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松葉ぼたん|水谷八重子

文学と神楽坂

 水谷八重子氏は明治38年8月1日に神楽坂で生まれました。この文章は氏の『松葉ぼたん』(鶴書房、昭和41年)から取ったものです。
 氏が5歳(昭和43年)のとき、父は死亡し、母は、長女と一緒に住むことになりました。長女は既に劇作家・演出家の水谷竹紫氏と結婚しています。つまり、竹紫氏は氏の義兄です。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項では、大正2年(8歳)頃から4年頃までは矢来町17 、大正5年頃(11歳)は矢来町11、大正6年頃(12歳)~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年(18歳)から大正15年頃は通寺町に住んでいました。氏が小学生だった時はこの矢来町に住んでいたのです。

神楽坂の思い出
 ――かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川――啄木の歌だが、私は東京牛込生まれの牛込育ち、ふるさとへの追慕は神楽坂界わいにつながる。思い出の坂、思い出の濠(ほり)に郷愁がわくのだ。先だっての晩も、おさげで日傘をさし、長い袖の衣物で舞扇を持ち、毘沙門様の裏手にある踊りのお師匠さんの所へ通う夢をみた。
 義兄竹紫(ちくし)の母校が早稲田だったからでもあろう。水谷の家矢来町横寺町と居をえても牛込を離れなかった。学び舎は郵便局の横を赤城神社の方ヘはいった赤城小学校……千田是也さんも同窓だったのだが、年配が違わないのに覚えていない。滝沢修さんから「私も赤城出ですよ」といわれた時は、懐かしくなった。

かにかくに あれこれと。何かにつけて。
渋民村 石川啄木の故郷。現在は岩手県盛岡市の一部。
追慕 ついぼ。死者や遠く離れて会えない人などをなつかしく思うこと。
郷愁 きょうしゅう。故郷を懐かしく思う気持ち。
おさげ 御下げ。少女の髪形。髪を左右に分けて編んで下げる。
舞扇 まいおうぎ。舞を舞うときに用いる扇。多くは、色彩の美しい大形の扇。
水谷の家 区編集の「区内に在住した文学者たち」では大正2年頃~4年頃まで矢来町17(左の赤い四角)、大正5年頃は矢来町11(中央の赤い多角形)、大正12頃~15年頃は通寺町61(右の赤い多角形)でした。
郵便局 青丸で書かれています。
赤城神社 緑の四角で。
赤城小学校 青の四角で。
千田是也 せんだこれや。演出家。俳優。1923年、築地小劇場の第1回研究生。44年、青山杉作らと俳優座を結成。戦後新劇のリーダーとして活躍。生年は明治37年7月15日。没年は平成6年12月21日。享年は満90歳。
滝沢修 たきざわおさむ。俳優、演出家。築地小劇場の第1回研究生。昭和25年、宇野重吉らと劇団民芸を結成。生年は明治39年11月13日、没年は平成12年6月22日。享年は満93歳。
 学校が終えると、矢来の家へ帰って着物をきかえ、肴(さかな)町から神楽坂へ出て、踊りのけいこへ……。お師匠さんは沢村流だった。藁店(わらだな)の『芸術俱楽部』が近いので松井須磨子さんもよくけいこに見えていた。それから私は坂を下り、『田原屋』のならび『赤瓢箪』(あかびょうたん・小料理屋)の横町を右に折れて、先々代富士田音蔵さんのお弟子さんのもとへ長唄の勉強に通うのが日課であった。神楽坂には本屋が多い。帰りは二、二軒寄っで立ち読みをする。あまり長く読みふけって追いたてられたことがある。その時は本気で、大きくなったら本屋の売り子になりたいと思った。乙女ごころはほほえましい。

