乗った男と出演した。
花柳はるみ 女優。大正4年、芸術座の「その前夜」で初舞台。7年、帰山教正のりまさ監督の「生の輝き」に主演し、日本映画の女優第1号となる。35歳で引退。生年は明治29年2月24日、没年は昭和37年10月11日。享年は満66歳。
中野秀人 なかのひでと。詩人、画家。大正9年、プロレタリア文学評論「第四階級の文学」を発表。昭和15年、花田清輝きよてるらと「文化組織」を創刊。戦後も前衛的な創作活動をつづけた。詩集は「聖歌隊」、小説は「精霊の家」など。生年は明治31年5月17日。没年は昭和41年5月13日。享年は満67歳。
金平軍之助 映画の出演、製作を行った。出生地は東京市本郷。生年は明治38年年5月7日
芸術座 大正2年、島村抱月氏と松井須磨子氏を中心に東京で結成した新劇の劇団。抱月・須磨子の急死で、大正8年、解散。大正13年、水谷竹紫氏が義妹水谷八重子氏を中心に再興。昭和20年、竹紫の死で自然解消。
ダルクローズ スイスの音楽教育者、作曲家。リズムと身体運動を結びつけた教育方法リトミックを創始。世界の幼児教育に多大な影響を与えた。
山田五郎 昭和の舞踊家。能楽に学び、大正15年、米国で舞踊家となり、パリのオデオン座に出演。昭和3年帰国し、能をとりいれた「猩々」などを演じた。生年は明治40年1月22日、没年は昭和43年12月21日。享年は満61歳。
得意がる 盛んに得意な様子をする。誇らしげにふるまう。
近代劇場 どうも「近代劇場」という劇場が実際にあったようです。1926年にこの劇場で「リリオム」が初演されています。
「時事」 時事新報です。美川徳之助氏は時事新報の記者でした。
美川徳之助 随筆家。大丸に務めていた父の命でロンドン1年間、パリ5年間の遊興生活。帰国後、時事新報5年間、読売新聞27年間勤め企画部長で退職。「愉しわがパリ―モンマルトル夜話」「パリの穴東京の穴」など。生年は明治31年。(村上紀史郎「バロン・サツマ」と呼ばれた男。藤原書店。2009年)
美川きよ 小説家。大正15年「三田文学」に「デリケート時代」を発表。昭和5年以降こまやかな女性心理をえがく短編を手がける。長編小説「女流作家」「夜のノートルダム」など。生年は明治33年9月28日。没年は昭和62年7月2日。享年は満86歳。
リリオム ハンガリーの作家モルナールの戯曲。7場。ブダペストの遊園地を背景に、気のいい乱暴者リリオムの生と死を、現実と空想の交り合った手法で描いた悲喜劇。
浅野慎次郎 俳優。第二次芸術座に参加。『ドモ又の死』など。
田中筆子 女優。大正2年、第二次芸術座の「青い鳥」に出演後、金平軍之助が主宰する近代劇場に参加し、脇役女優として活躍。生年は1913年3月16日、没年は1981年2月23日、享年は満67歳。
東京明治座 中央区日本橋浜町にある明治座です。都営新宿線の浜町駅、都営浅草線の人形町駅、日比谷線の人形町駅から行け、また、東京駅からは八重洲口の無料巡回バス「メトロリンク日本橋Eライン」を使っても行くことができます。
月村伸 俳優。松本克平氏の「日本新劇史」(津熊書房、1966)には島村抱月氏の告別式の写真が載っていますが、そのなかに若いころの氏の写真がありました。

文豪の素顔|森鴎外(1)

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が1953年の66歳の際に書かれた『文豪の素顔』です。氏は1887年3月1日に生まれ、没年は1964年5月6日なので、これは21歳に起きたことです。この日、森鴎外氏、上田敏氏、夏目漱石氏が一か所に集まったのです。これはその時の話です。

 森鴎外
 今夜の青楊会の会合は午後六時の開宴である。今は丁度三時だ。まだ彼これ三時間間があるわけである。はその間に何んとかして兄秀雄と二人分の会費を算段してこなくてはならないのである。二人で十円あれば、悠々と会へ出られるのだが、打つてもみしやいでも僕のガマロには五十銭玉がたつたひとつしか残つてゐない。まことにお寒い昨今である。兄秀雄は昨夜七時すぎに吉井勇と落合つて家を飛び出してしまつたきり、例によって膿んだでもなけりやつぶれたでもない。きつと又あのまま神楽坂の小待合へでも溺没してしまつたのであらう。きつと会がはじまる頃に、白粉くさくなつて、ひよろりと現はれるに相違ない。

森鴎外

森鴎外

森鴎外 明治・大正期の小説家、評論家。軍医総監。医学博士・文学博士。本名は(もり)林太郎(りんたろう)。生年は1862年2月17日(文久2年1月19日)。没年は1922年(大正11年)7月9日。明治41年に行った上野精養軒の会合は46歳になっていました。
青楊会 せいようかい。森鴎外氏が作った送別会などの、文学者の宴会です。「鷗外日記」によれば明治41年(1908年)「四月十八日(土) 夜上野の青楊會に往く。夏目金之助等来会す」と書いています。また、これは3回目の青楊会でした。4月25日の上田敏宛の手紙では「君を送りまつりし會より生れし青楊會の三度目に又々夏目君などと出逢い候」と書いています。

長田幹雄

長田幹雄

 長田幹雄。ながたひでお。小説家。東京の生まれ。生年1887年3月1日、没年は1964年5月6日。秀雄の弟。「明星」「スバル」に参加。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名。この日は21歳でした。

長田秀雄

長田秀雄

秀雄 長田秀雄。ながたひでお。詩人・劇作家。生年は1885年(明治18年)5月13日。没年は1949年(昭和24年)5月5日。東京の生まれ。明治大学で学ぶ。幹彦の兄。「明星」「スバル」に参加。新劇運動に加わり、史劇で新分野を開きました。この時は23歳。
みしやい 「みしゃぐ」でしょうか。押しつぶす。ひしゃぐ

吉井勇

吉井勇

吉井勇 よしいいさむ。歌人・劇作家。生年は1886年(明治19年)10月8日。没年は1960年(昭和35年)11月19日。東京の生まれ。早稲田大学中退。耽美派の拠点となる「パンの会」を結成。歌集は「酒ほがひ」「祇園歌集」「人間経」、戯曲は「午後三時」「俳諧亭句楽の死」など。22歳。
膿んだ ()む。化膿(かのう)すること
溺没 できぼつ。おぼれて沈むか、死ぬこと

