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牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

牛込駅リターンズ

文学と神楽坂

 2020年7月12日、JR飯田橋駅が新しい駅に生まれ変わります。駅の西口も新しいものにかわる予定です。さて、地元にお住まいの協力者の方から、こんなメールを頂きました。

駅舎完成イメージ

 神楽坂の住民にとって、もちろん飯田橋駅はなじみ深い駅なんですが、飯田橋という地名は千代田区のものだし、駅舎も東口に「みどりの窓口」があるなど飯田橋側がメーンなんです。神楽坂に近い西口は、どうしても裏口的な感じがありました。
 この東口と西口の競争みたいな感情は多分、旧牛込駅旧飯田町駅の時代から続くものなんでしょう。地下鉄の有楽町線のができる時、地元商店会は「駅名を『神楽坂』に」と運動したんです。東西線に『神楽坂』駅があるので無理だと分かっていても、目の前の駅が別の名前であることは納得しがたかったんでしょう。
 もう立ち消えになったようですが、東口に近い新宿区側の下宮比町に町名変更の話があって、その候補名が「西飯田橋」だという。そりゃないだろと思いました。今も「飯田橋駅東口郵便局」が下宮比町にあるんてすが、おかしいですよね。けど地方の人からしたら、飯田橋の方が分かりやすいんでしょう。駅名って、とても大事だと思います。
 昔の国電の飯田橋駅西口は、改札を入ってから長い傾斜路でホームに降りていくので、電車が見えているのにドアが閉まって発車してしまう。そんな時に東口との距離を感じました。
 今のJR飯田橋は普通の各駅停車の駅ですが、昔はちょっと違ったんです。総武線と中央線の線路の脇に、隣接する飯田町貨物駅引き上げ線があって、狭い場所ながら貨物列車の入れ替えがあった。この引き上げ線の跡地は、新しい西口を作るまでの仮駅舎になりました。
 それと千葉方面から来る総武線の各駅停車は何本かに1本、飯田橋が終点でした。市ヶ谷の方にあった折り返し線に入ってから、向きを変えてホームに入ってきて、今度は飯田橋始発になる。ちょっとターミナル駅みたいな感じがありました。大人が「昔の甲武鉄道は、ここが始発駅だったんだよ」と言っているのを聞いて、なるほどなと思ったものです。
 各駅停車の飯田橋始発着がなくなったのは1990年ごろかな。折り返し線も撤去されました。ちょうどそのころ、地元の商店会にJR側から「いずれ、あの折り返しの線の場所にホームを移したい」という意向が伝えられました。曲線ホームが危険だということは、ずっと前から認識されていましたからね。この話に地元は大いに期待しました。けど実現するまで30年かかった。
 新しい西口の駅舎には「みどりの窓口」も出来て、今度は西口がメーンになります。東口からは古いホームを歩いてこないと電車に乗れない。ちょうど昔と反対の立場です。
 ほかに西口の旧駅舎で、思い出話がふたつあります。ひとつは、いまラムラに入るみやこ橋のところにあった古い神楽坂警察署の木造の建物。1970年頃、もう警察は移転していたんですが、剣道場が残っていて人が出入りしていました。機動隊も一緒に使っていたんじゃないかな。
 もうひとつは桜の木です。駅から牛込見附の交差点まで下りる坂に大きな桜が2本ありました。花の季節は綺麗なんですが、桜って毛虫がつくんですよ。初夏になると頭の上からポロポロ落ちてきて、そこを通勤通学の人が歩くものだから、もうグチャグチャで大変。苦情が出たんでしょうね、いつの間にか伐採されました。
 お堀の脇の土手公園も、昔はもっと桜が生えていたと思います。けど同じ苦情で、通路の部分の木を減らしたようです。今も桜の名所ですが、毛虫が話題にならないのはなぜなんでしょうね。

旧飯田町駅 甲武鉄道で牛込駅の東で、次の駅。飯田町駅開業当初は始発駅。1928年(昭和3年)に牛込駅と同時に廃止、両駅の中間の曲線部分に飯田橋駅が開業。その後、飯田町駅は荷物や貨物の専用駅になり、1999年(平成11年)飯田町駅は廃止。
 営団地下鉄有楽町線の飯田橋駅です。1974年開業。
運動 駅名が正式決定する前の段階なので、開業の1-2年前でしょう。商店会から営団地下鉄に要望しました。
東西線に『神楽坂』駅 1964年開業。有楽町線に比べて東西線神楽坂駅の開設は10年早い。
下宮比町に町名変更の話 噂として聞こえてきた話です。神楽坂は住居表示「未実施」で、下宮比町は昭和63年2月15日に「実施」しえいます。おそらく、その前の「候補」か「構想」の段階だと思います。
飯田橋駅東口郵便局 新宿区下宮比町3-2で、大久保通りに面しています。
飯田町貨物駅 アイランズ著『東京の戦前昔恋しい散歩地図』(草思社、2004年)で、飯田橋貨物駅は

