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熊公焼|神楽坂

文学と神楽坂

 熊公焼も夜店で売られる一種の今川焼、アンコ巻きです。問題はその夜店はどこにあったのでしょうか。

 最も古い記事は「製菓実験」昭和12年8月号に出ています。

新聞などにも度々出て、可成り有名な神樂坂の熊公と、その唯一の商品である都巻。鐵板の上に薬の利いた中華種を四角な口付のブリキ型で流し、中に棒にした飴を巻いたものです。生憎手許が見えないが、鐵板は四ッに仕切つてあつて廻轉式になつてゐる所は、如何にも屋臺向です。一個四十匁平均で、一個の値段は金五錢也。

 新宿区立図書館著『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「古老談話・あれこれ」では

「熊公焼」は永楽銀行の前にありました。(中略)
 これはやや高級品で品物はアンコ巻なんですが1本5銭、巻いてある皮にはほんとうの玉子がたっぷり入っていました、やっぱり屋台店でして売れることは今川焼やと同じに飛ぶように売れました。熊公焼は今川焼がなくなって、震災後しばらくしてから出たものです。(中略)このアンコ巻を焼いていたおやじさんの顔が又、その気になって顔にいっぱい髯をはやしてしまって、恐ろしい顔をますます恐ろしくして「熊公焼」の名を高からしめたってわけです。

「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」によれば昔の「永楽銀行」は現在青柳LKビルが入る場所でした。ちなみに青柳寿司は数年前になくなり、しかしビルは残り、代わって14年版「神楽坂」(神楽坂通り商店会)では「叶え」、「Mumbai」、「えちご」、「神楽道」が入っています。1階は平成26年9月で「沖縄麵屋、おいしいさあ」です。これはちょうど神楽坂通りを上にあがった場所です。

 同じように2005年『神楽坂まちの手帖』第8号で「石濱朗の神楽坂界隈思い出語り」というエッセイがあり、そこに「子供に大人気の熊公焼きって?!」として書いてあります。

 それはまだ大東亜戦争の始まる前だった。
 神楽坂を上がり切った左側に「玩具屋」があった、その近くにその店は出ていた。
 何時頃から出るようになったのか、まだ小さかった僕にはわからない。
 厚い鉄板の上にうどん粉を溶かしたものをたらして焼き、小豆餡を上に載せてくるりと巻いたものを売っていた。
 菓子の名前は「熊公焼き」、売っている人の顔が熊に似ているからか、熊吉とか熊太郎と言う名前のせいか、その由来は判然としない。兎に角美味かったので良く売れていた。

 同じような場所で、坂上で、上を向いて左側でした。

 では色川武大氏の「怪しい来客簿」では

今、私の机の上に、昭和六年刊『露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。(中略)
 ……ここで肴町(さかなまち)の電車路(現在の大久保(おおくぼ)通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏(ざつとう)した。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆(なんきんまめ)、寿司、古道具、半衿(はんえり)、ドラ焼、(かなばさみ)(のこぎり)唐辛子(とうがらし)、焼物、足袋(たび)、文房具、化粧品(けしようひん)、シャツ、印判、ブラッシュ石膏細工(せつこうざいく)、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗(ちやわん)(かばん)玩具(がんぐ)煎餅(せんべい)、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、(くし)類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆(えんぴつ)、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子(ぼうし)洗い、焼物、植木、植木、寿司。(中略)
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗(しょうき)さまのような(ひげ)を生やしたおっさんが、あんこ(まき)を焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。

白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ ホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。

 右側は上から下に見ているので、西北西から東南東の方面を向いて流しています。新宿区郷土研究会二十周年記念号の『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」を参考にして(ただし、「神楽坂と縁日市」は道の右側と左側は逆)、これから読むと熊公焼は以前の喫茶パウワウ、現在はボルタ店のあたりにでてきたようです。

 一方、横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章「牛込神楽坂の露店」を書き……

ガマ口、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キヤラメル、本、表札、キリヌキ、眼鏡、古本、地圖、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホーズキ、古道具、壽司、焼鳥、おでん、オモチヤ、南京豆、壽司、古道具、xx、半衿、ドラ燒、カンナ、ノコギリ、唐辛子、焼物、足袋、文房具、化粧品、シヤツ、印判、ブラツシユ、石膏細工、ハモニカ、xx、メリヤス、古本、茶碗、カバン、オモチヤ、煎餅、xx、古本、大理石、錆ビヌ針、萬年筆、人形、ハナ、ミカン、オモチヤ、櫛(略)