 何よりも困つたのは、僕が虎の子のやうに愛蔵してゐた、あの「ゾラ全集」と「ゴンクール全集」をまんまと持ち出されてしまつたことである。兄貴のこの頃の御乱行は実さい眼にあまるものがあつた。悪友勇と一しよになると、手あたり次第に何んでもかでも持ち出してしまふ。一昨日なぞは親父の外套をきていつてしまつたので、親父は患家へ回診に出かけることも何も出来ず診察室でぷんぷん代診たちに当りちらしてゐた。真正直な温良な、実にいい親父であるだけに、僕はすつかり義憤を発して、もし深夜に兄貴が酔つぱらつて帰つてきたら今夜こそとたんにひつぱたいてやらうと思つて手ぐすねひいて待つてゐた。僕はボートできたへた腕なので、腕力では誰れにもまけない自信があつた。
 秀雄はたうとうその晩も帰つて来ず、昨日の正午頃、親父の外套は質にぶちこんだらしくふらりと帰つてきて、そのまま飯もくはずに二階へあがつて夜着をひつかぶつて寝てしまつた。実さい呆れ返つて、口がきけない。
 夕方になると、勇が叉現はれて、僕がちよつと出た留守に、二人でくだんの全集をひつかつぎ出したものに相違ない。四ケ月も五ケ月も学資の残余をこつこつためて、やつと買つた全集であるだけに、まんまとシテやられた口惜しさ! さすがの僕も腹をすゑかねた。弟のものはおれもの、おれのものはおれのもの式な、兄貴のわがままな横暴さが骨髄に徹して僕はどうしてくれようかと、全く切歯扼腕したのであつた。一たい兄貴のやうなぐうたらな土性骨のない人間はその時分でも珍らしかった。親父ももう此頃では、持余して、毎日心の中では血の涙をのんでゐるらしかった。
虎の子 虎は自分の子をかわいがって育てる。それと同じで、大切に持ち続けて手放さない。
ゾラ Émile Zola。フランスの小説家。生年は1840.4.2。没年は1902.9.29。「実験小説論」を著し、自然主義文学の方法を唱道。
ゴンクール Edmond & Jules Huot de Goncourt。フランスの兄弟の小説家。自然主義の小説を合作。また、日本の浮世絵の研究・紹介にも努めました。
代診 担当の医師に代わって診察すること
切歯扼腕 せっしやくわん。歯ぎしりをし腕を強く握り締めること。残念や怒ったりすること
土性骨 どしょうぼね。性質・性根を強めて、ののしっていう語
 さうかといって、今夜の会費だけは何んとかしてこしらへておいてやらないと、僕までが皆の前で恥ぢをかかなくちやならない。今夜は珍らしく森鴎外、上田敏夏目漱石の三先生がみえるといふので、われわれ文学青年にとつては、又とないかき入れの会合であつた。
 僕は万策つきて、たつた一枚しかないオーバーで金をこしらへるより外に手段はなかつた。幸ひ行きつけの質屋が、本郷にあるので、電車でそこへいつて、店先でオーバーをぬいで、やつと五円紙幣を二枚うけとつた。もう四月も十日過ぎ、桜の花もぽつぽつ咲きそろふ頃なので、薄地の背広一枚でもさうたいして寒くなかった。

上田敏

上田敏

夏目漱石

夏目漱石

上田敏 うえだ びん、文学者、評論家、翻訳家。生年は1874年(明治7年)10月30日。多くの外国語に通じて名訳を残しました。明治38年、訳詩集「海潮音」を刊行。明治41年、欧州へ留学し、帰国後、京都帝大教授に。没年は1916年(大正5年)7月9日。死亡は41歳でした。この日は34歳でした。
夏目漱石 なつめ そうせき。小説家、評論家、英文学者。生年は1867年2月9日(慶応3年1月5日)。没年は1916年(大正5年)12月9日。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を教え「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になりました。41歳。

 僕はその足で白山の御殿町にゐる木下杢太郎が一番鵬外先生に親 近してもゐたし、信用も一番あつたので、木下杢太郎のところへ廻つた。といふのは杢太郎が先生のお宅へ誘ひにあがつて、ごいつよに会場である上野の精養軒へお連れするのではないかと思つたからであった。もしかさうだつたらかねがねから近づきがたい先生にたつたひと言でも話しかけてみたいと、柄にもない念願をおこしたからであった。
 その時分の一しよのグループであった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇の面々の間で、僕は年も二つや三つ下だし、それよりも第一秀 雄の舎弟とあっては一向に頭角を現はすわけにいかない。皆さうさうたる売り出しの詩人達であるから僕のやうな才の薄い散文家は、いつも卑屈な立場に立たされた。上眼づかひをしながら心にもないおベンチャラをいつてゐるしか手がない。だから秘蔵の書籍なんか遊蕩費がはりに持ち出されても実さいは、先輩や兄貴を張り倒すわけにもいかない退け目があつたわけである。お前はまだ処女膜が破けてゐねえんだなぞと人前でボロクソにいはれて、三下奴でへこへこしながらくッついて歩いてゐる情なさといったら全くなかった。一度なぞは勇が幹さん、その時計をかせッと叫んで僕の袴の紐へ手をかけて、何んともいへぬ貧ランな殺気をみせた。つまり僕の時計で金をこさへてもうひと晩吉原へいかうといふのである。僕はこれが文学のうへの先輩でなければ、むろん地面へ叩きつけてやつたに相違ない。僕だつて反面は狭量な一徹者であつたから、酔つてフラフラしてゐる勇ぐらゐひッぱたくのはへいちやらであつた。
 しかし彼の「酒ほがひ」にある一連の名歌を思ふと、碌すつぽなものもかけない自らを省みて何としても彼の頭へ鉄拳を加へるなんていふ勇気は、いつの間にかへなへなと消し飛んでしまふのである。しかし心の中ではいつも今にみやがれッと絶叫して虎視たんたんとしてゐたのは事実である。全くあの時分の吉井勇は名詮自称、無頼漢であり、智能人にすぐれてゐるくせに、手のつけられぬ洛陽の酒徒であった。秀雄、勇の徒は自分で質屋で金をこさへてくると、こっそり一人遊びをやるし、他人が金をもつてゐると弟だらうが先輩だらうが卜コトンまでタカつて素裸にしてしまふ。古風な蕩児らしいエゴイズムと残忍さをつぶさに身につけてゐた。

