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三光院と養善院の横丁|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

昔は牛込三光院(さんこういん)養善(ようぜん)院との間にはなにもありませんでしたが、明治になって寺がなくなると、ここに新しい横丁ができてきます。ちなみに三光院は廃寺、養善院は正蔵院と合併し、なくなりました。この横丁をさきに行くと小さな路地に入り、そこを抜けると、川喜田屋横丁につながります。大きな通りで、川喜田屋横丁よりも大きいようですが、全部私道です。ちなみに神楽坂通りの北側はほとんど公道です。無名横丁

ここは神楽坂通りからみたものです。和田写真館道路は3.7 m。
中に入ると、バレリーナ・ピンクは洋品店。りそなのATMは行かないと分かりません。

和田写真館の創業は明治7年、昭和25年に再建したものですが、学校の業務に100%移行し、写真館は事務所として残っています。神楽坂ペットクリニック、アトリエ灯AKARI、占いのアトラス研究所、米会話のヒアリングルームと続きます。最後の道路は1.6 m。
バレリーナと和田
アトリエ灯AKARI
最後はここを登って川喜田屋横丁につながります。この階段を「神楽坂6丁目の極小階段」(東京の階段 DB 東京階段学会)という人もいます。
東京の階段です。神楽坂6丁目。突き当たりです
この横丁を名前を付けると三光横丁か養善横丁、あるいは三養横丁でしょうか。

川喜田屋横丁 成金横丁 白銀公園 瓢箪坂 駒坂 神楽坂上 神楽坂5丁目 牛込亭

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川喜田屋横丁|神楽坂5丁目と6丁目

文学と神楽坂

 神楽坂の西側に大久保通りがあります。その西側に神楽坂六丁目(以前の牛込通寺町)があります。しかし、神楽坂五丁目(以前の肴町)もあるのです。(☞大久保通りを越えた神楽坂5丁目

 肴町(現在の神楽坂五丁目)の大半は大久保通りから見ると東側ですが、実は西側にも広がっています。牛込通寺町と肴町の間にある横丁は、大久保通りから見ると西側に位置し、川喜田(かわきた)()横丁と呼ばれていました。現在もその他の名称はなく、使ってもいいはずです。

 これは横丁角に川喜田久右衛門という町人が住んでいたといわれます(町方書上)。

 明治時代もあまり大きな変化がありません。江戸時代と現在で神楽坂と大久保通りと朝日坂と川喜田屋横丁の関係を示します。

川喜田屋横丁と神楽坂と大久保通りと朝日坂

 現在は

川喜田屋横丁

 では、川喜田屋横丁を見ていきたいと思います。最初は入った所。なんとなく登りに入っています。右は「はり鍼灸院」やマンションです。

 なお、明進軒、次にプランタン、婦人科の医者、マンションになった場所や、求友亭もここにありました。

川喜田屋横丁1

 下の写真(↓)は「ハピネス神楽坂」です。ええ、これで1階はファッションビルなのです。でも、会社の社員が一杯いることはまずありません。創業は1974年12月。本物の手づくりにこだわり、「山の幸染め」「グラスアート」「押し花」などを作っています。13年9月28日、4チャンネルの「ぶらり途中下車の旅」でこの「山の幸染め」をやっていました。葉脈も綺麗に見えます。体験受講は1000円+教材費実費。

川喜田屋横丁2

 本来の川喜田屋横丁はこれで終わりです。しかし、この坂をさらに上に登ると、右の小さな路地があります。こんなこざっぱりして清潔で綺麗な路地は、はい、ないと思います。右手の路地は1.4mしかありません。やはりほとんど人は入ってこないためだと思います。で、てっぺんの法正寺です。さらに下がる途中にある繁栄稲荷神社です。

川喜田屋横丁3

一番頂上から下に望むと、ららら、おどきですが、相当高い。幅は3.7mです。川喜田屋横丁4
三光院と養善院の横丁 白銀公園 瓢箪坂 駒坂 成金横丁 神楽坂5丁目 牛込亭
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文学と神楽坂

白銀公園|白銀町

文学と神楽坂

 白銀(はくぎん)公園は周辺では最大の大きな公園です。
白銀公園

 高低差がある石の山があり、かくれんぼをしたり、のぼって楽しんだり、いろいろなことができます。夏の7月上旬~9月中旬、水遊びで使えるシャワーを設置します。

シャワー

 イチョウやケヤキ、サクラなどの大きな木もあります。

白銀2白銀

 もちろん、「拝啓、父上様」でも出ています。4話では

イメージ
  公園
  ブランコにゆられながら歌っている、ガモ-ナ姿の夢子。
 り「おかみさん!」
  お願いです!
  死なないで下さい!


