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神楽坂1丁目
神楽坂三丁目
神楽坂四丁目
神楽坂五丁目
「堀見坂」ってどこにあるのでしょう。神楽坂通りから神楽坂仲通りの反対の坂を小栗横丁に向かって下り(この坂の仮称は神楽坂仲坂)、四つ角に立ちます。この四つ角を起点として、南に上る神楽坂2丁目の坂道です。
『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では「堀見坂」が始めて出てきます。なお、坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。
坂崎 この「小栗横丁」の「渡津海」の先を左に曲がって……。
井上 あれは意外な発見でした。「若宮八幡」に向かうところですが。
林 あの坂の途中から、昔はお堀が見下ろせた。土手公園や電車が走っているのも見えましたから。
坂崎 で、『堀見坂』とした。
井上 ちょっと安易だったんじゃないですか。今は見えないし。
坂崎 いや、今は見えなくても昔の地形を思い出すためにもいいじゃないですか。
井上 富士見坂というのはいっぱいある。今では富士山は見えないけれど、昔はここから富士山が見えたということで。その伝ですな。
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渡津海 わたつみ。小料理を食べる割烹でした。2000年にはあったのですが、2010年までには閉店しました。
土手公園 現在は外濠公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、小栗横丁はありますが、お蔵坂と堀見坂はまだありません。
ここで青色の坂にも名前はなさそうです。坂そのものは寛政年間(1789~1801年)ではまだありませんが、文政年間(1818~1831年)になると出てきます。名前が不明の坂なのですが、名前がないのも不憫です。神楽坂仲坂はどうでしょうか。
明治29年の「東京市牛込区全図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、堀見坂と一部のお蔵坂がありました。
「お蔵坂」ってどこにあるのでしょう。これは神楽坂通りから小栗横丁を通り、銭湯「熱海湯」から南に上がる神楽坂二丁目の坂道のことです。
この大正元年の東京市区調査会(上図。1917。複製は「地籍台帳・地籍地図」東京、第6巻、地図編2、地図資料編纂会、柏書房、1989年)を見ると、小栗横丁、堀見坂、お蔵坂はすでにあります。
『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では「お蔵坂」が始めて出てきます。なお、阿久津信芳氏は環境緑化新聞社編集部、林功幸氏は「巴有吾有」オーナー、坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表でした。
阿久津 それから若宮八幡を前に見て、小栗横丁の、「熱海湯」の前に下りるまでの小路。
林 あそこは今度、ビジネスホテルが建つとかで。
坂崎 あの坂の細い道は残るのかしら。
林 残るでしょう。残さないと人が通れない。もともと蔵のようなものがあったところなんですよ。
坂崎 じゃあ『お蔵坂』と。マンションが建つと日陰で暗くなるかもしれないけど。暗い細道というのもいいものなんです。
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ビジネスホテル アグネスホテルです。
蔵のようなもの 本当の蔵はなかったようです。1962年の住宅地図以降では住宅街とアパートです。1952年、火災保険特殊地図でも住宅街とアパートでした。今でもそうですが、窓は少なく壁だけが見えたので、蔵のようにみえただけでしょう。
明治29年の「東京市牛込区全図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、お蔵坂だけが途中でなくなっています。でも、お蔵坂そのものはあります。
明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、小栗横丁はありますが、お蔵坂と堀見坂はまだありません。
つまり明治28年には2つの坂はまだなく、明治28年ごろに着工し、明治29年、一部分が完成したのです。
もうひとつ、上の図で真ん中の坂(青色)にも名前はなさそうです。坂そのものは寛政年間(1789~1801年)ではまだありませんが、文政年間(1818~1831年)になると出てきます。名前が不明の坂なのですが、名前がないのも不憫です。昭和57年、新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」の412頁から仮に「堀端坂」と付けておきます。あるいは「堀見坂」と対照的な「不見坂」はどうでしょうか。ほかに「堀不見坂」「堀聞坂」「堀闇坂」などは? あるいは「神楽坂前通り」では?
「新坂」は横関栄一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)によれば18か所もあるといいます。新宿区では2か所で、ここでは袋町と若宮町の間を西に上がる坂です。さて、左側は元禄12年(1699)です。右側は享保(1716年)・元文(1736)の年に当たります。大きな違いは?