御殿町御殿町 白山御殿町。町の大部分は白山御殿の跡です。左手に東京大学付属の小石川植物園があります。

木下杢太郎

木下杢太郎

北原白秋

北原白秋

木下杢太郎 きのした もくたろう。詩人、劇作家。後に東京大学医学部皮膚科教授。生年は1885年(明治18年)8月1日。没年は1945年(昭和20年)10月15日。本名は太田正雄。23歳。
精養軒 明治期の上野精養軒せいようけん。東京都台東区上野恩賜公園内にある最も古い西洋料理の店。図は明治期の上野精養軒
北原白秋 きたはら はくしゅう。詩人、童謡作家、歌人。生年は1885年(明治18年)1月25日。没年は1942年(昭和17年)11月2日。23歳。
三下奴 さんしたやっこ。博打(ばくち)打ちの仲間で下っ端の者。
貧ラン どんらん。貪婪。とんらん。ひどく欲が深いこと
一徹者 いってつもの。思いこんだことはあくまで押し通す人
酒ほがひ さかほがひ。吉井勇の歌集。 1910年刊。718首を収録した第1歌集。青春の挫折感から酒と愛欲に耽溺した境地をうたったものが多く祇園を舞台とした歌が特に有名。「ほかう」は望む結果が得られるようなことばを唱えて神に祈ること。後世には濁って「ほがう」の形になりました。
虎視たんたん 虎視眈眈。こしたんたん。虎が鋭い目つきで獲物をねらっている様子。転じて、じっと機会をねらっているさま
名詮 みょうせん。仏語。名がそのものの性質を表していること
洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。洛陽に京都という意味もありますが、吉井勇氏は東京生まれなので、この場合は洛陽は東京でしょう。
蕩児 とうじ。正業を忘れて、酒色にふける者

文豪の素顔|森鴎外(6)

文学と神楽坂

 僕は二年間の旅をおわつて、又風のごとくにへうへうと東京へ帰つてきた。明治四十四年の秋である。親父の家へ帰り度くても何だか敷居が高くて、帰りにくい。とにかく僕は、早稲田大学で相当真剣に勉強をしてゐて、決して学生として恥ずべき行為はしてゐなかつたにも拘らず、父がたうとう最後の手段として兄貴にの勘当をくはした。僕も実はそのそば杖をくつて、勘当の同伴を命じられたわけである。それといふのも僕の母親が秀雄を糞ッ可愛がり可愛がつてゐたので、親父への面当てに僕も追ひ出してしまへといふことになつたのである。こんな不条理な、封建的なことが平気で親子の間で行はれた時代が、日本にもごく最近まであつたのである。
 僕は窒息しさうな汚濁の雰囲気を離脱してたつた一人で北海道へ渡つてしまつた。二年間の放浪でずゐぶん苦労もしたので、人生の甘くないこともしみじみ感じとつてゐた。もう二度とふた度ああいつた詩人のグループなんかへ帰つていく気はしない。多愛のない芸術至上主義なんてものか、阿呆ッくさくみえてたまらなかつた。
 何にしろ長い間、東京を留守にしたのであるから、再び生活の根拠をきづきあけるのにひと骨折りをしなければならなかつた。当分の間は、収入の道が全くないのであるから、やむを得ず、友人の家をごろごろして歩くより外に暮らしやうがない。
 さういふ場合詩人たちは全然頼りにならなかつた。酒を飲むときには莫逆の友になるが、いざ生活のことになると、実さい酷薄をきはめたものであつた。尤も自分自身が既に無能力者で、手も足も出なかつたからであらう。いつの世にもさうだが、詩人の生活なんていふものは、溝川に消えてゆくあぶくのやうな頼りないものである。
 そこにまた美しさがあるのかもしれない。
 僕はある日杢さんを訪ねていつた。いつも変らなかつたのは、杢さんひとりである。
「やあ、よく帰つてきたね。たびたびおたよりありがたう。今度はほんとにいい経験をしたな。はゝゝゝゝ。」と、心から温情を示してくれる。
 さしづめ兄貴のゐどころが分らないので、それを聞くと、
「秀さんかね。秀さんは相変らず、あの浜町の桶屋の二階にくすぶつてるよ。一昨日もちよつと永代橋附近をスケッチして歩いたんでその帰りに寄つたがね。あすこは相変らす、梁山泊だな。今にあの天井裏のサロンもやがて壊滅するね。秀さんには、生活能力なんてものは全くないんだからな。」
「吉井君は。」
「吉井は下谷あたりに隠れてるらしいね。この頃ちつともパンの会も出て来ないがね。」といつて杢さんはぶきつちよな手つきで煙草に火をつけながら、「とにかく北海道のくさい匂ひのぬけないうちに、何かいいものをかくんだな。幹さん、今がチャンスだよ。」

へうへう 「へうへう」と書いて「ひょうひょう」と読みます。漢字では「飄飄」。足元がふらついているさま。また、目的もなくふらふらと行くさま。
たうとう 「たうとう」と書いて「とうとう」と読みます。物事が最終的にそうなるさま。ついに。結局
 「おさ」でも「ちょう」でも。多くの人の上に立ち、統率する人。
面当て つらあて。快く思わない人の面前で、わざと、あてこすりを言ったり意地悪をしたりすること。また、その言動。あてつけ
汚濁 よごれること。にごること。
多愛のない 他愛無い。たあいのない。しっかりした考えがない。また、幼くて思慮分別がない
芸術至上主義 芸術のための芸術を主張し、芸術の社会的・道徳的効用を否定する思潮
莫逆 ばくげき。 心に逆らうこと()しの意で、非常に親しい間柄。ばくぎゃく。
酷薄 こくはく。残酷で薄情なこと。
溝川 どぶがわ、どぶかわ。雨水・汚水などが流れる小さな川。どぶのように汚い川
浜町 日本橋浜町。下図を参照
永代橋 隅田川に架かる橋。中央区新川と江東区永代とを結ぶ。
梁山泊 りょうざんぱく。豪傑や野心家の集まる場所
下谷 したや。東京都台東区の町名。地図では赤くて長い場所
 ニシン。鰊とも。全長約30センチ。北太平洋に広く分布し、沖合を回遊。春季、産卵のために接岸する。卵は数の子です。

