その場所はここ。
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では対談を行っています。ここで出てくる人は、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「高須さん」はレストラン田原屋の店主。
馬場さん それでいよいよ隣りの「田原屋」(*)さんにいくわけね。田原屋さんていうのはどうなんですか?
相川さん これは昔「静岡屋」という魚屋さんだった。魚屋さんのあとを買ったんです。
馬場さん 静岡屋さんつてのは知ってる、頭?
相川さん 知らない。相当前だ。大正初期。あそこで牛肉屋をやったのね、あがり屋を。
高須さん 牛肉屋は潰れたはずですよね。それで屋号をさかさまにして田原屋にしたっていう話は聞いているんですけど。
相川さん 牛肉屋のあがり屋さんをやっていたときに女中さんできたのがおばあちゃんなんですよ。それでウヘイさんと見合いして一緒になって。
馬場さん 「原田屋」はウヘイさんのおとっつぁんなの?
相川さん お父さんは金魚屋だったの。それは赤城下にいた。
高須さん だけど、ウヘイさんは金魚屋やったり質屋に丁稚奉公したりしていた。
相川さん ああ、二丁目の質屋さんだね。山本さんの連れ合いの。
高須さん ウヘイさんのお父さんというのは下の弟さんのほうを可愛がっていて、ウヘイさんとはうまくいかなかったんですよ。
相川さん 水道町の高田さんに話を聞いたところでは、昭和四、五年のころ、要するに恐慌が来ていたときですね、ウヘイさんはいまの経済理論なんか知っている人じやないけれども、「不景気ってのは金持ちと貧乏人がますます差が開くことだ、これからの田原屋は貧乏人相手ではなくて金持ちだけを相手に商売をしよう」ということで、ガラッと商売を替えたんだという話を間きましだけどね。貧乏人を相手にしていてもダメだと。金持ちを相手にして、昭和五、六年の恐慌を乗り越えたという話があって。非常にわかりやすい(笑)。
高須さん あれ、質屋に勤めていて勉強したんじやないですか? 質屋の小僧がよく下のお堀で船に乗って京橋におつかいに行ったって。
馬場さん 質屋さんというのは一種の金融業者ですから、経済の動きってものがよくわかるんだ。
高須さん 質屋の小僧さんをやっていたんですよ。じいさんと一緒に金魚屋やって、そのあと質屋に丁稚奉公に行って、それから店をもった。
相川さん だけど、よくああいう商売をポッと考えたものですね。
高須さん じいさんが生きていたときはもう晩年でほとんど無口になっていますから、話を直接は聞いてないですけどね。よく聞いたのは、関東大震災のおかけで神楽坂はよくなったって。
相川さん そうそうそう。あれで下町は全部焼けたからね。
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あがり屋 不明。「揚がり屋」は「浴場の衣服を脱いだり着たりする所。脱衣。江戸時代では「武士、僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋」。「あがる」には「御飯を食べる」という意味があります。
ウヘイ 宇平です。高須宇平でした。
美味しいものなら量は少なくても価格は高くてもいい。しかし、本当に美味しいの? 美味しくない場合には残念ながら閉店です。
安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で、マカロニは少量、カレーライスも少量、スイカの匙は貧弱だといわれてしまいます。
M 「もうその邉で手つ取り早く食べ物の評に移らうぢやあないか。マカロニチーズ(三十錢)のチーズは却々よいのを使つてゐるが、マカロニは少し分量を儉約し過ぎてゐる」
H 「特別カレーライス(五十錢)お値段も相常だが、流石にうまく、第一カレーがいゝや、それに小皿に盛つてくる副菜の洒落てゐること、大いに推賞したいね。がたゞ僕の方も量を少々増して欲しいと思ふ。この一皿で一食分にはどうも少な過ぎるから」
S 「西瓜(三十錢)の味は無類、但しこの貧弱な匙はどうです、頸が折れ相で、その方に氣を取られる。この頃は百貨店でも大抵特別の匙を添へるのだから」
小が武 「アイスクリーム(二十錢)は餘りほめられません。どうも果物屋のクリームは千疋屋にしても美味くないし、こゝも感心しない」
M 「果物屋ではシャーベットをお食べと云ふ洒落かね」
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牛込倶楽部が発行する「ここは牛込、神楽坂」別冊『神楽坂宴会ガイド』(1999年)です。
単品でのおすすめ料理は、ハヤシライス(1800円)ビーフクリームコロッケ(1200円)ビーフカツレツ(2400円)など。ちょっと贅沢にというときには「牛ヒレ肉田原屋ふう煮込み」であるところのビーフストロガノフ(6000円)が最高。 |
ここでハヤシライス(1800円)が出ています。四半世紀を越えて、物価1800円は2000円以上です。しかし、本当に2000円以上に相当する味があったのでしょうか。ビーフストロガノフはなんと6000円。結局、コックの力量です。
最後は大河内昭爾氏の氏の『かえらざるもの』から。氏は武蔵野大学名誉教授で文芸評論家です。やっぱり悲しい。
神楽坂「田原屋」が消えた 神楽坂「田原屋」が昨年姿を消した。いつも愛想よく声をかけてくれていたおばあさんが店に出られなくなったせいであろう。店の前を通っても欠かさず愛想をいってくれた。 (「東京人」平成16年1月号)
