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紅谷|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 菓子屋「紅谷」の2つの図を出します。左は新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)です。ここで、仐とは第四水準の漢字で「サン」「かさ」と読みます。右は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」の一部で、それを書き直ししたものです。

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神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」を読むと……(なお、「相川さん」は大正二年生まれで、棟梁で街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。)

馬場さん ここのところはあんまりはっきりしなかったんですよ。相川さんがいちばんよく知っているんだ。なんて空き地だったの?
相川さん 昭和銀行が建てるんで、担保に取った家だから、空き地にしといた。塀が二間ぐらいあって。だからお祭りやるときに、いつもその塀を壊してお神酒所にした。奥深いでしよ、だから表にお神輿をおいて、後ろがたまり場になっている。独立でできたんですよ。
馬場さん お祭りのときに、寺内のところでもお賽銭をもってきたっていうのは?
相川さん それはもっと前だね、これができない前だね。またぎでね、いまの万長さんと恵比寿亭との間(注)に、下を人が通れるようにって橋をこしらえて、お祭りのときにお囃子をやったんだ。
(注)現在の第一勧信とauショップの間の道
馬場さん 安藤さんと「東京靴下」の社長の北沢さんところの二軒、買ったんだね、ここから。
相川さん いや、これはマスミヤさんのものなの。東京靴下もみんな同級生なの。この半襟屋さんのうちで、傘屋さんのあったうちを。
馬場さん 「高橋洋傘店」?
相川さん そう、これを「紅谷」さんが間口を広げるというので、ここに空き家があったでしょ。ここは「伊藤はかま店」だった。ここが空き家になったんで、マスミヤさんもどけるとちょうど一角(いっかく)になるからって、こっちを買ってマスミヤさんにどいてもらった。これも三階建ての木造でね。ここの紅谷さんの二軒分は喫茶店にした。店はそのまんま。

またぎ 「またぎき」でしょう。又聞き。伝え聞く。間接的に聞くこと。ちなみに、またぎは、東北地方などの山間部に住む古い猟法を守って狩りを行う狩猟者のこと。

 なにかよくわかりませんが、紅谷については全てです。紅谷店では、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)を見る限り、大正10年に3階建てに改築し、以降は改装はなく、これで終わりです。紅谷がこれ以上変更なく、その後、空襲でなくなりました。

なお、「空き地」は上の右図に出てくるものでしょう。「昭和銀行」は昭和2年に尾張屋銀行を買収しました

さて、マスミヤの推移です。上の2図では「益見屋」と「益みや」。上の対談では「マスミヤ」です。益見屋から土地を少しもらったのでしょうか。

別の地図で、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では次の図が出ています。「益見屋洋店 半襟店」が再び登場しています。

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さらに都市製図社制の火災保険特殊地図の 昭和12年(左)と昭和27年(右)は下の絵です。ちなみに益()屋は昭和12年の地図に出ています。

s12+s27

結局、「益見屋」「益みや」「マスミヤ」「益見屋洋品 半襟店」「益(屋」さんはどうなったのでしょう? 紅谷に売って、隣に新しい益見屋を買ったのでしょうか? それとも店舗は昔から変わらず、紅谷はハカマ屋だけを買ったのでしょうか。正確にはわかりません。