橋名前

「さういつてもらうとほんとにうれしいんですが、……実はひとつかいたものがあるんで「スバル」の編集へ届けてあるんですがね。」
 杢さんは思ひ出したやうに、
「あ、それかね。平出君は推せんしてゐるが吉井が反対なんで、のせられないんださうだね。もつともあの連中は、散文は分らないからね。」
 僕はそんな消息は全く初耳なのである。とにかく僕のかいたものが、編集で一応問題にはなつてゐるのだなと思ふと、胸が熱くなつてきた。
 杢さんはしばらくすると、とにかく久振りだから何処かへ出ようといふ。例の小型のスケッチ・ブックをポケットヘ押し込んで、大学の制帽を眼深かにかぷつて、自分が先に格子戸を出る。
 追分のところまで来かかると、杢さんはふつと立ち止つて、
「ねえ、幹さん、ちよつと千駄木町のメートルのところへ伺候してみようぢやないか。」といつて「今日は日曜だからむろん家にをられるだらう。」
 僕は願つたり、叶つたりである。鴎外先生にお眼にかかれやうなんていふことは、北海道以来考へたこともなかつた。最近のお作を拝見すると、何んだかあまりにも底光りがしてゐて、全くこわれわれ青年には近づき難かつた。
 千駄木町のお宅へいつてみると何のこともない、先生は無雑作に御自分で玄関へ出てみえて、
「やあ、木下君、今日は生憎仕事をやり出したんでね、長くは逢つてゐられないが、まあ二十分位ならいいだらう。」と、笑つて奥へ入つていかれる。
 すぐ下に崖地のみえる八畳で先生と対座した時には僕はもういくらか気持が落ちついてゐた。うつかりしたことをしゃべつて、軽蔑されては大変だと思ふせいか、つい言葉も淀みがちである。両肩はしきりにこつてくる。喉は乾いてくる。
 先生は夜来のお仕事で疲労してゐられるとみえ、お顔色も冴えないし、眼も濁つてゐた。はじめは杢さんと、何か独逸語で、医学上の話をしてをられたが、やがて僕の方をむいて、煙草の火をみながら、
「長田君、君は長田フイスとでも呼ぶべきだね。ジュマフイスのフイスだ」と、かうかふやうに笑つて、「昨日、平出君がきてね。今度君は大変にいいものを「スバル」にかいたやうだね。どういふもんだ。いづれ北海道の材料なんだらう。」
 僕はどもりながら、煙草をもつ手をふるはして、
室蘭でみてきた事実なんです。」
「なるほどね。噴火湾の夜景が実によくかけてゐるといつて、平出君が激賞しとつたよ。君は詩をやめて、小説をかくんだな。」

平出修スバル 「明星」の後進の詩歌雑誌。平出修が経営。同人平野万里、石川啄木、吉井勇が交互に編集。スバルは森鴎外の命名。
平出 平出(ひらいで)(しゅう)。評論家、小説家、歌人、弁護士。浪漫主義系の文学者。生年は1878年(明治11年)4月3日。没年は1914年(大正3年)3月17日。明治法律学校卒業。「明星」の同人として活躍し,その廃刊後は石川啄木や吉井勇らと「スバル」を刊行。一方で神田神保町に法律事務所を開業するリベラルな弁護士でもあり、幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。
消息 動静。様子。状態
眼深か めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
千駄木町 千駄木町。東京都文京区の町名。ここに森鴎外が住んでいました。住所は本郷ほんごう駒込こまごめせん町57番地。現在は文京区向丘2丁目20番7号です。下図を。猫の家
伺候 しこう。目上の人のご機嫌伺いをすること
底光り そこびかり。うわべだけの飾った輝きではなく,その物の本質に根ざした光
> フイス アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)。フランスの劇作家、小説家。小さな世界をしっとりと描くのが作風。高級娼婦(クルチザンヌ (英語版))マリー・デュプレシと出会い、1848年2月、24歳の時に思い出を小説『椿姫』として書き上げて出版し、これが代表作です。
室蘭 北海道南西部の市。内浦湾(噴火湾)に突き出す絵鞆(えとも)岬と地球岬がある
噴火湾 内浦湾。うちうらわん。北海道渡島(おしま)半島東側にあるほぼ円形の湾。実際は噴火ではないと考えられる。

噴火湾

 杢さんは自分のことのやうによろこんで、
「僕も常にそれをいつとるんです。われわれとはテムペラメントのうへでも、幹さんは既に異端者なんだから。はゝゝゝゝゝ。ゾラと懸命にとッ組んでゐるのはいいことですよ。」
「ゾラヘ入つていくのか。フローベルは何を読んだ。」
「『ボバリー』と『感情教育』と『セント・アントアヌの誘惑』です。」
「フランス語でよんどるのかね。」
「とんでもない。むろん英訳です。」
「ふむ。君は早稲田だつたね。」
「は、英文科です。」
坪内君のシェークスピアの講義は面白いといふぢやないか。」
「は、声色入りで、寄席へいくより面白いです。」と、答へて、私は苦いお茶をいただきながら、
「いつでしたか『マクベス』をやつとられてあんまり歌舞伎調の台詞が神に入りすぎたんで、学生たちがうつかりわッと拍手喝釆をしたんです。ところが先生は激怒されて、それつきり講義はふいになつてしまひまして。」
 鴎外先生はさも可笑しさうに、大笑されて
「はゝゝゝゝ。面白いね。僕はシェークスピアのやうなクラシックでもやはり現代語で訳した方がいいんぢやないかと思ふんだ。それで何かい、君はもう早稲田を出たのかね。」
「いいえ、これから論文を出して、むりにも卒業させてもらはうと思つてゐるんです。」

テムペラメント temperament。気質、気性。character は特に道徳的・倫理的な面における個人の性質。personality は対人関係において行動・思考・感情の基礎となる身体的・精神的・感情的特徴。individuality は際立った個人特有の性質。temperament は性格の基礎をなす主として感情的な性質
ゾラ エミール・フランソワ・ゾラ。Émile François Zola。フランスの小説家。生年は1840年4月2日。没年は1902年9月29日。自然主義文学の方法を唱道。その実践として「居酒屋」「ナナ」「大地」などの作品を含む「ルーゴン‐マッカール叢書」20巻を発表しました。
フローベル ギュスターヴ・フローベール。Gustave Flaubert。フランスの小説家。生年は1821年12月12日。没年は1880年5月8日。ルーアンの外科医の息子として生まれ、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年、4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。
ボバリー ボヴァリー夫人 。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、作者の代表作。1856年10月から12月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載、1857年に風紀紊乱の罪で起訴されるも無罪判決を勝ち取り、同年レヴィ書房より出版されるやベストセラーに
感情教育 19世紀も半ば、2月革命に沸く動乱のパリを舞台に多感な青年フレデリックの精神史を描く。小説に描かれた最も美しい女性像の一人といわれるアルヌー夫人への主人公の思慕を縦糸に、官能的な恋、打算的な恋、様々な人間像や事件が交錯。
セント・アントアヌの誘惑 聖アントワヌの誘惑。フローベールが30年の歳月をかけて完成した夢幻劇的小説。紀元4世紀頃、テバイス山上にて隠者アントワヌは、一夜の間に精神的生理的抑圧によって見たさまざまな幻影に誘惑されながら、十字架の許を離れず、生命の原理を見出して歓喜する。
坪内 坪内逍遥。つぼうち しょうよう。小説家、評論家、翻訳家、劇作家。生年は1859年6月22日(安政6年5月22日)。没年は1935年(昭和10年)2月28日。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』とシェイクスピア全集の翻訳
シェークスピア ウィリアム・シェイクスピア。William Shakespeare。イングランドの劇作家、詩人。洗礼日は1564年4月26日。没年は1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)。「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残しました
マクベス 荒筋は11世紀スコットランドの勇敢な武将マクベスは魔女の暗示にかかり王ダンカンを殺し悪夢の世界へ引きずり込まれていくというもの。

