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泉鏡花旧居跡|芳賀善次郎氏と石川悌二氏

文学と神楽坂

 泉鏡花氏は明治36年3月から3年間、「神楽坂2丁目22番地」に住んでいました。しかし、これは広大な場所です。正確な位置はどこにあるのでしょうか。

神楽坂2丁目22

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では……

2、作家泉鏡花旧居跡         (神楽坂2―22)
 神楽坂の途中左手、瀬戸物屋の横を行くと坂道に出る。そこを越したところ、理科大学の裏手にあたる崖上は、泉鏡花が明治36年3月から39年7月まで住んだところである。
 泉鏡花の師、尾崎紅葉は、横寺町に住んでいて、多くの弟子を指導していた。その中で一番早く文壇に認められたのは鏡花である。鏡花は、小栗風葉徳田秋声などとともに紅葉門下の硯友社の一員であるが、硯友社の人々は明治32年の新年宴会を、神楽坂の料亭常盤家で行なった。この夜、鏡花は桃太郎(本名、伊藤すず)という若い芸妓を見知ったのである。それ以来、鏡花と桃太郎との交際は続くのであるが、このことを知った紅葉は不快に思っていた。
 そのうち、36年3月、鏡花が神楽坂のここに一軒借りて桃太郎と同棲していることをきき、紅葉の怒りは爆発した。彼は小栗風葉に案内させて鏡花の家へ乗り込んだが、鏡花はす早く桃太郎を裏口から逃してその場をつくろった。紅葉は鏡花を強く叱りつけて帰ったが、その後彼女は涙をのんで鏡花のもとを去ったのである。
 しかしほどなく紅葉は、その年の10月30日に他界した。紅葉の死によって、生木を割かれるように別れた鏡花と桃太郎の仲は、またもとに戻った。それでも亡師に遠慮して鏡花は籍を入れなかった。正式に結婚式を挙げたのは大正15年になってからである。この両人の住んだのもここであった。
 鏡花の“婦系図”は、半自叙伝小説といわれる。発表された翌年、新富座喜多村緑郎伊藤蓉峰らによって上演されてから有名になった。その時新たに書き加えられた湯島境内の場で、早瀬とお蔦が清く別れる一場が特に観客の涙をさそったものであった。このお蔦は桃太郎であり、早瀬主税は鏡花自身であり、酒井先生というのは紅葉のことである。
 鏡花は、神楽坂を忘れられない思い出の地としていたらしく、“神楽坂の唄”と題した詩を書いている。

生木を割かれる 生木なまきを裂く。相愛の夫婦・恋人などをむりやり別れさせる。
新富座 しんとみざ。歌舞伎劇場名。江戸三座の一つで、明治5年、猿若町から京橋区(中央区)新富町へ進出。明治8年、新富座と改称。ガス灯を設備した近代建築だが、大正12年、関東大震災で焼失した。
喜多村緑郎 新派俳優。女形。素人芝居から俳優の道に入る。道頓堀角座を本拠に「成美団」を結成、のち東京でも活躍し、新派三頭目時代をつくる。人間国宝。生年は明治4年、没年は昭和36年。享年は満89才。
伊藤蓉峰 正しくは伊井蓉峰。新派俳優。新派大合同劇の座長格。端麗な容姿と都会的な芸風で、新派の代表的な俳優として活躍した。生年は明治4年、没年は昭和7年。享年は満60歳。

 住所はわかりますが、その他はわからない。そのまましばらく放っておきました。数年後、石川悌二氏が書いた「近代作家の基礎的研究」(明治書院、昭和48年)があると知りました。鏡花の邸宅の写真もあったのです。

