下の写真を見て下さい。「鳥よし」が見えます。つまり、「鳥よし」があるのは揚場町2丁目24だよね……。しかし、この道路、こんなに短かったっけ。何かおかしい。本当に揚場町にある「鳥よし」なの? 実は揚場町の「鳥よし」ではなく、神楽河岸にありました。しかも、神楽河岸のこの部分、現在は何もないようです。
では、ある地元の人が書いている解説を読んでみましょう。
新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」に、ちょっと面白い写真があります。写真ID 484(昭和51年8月26日)とID 11477、ID 478(昭和51年8月)とID 12204です。 写っているのは下宮比町交差点から飯田橋駅東口に向かう途中の飲食店です。歩道橋の下り階段の脇にありました。正面の高架上に総武線の各駅停車が止まっているのが見えます。電車の真下が東口改札です。 何が面白いかというと、この店のあった場所は現在では新宿区ではないのです。飯田濠再開発(ラムラの建設)に伴って、新宿区と千代田区の間の区境を変更したのが原因です。 区境はもともと飯田壕の真ん中にありました。飯田橋の新宿区側のたもとの土地は揚場町の一部だったのです。壕を埋め立てて細長いビルを建てると、ビルが区境の上にきてしまいます。それでは都合が悪かろうということで、両区の面積を同じにした上で土地を交換したのです。ラムラの2つのビルを新宿区と千代田区それぞれに属するようにして、両者の真ん中に区境が来るようにしました。ここは「区境ホール」と名付けられました。 当時、人口減少に悩んでいた千代田区は、ひとりでも多くの区民を確保する目的で北側の居住棟をとりました。新宿区は税収が多く見込める南側の事務所棟をとったわけです。公式に発表されたわけではありませんが、新聞報道に書かれるほど常識でした。 区境が動いたことで、写真の店の住所は千代田区になり、新宿区から失われたのです。写真はその少し前に撮影したものと思われます。 ちなみに、飯田橋駅の西口前、牛込橋側の区境は昔のままなので、たもとにあるいくつかの店は今も新宿区に属します。 写っているのは古めかしい駅前の飲み屋ですが、「立食寿し」があるのが懐かしい。江戸前の寿司が高級化したのは割と近年のことで、もともとは屋台などで供されたファストフードでした。志賀直哉の『小僧の神様』は、そんな店が舞台です。 この当時、飯田橋に限らず国電の駅前には立ち食いソバと立ち食い寿司が並ぶように店を出していたものです。フラッと入り、握りを3つ4つ口に放り込むのは実に”江戸っ子的”で手軽な食事でした。今はそうした風景も失われてしまいましたね。 |
鳥よし 揚場町2丁目に移転した鳥よし。
下宮比町交差点 正しくは飯田橋交差点
途中の飲食店 図の赤い丸にある飲食店です。1978年はあったのですが、1980年以降はなくなっています。
現在は森に囲まれて、人間は通れなくなっています。
新宿区ではない 区が変わる前に家がなくなっていました。また昭和58年8月5日に区境を変更しました。
ラムラ 昭和59年に飯田橋にセントラルプラザビル(大規模複合ビルで店舗、事務所、住宅がある)が完成。このビルの1、2、20階にあたるショッピングセンターを「ラムラ」といいます。
区境ホール くざかいホール。新宿区と千代田区の行政区分をまたぐホール
飯田橋駅の西口 飯田橋駅は東口と西口に分けられます。西口は新宿寄りで、東口は御茶ノ水や東京に近い場所です。
立食寿し 立ったまま食べる寿司。屋台などで食べる寿司。食事を手早く済ませたい所に多く、多くは席のある店より値段が安い。
ファストフード fast food。素早くできる手軽な食品や食事
小僧の神様 大正9年、雑誌「白樺」で発表。丁稚奉公の仙吉は、客から念願のすしを腹一杯ごちそうしてくれた。志賀直哉氏は客の「『住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し惨酷な気がしたため、ここで筆を擱く」と書いています。
立ち食いソバ 立ったままで食べるそば。
一応、見えるものを左上から左下に、次に右側に渡って書いていきます。
- 広告のぼり「サクラカ(ラー)]
- 2階の突き出し看板「焼肉 京城館」
- 2階の読めない横看板「〇〇〇」(2階の店名か。おそらく「京城館」)
- 2階のネオンサイン「焼(肉)<煙突>〇京〇<煙突>料理<煙突>飯田橋」
- 2階の窓「焼肉」
- 1階屋根に横書きで「魚大 この下立喰寿し魚大」
- 1階屋根の下に「サッポロビール 大衆酒蔵 鳥よし キンシ正宗 ◯◯◯◯◯」提灯「やきとり」
- 店外にビールケース「SAPPORO」
- 2階「キンシ正宗 焼鶏 鳥よし」「やきとり」
- 1階「大(衆)」
- 1階「東京名物 甘太郎 東京名物」