月別アーカイブ: 2013年3月

『ここは牛込、神楽坂』…牛込倶楽部、立壁正子さんが編集長

文学と神楽坂

「牛込倶楽部」が作るタウン誌『ここは牛込、神楽坂』は1997年(平成9年)夏から2001年(平成13年)春まで第1~18号を出版しました。立壁正子さんがやっていましたが、癌で急死、18号で終わりました。残念です。

 参考までに特集を掲げて起きます。古老、作家、地域の人、日本画、大学とあらゆるものを対象にして作っていました。ささいなことでもあるのかないのか調べるという姿勢が素晴らしい。どこか一歩が、先に行っている。ほかのものと比べると、360°よく見えていて、調査も行き届いている。

 本編で『ここは牛込、神楽坂』から参照したものはいろいろありますが、「第13号。路地・横丁に愛称をつけてしまった」が一番多く、「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」や相馬屋などが次に続きます。

 1号 神楽坂に寄せて。 
 2号 神楽坂古典芸能
 3号 神楽坂でENJOYひとり暮らし。
 4号 泉鏡花と牛込、神楽坂
 6号 忠臣蔵と牛込、神楽坂。ラーメン、ラーメン
 7号 藁店。地蔵坂界隈
 8号 神楽坂粋すじ事情
 9号 「まち」と大学の素敵な関係。東京理科大学
10号 漱石と神楽坂。 
11号 神楽坂で昼食を
12号 電脳都市神楽坂
13号 神楽坂を歩く。路地・横丁に愛称をつけてしまった 
14号 神楽坂を歩く。神楽坂の緑
15号 日本画の巨匠 鏑木清方と牛込
16号 拠点としての神楽坂
17号 「まち」と大学の素敵な関係。法政大学編
18号 「寺内」から、神楽坂・まちの文脈を再考する

『神楽坂がまるごとわかる本』
『神楽坂まちの手帳』
『西村和夫の神楽坂』と『雑学 神楽坂』
歴史と地理に戻る場合は

文学と神楽坂

『神楽坂まちの手帖』…けやき舎、平松南さんが編集長

文学と神楽坂

『神楽坂まちの手帖』はけやき舎が編集・発行する季刊誌です。03年4月から07年12月まで続きました。第18号が最後です。編集長の平松南氏が体調を崩し入院しました。現在はインターネット用の『週刊 神楽坂ニュース』に変わっています。
 
「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は本当にプロが書いた文章です。
http://blog.livedoor.jp/m-00_33187/
 
本編で『神楽坂まちの手帖』から参照したものは
神楽坂 長~い3丁目 みちくさ横丁 神楽小路 新女性大学 まだ一杯あります。

18号の特集をすべて書いておきます

 1号 神楽坂の路地の魅力・全解剖。神楽坂界わい らーめん徹底ガイド 
 2号 神楽坂でフランスを探す
 3号 和が息づくまち・神楽坂
 4号 坂を思いっきり楽しむ
 5号 坂歩き名人の散歩術
 6号 落語と神楽坂
 7号 お江戸の歴史と神楽坂
 8号 神楽坂の街を支える古建築
 9号 街を元気にするクラッシックの音楽力
10号 復活! 神楽坂の水辺 
11号 街を元気にする<アートパワー>
12号 昭和三十年代とその周辺 僕らの育った神楽坂
13号 街なかで学ぼう カルチャーで花盛り
14号 神楽坂と本
15号 神楽坂の路地・その魅力の全て
16号 江戸城と神楽坂
17号 漱石と早稲田・神楽坂
18号 「西歐的」小交差点を神楽坂に探す

つぎは
『神楽坂がまるごとわかる本』
『神楽坂まちの手帳』
『西村和夫の神楽坂』と『雑学 神楽坂』
歴史と地理については

文学と神楽坂

神楽坂|小栗横町

文学と神楽坂

 昔、小栗(おぐり)利右衛門屋敷があったため小栗横町という名前がつきました(町方書上)。ここでは小栗仁右衛門になっています。この屋敷は若宮八幡のそばに建っていました。しかし、入口に建っていた場合もありますし、両方に建っていた場合もあります。明治20年の地図でもちゃんと載っています。 小栗横丁の由来

 では、神楽坂通りから入ってみましょう。最初の路地は「鏡花横丁」という名前でも呼んでいたそうです。2つある田口屋生花の真ん中の道が鏡花横丁です。小栗横丁1

ほんの数メートルも行くと、2つに分かれます。(ここでは何もみえません)。ここで右側は小栗横町です。路地は(私たちもそうですが)右に進んでいきます。 右側は「ポルタ神楽坂」です。ポルタ神楽坂も東京理科大学の土地になっています。ポルタこの左側は理科大です。理科大学