 師尾崎紅葉の死去によって、生木を裂かれたような鏡花と桃太郎の仲はふたたび元に返った。鏡花の戸籍面は、この年12月、小石川大塚町から牛込区神楽町2丁目22番地に送籍されているので、紅葉の没後まもなく両人はまた一緒になったのであろう。しかし鏡花は亡師にはばかり、すずの戸籍を長く妻として入れなかった。それが二十数年を経過した大正15年になって、水上滝太郎の切なるすすめにより、改めて結婚式をあげたのであった。
 鏡花、桃太郎が住んだ神楽町二丁目の家宅はすでにないが、そこは神楽坂を上ってまもなく、左側の瀬戸物屋薬屋の間を左折し、その小路がまたにつき当たる左手あたり(現神楽坂2丁目の東京理科大学裏手)にあった。
 新派劇の「婦系図」はその序幕が主税とお蔦の新世帯であって、瀟洒なつくりのその家は、横手に堀井戸があって、すぐ勝手口や台所が続いているが、これは鏡花の実際の住居を模写したもので、桃太郎も芝居のお蔦さながらの生活をしたものと伝えられている。(村松梢風「現代作家伝・泉鏡花」参照)
 ついでながらに加えると、婦系図のヒロインのお蔦は、桃太郎が抱えられていた芸者屋「蔦永楽」にちなんだ名で、酒井先生は紅葉の住んでいた近くの牛込矢来町一帯が、旧小浜藩酒井氏の下屋敷跡だったことから、「酒井先生」としたのであろう。またこの作中に登場するひどく威勢のいい魚屋「めの惣」のモデルは魚徳という人で、現在神楽坂の北側三丁目にある料亭「魚徳」はその人の孫が経営している。この魚徳の姪は、又平という妓名で桃太郎と同じ蔦永楽から左棲をとっていたが、その人もすでに亡い。紅葉の愛妓だった小えん、すなわち婦系図の小吉のモデルは、相模屋の女将村上ヨネの養女に入籍され(戸籍名、村上えん)ていたが、紅葉の死後5年ほどして北海道函館の網元ひかされて妻となった。
この年 明治36年です。
送籍 民法の旧規定で、婚姻や養子縁組などで、1人の戸籍を他家の戸籍に送り移すこと。
瀬戸物屋 太陽堂です。
薬屋 当時は山本薬局。現在は神楽坂山本ビルで、1階はデンタルクリニック神楽坂です。
小路 神楽坂仲坂と名前をつけました。
 堀見坂です。
左手 地図では東側です。

1976年。住宅地図。

あたり 上の写真を見てください。写真に加えて「神楽坂うら鏡花旧居跡(電柱の左方)」と書いています。写真は昭和48年(1973年)頃に撮ったものです。下の写真は平成18年(2006年)頃に撮られたものです。なぜが2本の電柱はそっくりです。また「泉鏡花旧居跡」の場所も正確に同じ場所だとわかりました。「北原白秋旧居跡」の場所はまだ不明。

籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング No.13 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)


婦系図 おんなけいず。1907年(明治40年)、泉鏡花の小説や、原作とした演劇・映画
蔦永楽 つたえいらく。神楽坂3丁目2番地。地図は大正元年の地図です。正確なものはなく、これ以上は不明です。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

左棲 ひだりづま。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
相模屋 神楽坂3丁目8番地。地図は大正元年の地図です。相模家はこの赤い地図で、問題は何軒があるのか、です。

相模屋

相模屋。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、どうも1軒だけでした。ただし、数軒をまとめて地図上だけ1軒にしたと考えることもできますが。

網元 漁網・漁船などを所有し、網子あみこ(漁師)を雇って漁業を営む者。網主あみぬし
ひかされて じょうなどにひきつけられる。ほだされる。

ミスターダンディー(写真)文章と仏閣神社 昭和49年

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。この神社の中や前などにカメラを置いて撮っています。雑誌なのに有名人もタレントもなく、言ってみれば誰も気にしない写真です。ある地元の人は「手抜き企画で、神社ばかり。文化に縁遠い記事」だといっています。現代の人間だと、まず撮らない写真……。でも、変わったものは確かにあるし、それに本文には、ちょっといいこともある。では読んで、そして、見てみましょう。