飯田橋貨物駅

また、アルビオ・ザ・タワー千代田飯田橋では

飯田橋貨物駅(旧飯田町駅・昭和63年)毎日新聞社

引き上げ線 停車場において、列車や車両の方向転換や入れ換えを行うために、一時的に本線から列車(車両)を引き上げるための側線。
折り返し線 あきぼうのブログ(https://ameblo.jp/akif4914/entry-12194311099.html)に「折り返し用引き上げ線があった」として「この線路と線路の間の土地は、かつて飯田橋駅で折り返していた千葉方面への折り返し列車を引き上げていた線路跡なのです。現在折り返し運転が亡くなったため線路は撤去されています。そこで、この線路跡の土地を利用して飯田橋駅の改良工事が進められています。」と書かれています。下の図「飯田町駅牛込間新停車場」の1番奥の線路は折り返し用引き上げ線です。

飯田橋駅と牛込見附と橋

西口の駅舎 新西口駅舎は、鉄骨造・2階建て。延床面積は約2200㎡。多機能トイレ1カ所、1人乗りエレベーター1基が設置。一階は駅施設と店舗(3店舗)、二階は店舗(2店舗)。

ラムラ 昭和59年、飯田橋のセントラルプラザビル(店舗、事務所、住宅機能をもった大規模複合ビル)が完成。うち、セントラルプラザビルの1、2、20階を占めるショッピングセンターは「ラムラ」と呼ぶ。(株式会社セントラルプラザ

https://chikatoku.enjoytokyo.jp/spot/ramla.html

みやこ橋 牛込橋の周縁道路と総合ショッピングセンター・ラムラをつなぐ橋

みやこばし

毛虫が話題にならない 自治体の人が桜が咲き始める前に大量の殺虫剤をまくらしいと、あるブロガー



野田宇太郎|文学散歩
 牛込界隈①神楽坂


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。

   神楽坂

 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、20年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば20年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
富士見二丁目
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。
神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正18年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。

警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。

最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治31年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治31年10月までは、東京専門学校から明治24年10月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治39年1月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。
東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和4年春からのことで、その後昭和8、9年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正12年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後24年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂3丁目5番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。

暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

牛込駅から飯田橋駅

文学と神楽坂

 牛込駅の開業は明治27年(1894)10月9日。廃業は昭和3年(1928)11月15日。風俗画報臨時増刊「新撰東京名所図会」の「牛込区之部 上」は明治37年に発行したもので、その「牛込停車場」です。

●牛込停車場
牛込停車場は。牛込濠の東畔を埋めて設備したる甲武鐵道線の驛にて。飯田町の次に在る停車場なり。其の結構四谷停車場と大差なし。但當所の閣道は驛の西側に在りて。直ちに牛込門南の乗車券賣場に行くべく。右に下れば四谷、新宿行のブラットホームに至るべし。飯田町行は改札所前にて。閣道を攀るの煩なし。
當所の土手には。四谷の如く多くの躑躅花なきも。秋夜叢露の中に宿りし蟲の聲ゆかしく聞ゆ。
今や電車の準備中なれば。長蛇の黒煙を噴て走るの異觀はなきに至るべきか。但隄松には電車の方よろしきか。

[現代語訳]牛込停車場は、牛込堀の東側を埋めて設備した甲武鉄道線の駅であり、飯田町の次に来る停車場だ。その構成は四谷停車場と大差はない。ただし、当所の階上の廊下は、駅の西側にあり、直ちに旧牛込門の南口の乗車券売り場に行く場合、右の下に行けばよく、四谷や新宿に行くブラットホームになる。飯田町行は改札所の前で、跨線橋を登るわずらわしさはない。
 当所の土手には四谷と違って多くのつつじの花はないが、秋の夜、草むらのつゆのなかで、虫の音は心がひかれる。
 現在は電車の準備中で、長い黒煙を吹いて走る奇観はないといえよう。なお、土手の松では電車のほうがよくはないか。

甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
飯田町 牛込駅の建設が終わると、下の橋も利用可。飯田町の場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