白銀3

リンゴ|熱海湯温泉

文学と神楽坂

『拝啓、父上様』1話から

リンゴ

石段(勝手口外)
  一平、ゴミバケツにゴミを開ける。
  戻ろうとした時、石段上から、
女の声「ア!」
  ふり向いた一平。
  音楽――中断。

リンゴ

  一平の目に、
  石段上から夕陽の中を、無数のリンゴがころがってくる。
  底の抜けたダンボールを手にもって、石段上に呆然と立つ少女。
  一平。
  あわてて落ちてくるリンゴを拾う。
  少女、かけ下りつつリンゴを拾う。
  コロコロ石段をころがる無数のリンゴ。
  一平走りつつリンゴを拾う。
  少女も。
  一平、急いで勝手口へとびこみ、カゴを持って出てその中にりんごを集める。
  少女にカゴを示す。

勝手口 一平が働く料亭「坂下」の勝手口は、実は鳥茶屋別亭の玄関口でした。

少女

  少女、頭を下げ、拾ったリンゴをそのカゴに入れる。
  階段を上り、又かけ下り、懸命にリンゴを集める二人。
  しばらく。
  ――。
  漸くその作業が終了する。
  一平、少女と初めて向き合って立つ。
  少女――美しい。
少女「メッシ! メッシ・ボクゥ!」


コインランドリー|小栗横丁

文学と神楽坂

拝啓、父上様』から

コインランドリー

コインランドリー
  乾燥機の中で廻っている洗濯物。
  マンガを読んでいる一平。
  尻のポケットのケイタイが鳴る。
一平「(あわててとって)ハイ」
 
帳簿
律子「(電話に)ア私。今日来る新人の板前見習の子がね、今神楽坂で迷ってンだって! 全く! ちゃんと地図送ってやったのに、どうもかくれんぼ横町の方をウロチョロしちゃってるらしいのよ!

 実際には「マンガを読んでいる一平」は実際とは違うと思う。


拝啓、父上様

文学と神楽坂

「拝啓、父上様」はウィキペディアによれば、2007年1月11日から3月22日までフジテレビ系列で毎週木曜22:00~22:54に放送されていたテレビドラマです。東京、神楽坂の老舗料亭「坂下」を舞台に、料亭に関わる人々と出来事を描きました。


 2000年頃になると神楽坂に来る人は数倍に増えましたが、「拝啓、父上様」が放送されるとすぐにまたまた増えたといいます。

「拝啓、父上様」は英語や韓国語の字幕付きで全巻YouTubeで簡単に出てきます。

若宮公園

文学と神楽坂

 若宮公園について「牛込神楽坂若宮町小史」によると

 平成6年4月、若宮町自治会及び住民の念願であった区立若宮公園(若宮町21番地)が完成し、平成7年建設省より『手作り郷土賞』を受けました。地下にはリサイクル施設や雨水の貯水槽が敷設され、公園は江戸時代の武家屋敷の趣きを残しています。外濠通りから坂を登ると広い空間が開け、石の階段や東屋が目に入ります。

と書いてあります。

 場所は若宮町ですが、なぜかすぐそばのアグネスホテルは神楽坂2丁目です。
 まず北門です。ちょうどアグネスホテルの対面に位置します。北門の右側に小さく標柱が立ち「若宮公園」と書かれています。3月なので、満開の桜も。非常に大きな公園ですが、税金を払えなかったため物納したのでしょうか。

若宮公園

 北東門は「新宿区立若宮公園」と「手づくり郷土賞」が麗々しく飾っています。

北東門

新宿区立若宮公園

江戸時代の通称「振り袖火事」(1657年)以降、雑木林や草原であった牛込地区に武家が移り住み、武家屋敷中心の街が形成されました、したがってこの公園は江戸時代の牛込を思い起こさせる武家屋敷をイメージした和風公園として整備しました。

After a disaster commonly called “Long-sleeved kimono Fire” which took place in 1657 in the Edo period, the samurai class has moved to ushigome area covered with thickets and the grass, and formed a residential quarter where most of the residences were the samurai class.
Based on this fact, this park was made as a Japanese garden with an open space which is modeled the residential area of the samurai class that reminds you of Ushigome area in the Edo period.