 飯田橋駅九段口の前に立って、九段の反対側が神楽坂である。
 江戸時代、築土八幡を移すときこの坂で神楽を奏したことから、神楽坂の名が生れたとか穴八幡の神楽を奏したとか、若宮八幡の神楽が聞えてくるとかいろいろあるが、とにかく、その神楽から生れた名であることはまちがいない。
 江戸時代は坂に向って左側が商家、右側が武家屋敷であった。
 明治になり早稲田大学ができ、その玄関口として次第に商店街を形成していったのである。
 昭和10年頃は山の手一の繁華街で、夜の盛り場としても名があり――神楽坂は電気と会社員と芸妓の街である――といわれた。
 神楽坂の芸者、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」を覚えている人もあるにちがいない。
 また、ここには多くの文人墨客が住んでいた。思いつくままあげてみると、作家泉鏡花(神楽坂2-22)尾崎紅葉(横寺町)北原白秋(2-22)などがある。
 鏡花の“婦系図”は半自叙伝小説で、早瀬は鏡花であり、お蔦は神楽坂芸者で愛人であった桃太郎であり、真砂町の先生は紅葉であるという。
左側が商家 江戸時代は左側も武家屋敷でした。
文人墨客 ぶんじんぼっかく。ぶんじんぼっきゃく。詩文や書画などの風流に親しむ人。「文人」は詩文・書画などに、「墨客」は書画に親しむ人。

 江戸時代、江戸七福神の一つ、毘沙門様が坂を上って左側の善国寺にある。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが最初である。明治、大正にかけて、夜の賑いは大変なもので表通りは人出で歩けないほどであった。
 早稲田通りをでて左へゆくと赤城神社がある。これはこの地の当主牛込氏が建てた神社である。
 築土八幡は一段高く眺望の利く位置にある。
 ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものである。
 ここにある康申塔は、高さ約1.5メートル幅約70センチの石碑で、面にオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。
 一猿は立って桃の実をとろうとし、一猿は腰を下して待つところで、アダムとイブを連想される。これを由比正雪が信仰したという説がある。しかし、少々時代のずれがある。
 由比正雪といえば、このあたり、大日本印刷工場の東南から東方一帯が、正雪の旧居跡であった。
 伝説によると、正雪の道場済松寺門前から東榎町、天神町にかけて約5000坪の地所に広がっていたという。
 いずれにせよ、その町の一つの道、一つの坂には、長い歴史の過去があるのである。
 それを思い、あれを思い、ただ急ぎ足に通りすぎるだけでなく、ふと、なにかを振り返りたくなる――そんな静かな気持で、この町を歩いてみるといいだろう。まだまだ、多くのむかしがそこにある。
 そして、そこを吹く風に、秋をみつけたとき、あなたは旅情を知る人になっているにちがいない。
管領 かんれい。室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
八幡宮 八幡神を祀る神社。9世紀ごろ、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立し、王城鎮護、勇武の神、武人の守護神などになった。武士を中心に弓矢の神として尊崇された。
康申塔 こうしんとう。庚申塚に建てる石塔。村境などに、青面金剛しょうめんこんごう童子、つまり病魔、病鬼を除く神を祭ってある塚。庚申の本尊を青面金剛童子とし、三匹猿はその侍者だとする説が行き渡っている。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。慶安事件の首謀者。1651年徳川家光の死に際し,幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企てたが、内通で事前に発覚。正雪は自刃した。生年は慶長10年(1605年)、没年は慶安4年7月26日(1651年9月10日)。
時代のずれ 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の一部では
34、珍らしい庚申塔
(略)この庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。(略)

由比正雪 実際は位置不明です。正雪の記載があるのは、新宿区矢来町1-9にある正雪地蔵尊だけですが、正雪との関係を示す史料はありません。
済松寺 新宿区榎町77番地。
東榎町、天神町 ひがしえのきちょう。てんじんちょう。済松寺、東榎町、天神町について図を参照。