 まったく熊公焼はどこにも書いてありません。人形とハナ(花)の間にはなにもありません。そのコピーもあります

『神楽坂まちの手帖』第2号の『神楽坂の「マチの魅力」を考える』では

元木 クマコウ焼ってのがあったんだけど知ってますか? 今のパウワウの辺りで人形焼みたいのがあって。そのオヤジが、当時殺人犯で有名だった「熊公」に似てて、それでクマコウ焼っていうのが流行ったんだよ。

 次はサトウハチローの『僕の東京地図』です。神楽坂3丁目になると真っ先になると出てくる白木屋が熊公焼の後で紹介されているので、熊公焼はおそらく神楽坂2丁目です。

お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公というのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さが六寸、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たッて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。(後略)

 以上は白木屋よりも前なので坂下です。上を向いて左側にあったというものです。

 もう1つ。『ここは牛込、神楽坂』第18号で鵜澤紀伊子氏は「親子3代神楽坂(四)」を書き

坂下の左側に熊公焼きの夜店が出た。鉄板の上で小麦粉をといたのを長方形にのばし、飴をのせて一巻きしただけの単純な物だったが、結構お客がついていた。1組の親子のお父さんが焼いていた。美味しいよと言ったら、照れ笑いをしたことがあったっけ。戦時中粉や小豆が入手困難となってべっ甲飴を売るようになり、そのうち夜店も出なくなった。お父さんは軍需工場に入ったと聞いた。

 やはり、坂下の左側にその店は出ていたといいます。

 次は渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では

神楽坂が牛込一の繁華街と呼ばれていたころの縁日で、はじめは今川焼が坂上の左側の屋台で売られ繁盛していた。その今川焼に変わって、超人気の「熊公焼」が登場したのである。熊公焼はその当時の神楽坂の縁日を抽いた文学作品やエッセーにたびたび登場している。熊公焼の露店の場所は、神楽坂二丁目、割烹志満金のまえあたりが屋台の定位置のようだ。鉄板の上で、どら焼に似た玉子入りのうすい四角い皮に、あんこをのせて巻いたもの。今川焼が二銭で、このあんこ巻は一本五銭と高額であったが、いつも黒山の人だかりで、わざわざ遠くから買いにくるほどの人気だった。それは、この露店の店主岩木さんが、当時、日木中の注目をあつめた「鬼熊事件」の凶悪犯人に笑ってしまうほとよく似ていることを逆手にとり、「熊公焼」と名付けて売り出し、その犯人を一目見ようと押しかけた客で大繁昌してしまったのである。

 やはり坂下の左側で、「志満金のまえあたり」と、これから坂がまだ上に向かってもいない所で出ていたと言います。

 さらにもう1つ。都筑道夫氏が阿佐田哲也全集の第十三巻付録に書いた「神楽坂をはさんで」では

有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしよに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。

 これは熊公焼は毘沙門のそば、坂上にあったといいます。

 さらにもう1つ。水野正雄氏が「神楽坂を語る」(「神楽坂アーカイブズ 第1集」)では

その山本コーヒーの前に「熊公焼き」というあんこ巻きを売る夜店がありました。これは普通の人形巻きが二銭だったころ、八銭で売られていました。

 これも熊公焼は山本コーヒーのそば、現在の「うおさん」のそば、つまり坂上にあったといいます。

 次は坂下で、なんと右にありました。平成7年『ここは牛込、神楽坂』第3号「懐かしの神楽坂」に小菅孝一郎氏が書いた「思い出の神楽坂」です。

いまの甘味の「紀の善」はもとは寿司屋で、その前に屋台を出していたのが、この雑誌の二号にもあった、熊公焼きである。これは要するにお好焼きのあんこ巻きなのだが、二、三人待たないことには買えなかった。焼きたてを紙に包んで急いで家に帰って食べると、まだほかほかとしていて何ともいえずおいしかった。