ここから先に「泉鏡花・北原白秋旧居跡」があります。そこを通り過ぎると四つ角がでてきます。この右手に行くと、神楽坂通り、さらに神楽坂仲通りです。左手の方に上がる(下図)と、『ここは牛込、神楽坂』では「お堀が見下ろせた……で、『堀見坂』とした。」と書いています。残念ながら、今は反対側のほうをみても、建物が一杯で、お堀は見えません。堀見坂
また500円のコーヒーがある画廊Pulse Galleryがあります。 パルス
もとにもどって小栗横町に帰り、またさらに奥に行くと、⊥字路、熱海湯銭湯、T字路と、でてきます。⊥字路を右に渡ると、熱海湯階段に行く小路になります。

2番目のT字路を左に上がっていくと(下図)『ここは牛込、神楽坂』では「もともと蔵のようなものがあったところなんですよ」「じゃあ『お蔵坂』と」と書いています。お蔵坂また、この路地はアグネスホテルにつながっています。

小栗横町はなぜか飲み屋、日本料理、など沢山でてきます。昔はもっとそうで、芸妓屋や料亭が一倍あったところです。いまは割烹も普通の家も一緒に建っています。中には一見普通の家なのに本当は飲み屋をやっていたり、日本料理をだすところもあります。 小栗横丁2

あとは歩いてT字路に行くとこれでおしまい。このT字路の左は小栗利右衛門屋敷でした。ちょうど左の一帯が小栗屋敷でした。 また「出羽様下」とここには書いてあります。上に行く右側のほうから左側の若宮神社に至る通りを出羽様下というのでしょう。なお、この地図は明治20年の絵だそうです 明治の神楽坂の小栗横町(地図)

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文学と神楽坂

『西村和夫の神楽坂』と『雑学 神楽坂』…著者は西村和夫氏

文学と神楽坂

『西村和夫の神楽坂』は最初はインターネットに出てきたものです。

『雑学 神楽坂』は2010年(平成22年)10月に角川グループパブリッシングで出版されました。この間、西村氏は09年3月になくなっています。

どちらも取り上げているのは、江戸から明治、現代ですが、特に、江戸屋敷、毘沙門堂、泉鏡花花と桃太郎、芸者、なくなった名店、夜店について細かく書いています。なぜかもっと触れてもいいのにと考えてしまうものもあります。

本編で『西村和夫の神楽坂』と『雑学 神楽坂』から参照した一部は

階段の話
芸妓と料亭
和良店と牛込高等演芸館
ワラダナは1軒それとも100軒

『西村和夫の神楽坂…神楽坂界隈』

『雑学 神楽坂』は

はしがき 清水英夫氏の「西村和夫さんと私と神楽坂」
1 神楽坂今昔 
2 神楽坂と武将たち 
3 神楽坂と外濠
4 泉鏡花と桃太郎
5 毘沙門天と夜店 
6 横寺町と松井須磨子
7 神楽坂を上がる
あとがき 参考文献

文学と神楽坂

神楽坂仲通り…小さいのに料理店は幅広い

文学と神楽坂

では神楽坂通りを背後に見て「仲通り」をこれから北に登っていきましょう。

仲通り標柱

上を見ると「神楽坂仲通り」と大きな看板が見えます。左に芸者新路がでてきますが、写真ではまだ出てきません。階段が付いているのもまだ見えません。

仲通り10

その後は右に入る路地があり、フランス料理が2軒ほど並んでいます。手前で左は「ル・クロ・モンマルトル」、後ろはフレンチカフェレストラン「ル・コキヤージュ」です。後者はそば粉のクレープを出してくれます。

さらに左に入るかくれんぼ横丁がでてきて、そこからすぐのところに料亭「千月(ちげつ)」があります。写真は「千月」です。
千月
さらに赤い屋根のイタリア料理店がでると、おしまいです。

仲通り
昔は料理店や芸妓屋だけでした。現在はフランス料理、イタリア料理、上海料理、寿司などに変わっています。場所は小さいのにあらゆる料理が出てくる。もうどんな場所にいっても大丈夫。

 
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神楽坂|かくれんぼ横丁

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁はもっとも古い建物が残っている路地裏です。ただし第2次世界大戦で、ことごとく灰になり、すべてが戦後の建物です。しかし、戦後の花街として昭和30年代には繁栄しました。

 かくれんぼ横丁のほどんどは料亭・待合・芸妓屋として残っておらず、割烹、料理店、懐石料理に変わっています。ここで06年、日本建築学会で水井氏が「花街建築」の外観的要素として20項目を挙げ、うち料亭・待合は14項目、芸妓屋は9項目が重要だと考えました。が重要な項目です。

