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飯田河岸|中村道太郎と織田一磨

文学と神楽坂

 飯田河岸を描いた作品はあまり多くはなさそうです。中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)や版画家である織田一磨氏の「武蔵野の記録」(洸林堂書房、1944年。武蔵野郷土史刊行会、1982年)などです。で、この3点を見ていきます。

1.中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」

中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)

飯田河岸は江戸開府の当時まで神田川の河口であった地で海港として諸国の船舶が輻輳していた。下町建設のため駿河台を切り開いてその方面に流路を転ぜしめて以来現在の如き水路を見るに至ったので今日ではさしたる重要性を認めず唯汚物船などが往来する。

 この飯田河岸は、背後に大きな平地があるので、船河原橋から小石川橋までの地域でしょう。ただし、千代田区の飯田河岸とすれば、背後の土手を中央線が走っているはずです。つまり、神田川から市兵衛河岸などの文京区側を見たものです。この河岸は極めて狭く、神田川が外堀通りに接しています。
 煙突がついた建物が並んでいるのは陸軍の東京砲兵ほうへい工廠こうしょうでしょう。大正12年、関東大震災のため、小倉工廠に移転を開始、昭和10年、完了しました。
 通りには無数の電線とうで7本の電柱が3本見え、道路には自動車と荷車が走っています。船荷を陸揚げする揚場には沢山はしけがとまり、1台は運送中です。

飯田河岸(明治22年以降)

2. 織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 大正3年秋の第一回二科展に著者が出品した作である。著者の解説に『当時の牛込見附附近はポプラの樹が茂っていて、現在の飯田橋停車場ホームのあるあたりには、常に石灰岩の破片が山積されていたものだ。これを小船に積込んでセメント工場に運搬する。その為にいつもこの河岸には伝馬船が集まっていた』とある。
新宿区役所「新宿区史」昭和30年

 飯田河岸を正面に見すえて、右端には石垣があり、下には床石があります。牛込橋のの下の橋台から飯田壕を見たものでしょう。てん船(=はしけ)が沢山とまり、舟員2人は竿を動かし、はしけを操っています。
 右の土手の中腹、緑と白の切れ目を中央線の電車が走っています。傾いた木の柱は架線柱でしょうか。なお、以前はこの部分を甲武鉄道といいましたが、明治39年、鉄道国有法で国有化し、中央本線になりました。
 昭和3年11月15日、複々線化し、また牛込駅と飯田町駅から飯田橋駅に統合。この水彩画はそれ以前に描いたものでしょう。

【参考】石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

3.織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 これも織田一磨氏の「飯田河岸」です。左岸は飯田河岸、右岸は神楽河岸で、牛込橋はまだ見えません。左岸の斜め屋根の荷揚場の下の壕に、はしけ数隻があります。
 また、左岸に高い崖があり、上端は平らに整理し、その上に樹木数本があり、中腹には黒く段差があります。この黒い段に中央線の鉄道があると考えると、線路より高いところに土手があるので、これが下図の土手でしょう。飯田壕がやや狭くなっているのもわかります。
 織田一磨氏は明治15年の生まれで、牛込駅が開業した時(明治27年)には12歳でした。これは2の飯田河岸と同様で、中央線の複々線化前の情景でした。

明治四十年一月調査東京市麹町區全圖 飯田壕付近。「飯」は「飯田河岸」の「飯」から。

飯田河岸と画家2人

文学と神楽坂

 飯田河岸かしはどこにあるのでしょうか。江戸時代、飯田河岸の名前はなく、その利用も全くなく、ただの「土手」でした。明治9年にまず飯田橋が架橋され、明治22年3月、東京府の「区部共有河岸地規則」で初めて牛込橋から小石川橋までを「飯田河岸」と呼ぶようになりました。

飯田河岸(江戸期)

飯田河岸(明治22年以降)

 高道昌志「明治期における飯田河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集、2016)では、当時「飯田河岸」を広大な空き地として考えられ、1号地から8号地まで分かれていました。

 明治22年、この飯田河岸は麹町区の一部になり、市町村と同等の名前になりました。ところが、昭和8年、帝都復興計画の一環としてこの河岸は飯田町二丁目に編入され、名前は廃止されています
 さて、現在は、この飯田河岸はどうなるのでしょう、橋の右側(地図では南側)は飯田河岸でいいと思います。橋の左側(南西側)では? 飯田橋ラムラがある場所です。現在、この部分は壕が暗渠になってしまったので、飯田河岸という言葉も消えてしまったものでしょう。
 さて、ではこの絵です。どこになるのでしょうか。

