毘沙門天 |
大きな毘沙門天はここです。 |
毘沙門横丁 |
毘沙門横丁は神楽坂通りから垂直にでています。 |
行き止りの路地 |
「行き止まりの路地」は考えられる路地の一つです。上図の「行き止まりの路地」を「ひぐらし小路」と名付けた人もありました(『ここは牛込、神楽坂』第13号。「神楽坂を歩く。路地・横丁に愛称をつけてしまった」)。小さいながら石畳です。毘沙門横丁とひぐらし小路に顔を出す高村ビルに懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」があります。 |
夏姿 |
『夏すがた』は大正3年(1914年)、35歳に書いた永井荷風氏の小説です。次のように始まります。
日頃懇意の仲買にすゝめられて云はゞ義理づくで半口乘つた地所の賣買が意外の大當り、慶三はその儲の半分で手堅い會社の株券を買ひ、殘る半分で馴染の藝者を引かした。
慶三は古くから小川町邊に名を知られた唐物屋の二代目の主人、年はもう四十に近い。商業學校の出身で父の生きてゐた時分には家にばかり居るよりも少しは世間を見るが肝腎と一時横濱の外國商館へ月給の多寡を問はず實地の見習にと使はれてゐた事もある。そのせいか今だに處嫌はず西洋料理の通を振廻し、二言目には英語の會話を鼻にかけるハイカラであるが、酒もさしては呑まず、遊びも大一座で景氣よく騷ぐよりは、こつそり一人で不見點買ひでもする方が結句物費りが少く世間の體裁もよいと云ふ流義。萬事甚だ抜目のない當世風の男であつた。 |
不見転とは、金次第でどんな相手とも肉体関係を結ぶ芸者のこと。 |
神楽坂… |
『夏すがた』には次のような文章が残っています。
神樂坂の大通を挾んで其の左右に幾筋となく入亂れてゐる横町といふ横町、路地といふ路地をば大方歩き廻つてしまつたので、二人は足の裏の痛くなるほどくたぶれた。然しそのかひあつて、毘沙門樣の裏門前から奧深く曲つて行く横町の唯ある片側に當つて、其の入口は左右から建込む待合の竹垣にかくされた極く靜な人目にかゝらぬ路地の突當りに、誂向の二階家をさがし當てた。 |
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下谷 |
この場合は下谷区と考えた方がいいのでしょう。下谷区は浅草区と一緒になって台東区になりました。 |
お化横丁 |
お化横丁は下谷区のなかではおそらくありません。あるのは本郷区湯島の「お化け横丁」です。春日通りの1本南側のとても細い道をこう呼びました。図では「お化け横丁」を青い線で描いてあります。 池之端寄りにあるのが下谷区の「下谷花柳界」、湯島寄りには本郷区の「天神下花柳界」があり、実際は2つは同じ花街として成長してきました。たぶん永井荷風氏もほかの人と同じように名前を間違えたのでしょう。なお、「お化け横丁」とは芸者衆も昼間はスッピンで、でも夕方になると化粧をして顔が変わることから。 |
落籍 |
らくせき。抱え主への前借金などを払り、芸者の稼業から身をひかせること。身請け。 |
この横丁に |
下に引用していますが、野口冨士男氏は「毘沙門横丁」と「この横丁」は同じだと言っているようです。一方、笹口幸男氏は「この横丁」は行き止りの路地なので、「ひぐらし小路」と同じものと考えているようです。 |
私のなかの東京 |
『私のなかの東京』には次のような文章があります。
三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶二が下谷のお化横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちかいないが、ここから裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。 |
裏つづきで神楽坂演芸場があった場所にもちろんいけます(2つ前の図を参照)が、「料亭が軒をつらねている」よりは現在は「料亭も2、3軒ある」と書いた方がよさそうです。
これから千代香との関係はどう変わっていくのか、慶三はどうして「充分に安心し且つ充分に期待して」千代香と関係していくのか、自然主義では絶対にこうはいかないと思いました。 |