牛肉「いろは」は6丁目にありました。
森銑三氏の「明治東京逸聞史1」(平凡社、昭和44年)によれば……
牛肉店いろは 「読売新聞」明治24年12月25日から 牛肉店のいろはは、すべて48の支店を作ることを目標としていた。その第18支店いろはが、牛込神楽坂上に出来て、新しく開店することを広告している。48作ることは、一つの夢として終ったが、当時のまだ狭かった東京に、18の店を持つたというだけでも、その盛んだったことが思い遣られる。 |
また、泉鏡花氏が書いた「神楽坂七不思議」で「いろは」のことがでています。
神樂坂七不思議 「奧行なしの牛肉店。」
(いろは)のことなり、唯見れば大廈嵬然として聳ゆれども奧行は少しもなく、座敷は殘らず三角形をなす、蓋し幾何學的の不思議ならむ。
明治二十八年三月 |
唯 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。
島崎藤村ほかの『大東京繁昌記 山手篇』(講談社)で加能作次郎氏の「早稲田神楽坂」ではこう書きます。
その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑々そもそも私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかかるかと内心非常にびく/\しながら箸を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭だしてお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。 |
生田敏朗氏の「明治大正見聞史」(春秋社、大正15年)では……
一般の人々、わけても学生がよく行つた食物屋は牛屋であろう。いろはというのが殊に名高く到るところに支店を持っていた。いろはに肖せていろけというのが有った。或は私の見捐こないかも知れないが兎に角いろけと記した招牌をかゝけた牛屋が有った。牛込神楽坂の今の二等郵便局のあたりにも三階建のいろけが日露戦争後まであったと記憶する。 |
肖せて 肖る。にる。あやかる。もとのものに似る。似せる。
招牌 しょうはい。看板。商標
では、どこにあったのでしょうか。まず 間違えていた論点を見てみます。『ここは牛込、神楽坂』第18号の『遊び場だった「寺内」』では、
岡崎(丸岡陶苑) でも、ほんとうに遊ぶのは、安養寺の方で、狭いとこに駄菓子屋が二軒あったんで、そっちの方がわりあいにぎやかだった。安養寺の境内の往来に面したところに街灯があって、あそこはクルマ(人力車)がいつも二、三台、年中たむろしていたから。そこに「いろは」があった。牛鍋屋の。 |
「岡崎さんがお話ししながら描いてくださった明治40年前後の記憶の地図を描きおこしました」と書いてあり、図のような神楽坂の6丁目(昔の通寺町)の絵が書いてあります。図の左端の半分に「トケイ」や「安養寺」と書いてあり、その下に「いろは」が書いてあります。
昭和12年の「火災保険特殊地図」を見てみるとかなり今とは違います。
「いろは」は昭和12年「火災保険特殊地図」の「精進寮」でしょう。よく見ると三角形で、ここで名残をとどめています。このほかの建物はここにでています。
ここで下の写真を見てみます。右端の建物は「第一八いろは」(牛込区寺町)です。(「第六いろは」は神田区連雀町なので、違います)。
「いろは」は上図の建物「3」と思っていました。しかし、正しくは牛肉店『いろは』と木村荘平を見てください。