沢村流 踊りの流派は現在200以上。「五大流派」は花柳流・藤間流・若柳流・西川流・坂東流。沢村流はその他の流派です。
田原屋 坂上にあった田原屋ではありません。戦前、神楽坂中腹にあった果実店です。右図では左から三番目の店舗です。現在は2店ともありません。
横町 おそらく神楽坂仲通りでしょう。
富士田音蔵 長唄唄方の名跡みょうせき。名跡とは代々継承される個人名。
長唄 三味線を伴奏楽器とする歌曲。
 藁店といえば、『芸術座』を連想する。島村抱月先生の『芸術倶楽部』はいまの『文学座』でアトリエ公演を特つけいこ場ぐらいの広さでばなかったろうか? そこで“闇の力”を上演したのは確か大正五年……小学生の私はアニュートカの役に借りられた。沢田正二郎さんの二キイタ、須磨子さんのアニィシャ。初日に楽屋で赤い鼻緒(はなお)のぞうりをはいて遊んでいたら、出(で)がきた。そのまま舞台へとびだして、はたと弱った。そっとぞうりを積みわらの陰にかくし、はだしになったが、あとで島村先生からほめられた記憶がある。

芸術座 新劇の劇団。大正2年、島村抱月・松井須磨子たちが結成。芸術座は藁店ではなく、横寺町にありました。
芸術倶楽部 東京牛込区横寺町にあった小劇場
アトリエ 画家、彫刻家、工芸家などの美術家の仕事場
鼻緒 下駄などの履物のひも(緒)で、足の指ではさむ部分。足にかけるひも
はたと弱った ロシアの少女が草履を履くのはおかしいでしょう。
 私の育った大正時代、神楽坂は山の手の盛り煬だった。『田原屋』の新鮮な果物、『紅屋』のお菓子と紅茶、『山本』のドーナッツ、それぞれ馴染みが深かった。『わかもの座』のころ私は双葉女学園に学ぶようになっていたが、麹町元園町の伴田邸が仲間の勉強室……友田恭助さんの兄さんのところへ集まっては野外劇、試演会のけいこをしたものである。帰路、外濠の土手へ出ては神楽坂をめざす。青山杉作先生も当時は矢来に住んでおられた。牛込見附の貸しボート……夏がくるたびに、あの葉桜を渡る緑の風を思い出す。
 関東大震災のあと、下町の大半が災火にあって、神楽坂が唯一の繁華境となった。早慶野球戦で早稲田が勝つと、応援団はきまってここへ流れたものである。稲門びいきの私たちは、先に球場をひきあげ、『紅屋』の二階に陣どる。旗をふりながらがいせんの人波に『都の西北』を歌ったのも、青春の一ページになるであろう。
 神楽坂の追憶が夏に結びつくのはどうしたわけだろう。やはり毘沙門様の縁日のせいだろうか? 風鈴屋の音色、走馬燈の影絵がいまだに私の目に残っている。
わかもの座 水谷八重子氏は民衆座『青い鳥』のチルチル役で注目され、共演した友田恭助と「わかもの座」を創立しました。
双葉女学園 現在の雙葉中学校・高等学校。設立母体は女子修道会「幼きイエス会」。住所は東京都千代田区六番町。
麹町元園町 現在の一番町・麹町1~4の一部。

麹町元園町

麹町元園町

友田恭助 新劇俳優。本名伴田五郎。大正8年、新劇協会で初舞台。翌年、水谷八重子らとわかもの座を創立。1924年、築地小劇場に創立同人。1932年、妻の田村秋子と築地座を創立。昭和12年、文学座の創立に加わったが、上海郊外で戦没。生年は明治32年10月30日、没年は昭和12年10月6日。享年は満39歳。
青山杉作 演出家、俳優。俳優座養成所所長。1920年(大正9年)、友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」では演出家。
稲門 とうもん。早稲田大学卒業生の同窓会。