手づくり

手 づ く り 郷 土(ふるさと)
建設大臣 野坂浩賢 書
歴史・文化 部門
東京都 新宿区
平成七年七月
寄贈 (社)関東建設弘済会

 さらにもうひとつ、東門があります。

東門

 地下にはリサイクル施設や雨水の貯水槽があるとのこと。
 公園は巨大で、東屋や絵入り腰掛け、巨大な岩のベンチ、中央に一本の桜などがささやかに四方に置いてあります。あとはただただ巨大な空き地です。

東屋2
石のベンチ
桜

若宮八幡神社 庾嶺坂 新坂


神楽坂若宮八幡神社

文学と神楽坂

 神楽坂若宮八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、(みなもとの)頼朝(よりとも)が戦勝を祈念して建立しました。文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願したと伝えられています。ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは単純に鎌倉を出発しここで一日の行程が終わったのでしょう。
 10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退していましたが、文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌(どうかん)が江戸城鎮護(ちんご)、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもることのため、若宮八幡宮を再興しました。なお、太田道灌が作った江戸城は康正2(1456)年開始、翌長禄1(1457)年4月完成しています。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。

江戸名所図会の若宮八幡

 明治2(1869)年の神仏混合禁止今により若宮八幡神社となりました。境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木があったようです。

明治20年

 明治20年ごろでは、若宮小路があり、これは()(れい)と若宮八幡神社を結ぶ小路です。

「新撰東京名所図会」第42編 若宮小路。右側に若宮八幡神社が見える。

 ほかに下に行くと庾嶺坂。左には新坂、右は小栗横丁、上は出羽様下があります。また若宮神社の前は車は通れません。つまり、アグネスホテルから車で直接若宮小路にははいれません。アグネスホテルは右の地図では大きな「若宮町」の「宮」の場所にあります。
 さらに若宮小路では上から下に一方通行です。
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、黒塀は倒壊しました。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。

 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。その時代の写真は

若宮旧

 その後、社殿を西側に寄せ、東側は社務所を兼ねたマンションになりました。現在の神社は……

現在の若宮

内部

 例祭は9月14~15日、神事・行事で中祭は1月15日と6月15日です。

 また右側の立て看板ではこう書いています。

縁起録

縁起録

神楽坂若宮八幡神社縁起録

 若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で
   御祭神 仁徳天皇
       応神天皇
当社の御出来は
若宮八幡宮は若宮坂の上若宮町にあり(或は若宮小路ともいへり)別当は天台宗普門院と号す 傅ふに文治五年の秋右大将源頼朝公奥州の藤原泰衡を征伐せんが為に発向す其の時当所にて下馬宿願あり後奥州平沼の後当社を営鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を移し奉ると云へり(若宮は仁徳天皇なり後に応神天皇に改め祭ると云ふ)文明年間太田道灌江戸域鎭護の為当社を再興し社殿を江戸城に相対せしむるなり当社は文明の頃迄は大社にして神領等あり美れいなりしという
神域は黒板塀の神垣南に黒門あり門内十歩狛犬一対(明和八年卯年八月奉納とあり)右に天水釜あり拝殿は南に面する瓦葦破風造梁間桁行三間向拝あり松に鷹象頭に虎を彫る「若宮八幡神社」の横額源正哥謹書とあり揚蔀(アゲジトメ)にて殿内格天井を組み毎格花卉を描く神鏡晶然として銅鋼深く鎮せり以て幣殿本社に通ず本社は土蔵造りなり
本殿東南に神楽殿あり瓦葦梁間二間桁行二間半勾欄付「神楽殿」の三字を扁し樵石敬書と読ま 背景墨画(スミエ)の龍あり落款梧堂とあり境内に銀杏の老樹あり
明治二年神佛混淆(コンコウ)の禁令あるや別当光明山普門院(山州男山に同じ)復飾して神職となる
例大祭は九月十五日 中祭 5月15日
          小祭 1月15日 に行はれ社務所は本社の東に在り
現在氏子は若宮町神楽坂一丁目二丁目三丁目の四ケ町なり。


お蔵坂|小栗横丁

文学と神楽坂


 平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

阿久津 それから若宮八幡を前に見て、小栗横丁の、「熱海湯」の前に下りるまでの小路。
   あそこは今度、ビジネスホテルが建つとかで。
坂崎  あの坂の細い道は残るのかしら。
   残るでしょう。残さないと人が通れない。もともと蔵のようなものがあったところなんですよ。
坂崎  じゃあ『お蔵坂』と。マンションが建つと日陰で暗くなるかもしれないけど。暗い細道というのもいいものなんです。

 なお、このビジネスホテルというのは2000年竣工のアグネスホテルです。小栗横丁の右が「熱海湯」だと言っています。一方、左は何もない坂道なのですが、ここをお蔵坂と呼びました。