全国地価マップ

  • 赤城神社。「赤城神社再生プロジェクト」で新たに本堂などを建て、2010年、終了するので、この写真は昔のものです。

赤城神社(今)

「昭忠碑(大山巌碑)」もありました。明治37~8年の日露戦役を記念し、明治39年に建てられて、陸軍大将大山巌が揮毫しました。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。内容はここに詳しく。

 現在はかわって三社があります。赤城出世稲荷神社、八耳神社、あおい神社です。

三社

  • 神楽坂若宮八幡神社。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。1949年に拝殿、1950年5月に社務所を再度建築。その後、敷地の西側に新社殿を建て、残った部分をマンションにしました。マンションの竣工は1999年です。

若宮八幡神社

現在の若宮八幡神社

  • 善国寺。昭和46年に本堂を建てています。したがって、現在と同じ寺院でした。

 庚申塔もあります。

婦系図

文学と神楽坂

泉鏡花

泉鏡花

 これは泉鏡花氏の『婦系図』(1907年、明治40年)前篇「柏家」45節で、中心人物のうち3人(小芳、酒井俊蔵、早瀬主税)が出てくる有名な場面です。「いいえ、私が悪いんです…」と言う人は芸妓の小芳で、ドイツ文学者の酒井俊蔵の愛人。小芳から「貴下」と呼ばれた人は主人公の書生で以前の掏摸すり、早瀬主税ちから。「成らん!」と怒る人はドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生です。
 もちろん酒井俊蔵のモデルは尾崎紅葉氏、早瀬主税は泉鏡花氏、小芳は芸妓の小えんです。
 小芳が「いいえ…」といった言葉に対して、文学者の酒井は芸妓のお蔦を早瀬の妻にするのは無理だといって「俺を棄てるか、おんなを棄てるか」と詰問します。

いいえ、私が悪いんです。ですから、あとしかられますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「成らん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急たんぺいきゅうに首をおさえて叩っってしまうのだ。
 早瀬。」
苛々いらいらした音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支さしつかえん、おんなうらんでも、泣いてもい。こがじにに死んでもい。先生命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」

婦系図 明治40年に書かれた泉鏡花の小説。お蔦と早瀬主税の悲恋物語が中心で、ドイツ文学者の酒井先生の娘お妙の純情、家名のため愛なき結婚のもたらす家庭悲劇、主税の復讐譚などを書く。
糸瓜 へちま。つまらないものや役に立たないもののたとえ
短兵急 刀剣などをもって急激に攻めるさま。だしぬけに。ひどく急に。
苛々しい いらいらしい。心がいらだつ。いらいらする様子。
先生 自分より先に生まれた人。学問や技術・芸能を教える人。自分が教えを受けている人。この場合は酒井俊蔵。
言句 げんく。ごんく。言葉。ひとくさりの言葉。一言一句。

(どうだ。)とあごで言わせて、悠然ゆうぜんと天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
おんなを棄てます。先生。」
判然はっきり云った。其処そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
幾久いくひさし、おさかずきを。」と、ぐっと飲んで目をふさいだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
其方そっちの、其方の熱い方を。もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物をふところへ、羽織ひもを引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」

悠然 ゆうぜん。物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま。悠々。
猪口 ちょく。日本酒を飲むときに用いる陶製の小さな器。小形の陶器で、口が広く、底は少し狭くなる。猪口
幾久く いくひさしく。いつまでも久しい。行く末長い。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。



湯島の境内②|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は「婦系図」の小説(1907年)では入っておらず、戯曲(1914年)で新しく加わりました。ここは戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店の「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻。早瀬の話に出てきた「おれ」や「先生」とはドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生。小芳は芸妓で、酒井の愛人でした。