 結局20年以上も続くと常設夜店もその場所が変わるのでしょうか。ただし、草薙堂という今川焼き屋と混乱しているものもあるように思います。

神楽坂|椿屋 もう老舗に

文学と神楽坂

さらに「神楽坂上」に向かって行きましょう。左側は「椿屋」です。お香と和雑貨の店。いつも香を焚いています。創業は平成14年(2002年)。なぜか老舗になってます。場所はここ

tubakiya

以前は「宮坂金物店」でした。昭和5年ごろには「宮坂金物店」の前には縁日になると金魚すくいが出ていました(新宿区郷土研究会20周年記念号『神楽坂界隈』平成9年)。

神楽坂3丁目に戻る場合
神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂02|私と神楽坂

文学と神楽坂

私と神楽坂牛込神楽坂

それにしても、私はこれまで幾度その鏡に私の顔を姿をうつして来たことだろう。思えばその鏡こそは、これまで十七年も八年もの長い年月の間、青年から中年に更にまた老年の域へと一歩々々近づいて行きつつある私の姿を、絶えずじっと凝視ぎょうしして来た無言の観察者であったのだ。どこの何者とも知れない一人の男が――私は性来無口で、そんなに長くその店へ行きつけているけれど、滅多に誰とも口をきくこともなく、いわんや私の名前や身分や職業などについては、未だかつて一言も漏らしたことがないので、そこの主人でもただ長い顔馴染かおなじみというだけで、恐らく私についてはほとんど何事も知らないだろう――そのどこの誰とも知れない一人の男が、十数年この方毎月ふらっとやって来ては、用が終えると又同じようにだまってふらっと帰って行く、その同じことを長の年月繰返している間に、気がつくといつもなしにその男の髪が白くなり、顔にはしわが深く寄せている。非情の鏡といえども恐らくは感慨の深いものがあるであろう。私はそれを思う毎に、いつもそこに或る小説的な興味をさえ感ずるのである。
 こういう変化は、いうまでもなく何人の上にも、又何物の上にも行われていることである。しかも、それは極めて徐々に時の経過と共に自然に行われるのであって、何時うして何うということなどのいえないようなものである。長い年月を経た後に、ふと何かの機会にそれと気がついて驚くことはあっても、ふだん始終見つけている者には、何か特別の事情のない限り殆ど眼に立たないのが常である。私は本紙に連載中の大東京繁昌記の一節として、これからその印象や思い出を語ろうとしている牛込うしごめ神楽坂かぐらざかのことに関しても、矢張り同様の感を抱かざるを得ない。

凝視 目を大きく見開いてじっと見つめること
本紙 東京日日新聞です。1927(昭和2)年6月の紙面に載りました。

私が東京へ出て来てから既に二十二、三年にもなるが、その間今日までずっと、常にこの神楽坂を中心にして生活して来たようなものである。最初の三、四年間は、故あって芝の高輪の方から早稲田大学へ通っていたが、その頃まだ今の早稲田線の電車が飯田橋までしか通じておらず、間もなく大曲まで延びたが、私は乗換えや何かの都合で、毎日外濠線の電車を神楽坂下で乗り降りしたものだった。その後学校附近に下宿するようになってからは、何度その下宿を転々しても、又一家を構えるようになって、何度引越して歩いても、まだかつて一度も牛込の土地を離れたことがない。郊外生活をして見ようとか、他区に住み換えて見ようとか思い立ったことも幾度かあったが、その度毎に住み馴れた土地に対する愛著あいちゃくと、未知の土地に対する不安とが、常に私の心を元の所に引止め、私の身体を縛りつけてしまうのであった。今や牛込は、私にとっては第二の故郷も同様であり、又どうやらこのまま永住の地になってしまうらしい。し今後何等かの事情で他に転住しなければならぬようなことがあるならば、私はあたかも父祖伝来の墳墓の地を捨てて、遠い異国に移住する者の如き大なる勇気を要すると同時に、またその者と同じい深い離愁を味わわねばならないだろう。しかしこうして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいるというも同然である。
 かくして私は多年神楽坂という所に親しみ、かつそこを愛する一人として、朝夕の散歩にも足自らそこに向うといった風で、その変遷推移の有様も絶えず眼にして来たわけであるが、そして一々こまかくしらべたならば、はじめて見た時と今とでは、四辺の光景も全く見違えるほどに一変してしまっているに違いないが、さて何時どこがどんな風に変ったかという段になると、丁度私の頭髪が何時どうして白くなったかと問われると同じく、はっきりしか/″\と答えることは困難である。長い間に、いつとはなく、又どことなく、自然に移り変って、久しく見なかった人の眼には驚くばかりの変化や発展を示しているに違いないが、毎日見馴れている私にとっては、大体において矢張り以前と同じようだといわざるを得ない。