項目 料亭・待合 芸妓屋
①庭・庭木あり
②庭に松・竹・梅のいずれかあり  
③石畳か灯篭(とうろう)を配置  
④黒塀・木塀か刳貫(くりぬき)があるモルタル塀  
⑤玄関や門構えが重厚
⑥柱材が細い(3-4寸角)    
格子(こうし)が開口部に設置。
格子とは細い角材や竹などを碁盤の目のように作った建具。戸・窓などに用いる。
   
⑧玄関戸上部や外壁等に扇や松の型の刳貫や竹材等の細工あり
⑨2階に縁がある場合、()()()が付くか装飾的な浮彫(うきぼり)がある[擬宝珠付きは1棟のみ]
戸袋(とぶくろ)が装飾的
⑪照明に装飾か屋号入りの照明
⑫装飾的な青銅製の(とい)  
⑬開ロ部に深い(ひさし)[木製庇]    
⑭⑬に加えて庇裏が装飾的    
⑮階高が高いか総2階[2階建てがほとんど]
⑯建具が装飾的
⑰その他、装飾的な細工あり
⑱屋根形状が入母屋(いりもや)錣葺(しころぶき)[切妻屋根がほとんど]  
(のき)()    
⑳屋根のむくり(屋根を凸状に反らす)。    

 古い花街建築(大震災直後から昭和初期)ほど、より多くの装飾があったといいます。神楽坂は残った家屋がほぼない地域です。したがって戦後にできた新しい建物で、残念ながら装飾は少なくなっています。
かく5
 ここは普通の建物ですが、それでも一番きれいです。左手には黒塀があり、奥の右手では路地と玄関の間に塀で囲まれた木戸を作っています。


 青銅製の樋と入母屋造がはっきりと見えます。かくれんぼ1

かく6

 格子状の意匠があり、左には黒塀があり…

かく4
 玄関前の屋号の照明、戸の内部に竹材の細工が見られます。また入口は木戸からさらに奥です。


 ちなみに「拝啓、父上様」で第1話でこの(正確には仲通りの)料亭「千月」とかくれんぼ横丁がでてきました。

仲通り
  を走って「千月」の前に立つ。
  見廻すがテキがいない。
  路地へとびこむ。

千月2かく7



「かくれんぼ横丁」と「から傘横丁」の由来は…

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文学と神楽坂

地蔵坂|和良店

「和良店」です。2010年の「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
江戸で最初に出来た寄席は、寛政10年(1798)、櫛職人の可楽が、下谷神社境内に開いたとされている。和良店亭の設立時期は判っていないが、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が初看板を挙げ、美声の都々逸に加え、冴えた謎かけを披露し、以後一世を風靡しており、天保年間には「わら新」で、義太夫の興行が行われたという。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席となる。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」とした。
小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。旧水戸藩御用達で六十二銀行を設立した佐藤巌の長男として、商法講習所(現:一橋大学)で学ぶが、親の銀行を数年で辞め、その後、どうにも腰が落ち着かない。ついに、親が根負けして名流の寄席を持たせ小住との生活を黙認したようにも思える。

都々逸坊扇歌は別に扱います。また、色物(いろもの、いろもん)とはウィキペディアによれば「寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲を指す。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で書かれていたが、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていたのを転じて、そう呼ぶようになった」ようです。

夏目漱石の『僕の昔』では

落語はなしか。落語はすきで、よく牛込の肴町さかなまち和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席よせはたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。

ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会では

山本 それから写真屋をなさっていた富永さんに伺ってきたんですが、牛込館の隣には、神楽坂演芸場というのがあって、それが後に引っ越して神楽坂を上りきった宮坂金物店の横の方へ移ったそうです

同号で高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では

この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

一方、同じく同号で 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。

藁店(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)

野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五〇年九月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

 

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地蔵坂|ワラダナは1軒それとも100軒

文学と神楽坂

 藁店は「わらだな」と呼んでいます。現在は固有名詞として使っていますが、本来は、一般名詞の「わらを売る店」のことでした。このわらを売る店、どこにあったのでしょうか。いったい何軒あったのでしょう。

 明治20年の内務省地理局の地図をみてみましょう。ここには「わら店横町」がでています。また、坂は地蔵坂です。さらに一個の「・」がついた「わら(だな)」がありました。