「北海道にをつた間、休んでをつたのかい。」
「さうです。」
「論文は何をかく。」
「思ひ切つてスカンヂナビアの文学をやつてみようと思つてゐます。」
イプセンか、ストリンドベリーかい。」
「いいえ、僕はビヨルンソンです。」
 先生はさも意外さうに、
「ビヨルンソンとは不思議なものを掘り出してきたね。何を読んだの。」
「『マンサナ大尉』や『母の手』『ソルバッケン』」
 先生は煙草の吸殻をぽいと放つて、
「まあ、とにかく勉強することだね。小説は四十過ぎてからかいて丁度いいんだから、あせる必要はない。君の兄さんが此間何かにかいとつかね。『司祭と猫』といふ詩さ。あれはいいものだつたね。」
 杢さんは傍から口を入れて、
「ありやいい詩でしたね。秀雄にしちや珍らしく色感のすぐれたもんでしたね。」
「まるで白秋そつくりだつたね。」
 僕はぎよッとしてしまつたのである。兄貴はあの『司祭と猫』まで自分のものにかきかへて世間へ出してゐるのかと思ふと、僕は腹がたつよりも、兄貴の生活の窮迫さが眼にみえるやうで、脊筋がひやッこくなつてきた。『司祭と猫』はわづか二枚ほどの散文詩で、僕はノートの隅へかきつけて机の抽出しへ放り込んでおいたのである。道理でそのノートは、今度かへつてきて調べてみると、いつの間にか紛失してしまつてゐた。僕が北海道へいつてゐた間ぢゆう、僕の机と木箱は親父の家へ頂かつてもらつてゐたのである。その机の抽出しから持出したものらしい。

スカンヂナビア スカンジナビア(Scandinavia)。ヨーロッパ北部の半島。西をノルウェー、東をスウェーデンが占めます
イプセン ヘンリック・イプセン。Henrik Johan Ibsen。ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。生年は1828年3月20日。没年は1906年5月23日。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家る。代表作には『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』など。
ストリンドベリー ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ。Johan August Strindberg。スウェーデンの作家。生年は1849年1月22日。没年は1912年5月14日。
ビヨルンソン ビョルンスティエルネ・ビョルンソン。Bjørnstjerne Bjørnson。ノルウェーの作家。生年は1832年12月8日。没年は1910年4月26日。1903年にノーベル文学賞を受賞。
意外 実は鴎外が訳したものもあるのです。これから22年ほど先の1913年、「新一幕物 人力以上」です。
マンサナ大尉 原語ではKaptejn Mansana。英語訳はCaptain Mansana。日本語訳はなさそうです
母の手 不明です。
ソルバッケン Wikipediaの訳書では「アルネ シンネエヴェ・ソルバッケン 手套」。原語ではSynnøve Solbakken。農夫の物語
司祭と猫 本当にあったのでしょうか。ほとんどの詩集には出ていません。不思議です。

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(4)

文学と神楽坂

 さて食堂でどんなことかあつたか、さすがに今では一々記憶してゐないが、秀雄は二度立つてきて、底光りのする眼でおどかすやうに、
「おい、幹さん。金もつてないか。」と、酒くさい口でしつこくこだはつた。それからすぐ斜向ふで、上田先生が、自分の煙草の煙にむせながら、ルノアールの話をしてをられたのを、はつきり覚えてゐる。あの角刈りの頭を横にふつて、煙草のやにで黒くなつた歯を出してあッはッはッはッとあけッぱなしに笑はれる顔を思ひ出すと、今でもとてもなつかしい。上田先生はなかなかの男前であつた。
 夏目先生は、一番むッつりであつた。面白くなささうな白ばッくれた顔をして腕ぐみばかりしてをられた。『猫』のクシヤミ先生が鼻毛をぬいてゐるかつかうそつくりである。
 鷗外先生はお酒をあがると、つやつやしたお顔になつた。細い鬚をふるはして、感慨深さうに何かしきりに杢さんに話してをられる。
 ひよいとした拍子に、「センズリ」といふ言葉が、かなり高調子にはつきりと先生のお口から洩れたので、一座の人たちはぎよッとしたらしかつた。さうした露骨な下品な表現は、その時分の文壇では許されなかつたものである。あんまり唐突であり、しかも先生は笑ひもせずに話してをられるので、若いわれわれが聞き耳をたてたのはむりもあるまい。
 だんだん伺つてゐると、やつと話の経緯がわかつてきた。何んのきつかけからか性的事実の話題がもちあがつて、先生はつまりキンゼイ報告のやうなものを、平気でしやべつてをられるのであつた。或ひは軍医学上の観点から兵営に於ける兵士たちの性生活に関する()()()()を傾けてをられるらしくも思はれた。何にしろさながら試験管中の現象について語るごとくに、いかにも平静に、しかも科学的に、露骨な固有名詞を用いて滔々と諭じてをられるので、私たちはうつかり笑ふことも出来ない。みんな息をつめて、厳粛な顔をして傾聴してゐた。
 その中で今でも覚えてゐるのは、某師範学校の女子部の寄宿舎における夜中の自瀆行為の描写であつた。若い女教員の卵たちが性慾の悩みにたへかねて、いろんな不自然な行為をするのが、私たちの好奇心を極度にそそつた。深夜突如、非常呼集をやつて、女学生たちのベットを一々視察してみたら、実に意外な性器具を発見した。なかでも一番傑作だつたのは、宵のうちに校外から焼芋をかつてきて、さんざ食ひ散らかしたあげく、そのあまりをつぶして、克明にコンドームヘつめ、それを体温で温めて用いてゐたといふ実例である。
 夏目先生もその話の時はくすくす笑つてをられた。腕組が一層堅つくるしくなつた。
「どうも、手数のかかつた、浅間しいことをやるもんだなあ。」と、感嘆してをられたが、それは数の少い発言の中の一番出色のものであつた。その晩は夏目先生の、胆汁質な、対抗意識みたいなものばかり、僕はみせつけられた。

ルノアール ピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)。フランスの印象派の画家。生年は1841年2月25日。没年は1919年12月3日。
白ばッくれた しらばくれる。知っていて知らないさまを装う。しらばっくれる
センズリ 千摺り。 男性の自慰。手淫。
キンゼイ報告 米国の動物学者キンゼイ(A.C.Kinsey)が全米の男女を対象に行った性行動に関する調査の報告書。1948年に男性編、53年に女性編を発表。Sexual Behavior in the Human Male。キンゼイ報告はまだこの時代では発表されていないので、「ようなもの」なのです。
うんちく 蘊蓄。薀蓄。蓄えた深い学問や知識。
滔々 とうとう。次から次へとよどみなく話すさま
師範学校 旧制の小学校教員養成機関
自瀆 自慰。マスターベーション
堅苦しい かたくるしい。気楽なところがなくて窮屈
胆汁質 ヒポクラテスの体液説に基づく気質の4分類の一。激情的で怒りっぽく攻撃的な気質。胆液質。