東京へ出て 加能作次郎は、明治18年(1885年)石川県羽咋郡に生まれました。1905年(明治38年)、上京し、1907年(明治40年)4月、22歳で早稲田大学文学部文学科高等予科に入学しています。
芝の高輪 以前の芝区、現在の港区の高輪で、高輪南町、高輪北町、高輪台町などからなっていました。品川駅などがあります。
早稲田線 15系統の都電は、高田馬場駅前、戸塚二丁目、面影橋、早稲田、早稲田車庫、関口町、鶴巻町、江戸川橋、石切町、東五軒町、大曲、飯田橋、九段下、専修大学、神保町、駿河台下、小川町、美土代町、神田橋、大手町、丸ノ内一丁目、呉服橋、日本橋、茅場町でした。
大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
外濠線 飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る都電3系統路線。はじめは東京電気鉄道会社の経営、後に東京市に移管。
墳墓の地 ふんぼのち。墓のある土地。特に、先祖代々の墓がある土地。故郷
離愁 りしゅう。別れの悲しみ。別離の寂しさ

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

文学と神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂12|花街神楽坂

文学と神楽坂

花街神楽坂

花街神楽坂

川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。
 この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、しかし惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥たんす町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分いちじるしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮むりょ六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の(うわさ)をそのまま記すだけにとどめよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷にんじょう事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)>江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。

区役所 現在は新宿区立牛込箪笥区民センターのこと
吉熊 大正9年、赤城神社の氏子町の1つとして、箪笥町が出ています。その町の説明で

牛込区役所は15,6,7番地に誇る石造二階建の洋館(明治26年10月竣工)である。41番地に貸席演芸場株式会社牛込倶楽部(大正10年11月25日竣工)があり、当町には吉熊と称せる区内有数の料理店があったが、先年廃業してしまった

と書いています。1970年、新宿区立教育委員会の作った「神楽坂界隈の変遷」では「新撰東京名所図会 第42編」(東陽堂、1906年)を引用し

吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

と書いてあります。場所は箪笥町35番でした。 箪笥町三十五番

 牛込区役所と相対しています。地図は昭和5年の「牛込区全図」です。意外と小さい? いえいえ、結構大きい。現在35番は左側の「日米タイム24ビル」の一部です。

箪笥町35番 明進軒2求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。地図は昭和12年の「火災保険特殊地図」。
無慮 おおまかに数える様子。おおよそ。ざっと。
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。
末よし 末吉は2丁目13番地にあったので右のイラストで。地図は現在の地図。 末吉
温泉横町  牛込会館横で、現在は神楽坂仲通りのこと
江戸源 昭和8年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

白木屋横町。小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの『花の家』カフェー『東京亭』野球おでんを看板の『グランド』繩のれん式の小料理『江戸源』牛鳥鍋類の『笑鬼』等が軒をつらねています

と書いています。ここは「繩のれん式の小料理」なのでしょう。なお、白木屋横町は現在の神楽坂仲通りのこと。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では 

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔ほろよいの快い気持で、ぶら/\と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りもまばらになり、両側の夜店もそろ/\しまいかけていた折柄車止の提灯ちょうちんが引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前にぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ/\いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフェからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら/\した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。

額ずく ひたいを地面につけて拝むこと。
新内 浄瑠璃の一流派で、鶴賀新内が始めた。花街などの流しとして発展していった。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けた
声色使い 俳優や有名人などの、せりふ回しや声などをまねること。職業とする人
地内 「寺内」ではないでしょうか。寺内の花柳界は極めて大きく、「袖を引く」という風習は花柳界から生まれました。
都の西北 もちろん早稲田大学の校歌。作詞は相馬御風氏、作曲は東儀鉄笛氏。「都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校」と始まっていきます。