藁店。明治20年。内務省地理局の地図

西村和夫の神楽坂』では江戸時代、「善国寺の裏一帯は藁店(わらだな)という菰筵を商う町屋があり賑わいをみせていた」と書いています。藁店は一戸か数軒か、わかりません。なお、菰筵こもむしろとは(わら)やイグサ、真菰(まこも)などの草で編んだむしろ(筵/莚/蓆/席。敷物の一種で、わら、()(すげ)、竹などを編んで作るもの)のこと。
 「東京神楽坂ガイド」では「その藁店が多いから藁坂なのかと想像しています」と書き、ウィキペディアでは「江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから『藁店(わらだな)』と呼ばれた」と書いています。 これらは数軒あったとかいています。
 一方、「東京10000歩ウォーキング」では「『藁店』の呼称は坂上に近い小林石工店の付近で藁を売っていたからだ」と書いています。一軒でもおかしくありません。
 大げさに言うとかたや数軒、かたや1軒で、すごく大違いがあると思いますよね。 しかし、一番正確な説明は『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会です。ここで山本犬猫病院の山本氏と小林石工店の小林氏が登場します。

山本氏 藁店というのは、昔、石屋の小林さんあたりで、藁を売っていたからなんですね。というのは、この先の出版社や三沢さんというお宅があるあたりの両側は馬が水を飲むところだったんです。これは区で調べれば分かります。で、馬や牛が通ったわけですが、昔は蹄鉄なんてありませんから、藁を使ったんでしょう。人間のわらじというより、おそらく馬や牛のための藁を商うところがあったんだと思います。
小林氏 で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。うちも確か20年くらい前までは、藁店さん、石鐵さんと呼ばれていました。

藁店ワラダナと小林石工店 文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば

里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候

と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。 どうも「藁店」は石工店の前で、藁を売っていたのは従業員は多くても石工店の前なので一軒、せいぜい二軒もあればよかったと思います。内務省地理局の地図を見るとわら店は1軒だけで、ほかの多数は「わら店横町」になったことも可能です。で、私は、わら店は1軒だけだと考えて、一票を入れたいと思います。まあ、どうでもいいことでした。

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神楽坂|兵庫横丁 と 兵庫町…想像図なんです

文学と神楽坂

 兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は? 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」で

神楽坂五丁目
神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込肴町が、神楽坂の北側に行元寺門前および寺地があった。
牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫町といったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌)

肴町が5つの町に
 つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。

 ところが、兵庫横丁は、神楽坂四丁目なのです。どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが

 ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。

 想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。

 ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。牛込城の想像図

神楽坂の通りと坂

神楽坂|兵庫横丁、本当はもっと変えないと

文学と神楽坂

兵庫

 兵庫横丁は軽子坂(厳密には違いますが)と神楽坂通りをつなぐ路地。昔は本多横丁ともつながっていました。

野口冨士夫『私のなかの東京』では

読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

 石畳・黒塀・見越しの松と、もっとも神楽坂らしい一角です。元は路地の幅は3尺程度でした。この石畳・黒塀・見越しの松の3つについて見てみましょう。

 まず石畳ですが、西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

坂下の石畳は…下駄履きの女性には敬遠された。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスファルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され、黒塀と共に花街に風情をあたえることになった

と書いています。

 特に夜に賑わう花柳界では暗い中での足元を確保するという意味合いもありました。今のアスファルトによる舗装技術を持たなかった時代の名残りです。

 見越しの松は、塀ぎわで庭の背景をつくり、前面の景を引き立て、道路から見えるように塀の上まで伸ばした状態です。外からも見えるようになる役割があります。

 「黒塀」とは柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀のことで、防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効です。日本家屋は昔から木造でした。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出します。

「死んだ筈だよ お富さん」が有名ですが、その前に「お富さん」はこう歌います。
♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
やはり妾さんでしょうか?

 さらにすぐに先が見えなくなる路地も効果的です。「和可菜」の家は見えるけれど、それから先は何もわからない。実際には戦後すぐには本多横丁と数箇所でつながっていました。本多横丁で袋小路があったのを覚えていますか? 昔はそこは道で、通れたのです。それが家のため見えなくなり、かえって路地は横に曲がってしまうのです。

 また格子戸、打ち水、盛り塩もいい感じを出しています。

 格子戸は格子状の引き戸や扉で、採光や通風を得ることができます。()ち水は夏の季語で、ほこりをしずめたり,涼をとるために水をまくこと。()り塩は料理屋・寄席などで,掃き清めた門口に縁起を祝って塩を小さく盛ること。格子戸、打ち水や盛り塩はいずれも奈良・平安時代から続いていました。

関係ないのですが、『村上のまちづくり』 案内人:吉川真嗣『黒塀プロジェクト』というのがあります。

 簡易工法ではありますが、ブロック塀を黒塀に変えるだけで町の景観を変えることができます。平成24年には約390mの黒塀が作られ、今後も延長予定です。また「安善小路と周辺地区の景観に関する住民協定」が締結され、電線の地中化や道路の石畳化を目指して活動が行なわれています。

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 黒塀、見越しの松、石畳をすべて使ってます。この地域はすごい。あっというまもなく、いい景観ができる。神楽坂などはこれに簡単に負けそう。

 

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