昼の東京 飯田橋

 解説があります。

文京区境界道をグルリ一周
「昼の東京 飯田橋」吉田遠志 画 1939〔昭和14年〕
 手前から外堀からの流れ(現在は埋め立てられている)、一方神田川が突き当たりの左から流れてきて合流し、右の水道橋方向に流れて行く合流地点を描いている。つまり現在では左岸が新宿区で右岸が千代田区、そして突き当たりが文京区になる。とすると現在は左岸の手前にJR飯田橋駅、正面には首都高速道路の高架が見えていることになる。

 しかし、少しだけ地図と一致しません。飯田橋の上から小石川方向を描いているので、神田川の合流点は画面の左で見切れている場所です。左岸は文京区です。JR飯田橋駅は右岸の手前になります。

 もう一つ同じ絵を描いた解説もあります。平松南氏が「神楽坂 まちの手帖 第11号」(2006年、けやき舎)の「神楽坂まちかど画廊11」です。

 ちょうど1年前の弊誌7号で、わたしは、「堀潔が描いた飯田濠」を取り上げた。
「昼の東京 飯田橋」は、それより5年前、同じ場所で描かれたものである。
 わたしは神楽坂下(1丁目)育ちであるから、飯田濠はいたってちかしい存在である。セントラルプラザという20階建の駅ビルが建つ前はそこに水面があり、水の生活があったことを鮮明に記憶している、いまでは数少ない住人である。
 飯田濠は埋め立てられて、いまはない。いまはないということは、永遠にないということではない。世の中には、復元ということもある。復元しないまでも、ひとの記憶のなかで、生き続け、また作品のなかで、繰り返し命を吹き込まれ、甦る。
 わたしが知る飯田濠は、美しい水辺ではなかった。しかし、ひとは、現実の光景だけを見ているわけではない。背後に、かっての姿を想像するのである。ひとりの画家が風景を描く。画家は、現存する風景を画布に定着させたいという強い動機に突き動かされる。飯田橋の水面は、昭和10年代には、ふたりの画家の絵筆を動かさしめた。風景が、さらにいえば、水辺が、それだけ豊かだった。
 ところで、吉田遠志の父は、これも風景版画家として高名だった吉田博である。堀潔もまた、吉田博に学んでいる。(平松南)

「堀潔が描いた飯田濠」の両岸の建物は、「昼の東京 飯田橋」とよく似ています。もし、これが同じ場所を描いたとすれば「飯田壕」ではなく「飯田河岸」でしょう。流れている川は神田川になるはずです。
 電車が走っていますが、これは路面電車です。

堀潔が描いた飯田濠

 堀潔は路上の画家である。
 つねに町をあるき、建物、路面電車、橋、川、空、人ごみ、野原−−目に留まったものはなんでも描く対象にした。
 滾る好奇心、エネルギー、力の根源は、堀自身の生きることへの渇望からきているようにおもえる。
 堀は広島出身だが、大正5年牛込の喜久井町に転居している。
 太平洋画会研究所で、石井柏亭、中村不折、吉田博らに学んだ。
 昭和20年5月25 日馬場下町で空襲にあい、全身に大火傷をおって、九死に一生をえた。母と妹は、そのとき焼死している。
 戦後、下落合の日本聖書神学校の管理人を勤めながら、「アイ・ラブ・TOKYO」「懐かしの東京風物百景」などを発表していくが、世に出る野望は希薄だった。
 戸山ハイツで 10数年前77歳で没したが、東京を描きつくした2000枚に絵は、いま新宿区歴史博物館に眠っている。わたしは彼の偉業を編集者として、世に問いたいと思っている(みなみ)。

 しかし、地元の方の意見では……

 吉田遠志の「昼の東京 飯田橋」は、牛込橋側から飯田壕を眺めたように見えます。壕幅が広く、左岸の石垣が高く切り立っています。また左岸の建物の向こうに高台の上の建物があります。これは揚場町の高台(現在のセントラルコーポラスのあたり)ではないでしょうか。少なくとも文京区側には、この高台はありません。
 一方、「堀潔が描いた飯田濠」は、飯田橋から小石川方向の神田川のようです。飯田壕に比べると神田川の方が幅が狭い。市電も飯田壕からは見えません。
 また正面左には石垣から川に下りる坂がありますが、これは飯田壕にはなく、小石川側にはありました。(「飯田河岸の写真」)
 両者は構図がよく似ていますが、写実的に描いたのだとすれば別の場所である可能性を考えるべきです。