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神楽河岸(写真)ID 483 ID 11459 昭和51年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 483とID 11459はほぼ同じ写真でしたが、ID 483の画角の方がやや大きくなっていました。ID 483は飯田橋駅東口でも出ています。撮影は飯田堀再開発前の1976年(昭和51年)でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 483

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11459 東京都水道局神楽河岸営業所(飯田橋付近)

 中央に2階建ての「東京都水道局」の建物があります。その左側のテント状の屋根は「ごらくえん」の建物で、すでに閉店しています。2ヶ所の間にはコンクリートの床が見えますが、丸友パチンコの跡でした。右端も水道局の建物です。
 その前にある道路が外堀通りで、その横断歩道を歩く人々がいます。道路標識は左から(歩行者横断禁止)、(駐車禁止)、(転回禁止)、(大型貨物自動車等通行止)、さらに都バス停留所「神楽河岸」です。
 水道局の背面には外濠がありますが、水面は見えません。その背面には「東京燃料林産(株)飯田橋支店」があり、少し離れて反対側から見たネオンサイン「ミ(ツ)ウロコ」(?)があります。
 さらには国鉄「飯田橋駅」の上部が見え、牛込橋も見えます。
 最後は一段高くなった千代田区の建物で、左から「飯田橋外語学院 10月生受付中」「日本歯科大学」「日本歯科大学体育館」「東京警察病院」「飯田橋会館(1階は郵便局)」「前田建設工業別館(暗く見え、1階は「三井住友銀行」)」「石原産業東京ビル」「フジボウ会館(最上階は下よりも広い)」「前田建設工業」などと続きます。

飯田橋駅東口(写真)ID 475, 481~483, 11457, 12190 昭和51年

文学と神楽坂

 新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で写真ID 475の表題は「揚場町」、撮影日時は「1976年8月」、またID 481は「飯田橋駅前 飯田橋四丁目」、「昭和51年8月26日」。ID 481では解説もついて「飯田橋東口のすぐ近くにも、古い街並みの一角が残っていた」と書いています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 481 飯田橋駅前 飯田橋四丁目 「飯田橋東口のすぐ近くにも、古い街並みの一角が残っていた」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11457 飯田橋交差点付近 飯田橋駅ホーム

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 475 揚場町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12190 飯田橋交差点付近 飯田橋駅ホーム

 しかし、いくつがおかしい。歩道橋はこちらに向かって開いている。それに、どうしてこの写真は飯田橋四丁目になるの? 飯田橋は千代田区で、新宿区ではないけど。また「ごらくえん」の前の歩道は車道よりも下かな? 右端の中央によく似たアパート(?)が2軒並んでいる。どこかで見たはずだが、すぐには思い出さない。

 まず、この場所はどこ? 「飯田橋駅前」で、さらに「飯田橋東口のすぐ近く」だったと書いています。では東口の左側、それとも右側。 堀を越えて左側まで行くと新宿区、右側に行くと千代田区になります。ただし、この昔の写真と違って、現在は違います。堀を越えて左側に行っても右側に行っても、今では千代田区飯田橋4丁目が広がっています。区境が1983年(昭和58年)8月に変更したためです。ただし、この時代は堀を越えて左側には「新宿区揚場町1丁目」が広がっているだけです。
 もう一度、左側か右側か。これは簡単です。東口の右側の千代田区に行っても、歩道橋はありません。横断歩道しかありません。つまり、歩道橋は東口の左側、新宿区にしかありません。

 おそらくカメラは歩道橋から撮ったものでしょう(赤色)。1978年の歩道橋は「エ」の形です。「この型の歩道橋は完成当時、渋谷と並ぶ大型歩道橋として警察や都がPRしました。けど地元の評判は非常に悪かった。飯田橋東口から下宮比町へ渡るのに、あまりに遠回りなので利用者が少ない。すぐに改修の必要性が認識されたんでしょう。後から1本付け足して『只の字』になったわけです」とある地元の人。また、歩道橋の降り口は1つなくなっています(水色)。この水色の歩道橋が最初の写真にあったものです。
「ごらくえん」の前の歩道は車道よりも下でしょうか? 多分下だと思います。東京都の当初の計画では水路は暗渠(カルバート、culvert)だけでした。しかし、都と住人の話し合いから、人工の開渠「せせらぎ」をつくるという考えがでてきます。つまり、本来の水路にコンクリートのカルバートをかぶせ、多くは地下を流し、わずかな水は「せせらぎ」として流す。多分この時に「せせらぎ」の水位が少し高くなったのです。歩道も車道と同じ高さになりました。

暗渠と開渠。東京都「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

暗渠と開渠。東京都「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 では、右側の中央ですが、よく似たアパートが2軒あります。これは「東京燃料林産の社宅」でした。これも崩されて、飯田橋セントラルプラザ・ラムラになります。

 では、写真の中で、建物数軒についても全て壊されました。

1976年 住宅地図

  1. ごらくえん。当時はすでに閉店。
  2. キンシ正宗
  3. 鳥よし
  4. 魚大と立ち食い寿司
  5. カメラ店
  6. シームレス(後ろ中央に縫い目のない婦人用長靴下)
  7. 立喰いそば 富士

 実は「データベース 写真で見る新宿」写真ID 481、482、483は全て一連の写真でした。また写真ID 484は中で撮った写真でした。赤い四角は全て一年後になくなる街だったのです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 482 飯田橋駅前 飯田橋四丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11458 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 483

 また、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「05-新宿区」「補-14(15/15)」「05-14-40-3神楽河岸付近の旧屋 1976-05-28」では

神楽河岸付近の旧屋 1976-05-28