 2007年のテレビ「拝啓、父上様」の最初のシーンから「お蔵坂」がでてきます。
 テレビの『拝啓、父上様』で「お蔵坂」は最初の数分間でもう何度もでてきます。

神楽坂通り
  朝まだき。
  しんと静まり返っている。
 り「東京、神楽坂。坂だらけの町
  この町の夜明け前が、俺は好きだ」

 テレビではお蔵坂を下から見た絵もでます。
お蔵坂1
 お蔵坂を上空から見た絵もでてきます。走っているのは主人公、一平で、多分、寮から飛び出し、駐車場に行き、築地市場に先輩たちと行くのです。お蔵坂2
 それから数シーン後に出てくるのは

石段に
  陽光が漸くさしこむ。
  夢子が子猫に餌をやっている。
  他の猫たちも集まってくる。


お蔵坂3

お蔵坂41

 小栗横丁からお蔵坂の上に向かって歩くとアグネスホテルになります。そこでは「拝啓、父上様」の倉本聰が原稿書きで長期に泊まったとか。なぜこのまわりが愛着と好意を集めるのか、わかります。

ほんとは主人公の一平とは違うけど一平荘




庾嶺坂

文学と神楽坂

 外堀通りを飯田橋駅から市谷駅に向かい、神楽坂1丁目と市谷船河原町の間で北西に入ります。この坂を庾嶺坂といいます。この坂は明治にはもう何個も名前が付いています。

()(れい) 江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念(ゆうねん)坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。
庾嶺坂1

 中国の梅の名所とは、(たい)()(れい)といいます。庾とは屋根のない米倉、あるいは野外にある倉庫です。岭の旧名は嶺で、峰、尾根、山脈になります。大庾岭(大庾嶺)は「大きな米倉がある山脈」になるのでしょうか。この山脈は中国江西省と広東省との境にあります。唐代に張九齢は梅を植えその場を「梅嶺」と名づけました。

 なお、「庾」は漢字配当はなく、JISの文字コードはなく、第3水準の漢字です。さらになぜか中国でも大庾県の「庾」は現在では「余」に変えて使い、大余県が正式な言葉になっています。いずれにしても、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名前を付けたので、本来は庾嶺「ゆれい」があり、それが変化して「ゆうれい」になりました。

 しかし、別の解釈もあります。「新撰東京名所図会」では違った説明を取り、昔唯念(ゆうねん)という僧が小庵を建てて住み、ゆうねん坂といい、それが転じて幽霊坂になったといいます。「往昔此辺に唯念といふ僧小庵を結びて居住せし唯一名をゆうねん坂といひしを、後にあやまりてゆうれい坂といふに至れるよし。行人坂ももと此僧のことより出たるものなるべし」。つまり「ゆうねん」から「ゆうれい」になったのです。また「行人坂」の行人(ぎょうにん)は本来の言葉は修行者で、寺院で世俗的な雑務に行う僧侶です。唯念坂と行人坂は同じ僧の名前から来たものです。

 さらに、ゆう(祐・幽)玄(元・源)が住んでいたことからゆう玄坂と名前が付いたともいいます。「むかしゆう玄といへる医師この所におりし故の名なり」。ただし、新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では同じ僧侶・唯念をさすものだとしています。

「幽霊坂」について「ゆれい」や「ゆうねん」は訛って幽霊坂になったのか、実際に幽霊がこの坂から出たのか、ここにも諸説があります。
 坂の上に若宮八幡があり、「若宮坂」ともいわれていました。また、江戸切絵図には「シンサカ」と書いています。庾嶺坂2
 赤レンガの壁から石垣の塀になり、オコメヅタの緑を左に見てあがって行き…あっという間に上がるのは終わってしまいます。逢坂のほうが庾嶺坂よりも距離も長く、高低差も大きいのでしょう。
 大仏次郎氏の『照る日曇る日』(大正15年)では

……すたすたと牛込うしごめ御門ごもんの方角へ歩いて行く。夜は更けていても星明かりがある。(中略)
 武士の姿の隠れたのは、俗に幽霊坂ゆうれいさかという坂へ出る町角、(かど)は武家屋敷の土塀、それに沿って小走りに勢いよく道をまがった刹那、男はぎょっとしてたちすくんだ。意外にも武士は、その角に隠れて自分の来るのを待っていた。ひやりとしてぱッと鳥の立つように逃げ出そうと伸びた背を追いざまに木下闇に銀蛇のように躍ったものがある。
逢坂 新坂 小栗横町 アグネスホテル 若宮公園