結構 全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
閣道 かくどう。地上高くしつらえられた廊下
 旧
攀る よじる。よじ登る。
躑躅 つつじ。

 明治初期(おそらく明治10年以前)、まだ牛込橋は1つだけです。

 明治後期になって、小林清親氏が描いた「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 牛込見附の桜花について、石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)は

明治34年、牛込御門の前に明治34年架橋の牛込橋。右手にあった牛込御門は明治5年に渡櫓が撤去され、明治35年には門構えも収り壊された。左手は神楽坂になる。右に甲武鉄道が走るが飯田橋駅(明治3年11年15日開業)はまだなかった。この写真で右後方に牛込停車場があった。ルーペで覗くと右橋脚の中程に線路が見える。橋上の人は桜見物を演出するためのサクラのようだ。

 同じく石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」で

これと同じ牛込橋だ。現JR中央線飯田橋駅西口付近である。赤坂溜池からの水(南側)と江戸川から導いた水(北側)の境目で、堀の水位に高低差があった。今も観察すると水に高低があることが分かる。

 関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、1928年(昭和3年)11月15日、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 新光社「日本地理風俗大系 II」(昭和6年)では……

牛込見附

 江戸開府以来江戸城の防備には非常な考慮が繞らされている。濠の内側には要所要所に幾多の関門を設けて厳重を極めた。今やその遺趾が大方跡形もないが山手方面には当時が偲れる石堰や陸橋が残っている。写真は牛込見附で石垣が完全に保存されている。

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「首都圏の鉄道と駅の写真」には

 山高登氏の「東京昭和百景」(星雲社、2014)では 昭和48年(1973年)頃の牛込橋の絵画です。

山高登「東京昭和百景」星雲社。2014。「牛込見附夕景」は1973年

 牛込見附夕景(1973年)
JR飯田橋駅のホームから描いた。市ヶ谷堀から来た水が落ちるところが揚場町の堀だった。此の河岸は文字通り建築材料や材木を陸揚げする岸で、外堀は飯田橋で神田川に合流していた。右手の灰色の建物は近くの警察病院の病棟の分室。正面の神楽坂口を出ると左にはいくつか学校があって学生の乗降が多かった。

警察病院の病棟の分室 正しくは警察官の牛込寮でした。

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

 以前の飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

 また、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。

新飯田橋駅

20/7/12から http://blog.livedoor.jp/schulze/archives/52256026.html

 新しい西口駅舎

軽子坂|歌川広重団扇絵「どんどん」

文学と神楽坂

 軽子坂を別の向きで描いた絵があります。広重団扇絵で「どんどん」「どんどんノ図」や「牛込揚場丁」という題が付いています。版元は伊勢屋惣右衛門で、天保年間(1830-44)後期の作品です。

牛込揚場丁どんどん

広重『どんどんノ図』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307354 (参照 2023-03-03)

 ちなみに江戸時代、飯田町と神田川にかかる船河原橋のすぐ下にも堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていました。これから船河原橋も「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていました。したがって背後も水音があったのです。
広重団扇絵|牛込揚場丁|どんどん3 左奥に見えるわたりやぐらは牛込御門で、その向かいの右は神楽坂です。牛込土橋は堀を渡す橋。
広重団扇絵|どんどん|牛込揚場丁2 目を近くにやると、茗荷屋という船宿から(赤い扇子を持った若旦那が芸者さん二人と船に乗り込む様子が見えます。船宿の奉公人たちが酒、肴を抱え、お客さんの乗り込むのを待っています。
広重団扇絵|どんどん|牛込揚場丁3 少し上を見ると左手には「自身番屋」が建ち、木戸もみえます。番屋と木戸のすぐ先は、見えませんが、右側に上る坂道があったはず。これが軽子坂です。その手前の右側一帯は揚場町で、荷を揚げたため。この神楽河岸があることが神楽坂が盛り場として発展していくために重要でした。
揚場町 自身番屋 地図では「軽子サカ」の左に黒の穴あき四角で書いたものが見えます。これが「自身番屋」です。町内警備を主な役割とてし町人が運営しました。自身番の使用した小屋は自身番屋・番屋などと呼ばれました。
自身番 写真では右側の家に「自身番」と書いていますね。自身番は火の番も重要な役割でした。(ワープステーション江戸のPRで)

 夏目漱石の『硝子戸の中』ではこの神楽河岸から浅草猿若町まで舟で出ていき、芝居を見たのを描いています。