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂08|独特の魅力

文学と神楽坂

独特の魅力
独特の魅力

そうはいっても、しかしその寺町の通り神楽坂プロパーとでは、流石さすがにその感じが大分違っている。何といっても後者の方が、全体としてすべての点に一段級が上だという事は、何人も認めずにおられないだろう。例えば老舗と新店という感じの相違のようなものであろうか、矢張り肴町電車路を越えてから、はじめて神楽坂に出たという気のするのは、私だけではあるまい。たった電車路一筋の違いで、町並も同じく、外観にもにぎやかさにも相違がなく、出る人も同じでありながら、全体の空気なり色彩なりが急に変るということは、地方色などといえば少し大げさだが、多少そういったようなものも感ぜられて興味あることだ。寺町の通りが今の神楽坂本通りと同じ感じになるには、まだ/\相当長い年数を経なければなるまい。

寺町の通り 神楽坂6丁目の通り
神楽坂プロパー 神楽坂1~5丁目の通り。この本では「神楽坂本通り」と書いています
肴町 神楽坂5丁目
電車路 大久保通りは昔は都電のチンチン電車が通っていました

それにこちらの方は、その両側の横町や裏通りがことごとく、芸者家や待合の巣になっていることをも考慮に加えなければならない。座敷著姿の艶っぽい芸者や雛妓おしゃく等があの肩摩(けんま)轂撃こくげき的の人出の中を掻き分けながら、こちらの横町から向うの横町へと渡り歩いている光景は、今も昔と変りなくその善い悪いは別として、あれが余程神楽坂の空気や色彩を他と異なったものにしていることは争われない。そして一見純然たる山の手の街らしいあの通りを、一歩その横町に足を踏み入れると、たちまちそこは純然たる下町気分の狭斜(きようしや)のちまたであり、柳暗(りゆうあん)花明(かめい)の歓楽境に変じているのであるが、その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶かくぜつもなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合(ゆうごう)して、そこにいわゆる神楽坂情調なる独特の花やかな空気と艶めいた気分とをかもし出し、それがまた他に求められぬ魅力となっているのだ。よく田原屋オザワなどのカッフエで、堅気なお邸の夫人や令嬢風の家族連れの人達や、学生連や、芸者連れの人達やがテーブルを並べて隣合わせたり向い合ったりしている光景を見かけるが、こゝ神楽坂ではそれが左程不自然にも不調和にも思われず、又その何れもが、互に気が引けたり窮屈に感じたりするようなこともないという自由さは、私の知っている限り神楽坂をいて他にないと思う。
Road_hub

ウィキペディアから

こちらの方 神楽坂プロパー、つまり神楽坂1~5丁目の通りのこと。
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などと呼びます。
肩摩轂撃 けんまこくげき。人や車馬の往来が激しく、混雑している様子。都会の雑踏の形容。肩と肩が触れ合い、車の(こしき)と轂がぶつかるほど混雑している。轂はハブのことで、車両・自動車・オートバイ・自転車などの車輪を構成する部品で、車輪(円盤状の部品)の中心部のこと
狭斜のちまた きょうしゃのちまた。中国長安で、遊里のある道幅の狭い街の名から、遊里。色町。「狭斜の(ちまた)」も遊廓のこと
柳暗花明 りゅうあんかめい。春の野が花や緑に満ちて、美しい景色にあふれる。花柳界・遊郭のことを指す
その山の手式の気分 安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」で引用されています。
隔絶 かけ離れていること。遠くへだたっていること

私はぶら/\歩きながらそんなことを友達に話した。友達はなるほどといった様子で一々私の説にうなずいた。そして山の手の銀座といわれるのも無理がないとか、下町気分もかなり濃厚だなどと批評した。
「それにこゝは電車や自動車も通らず、両側町だからなおさら綺麗でもあるしにぎやかでもあるんだね。ちょっと浅草の仲見世みたいに」とかれはいった。
「そう、それもある。それにも一つ、こゝでは人通りが大体において二重になるということもあるんだ。というのは、坂下の方から来る人達はずっと寺町の郵便局辺まで行って引返す、寺町の方から出て来た連中は坂上か坂下まで行って又同じ道を引返すというわけなんだ。丁度袋の中をあっち行きこっち行きしているようなものだ。だから僕なんか、こうしてぶら/\していると、何度も同じ人に出会わすよ、のみならず、こゝを歩いている人達はみんな顔なじみという気がするんだ」と私は、あの人もあの人もと、折りから通り合せたいつもよく見る散歩人を指した。
「なるほどみんな散歩に出て来たという感じだね」と友達がいった。
「それも他所よそ行き気分でなく、ちょっとゆかたがけといったような軽い気持でね。だから何となく気楽な悠長な気がするよ。そしてこの辺の商人も、外の土地に比べると正直で悠長で人気が穏やかだという話だよ。通り一ぺんの客は少ないんだから、店同士でお互に競争はしていても、客に対しては一ぺんこっきりの悪らつなことはしないそうだよ」と私は人から聞いた通りに話した。