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神楽坂で学生時代を過ごした当時、数多の著名人が訪れるていたこの店のコロッケ定食はあまりにも高価で、お店に足を踏み入れる事は出来なかった。いつか社会人になって、自分でお金を稼ぐようになったら必ず入ろうと決めていた。
数年後、お金をやっと使えるようになって意気揚々と坂を登って念願の店に辿り着いたら、
店は無かった。あまりにも淋しく、虚しかった。
元々の「田原屋」は戦前まで毘沙門天の向かい側にあって入り口は果物屋さん、その奥にレストランがあったと聞いています。長男の高須宇平氏が毘沙門天の隣に独立し、三男の(奥田)定吉氏が田原屋をやっていて二代目は定吉氏の長男(奥田)卯吉氏が継がれましたが戦争で焼失。著名人が通っていたのはこのお店。戦後残って頑張って営業を続けてこられたのは宇平さんの「田原屋」さん。と聞いています。
確かにそんな話もあります。白木正光氏の「大東京うまいもの食べある記」(丸ノ内出版社、昭和8年)では「毘沙門の向ふ隣。果物屋として昔から名の知れた店ですが、同時に山手一の美味な洋食を食べさせることも、既に永い歴史になってゐます。店先を見ただけでは、どこで洋食を食ぺるのか一寸判らぬ位ですが、果物の間を抜けて奥へ行く食堂があり、二階は更に落付いた上品な食堂になってゐます。」
一方、新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では「毘沙門の隣の静岡という魚やが、土地付で家を売りたいというので4000円で30坪、家付で買って、これで今の田原屋のめばえとなったのです。」(梅田清吉氏の“手紙”から)となっています。
「アサヒグラフ」(昭和62年、朝日新聞社)では「明治の中ごろ神楽坂の中ほどに牛鍋屋として店開き、のち果物屋となって大正3年に毘沙門の隣に引っ越す。そのとき果物だけでなく洋食を扱うカフェを始めた」
牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂 第17号』(平成12年春)の奥田卯吉氏は「おれも江戸っ子、神楽坂」で
「創業時の田原屋のこと
ここで田原屋とあたしのことを振り返ってみよう。
先々代は水道町で金魚の卸をしていた。一坪くらいに区分けした浅い池がいっぱいあって、それぞれの種類の金魚が飼われていた。
やがて神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。昔、牛の肉を食べるのは敬遠された時代から、ようやく醒めた頃で、大いに流行し繁盛したのである。昔は長男を除く子供は分家せねばならぬしきたりがあったらしく、皆、別姓を名乗っている。
時代の先端をゆく父たちは、五丁日の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った昧で知られる店だった。
末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波(さんぱ)石が据えられていた。これが親父の自慢で「千疋屋などどこ吹く風」だった。」
よく読むとみんな同じことを言っていますよね。高須宇平(長男)、[梅田]清吉(次男)、[奥田」定吉(三男)の三兄弟がおやじさんと一緒に毘沙門天向かい側の神楽坂3丁目5番地で牛鍋屋をやっていたが、その後、果物屋さんとフルーツパーラーのようなお店に変身。おやじさんとあまり仲が良くなかった?(高須氏談より)宇平さんが大正の初めごろに毘沙門天隣りの魚屋さんを買って独立。本家の田原屋はお祖父さんにかわいがられていたらしい?(高須氏談より)末弟の[奥田]定吉氏がやっていた(その後定吉氏の長男の卯吉氏が二代目として引き継ぐ)が戦争で焼失。戦後も頑張って残っていたのが高須さんの毘沙門天隣りの「田原屋」で、これが次男[梅田]清吉さんの手紙に出てくる「‘今の田原屋‘のめばえ」と表現されています。
「アサヒグラビア」の記事にある毘沙門天隣りに引っ越したという記事だけ少し違うと思いますよ。もとのお店は残っていましたから。
「大東京うまいもの食べある記」では「毘沙門の向ふ隣」といっていて、「向こう隣」とは「通りなどを隔てて向かい合っている家」で、神楽坂通りの反対側という意味が普通。でも「近隣」という意味もありました。そうすると、「毘沙門の隣」でもいい。なお「向かい側」は「物を隔てたあちらの側、向かい側」。若干、意味は違う。神楽坂三丁目にあった店は一丁目から5丁目に向いて左側にありました。
神楽坂の住人です。
毘沙門天があるのは5丁目(旧・肴町)、その向かいは4丁目(旧・上宮比町)です。3丁目5番地は毘沙門から坂下へ向かう途中、今の助六さんのあたりです。ここに戦前、田原屋があったことは、このブログの他の記事に見えます。
https://kagurazaka.yamamogura.com/3chome_eastsouth/
戦前生まれの父によれば、戦災の時に毘沙門さまの向かいに店はなかったそうです。3丁目の店も覚えているけれど、当時、田原屋といえば毘沙門の隣だったといいます。
「向こう隣」という記述ですが、毘沙門さまの境内には常設の出店(このブログの記事によれば見世物小屋)があって、その向こうが田原屋でした。坂下から行けば、毘沙門天の手前がそば屋の春月、小屋の向こうが洋食の田原屋ということかもしれません。