早瀬 実は柏家かしわや奥座敷で、胸に匕首あいくちを刺されるような、御意見をこうむった。小芳こよしさんも、あおくなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれじにをしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色けしきばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命いのちを懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者のまことを御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男にこがれて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体もったいない、意地で先生にたてを突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返おしかえて出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、そばで聞く俺がきまりの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、おんなを棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際じんみらいざい、俺は何とも、ほかに言うべき言葉を知らん。


柏家 柳橋にあった芸者置屋おきやか料亭。置屋とは料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
奥座敷 家の奥のほうにある座敷。私生活にあてる座敷。
匕首 あいくち。つばのない短刀。
小芳 芸妓。ドイツ文学者酒井俊蔵の愛人。酒井俊蔵は早瀬主税の先生。
縋る すがる。 頼みとしてとりつく。しっかりとつかまる。しがみつく。
こがれ死に 焦がれ死に。恋い慕うあまり病気になって死ぬこと。
二の句 次に言いだす言葉。
気色ばむ 怒ったようすを表情に現す。むっとして顔色を変える。
わけしり 訳知り。遊里の事情によく通じていること。また、その人。
 まこと。うそや偽りでないこと。人に対して誠実で欺かないこと。偽りのない心。まごころ。
蔦吉 芸名、名。「吉」「太郎」「奴」などをつけて男名前を使うことが多かった。
押し返す おしかえす。押してきた相手を逆にこちらから押す。押し戻す。相手の言葉を受けて返す。裏返す。
尽未来際 じんみらいさい。仏語。未来の果てに至るまで。未来永劫。永遠。

お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、たしかに誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分ききわけてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれ且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸にすがって、顔を見合わす。)
〽見る度ごとに面痩おもやて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子かねがある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取るとひとしく)手切れかい、失礼な、(となげうたんとして、腕のえたるさま)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形まげがたの包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄うっちゃって行きたいけれど、それではねるに当るから。


男が立つ 男としての名誉が保たれる。面目が保たれる。男の名誉が守られる。
事を分ける ことをわける。筋道を立てて詳しく説明する。条理を尽くす。
きれぎれ 細かくいくつにも切れて。切れそうになって、からくもつながっている
且つ 一方では。ちょっと。わずかに。そのうえ。それに加えて。
面痩せる おもやせる。顔がやせてほっそりした感じになる。顔がやつれる。
えいられねば 不明。「永」はエイ、ながい。「映ずる」は光や物の影が他のものの表面にうつる。「えいら…」はありません。
見納め みおさめ。見収め。これで見るのが最後だ。
替う かう。換う。代う。「える」の文語形。
斉しく ひとしく。等しく。そのことが起こったのと同時に。するや否や。
擲つ なげうつ。抛つ。捨てる。惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない。
髷形 女性が髷を結うとき、形を整えるために髷の中に入れる紙製のしん。髷入れ。
拗ねる すねる。すなおに人に従わないで、不平がましい態度をとる。

湯島の境内①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は小説「婦系図」(1907年)では入っておらず、戯曲「婦系図」(1914年)で新しく加わりました。戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻です。

早瀬 おれこれきりわかれるんだ。
お蔦 えゝ。
早瀬 思切おもひきつてわかれてくれ。
お蔦 早瀬はやせさん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんぢや、――貴方あなたささうねえ。
早瀬 洒落しゃれ串戯じょうだんで、こ、こんなことが。おれゆめれとおもつてる。
 〽あとには二人ふたりさしあひも、なみだぬぐうて三千歳みちとせが、うらめしさうにかほて、
お蔦 真個ほんたうなのねえ。
早瀬 おれがあやまる、あたまげるよ。
お蔦 れるのわかれるのッて、そんなことは、芸者げいしやときふものよ。……わたしにやねとつてください。つたにはれろ、とおつしやいましな。
  ツンとしてそがひる。
早瀬 おつた、おつたおれけつして薄情はくじやうぢやない。
お蔦 えゝ、薄情はくじやうとはおもひません。
早瀬 ちかつておまへきはしない。
お蔦 えゝ、かれてたまるもんですか。