まず巨大な戸田左門の屋敷があるかないかが違います。左図にはありますが、右図にはなくなりました。かわりに左上から中央に下がる道路(茶色の矢印)ができています。これが新坂です。
明治時代も現在もあまり変わってはいません。上は袋町で下は若宮町です。これらの町の間をこの坂は通過します。
昭和51年、新宿区教育委員会の『新宿区町名誌』では
若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂という。江戸中期に新しく聞かれた坂だから名づいた |
と書き、平成22年、新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では
若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂という。江戸中期に武家屋敷地の中に新しく開かれた坂であるために名付けられた。若宮八幡からの坂なので若宮坂ともいう |
横関英一の『江戸の坂東京の坂』では
江戸時代では、新しく坂ができるとすぐに、これを新坂と呼ぶ。もしくは、坂の形態が切通し型になっている場合は、切通坂と呼ぶ。既設二坂の中間に新坂ができた場合は、これを中坂と呼ぶ。であるから、中坂も切通坂も等しく新坂なのである。新坂と言うべきところを、その坂の関係位置から中坂、その坂の態様から切通坂と呼んだのにすぎないのである。中坂は、左右二つの坂よりも新しい坂であるということは、まず原則といってよい。 |
新宿区の標柱では
新坂(しんざか) 『御府内沿革図書』によると、享保十六年(一七三一)四月に諏紡安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。 |
美濃大垣藩(岐阜)戸田左門(10万石)の屋敷でしたが、享保10年(1725)の古地図では信濃高島藩(長野)諏訪安芸守(3万石)の屋敷になっています。享保16年4月に新坂が開かれました。
ひっそりと新坂の標柱は立っています。周りのほとんどは4階ぐらいの小規模マンションで、一戸建てはあっても少なくなりました。一方通行で、車は上(西)から下(東)に向かいます。
幡随院長兵衛 光照寺の切支丹の仏像 由比正雪の抜け穴 地蔵坂の由来 一平荘 光照寺 袋町の由来 逢坂 庾嶺坂 小栗横町 アグネスホテル 若宮公園 お蔵坂
2013年6月23日→2019年10月24日
「寺内横丁」という言葉は実はありません。ただし、嘘というほど間違いだったとは思っていません。
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では「寺内に入る横丁」と書いてあります。それを私が簡単に「寺内横丁」と書いたもの。横丁ほどに人はいませんが、それでも何軒の店は十分、流行っています。
相川さん 階段を下りると、下と二階があって、小粋なうちでしたね。寺内に入ってからすぐ右のところに裏木戸がありましたね。土間は玉石だったですね。
馬場さん それで寺内に入る横丁になるんですよね。
相川さん はい、そうです。寺内に入る横丁です。
馬場さん そして、隣がいまの遊馬さんのところで「ウエダ履物店」。
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「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務、「山下さん」は山下漆器店店主です。
なお、番号9は変な場所です。実際に番号9に行って、振り返ってから神楽坂通りを見て、写真を撮ると…
何か非常に似ていませんか。そう、ノエル・ヌエットの「神楽坂」 1937年です。
2020年7月6日、こう書いた地元の方がいます。
もうひとつのノエル・ヌエット「神楽坂」の画についても、これが「寺内」のどこなのか、地図を見て考えていました。可能性があるのは「寺内横丁」の上り坂です。 「寺内横丁」を描いたという仮設を否定する要素も、決め手もない。いちおう私の妄想を添付しておきますので、ご笑覧下さい |
うん、私もヌエットの「神楽坂」は寺内横丁だと思っています。
神楽坂通りを背後に見て「仲通り」をこれから北に登っていきましょう。
はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンは360度動きます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。2番目の写真では解像度を上げたもので、ここをたたくと『環境にやさしい商店街 』などが出てきます。
上を見ると「神楽坂仲通り」と巨大な看板が見えたのですが、2017年にこの看板はなくなり、かわって日本語「神楽坂仲通り」と英語の”KAGURAZAKA CENTRAL St.”がある街灯、その下に『環境にやさしい商店街 東京都政策課題対応型 商店街事業 を利用しています 平成29年 神楽坂仲通り商店会』と変わりました。
左に芸者新路がでてきますが、写真ではまだ出てきません。階段が付いているのもまだ見えません。その後は右に入る路地があり、フランス料理が2軒ほど並んでいます。手前で左は「ル・クロ・モンマルトル」、後ろはフレンチカフェレストラン「ル・コキヤージュ」です。後者はそば粉のクレープを出してくれます。
さらに左に入るかくれんぼ横丁がでてきて、そこからすぐのところに料亭「千月」があります。写真は「千月」です。
昔は料理店や芸妓屋だけでした。現在はフランス料理、イタリア料理、上海料理、寿司などに変わっています。場所は小さいのにあらゆる料理が出てくる。もうどんな場所にいっても大丈夫。
2013/3/26→2019/8/21
「見返り横丁」は、どうしてこの名前になったのでしょうか?