 上田先生は知らん顔で、誰れかと巴里のオペラの話をしてをられた。先生のとこまでは聞えなかつたらしい。
 誰れだつたか、へうきんな調子で、
「ねえ、先生。僕がきいたところでは、電燈のグローブなんかも用ゐるさうですね。」
 鷗外先生は尢もらしく鬚をひねるかつかうをしながら、
「いや、それは何処でもやるらしいね。敬天堂病院の医員にきくと、一遍腟内で破裂して早速手術をしたんだが、手術が不成功に終つてたうとう死んだといふ実例もあるさうだよ。」
「いよいよもつて、浅間しき限りですね。」
「腟内で粉々に破裂したんぢや処置なしだよ。危いことをやるもんさ。」
 それから性病の話になつて、モウパッサン脳梅毒の話にまで発展していつた。勇はしかめッ面をして、わざと大向うめあてに、
「われわれも慎しむべきだなア。」なんて、場あたりめかしいことをのめのめといつて、わあッと皆を笑はせる。
 と鴎外先生は、
「ほんとに気をつけないといかんよ。吉井君なんざその方にかけちや猛者中の猛者だからなあ。長田秀雄君の『歓楽の鬼』のテーマもそれだからな。」
 秀雄は盃をふくみながらジロリと僕の方を睨んだ。
 小山内薫氏が自由劇場で演出した兄貴のあの有名な『歓楽の鬼』は、今だから白状するけれど、あれは実は僕がかいたものなのである。僕は一生懸命に苦心をして、脳梅毒の末期の患者を主題として、『暗い血の谿谷』といふひと幕ものの習作をかいてゐた。僕がそれを朗読して聞かせると、兄貴ドラマツルギーとしては成つてゐないなぞと、酔つぱらつてさんざんコキ下ろしたくせに、いつの間にかその原稿が僕の机の抽出からふつと姿を消してしまつた。
 兄貴の『歓楽の鬼』は、三田文学に掲載されたものである。兄貴は度はづれの怠けものなので、折角三田文学から執筆を頼まれてゐながら、どうしても締切に間に合はない。そこで苦しまぎれに僕の『暗い血の谿谷』を『歓楽の鬼』と改題して、僕に断りもしないで「三田文学」へ送つたわけである。むろん自己流にだいぶ手は入れてあつたが、台詞なんか、利きぜりふは僕のほとんどそのままそつくり使つてゐた。しかしさすがに兄貴だけあつて、幕切れなんかあの通り、実にうまく改作してあつた。
 後年小山内薫氏が僕のことを罵倒して秀さんは『歓楽の鬼』をかいてすぐれた芸術的純粋さを示したが、幹さんは依然としてセンチメンタルメロドラマチストだと面と向つて僕を批難したのには、まことに恐入つた。それ以来僕は批評家といふものを心から信じることか出来なくなつたのである。
 それからも秀雄は僕のものでしばしば原稿料をかせいだ。第二次世界大戦の初まる頃まで兄弟義絶して、十数年間遂にお互に仲直りをしなかつたのも、兄貴のあまりにも放埒な破廉恥な所業が原因をなしてゐるのである。兄貴は自分の債務のためにしばしば僕の家へまで執達吏をよこした。僕は肉親を超えた芸術家として兄貴の背徳行為を今でもいいことだとは思つてゐない。
 だから故久米正雄氏が、「新潮」にかかれた『文壇会合史』なるものをよんだ時には、ひそかに哄笑するより外はなかつた。世の中には裏の裏までみぬく人はないものである。僕は久米氏に「不徳のいたすところ」などとまるで筋遠ひなことをいはれても、いささかも俯仰天地恥ぢない。通俗作家が不道徳で純文芸の作家はみんな清節の士のやうにいつたあの時分のヘナチョコなヒロイズムほどあべこべに文壇を毒したものはあるまい。『会合史』は僕に関する限り相当出鱈目なものであることを、数々の資料によつて実証することが出来る。

巴里 パリ。フランス共和国の首都。パリ盆地の中心にあり、セーヌ川が貫流。川中島のシテ島を中心に同心円状に発展。
グローブ globe。電灯の光をやわらかく広く散らすための、ガラスなどで作った球状の覆い。
モーパッサン アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant)。フランスの自然主義の作家、劇作家、詩人。生年は1850年8月5日。没年は1893年7月6日。先天性と後天性梅毒があったと考えています。
脳梅毒 梅毒第三期に主として神経系がおかされた状態。
歓楽の鬼 明治43年、長田秀雄はイプセンの影響を受けて戯曲「歓楽の鬼」を発表、 翌年小山内薫の自由劇場で上演、新進劇作家として注目されました。「歓楽の鬼」の主人公は洋行したパリで性病になりますが、この時代では脳梅毒などが大きな原因でした。
自由劇場 2世市川左団次と小山内薫が主宰。 1909年11月イプセン作の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を有楽座で2日間試演。10年間に9回の公演と試演を断続的に行い、日本の新興脚本や新興演劇術のために一つの道を開いた。
ドラマツルギー 戯曲の創作や構成についての技法。作劇法。戯曲作法。演劇に関する理論・法則・批評などの総称。演劇論。
抽出 ひきだし。引き出し、引出し、抽き出し、抽斗。たんす・机などの物をしまっておく抜き差しできる箱。
三田文学 文芸雑誌。 1910年5月創刊。森鴎外、上田敏の斡旋で新帰朝の永井荷風を慶應義塾大学教授に迎え、同大学文科の発展を期して創刊された。
利きぜりふ 普通の会話の中に、金言や格言のようなセリフを入れること
センチメンタル 感じやすく涙もろい。感傷的
メロドラマチスト メロドラマとは音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇から、今日では、通俗的、感傷的な演劇、映画、テレビドラマなど。メロドラマチストはその作者、演者など
債務 借金を返すべき義務。
執達吏 執行官の旧称。国の代理人として、強制執行の具体的作業を取り仕切る人
久米正雄 久米正雄小説家・劇作家。生年は1891年(明治24年)11月23日。没年は1952年(昭和27年)3月1日。第三、四次「新思潮」同人。のち感傷的作風の通俗小説に転じ流行作家となりました。
新潮 佐藤義亮が新潮社を興し、1904年、『新潮』は創刊。100年以上も続いています。
文壇会合史 『微苦笑随筆』という本の「文士會合史」を読んでいますが、この「文士會合史」では「不徳のいたすところ」と話す場面はありません。おなじ通俗作家とレッテルを張られた人同士、久米正雄氏が長田幹彦について話すときに、あまり悪意は感じられません。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
俯仰天地… ふぎょうてんちにはじず。俯仰天地に愧じず。孟子の言葉で「かえりみて、自分の心や行動に少しもやましい点がない」