三千歳 みちとせ。歌舞伎舞踊で、片岡直次郎と遊女三千歳の雪夜の忍び逢いをうたう。
そがい 背向。後。後ろの方角。後方。

文壇昔ばなし①|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 谷崎潤一郎氏は耽美(たんび)派の作家として出発し、のちに「春琴抄」などの古典的な日本美に傾倒しました。「文壇昔ばなし」は昭和34年、73歳で発表し、『谷崎潤一郎全集』(中央公論社、昭和58年)第21巻に出ています。この最初の段落では徳田秋声氏、尾崎紅葉氏、泉鏡花氏、幸田露伴氏、山本実彦氏といった名前が出てきます。
             ○
昔、徳田秋聲老人が私に云つたことがあつた、「紅葉山人が生きてゐたら、君はさぞ紅葉さんに可愛がられたことだらうな」と。紅葉山人の亡くなつたのは明治卅六年で、私の數へ年十八歳の時であるが、私が物を書き始めたのはそれから約七年後、明治四十三年であるから、山人があんなに早死にをしなかつたら、恐らく私は山人の門を叩き、一度は弟子入りをしてゐたゞらうと思ふ。しかし私は、果して秋聲老人の云ふやうに山人に可愛がられたかどうかは疑問である。山人も私も東京の下町ツ兒であるから、話のウマは合ふであらうが、又お互に江戸人に共通な弱點や短所を持つてゐるので、随分容赦なく腹の底を見透かされて辛辣な痛罵などを浴びせられたに違ひあるまい。それに私は山人のやうに()一本な江戸ツ兒を以て終始する人間ではない。江戸ツ兒でありながら、多分に反江戸的なところもあるから、しまひには山人の御機嫌を損じて破門されるか、自分の方から追ん出て行くかしたゞらうと思ふ。秋聲老人は、「僕は實は紅葉よりも露伴を尊敬してゐたのだが、露伴が恐ろしかつたので紅葉の門に這入つたのだ」と云つてゐたが、同じ紅葉門下でも、その點鏡花は秋聲と全く違ふ。この人は心の底から紅葉を祟拜してゐた。紅葉の死後も每朝顏を洗つて飯を食ふ前に、必ず舊師の冩眞の前に跪いて禮拜することを怠らなかつた。つまり「(をんな)系圖(けいづ)」の中に出て來る眞砂町の先生、あのモデルが紅葉山人なのである。或る時秋聲老人が「紅葉なんてそんなに偉い作家ではない」と云ふと、座にあつた鏡花が憤然として秋聲を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社山本實彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。鏡花と私では年齢の差異もあるけれども、あゝ云ふ氣質(かたぎ)の作家はもう二度と出て來ることはあるまい。明治時代には「紅露」と云はれて、紅葉と露伴とが二大作家として拮抗してゐたが、師匠思ひの鏡花は、そんな關係から露伴には妙な敵意を感じてゐたらしい。いつぞや私が露伴の話を持ち出すと、「あの豪傑ぶつた男」とか何とか、言葉は忘れたがそんな意味の語を洩らしてゐたので、鏡花の師匠びいきもこゝに至つてゐたのか、と思つたことがあつた。

山人 文士・書家などが号の下に添える語。
痛罵 つうば。激しくののしる。きびしく非難する。
生一本 きいっぽん。純粋でまじりけのないこと。純真で、ひたむきに一つの事に打ち込んでいくこと。
旧師 以前に教えを受けた先生。
跪く ひざまずく。地面に膝をついてかしこまる。
婦系図 おんなけいず。泉鏡花作の小説。1907年(明治40年)「やまと新聞」連載。権力主義への反抗を織りまぜて描いた風俗小説。新派名狂言の一つ。スリだった早瀬主税(ちから)はドイツ語学者酒井俊蔵(しゅんぞう)に拾われて書生となり、更生する。柳橋の芸者お(つた)とひそかに夫婦になるが、酒井は許さず、2人は別離を命じられる。「湯島の境内」の場は原作にはなかったが、のちに自ら書き下ろした。
眞砂町 本郷区真砂町です。現在は文京区本郷4丁目とほぼ同じ。
改造社 1919年(大正8年)、山本実彦氏は改造社を創立し、総合雑誌『改造』を創刊。1944年(昭和19年)、軍部の圧力で解散。
昔気質 古くから伝わるものを頑固に守り通そうとする気風。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。

泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花

大正元年の泉鏡花

 いずみきょうか。明治・大正期の小説家・劇作家。本名は鏡太郎。1873(明治6年)年11月4日に生まれ、没年は1939(昭和14年)9月7日。65歳、癌性肺腫瘍のため死亡。

 明治23年(17歳)、牛込横寺町の当時23歳の尾崎紅葉氏を訪ね、最初の門下になります。明治28年(21歳)、『夜行巡査」『外科室』を発表し、出世作に。明治29年5月、郷里から七七歳の祖母と弟豊春を迎えて、小石川区大塚町57番地に同居。明治32年(26歳)、神楽坂の芸妓、桃太郎(本名伊藤すゞ、当時17歳)を知り、牛込南榎町に引っ越し。明治33年(27歳)、幻想譚『高野聖』を発表。
 明治36年(30歳)1月、神楽坂に転居し、すゞと同棲。3月、紅葉はこれを知り、叱責。すゞはいったん鏡花のもとを去り、同年10月、紅葉が死亡、晴れて夫婦に。

 明治38年(32歳)、逗子に転居。明治41年(35歳)、『婦系図』を出版し、帰京。明治42年(36歳)、後藤宙外らの文芸革新会に参加し、反自然主義を標榜。
 昭和14(1939)年、66歳の『縷紅新草』が最後の作。小説は300編以上。独特の文体、女性崇拝、幻想、怪奇、耽美主義、エロチシズム、ロマンチシズムなどの世界が生まれました。

神楽坂|め乃惣

文学と神楽坂

 紅小路には小割烹「め()(そう)」が入っています。「め乃惣」は『婦系図』で出てくる魚屋さんです。

 ここでは、実際に泉鏡花氏と、魚屋から料亭「うを惣」を経営した父との関係は強く、この「うを惣」を継ぐのは長男で、この割烹「め乃惣」は次男。また「弥生」を三男がやっていたのですが、ここは終了です。

 場所はここ

め乃惣
 また「拝啓、父上様」の1回目で田原一平が中川時夫に電話をかけた路地はここです。

「パティオ」・角
  走ってくる一平。
  だが、テキはいない。
  「め乃惣」の看板。
  一平、舌打ちしケイタイを出してボタンを押す。
一平「何だよお前、どこにいるンだよ! 云ったとこにお前いないじゃないか! エ?――天孝?――千月ちげつ?――何でお前そんなとこ行っちゃったの。そこにいろ! いいか! 動くなよ!」
  ケイタイ切って又走る。


め乃惣

 ちなみに『婦系図』で出てくる「め乃惣」は、「め組の惣助」から「め乃惣」になりました。

 ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄こがらい島田の女中が、逆上のぼせたような顔色かおつきで、
「奥様、魚屋が参りました。」
「大きな声をおしでないよ。」
とお蔦は振向いて低声こごえたしなめ、お源が背後うしろから通るように、身を開きながら、
「聞こえるじゃないか。」
目配せをすると、お源は莞爾にっこりして俯向うつむいたが、ほんのりあかくした顔を勝手口から外へ出して路地のうちを目迎える。
奥様おくさんは?」
とその顔へ、打着ぶつけるように声を懸けた。またこれがその(おう。)の調子で響いたので、お源が気をんで、手を振っておさえた処へ、盤台はんだいを肩にぬいと立った魚屋は、渾名あだなを(組)ととなえる、名代の芝ッ