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牛込城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 鳥羽正雄等編『日本城郭全集』(人物往来社、1967)では新宿区にある城として3つしか載っていません。牛込城、南北朝時代の早稲田の新田陣屋、築土城です。今回は牛込城に光を当てます。
 残念なことに、いつ築城したのかは不明で、また、廃城は小田原落城と同じ頃に落城したとすると1590年前後でしょう。

牛込うしごめ   新宿区袋町
 牛込城は、牛込藁店わらだなの上(『江戸往古図説』)すなわち、いまの新宿区袋町付近の台地にあった。宗参寺を牛込城の地とする説もあるが、宗参寺は天文13年(1544)建立の寺であり、城址に建てた寺ではない。
 牛込城が、台地を利用した丘城であったことは間違いないが、その規模は明確ではない。『御府内備考』によれば、おおは神楽坂のほうにあったといい、また、「城地の蹟とおぼしき所多くのこれり」とあるが、いまではまったく城址の片鱗も残ってはいない。
 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城 (埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。
 重行の子 宮内少輔勝行は北条氏康に仕え、天文24年(1555)正月6日、大胡を攻めて牛込氏を称した(『寛政重修諸家譜』)。この改氏を『改撰江戸志』では5月としている。このときの勝行の所領は牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総の堀切、千葉にまで及んでいた。勝行は天正12年(1584)、致仕し、三右衛門勝重が跡を継ぎ北条氏直に仕えたが、天正18年(1590)、小田原落城とともに、牛込城も廃城となった。勝重は翌年、徳川家康に仕えたが、その孫伝左衛門勝正にいたって嗣子なく、牛込氏の嫡流は断絶した。
(江崎俊平)

藁店 別名は地蔵坂。細かくは藁店(わらだな)は1軒それとも10軒
江戸往古図説 国書刊行会刊行書「燕石十種 第3」「江戸往古図説」では「牛込城址今の藁店の上城地也と云牛込氏居城」になっています。
城址 じょうし。城のあった跡。城郭や城市のあと。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 牛込城蹟の部分では……

牛込城蹟
牛込家の伝へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほき所多くのこれり云々江戸志 按に今の樹王山光照寺は慶長三年(1598)戊戌の起立なり

追手門 おうてもん。おお門と同じ。城の正面に位置する門
城地 じょうち。城と領地
大胡宮内少輔重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」。宮内は「くない」。少輔は「しょうゆう」か「しょう」
後裔 子孫。すえ。後胤
群馬県勢多郡大胡町 2004年12月5日、前橋市へ編入され、現在は「群馬県前橋市大胡町」に。
寛政重修諸家譜 かんせいちょうしゅうしょかふ。大名や旗本の家譜集。幕府は寛政11年(1799)に堀田正敦まさあつを編集総裁に任命。文化9年(1812)に完成。凡例目録とも1,530巻が同年11月に献上した。
上杉修理大夫朝興 おおぎがやつ上杉朝興ともおき。室町後期の武将。北条早雲と戦って敗れ、のち早雲の子氏綱に江戸城を攻められて河越城(埼玉県)に移る。天文てんぶん6年4月27日河越で死亡。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏第3代。天文15年(1546)、河越城の戦で勝利し上杉氏を圧倒、関東における後北条氏の優位を不動にした。
勝行 「寛政重修諸家譜」では「勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲」
改撰江戸志 原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では
天文十三年牛込の地に於て一寺を健て雲居山宗参寺と号す。是父の法名によってなり。(中略)同廿四年正月六日従五位下に叙し宮内少輔に任す。同年五月氏康に告て大胡氏を改て牛込と号す。時に氏康より書を賜ひ武州牛込今井桜田日尾谷下総の堀切千景 千葉の誤りか を領す。(中略) 改撰江戸志 
致仕 ちし。官職を退く。退官して隠居する
嗣子 しし。親のあとをつぐ子。あととり。
嫡流 ちゃくりゅう。 嫡子から嫡子へと家督を伝えていく本家の血すじ。また、正統の血統。正統の流派

大胡城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 鳥羽正雄等編の「日本城郭全集 第3(千葉・群馬・茨城編)」(人物往来社、1967)では……

 おお城は、赤城山南麓諸城の盟主である。
 南北に続く丘の長さ750メートルを数線の堀切りで断ち、七郭を並列した並郭式の城である。北端の近戸神社の曲輪出丸と推定されるが、初期の大胡城はこの一部だけだったのではあるまいか。北の堀切りを通る搦手虎口は、東側に横矢が構えてある。近戸曲輪の旧追手虎口は東南部にあり、坂虎口になっている。ここと越中屋敷曲輪との間の低地は、人工による堀切りではない。

赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
盟主 同盟の主宰者。仲間のうちで中心となる人物や国。この場合は城
堀切り ほりきり。地面を掘って切り通した水路。
七郭 ななかく。「郭」は外まわりをかこんだ土壁。すべて物の外まわり。一区域をなす地域

並郭式

並郭式 本丸(城の中心部のくるわ)と二の丸(本丸を補助する)が並行に存在し、そのまわりを三の丸(二の丸を守る郭。重臣の屋敷、馬を飼育する場所、城主のための厠など)が取り囲む。
曲輪 くるわ。郭とも。堀切や切岸などの防御施設に守られた城館の削平地。建物が建ち、生活や政治、防戦が行われた空間。
出丸 でまる。城から張り出した形に築かれた小城。
搦手 からめて。城の裏門。
虎口 こぐち。郭の入り口
横矢 敵の側面から矢を射ること。城の出塀だしべい(城郭の塀の一部を外部に突き出させたもの)の側面につくられた矢を射る所
追手 おうて。城の正門。表門。大手。
越中屋敷曲輪 下図「大胡城」の「越中曲輪」に相当する。

大胡城。「日本城郭全集 第3」(1967)から

 本丸は中央東寄りの最高所に据えられ、土塁をめぐらし、中仕切土居があった。二の丸は本丸西半に囲い付となり、東南部に枡形虎口の跡と思われる所が二ヵ所残っている。越中屋敷には東面に坂虎口が開き、西南下に王蔵院の曲輪があって搦手虎口跡が認められる。二の丸の南には三の丸南曲輪が並び、南曲輪と最南端秋葉曲輪との間の堀切りは追手虎口で東に枡形を備え、城下町に通じていた。
 西側下の南半には西曲輪がつき、東側下根小屋方面には稲荷曲輪などの四郭が構えられて、その東の荒砥川との間を埋めていた。
本丸 ほんまる。城郭で中心部をなす曲輪。天守閣を築き、周囲に石垣や濠をめぐらし、城主が起居する。(本丸御殿)
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
中仕切り なかじきり。一つの室や器物の中を区切って分ける仕切り。
土居 どい。城郭や屋敷地の周囲に防御のため築いた盛土。土塁とほとんど同じ意味だが、近世までは土居の語を用いた。
二の丸 にのまる。本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護する。城主の親戚や主な家来などが居住
囲い付  周囲を取り巻くもの。まわりをふさいで囲むもの。
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
王蔵院の曲輪 王蔵院曲輪。本丸の西に見られる。(下図参照)
三の丸 二の丸を囲む外郭の部分。家臣の屋敷など。
南曲輪 現在の呼び名は「四ノ曲輪」
荒砥川 あらとがわ。群馬県を流れる利根川水系の河川。源流は赤城山南麓で、前橋市をほぼ南北に流れ、伊勢崎市と前橋市の境界で広瀬川に合流する。

大胡城跡。群馬県勢多郡大胡町教育委員会「群馬県指定史跡大胡城跡 本丸北大堀切り跡遺」2001