文豪の素顔|森鴎外

[漱石雑事]

松井須磨子の事|長田秀雄

文学と神楽坂

 長田秀雄氏が昭和元年の『文芸春秋』に書いた「松井須磨子の事」です。長田秀雄氏は長田幹雄氏の兄に当たります。

 松井須磨子が死んでから、もう、足掛け、七年になる。彼女が亡くなつてから、日本の劇壇には、女優らしい女優はゐないと、かう云ひ切ってもいいと私は今でも思つてゐる。
 山國に育つただけに、須磨子は粗野であつた。皮膚の感じなぞも硬かつた。島村さんとの情史が、恐ろしく彼女を美くしい女のやうに思はせたけれども、私は、美人ではなかつたと思ふ。髪の毛なども決して、美くしかつたとは云へない。
 たゞ、私は劇界に身を置いて以来、随分いろんな女優とつき合つたが、あの位純眞な氣持の女を見た事は一度もない――世間では、随分、彼女をいろんな難癖をつけて、非難した。――事實また彼女には、非難さるべき性格上の欠點が随分あつたが、然し、あの純眞さは、鳥渡他の女優には求められないと思ふ。

 いや、女優ばかりではない。あらゆる種類の女の中で、今の時勢にあの位純眞な女は恐らく少ないであらう。
 正月五日の朝、彼女が亡き島村抱月氏の跡を追つて、死んだときの光景は、今でも時時私の心に浮んでくる。
 泥沼のやうに、いろんな人たちが泳ぎまわつてゐる藝術座の末路をつくづく淺間しいと思ったので、さう元來深かい關係でもないから、今の内に身を退かうと云ふので、暮れの内に退座した私は、さばさばした氣持で春を迎へた。四日の晩の招待狀が藝術座から來てゐたが、元來、カルメンなど云ふ藝術座の西洋劇はあんまり好きでないので、私は行かなかつた。
 五日の早朝、一通の電報が私の枕元に届いた。「マツイシス。スグコイ」と電報には書いてあつた。「馬鹿々々しい誰がこんないたづらをしやがつたんだ」と、かうつぶやきながら、それでも、何だか氣にかゝるので、電話をかけてみた。

足掛け あしかけ。始めと終わりの端数を一として計算する。例えば、ある年の12月から翌々年の1月までは「足掛け三年」
山国 山の多い国や地方。松井須磨子がいた長野も山国
鳥渡 「一寸」か「鳥渡」と書いて、「ちょっと」と読みます。すこし
芸術座 1913年、島村抱月、松井須磨子を中心として結成。1919年解散。
浅間しい 浅ましい。見苦しく情けない。嘆かわしい。

 電話に出てきたのは、當時、藝術座に籍を置いてゐた米國歸りの畠中蓼坡君であつた。
「けさの電報はどう云ふんです。」と私はせき込んで訊ねた。すると畠中君の聲はハッキリと
「死んだんです。」と答へた。私は、まだ半信半疑であつた。
「本統ですか。」
「えゝ。」
「どうして死んだんです。自殺ですか。」
「えゝ、首を釣つたんです。」と畠中君は少し吃り氣味に答へた。元来畠中君はタチツテ卜がうまく出ないので、釣る……などと云ふ言葉はいつも吃り氣味であった。私は驚いた中にも畠中君の言葉の調子が馬鹿に可笑しかつたのでつい笑つた。
「とに角、すぐ來て下さい。まだ、誰も來てゐませんから。」とい畠中君はかう云つて、電話を切つた。
 私が俥で驅けつけたときには、丁度、松竹の大谷君が玄關に來てゐた。
「やあ、」
「やあ、どうも飛んだ事でした。」とかう云ふ大谷君の言葉を聞流して、私は彼女の居間になつてゐた藝術倶樂部の二階の安つぽい西洋間へ行つた。
 三ケ月前に島村氏が死んで横たわつてゐた場所に粗末な蒲團を敷いて、須磨子が寢せてあつた。顔は生きてゐた時のとほりであつた。心持、鉛色に欝血してゐるかと思はれるが、薄く化粧してゐるのでよく分らなかつた。輕く眼をつぶつてゐる容子が、どうしても死んだとは思へなかつた。

畠中蓼坡 はたなかりょう。演出家、俳優、映画監督。生年は1877年5月21日、没年は1959年3月1日。27歳に渡米。アルピニー俳優学校に入学。42歳、1919年(大正8年)に帰国し劇団「芸術座」に入団、同年1月5日の松井須磨子により劇団は解散。
大谷 大谷竹次郎。兄・白井松次郎とともに松竹会社を創業しました。
西洋間 芸術倶楽部2階の抱月の書斎に「ベッド」があります。ここでしょうか。
欝血 うっけつ。 血液の流れが悪く、体の一部に血液が溜まってしまった状態

芸術倶楽部

松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(1966年)から


 雜司ケ谷の墓地で島村氏の葬式を行つたとき、すぐその場から明治座の中幕へ出かけなければならないのに、墓地の茶屋に泣倒れて子供のやうに駄々をこねた彼女の姿が、死顔をみてゐると、思出された。
「死ぬなんて、別に何んでもない事よ。」と、今にも眼を見開いて云ひさうな氣がした。
 遺書は坪内博士と伊原青々園氏と實兄米山氏に宛てゝ三通書いてあつた。
 弔客の應待など萬端の手傳をしてくたくたに疲れて家へ歸つたのは、その夜の十二時過ぎだつた。私は丁度、西片町の崖の上に住んでゐた家へ歸つてすぐ床に入ると、何所からともなく須磨子のカチユシヤの唄綿々(めんめん)としてきこえてきた。
 私は厭な心持がした。丁度崖下の二階で、蓄音機をかけてゐるのだと云ふ事が分つた。今日の夕刊で須磨子の自殺を知つたので、かけてゐのだなと私は思つた……が、やはり何だか厭な心持だつた。
「須磨子がいきてゐたら……」と私は時々考へる事がある。だが、然し、「あの時死んだので好かつたのだ」と、云ふやうな氣がいつもするのである。
 もし生きてゐたら、どうなつてゐるだらう。やはり澤田正二郎君と一座でもしてゐるかも知れない。澤田君と一座でもしてゐれば、新劇は、もつと面白くなつてゐたかも知れない。然し、あの性格では、やはり澤田君と一座して長く結束して行く事は出來ない。きつと、今頃は、松井須磨子とその一黨と云ふやうな事にでもなつてゐるであらう。