松井須磨子|黒柳徹子

文学と神楽坂

 黒柳徹子氏の『トットチャンネル』(1984年)です。松井須磨子さんのことが書いてあります。

 青山先生の授業は、実際の演技指導より、昔の新劇の話や、俳優の、心がまえ、などが多かった。先生は、トットたち若い人と話すのも、楽しくて好きだ、と、よく自由に会話をした。
 そんな、ある日、卜ッ卜は、前から知りたいと思ってたことを聞いた。
松井(まつい)須磨子(すまこ)って、どういう人でしたか?」
 山田(やまだ)五十鈴(いすず)が、松井須磨子になった「女優」という映画も見ていたし、日本最初の 近代劇をやった女優として、卜ッ卜は、興味を持っていた。日本で最初にイプセンの「人形の家」のノラをやり、トルストイの「復活」のカチューシャをやり、しかも恋人の島村(しまだ)抱月(ほうげつ)のあとを追って首をつって死んだ人。その人と一緒に芝居(しばい)をした人が、ここにいる! そんな人と話をすることがあるだろうなどと、(ゆめ)にも考えたことはなかったから、トットは、ワクワクしながら、聞いたのだった。青山先生は、いつも、とても物静かだった。しゃべるとき、いつも真直(まっす)ぐに首をのばし、ゆっくりとした、口調だった。トットの質問に、青山先生は、少し微笑(びしょう)すると、いった。

トット 黒柳徹子本人のこと
山田五十鈴 やまだ いすず。生まれは1917年2月5日。死亡は2012年7月9日。女優。戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する映画女優の1人
女優 1947年(昭和22年)公開の日本映画。主演は山田五十鈴。モノクロ、115分。松井須磨子と島村抱月の恋愛事件を題材にした作品
ノラ 『人形の家』の女性主人公。弁護士の妻ノラは人形のように愛玩され、安易な生活をおくるが、秘密にしていた借金のことで夫になじられ、一個の独立した人間として家を出る過程を描く作品。女性解放運動に大きな影響。
カチューシャ おじ夫婦の下女カチューシャは貴族ドミートリイ・イワーノヴィチ・ネフリュードフ公爵の子供を産んだあと、娼婦に身を落とし、ついに殺人に関与。カチューシャが殺意をもっていなかったことが明らかとなり、しかし手違いでシベリアへの徒刑に。ネフリュードフはここで初めて罪の意識に目覚め、恩赦を求めて奔走し、彼女の更生に人生を捧げる決意を。
その人と これは「松井須磨子と青山杉作が一緒に舞台をやった」ということですが、ほんとうでしょうか。これは次の質問でも出てきます。
青山 青山杉作。あおやま すぎさく。生まれは1889(明治22)年7月22日。没年は1956(昭和31)年12月26日です。演出家、俳優。早稲田大学英文科中退。在学中より小劇場運動に参加。1917年(大正6年)2月17日、村田、関口存男、木村修吉郎、近藤伊与吉らと(とう)()(しゃ)を創立。牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の『画家とその弟子』を公演して旗揚げ。

画家とその弟子

画家とその弟子

 一応、さらに伝記を読むと

1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を。映画芸術協会に参加。1924年(大正13)、築地小劇場の創立とともに参加。その後、昭和5~15年松竹少女歌劇団、昭和17~28年NHK放送劇団の指導に。この間、昭和19年俳優座同人、昭和24年俳優座養成所所長に。新劇、映画、放送劇、オペラなどの演出に幅広く活躍しました。