もうひとつの「見返し横丁」はわかっています。平成10年(1998年)の雑誌「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で……
井上 さて、それで本多横丁に出て、すでに名前がついている「見返り横丁」。これはいい。で、その先の「鳥静」の脇の横丁も何か名前をつけてあげたい。敷石がゆるやかなS字を描いていて「見返り横丁」よりも長い。そこで『見返し横丁』ではいかが。
林 昔はあそこは抜けられた。道らしい道じゃなかったけど。
註 井上元氏はインタラクション社長
林功幸氏は「巴有吾有」オーナー |
林氏の「昔はあそこは抜けられた」は、見返し横丁のことですね。
では、もとに戻って「見返り横丁」はいつ、どこで、とんな理由で決まったのでしょうか? 上の1998年には「すでに名前がついている」ということなので、1998年以前からありました。
まず地図はあるのでしょうか? 1994年の「神楽坂輿地全図」では「本多横丁」は確かに書かれていますが、「見返り横丁」はありません。「かくれんぼ横丁」もありません。また毎年でる「ゼンリン住宅地図 新宿区」、2013~6年の神楽坂通り商店会「神楽坂マップ」、1985年神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』には「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありません。他にも例外が一つある以外を除き、「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありませんでした。
一つだけが例外で、それは1994年の「神楽坂・楽楽散歩」(編集は神楽坂地区まちづくりの会、編集協力は東京理科大学建築学科沖塩研究室、発行は新宿区都市整備管理課)で、ここには「本多横丁」以外に「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」がでてきます。
では書籍では? 1997年の「まちづくりキーワード集」(著者と出版は神楽坂地区まちづくりの会)には、「かくれんぼ横丁と「見返り横丁」がでてきます(下図)。一方、渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007)では「かくれんぼ横丁」はありますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はありません。西村和夫氏の「雑学 神楽坂」(角川学芸出版、2010年)ではこの「かくれんぼ横丁」「見返り横丁」「見返し横丁」は全てでていません。
雑誌は? 「ここは牛込、神楽坂」では「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で「名前がついている『見返り横丁』」とでてきます。また、2007年「神楽坂まちの手帖」15号「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」では「かくれんぼ横丁」はでますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はでてきていません。
つまり「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」は、1994年の地図「神楽坂・楽楽散歩」と1997年の本「まちづくりキーワード集」以外にありません。見返り横丁になったのか、その由来もわかりません。
これからは、まあ、でたらめですが、「神楽坂地区まちづくりの会」 などが横丁や坂をまとめることになって、誰かが「これは個人的な(か昔からの)横丁だけど、見返り横丁というものも使っている」といい、ほかの人たちも「へぇー、なるほど」と答え、あっという間に定着したのではないでしょうか。
この「神楽坂地区まちづくりの会」のメンバーは、山下修、立壁正子、江口素子、上田邦彦、坂本二朗、荘司雅彦、寺田 弘、保坂公人、渡辺行将、渡邊義孝、矢野貞子、山口幸二などの、そうそうな人物で、「かくれんぼ横丁」の名付け親、森川安雄氏もその一員でした。おそらく「かくれんぼ横丁」と同じ頃に、こんな会合で、森川さんなどのだれかが「見返り横丁」を推したか、知っているといったのでしょう。
新宿区立図書館資料室紀要の『神楽坂界隈の変遷』(新宿区立図書館、1970)の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」には牛込横寺町に住んでいた漢方の名医、浅田宗伯氏のことが出ています。まず、生年は文化12年5月22日(1815年6月29日)。享年は明治27年(1894年)3月16日でした。
この『神楽坂界隈の変遷』では「明治になっても依然として慈姑頭に道服を着て、長棒の桐の駕籠に乗って診療廻りをして歩いた」そうです。この慈姑頭は、束髪ともいい、髪はクワイの芽に似ていることから付きました。江戸時代、医者などの髪の結い方で、頭髪を剃らず、すべて後頭部に束ねたものです。道服とは道士の着る衣服、袈裟、僧衣で、先生は礼服である十徳という上着を着用していました。
また、幕末には浅田宗伯は横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功します。
宗伯はロッシュを詳しく診察します。 そして、左足背動脈に渋滞があるのを発見する。その渋滞は、脊柱左側に傷が原因と見極めます。 傷の原因をロッシュに問うと、18年前に戦場で何回も落馬したことがあるという。 で、脊椎を詳しく診ると、脊椎の陥没が2か所あるとわかった。 この診断に基づき、宗伯が薬を調合し治療を行うと、なんと、ロッシュを苦しめたあの腰痛が、たった1週間でピタリと治ってしまったのです。 (ねずさんのひとりごと。「漢方医学と浅田宗伯」)
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浅田宗伯は、徳川将軍家の典医となり、維新後には、皇室の侍医として漢方をもって診療にあたっています。漢方医の侍医は最後の医者だといいいます。