伊原青々園 いはらせいせいえん。劇評家・小説家。生年は1870年5月24日(明治3年4月24日)。没年は1941年(昭和16年)7月26日。島根の生まれ。青々園の名で劇評を書き、坪内逍遥と親しくなりました。「日本演劇史」「近世日本演劇史」「明治演劇史」の三部作を完成。
カチューシャの唄 作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。『復活』の劇中歌で、松井須磨子が歌唱。1番は「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょうか」
綿々 途絶えることなく続く
一党 いっとう。仲間。一味

わが青春の記|紀の善|長田幹彦

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が書いた「わが青春の記」(初発は『中央公論』昭和11年。日本図書センター『長田幹彦全集 別巻』1998年)には、明治41年1月、長田氏などの七人が新詩社から脱退する顛末が書かれています。この決定は神楽坂の「紀の善」で行いました。
 長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。

 (しん)()(しや)(だつ)退(たい)()(けん)()れが(しゆ)(はう)(しや)であつたか、(いま)では()(おく)がはつきりしてゐない。とにかく(みんな)(うつ)(ぼつ)としてゐたのであるから、一人(ひとり)()をつければ(たちま)()(あが)るに(きま)つてゐる。(ちか)(ごろ)(りう)(かう)(しよく)(そく)(はつ)といふ(やつ)である。()んでも()(ぐら)(ざか)(した)()()(ぜん)といふ鮨屋(すしや)の二(かい)(あつま)つたのが、北原(きたはら)白秋(はくしう)吉井(よしゐ)(いさむ)木下(きのした)(もく)太郎(たらう)深井(ふかゐ)天川(てんせん)秋庭(あきば)俊彦(としひこ)秀雄(ひでを)(ぼく)この七(にん)で、新詩(しんし)(しや)脱退(だつたい)()(たちま)ちそこで一(けつ)してしまつた。その理由(りいう)は、とにかく()()()(くわん)()(たい)する()信任(しんにん)で、折角(せつかく)われわれが努力(どりよく)していい()をつくつても(みんな)()()()(くわん)()(きふ)(しう)されてしまふ。新詩社(しんししや)といふやうな團體(だんたい)結成(けつせい)してゐては、成長(せいちやう)()()みがない。だからこゝで分裂(ぶんれつ)して自由(じいう)天地(てんち)(およ)()ようといふやうなことだったと(おも)ふ。
 その翌晩よくばんぼくうちまたみんなあつまつて、仕出しだものかなにかとつて、おほいに氣焔きえんをあげたものである。そのくわはつたのが、蒲原かんばら有明ありあけ先生せんせい、それから瀧田たきた哲太郎てつたらうもゐた。瀧田たきたぼく親父おやじ患家くわんかだつた。で、それでんだのだつたとおもふ。むろんもうそのころには中央公論ちゆうわうこうろん編輯へんしふをやつてゐて、小栗風葉をぐりふうえう獨歩どつぽのものでおほいにつてゐた時代じだいであつた。


新詩社 明治32(1899)年、(かん)鉄幹てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体。
首謀者 中心になって陰謀・悪事を企てる人
鬱勃 内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとする様子。意気が盛んな様子
一触即発 ちょっとしたきっかけで大事件に発展する危険な状態
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家でした。
仕出し屋 注文に応じて料理を作って配達する店。出前をする店。
気焔 燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。

 えんたけなはに、みんな唐紙たうしがきをやつたが、それは非常ひじよう面白おもしろ記念品きねんひんである。一さがしてみてもしあつたら、是非ぜひ寫眞版しやしんばんにして掲載けいさいしてもらはふとおもつてゐる。
 蒲原かんばら先生せんせいりんり、、、たる醉筆すゐひつふるつて白秋はくしう似顔にがほをかき、「白秋はくしうたいをしき」とさんをされたのであつた。
 さて脱退だつたいけつした翌日よくじつわれわれはかほをそろへて、新詩社しんししやしかけた。新詩社しんししや丁度ちやうどいま神宮外苑じんぐうぐわいえん裏参道うらさんだうのところにあつて、家賃やちんにして二十圓位ゑんぐらゐの、板羽目いたはめどぎどぎしたちひさな貸家かしやであつた。しもどけのころにたると、みちがどろどろにぬかつて、垣根かきねには山茶花さざんくわさびしくいてゐるやうなまちであつた。
 與謝野氏よさのしもたゞならぬ氣勢けわひかんじたとみえて、眉宇びうあひだ不安ふあんいろみなぎらせながら、我々われ/\むかへた。脱退だつたいのことはたれさきくちをきつたか、わすれたが、とにかく口頭こうとうで、勇敢ゆうかん聲明せいめいをやつてのけた。だまつていてゐゐたが、そこへ長男ちやうなん息子むすこさんがはひつてきてなにかいふと、與謝野よさのはかツと激怒げきどして、眞鍮しんちゆう火箸ひばしぼつちやんへげつけた。往年わうねん朝鮮時代てうせんじだい鐵幹てつかんおもはしめるやうなそのかほじつおそろしかつた。ほくはそのときにもむろん味噌みそかすなので、すみほうへすツこんでちいさくなつてゐた。陣笠ぢんがさ悲哀ひあい何處どこまでもついてまはつた。與謝野氏よさのし居間ゐまには座敷ざしき半分はんぶんもあるやうなおほきな木製もくせい寢臺ねだいゑてあつたが、ぼくはそのかげすわつて、事件じけん推移すゐい固唾かたづをのんでてゐた。そのときぼくはいよいよ見限みきりをつける決心けつしんがついたのであつた。
(長田幹彦「わが青春の記」『中央公論』昭和11年4月)


りんり 淋漓。勢いなどが表面にあふれ出る様子。
酔筆 酒に酔って書画をかくこと。その作品。酔墨。
三位一体 さんみいったい。キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理。三つのものが一つになること。また、三者が心を合わせること。
 さん。ほめたたえること。その言葉。
板羽目 板で張った壁や塀。板張りの壁や塀
どぎどぎ 刃物の鋭利なさま。うろたえ、あわてるさま。
気勢 きせい。何かをしようと意気込んでいる気持ち。気配と間違えたもの? 気配は、はっきりとは見えないが、漠然と感じられるようす。
眉宇 まゆのあたり。まゆ。「宇」はのき。眉を目の軒と見立てていう
往年 おうねん。過ぎ去った年。昔。
思わしめる 古語。思わせる。「しめる」は使役の意味。
味噌っ滓 みそっかす。味噌をこした滓。価値のないもの。一人前にみなされない子供。
陣笠 下級の武士がかぶとの代わりにかぶった笠。政党などで一般の議員。ひら議員。政党の幹部に追従し、自分の主義・主張をもたない議員
寝台 寝るとき用いる台。ベッド。
固唾 かたず。緊張した時に口中にたまるつば。