 あれ、どこにも松井須磨子の名前はでてきません。
 氏の生涯を描いた本『青山杉作』(昭和57年)があります。500冊の限定出版です。読んでみましたが、やはり松井須磨子氏はほとんどでません。
 ただし、2人は1か所、同じ場所に行ったことはあります。それはここ芸術倶楽部でした。ここで踏路社が旗揚げしたと書いてあります。
この芸術倶楽部は島村抱月氏がつくったものです。大正2年に島村抱月氏が芸術座を作り、大正4年に研究所兼劇場の芸術倶楽部を誕生させたのです。
 大正6年に、青山杉作氏は27歳、松井須磨子氏は31歳でした。
 松井須磨子氏とよく似たところを歩いていますが、完全に違う場所などです。この2人はやっていることは同じ芝居ですが、台本も違うし、師匠も違う。友人も違う。松井須磨子氏にとっては、年齢が4年も下の青山杉作氏については、おそらく紹介があれば名前はわかっていても、あとはなにも知らないのではなかったでしょうか。「一緒に芝居をした人が、ここにいる」といえなかったと思います。

「あなたが、あの時代に女優になってたら、もっと有名になってたかも知れませんよ。つまり、それまで、男の役者が女形として、やってた中に、女が入っていって、しかも西洋の芝居をやったんですから、新らしい、というか、変ってるというか、そういうことで、もてはやされたのであって、あなたのように、個性的じゃありませんでした。ふつうの人でしたよ」
……トットは、びっくりした。はじめは、卜ッ卜の元気がいい事を、皮肉って、先生がいったのか、と思ったくらいだった。でも先生の表情も話しかたも、そういう風には見えなかった。でも、映画の主人公になるような情熱的で、美しく、常人とは(ちが)う人、と思っていたそれか、ふつうの人だったなんて……。
「そう、本当に、ふつうの人でした」
 青山先生は、くり返した。それは、まるで、女優としては、すぐれてはいない、とでもいうように聞こえた。たしかに、ドットかその前にラジオで聞いた松井須磨子のカチューシャのセリフや、「羊さん/\」とかいう歌を思い出してみると、当時の録音技術のせいもあるかもしれないけど、女優らしいメリハリはなく、歌の音程も悪く、素人(しろうと)のようだった。でもやっぱり、(だれ)もやっていないことを始めたのだから、(えら)い人だ、と、ドットは考えた。

ふつうの人 松井須磨子が「ふつうの人」でしょうか。実際に同時代人は「ふつうの人」とはいわず、むしろ「我が儘」「傲慢」だと書いています。たとえば、秋田雨雀と仲木貞一合著の『愛の哀史 須磨子の一生』(大正8年)では
舞台に於いては飽くまでも華やかに、旅宿にあっては益々放縦に、そうして散歩などの時には何処までも自由な気分で、旅に於ける須磨子の生活は、実に/\我儘(わがまヽ)の仕通しであった。今では()う抱月氏の心をも支配し得た彼女は、其の(てつ)を以て多くの座員も、自分の意の(まヽ)だと思うようになった。

河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(昭和41年)では
いったい須磨子という人間は、のちに諸家が言うように野性的な自我性狂暴性を発抑するようになったのは、「故郷」(マグダ)の初演あたりからである。わたくしどもが「まアちゃん」の愛称で呼んでいたころは、飾りけのない、さっぱりとした丸顔で、バッチリとした眼の示しているとおりの女性であった。打ち前の勝気と捨て身の態度とを、舞台にも楽屋でもさらけ出すようにだったのはそれ以後のことで、抱月に()れ、甘え、わがままを張り通させたから、傲慢な女王気取りにもなったのであった。

 ではなぜ青山杉作は松井須磨子を「ふつうの人」と呼んだのでしょうか。結局女優ではなく、一つの女性としてみると「ふつうの人」になるのでしょう。傲慢、横柄、威圧といった性徴を全部剥ぎ取ってみると「ふつうの人」だけが残る。松井須磨子ではなく、本名の小林正子が残る。青山杉作氏にとっては女優の松井須磨子氏は美人でもなく、知的でもなく、いい点はつけられなかった。純粋で、無邪気で、ふつうの人で、いわゆる女優ではなかったのでしょう。
 しかし、開始日でも最終日でも全く同じ芝居を全く同じように見せるのは普通はできません。本当に「誰もやっていないことを始めたのだから、偉い人だ」と私も考えます。