また、浅田飴も浅田宗伯の名前から来ています。浅田飴を作った人は堀内伊三郎氏ですが、「よこてらまち今昔史」では氏は浅田宗伯の駕篭かき(浅田飴によると書生)をしていたそうです。浅田から水飴の処方を譲り受けて、浅田飴を売り出しました。
「よこてらまち今昔史」(新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会、2000年)でも浅田宗伯のことは半ページだけですが出ています。
横寺町には明治四年(一八七一年)から大正十三年頃まで、現在の英検(旧旺文社本社)敷地の東端付近、五十三番地に住んでいた。 宗伯は容貌魁偉で酒好きであったが、医業の傍ら医学医史、史学、詩文等数多くの書を著わしたが、浅田家ではその散佚を恐れ、一括して東大図書館に寄贈した。また宗伯は幕府時代から千両医者としての名声があり、明治四年(一八七一年)五十七歳のとき、牛込横寺町に移って以来診察治療を請負う者が引きも切らず、浅田邸付近は順番待ちの患者が休む掛け茶屋が幾軒もできたとのことである。漢洋医競合の時勢のなかで宗伯は塾を開いて門弟の養成にも力を尽くした。 ところで浅田宗伯と浅田飴とのことであるが、浅田飴の製造元の堀内家は、長野県上伊那郡青島村の出身で、明治十九年四代伊三郎のとき家は破産し、夫婦で上京、伊三郎は浅田家の駕篭かきとなり、妻は青物売りをしていたが、宗伯はこれを励まして金と三種類の薬の処方を与えて独立させた。その処方のひとつが「御薬さらし飴」である。夫婦は水飴製造販売に全力を注ぎ、明治二十二年神田鍋町に浅田飴本舗を構えたのが起こりである。 |
散佚 さんいつ。散逸。まとまっていた書物・収集物などが、ばらばらになって行方がわからなくなること。散失。
掛け茶屋 道端などに、よしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。
この「御薬さらし飴」こそが後の「浅田飴」になっていきます。
夏目漱石氏は「吾輩は猫である」の中でこう書いています。
主人の小供のときに牛込の山伏町に浅田宗伯と云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずかごに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、かごがたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡を続いだら葛根湯がアンチピリンに化けるかも知れない。かごに乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をして澄していたものは旧弊な亡者と、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。 主人のあばたもその振わざる事においては宗伯老のかごと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固な主人は依然として孤城落日のあばたを天下に曝露しつつ毎日登校してリードルを教えている。 |
山伏町 新宿区の東部に位置する町名。全体としては主に住宅地として利用する。浅田宗伯は山伏町に住んではいない。
葛根湯 かっこんとう。主要な活性成分は、エフェドリンとプソイドエフェドリン。発汗作用を強め、また鎮痛作用があるという
アンチピリン 最初のすぐれた合成解熱薬。 内服でアンチピリン疹(ピリン疹)という皮膚疹を起こすことがあり、現在は使わない。
旧弊 古い考え方やしきたりにとらわれている状態
亡者 金銭や色欲などの執念にとりつかれている人
孤城落日 こじょうらくじつ。孤立無援の城と、西に傾く落日。勢いが衰えて、頼りないこと
リードル reader。リーダー。読本。アルファベットの習得と単語の発音から、さらに初等教育課程・中等教育課程を教えた。
かごについては、薬箱を持たせた供を連れて歩く徒歩医者と、より格式があり、駕籠を使用する乗物医者に分けられたようです。駕籠は町奉行から許可を得た御免駕籠でした。
正宗白鳥氏が書いた「神楽坂今昔」には、氏が大学生になって、初めての春、こんな体験をしています。
馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病狀を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勸めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫者よりも信賴されさうな風貌を具え、診察振りも威厳があつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に魚をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。 淺田宗伯老の藥はあまり利かなかつたようだが、「米の飯に魚をくらへ」と云つた田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。 |
住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。昭和12年の「火災保険特殊地図」で赤い中央は「浅田医院」になっています。左上は52で、つまり横寺町52番地では、といぶかるのも当然ですが、いつの間に変わったのか、分かりません。それとも、となりの家(桃色)が53なので、53は外来だったのでしょうか。あるいは、『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち』が単に間違ったのでしょうか。明治20年の地図も浅田宗伯邸がでていますが、番号はわかりません。
「よこてらまち今昔史」では「浅田医院」は現「あさひ児童遊園」だと描いています。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、ここは赤色の横寺町52番地でした。