仲見世 なかみせ。社寺の境内などにある店。東京浅草では雷門から宝蔵門に至る浅草寺参道の商店街のこと。
ゆかたがけ 浴衣を無造作に着ること。また、浴衣だけのくつろいだ姿。
人気 じんき。にんき。その土地の人々の気風。「―の荒い土地柄」
一ぺんこっきり いっぺん[一遍]こっきり。1回を強く限定する意を表す語。一度かぎり。

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

別れたる妻に送る手紙|近松秋江

文学と神楽坂

近松秋江 近松(ちかまつ)秋江(しゅうこう)は明治9(1876)年5月4日に生まれ、昭和19(1944)年4月23日に死亡し、死亡時は満67歳の作家でした。では、どんな作家でしょうか。

 名前以外には思いつかず、しかし、この「別れたる妻に送る手紙」の名前はなかなかよく、おそらく擬古文を使う明治時代の作家だと思っている。なるほど、残念ながら違います。

 あるいは、秋江を「あきえ」と呼んでしまって昔の男性ではなく女性作家だと思っている。あるいは、夏目漱石や森鴎外には及びもしないけど、それでも明治時代にはまあまあ知られていて、『別れたる妻に送る手紙』などはおそらく切々とした情感がある手紙だと思っている。これも間違いです。

 一言でまとめると、近松秋江の次女、徳田道子氏が、近松秋江著『黒髪、別れたる妻に送る手紙』(講談社文芸文庫)の「或る男の変身」で、こう書いています。

収録されている作品はすべて情痴ストーリーで、美しいラブストーリーでもなければ純愛物語でもない。
 書いた本人自身が顔をおおいたくなるような小説。

 逆に近松秋江はこう書いています。

『別れたる妻…』は、紅葉の『多情多恨』と『金色夜叉』のに棄てられた貫一の心とを合したものです。
「新潮」 明治43年9月1日、近松秋江全集第9巻429頁)

 う~ん。なんとまあ。『金色夜叉』に匹敵する小説と考えているんだ。さすがに昭和5年にはこの豪語はなくなります。

   文筆懺悔・ざんげの生活
自分が、長い間に書いて来た物で、あんなことを書くのではなかったと、今日から回顧して、孔あらば、入りたい心地のするものが、私には数多くある。どれも是れも、そんな物ばかりである。
 一体自分は、以前から、既に筆を持って紙にのぞんでゐる時に、非常な懐疑的態度に襲はれてゐる方で、(こんな物を書いてゐて、それでも好いのかなあ)と、幾度となく反省してみる。その為に筆が鈍るのである。尤もそれは、専ら芸術的立場からの批判であったが。
(「中央公論」昭和5年1月。近松秋江全集第12巻112頁)

 本人の自画像がとてもかわいい。真剣なものをもっと書けば良かったのに。『別れたる妻』なども真剣ですが、真剣な方角を変えたものがもっとあれば良かったのに。晩年は歴史物に流れていきました。

文学と神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂07|通寺町の発展

文学と神楽坂

1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に乗った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の一部、「通寺町の発展」です。

通寺町の発展

通寺町の発展

普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすのであるが、今ではそれを神楽坂本通りとでもいうことにして、通寺町の全部をもずっと一帯にその区域に加えねばならなくなった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家の(ひさし)が両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった。

肴町 現在の神楽坂五丁目です。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といい、この名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。ここでは市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を示すと考えます。
通寺町 現在の神楽坂六丁目です。
勧工場 現在「スーパーよしや」が建っています。

その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青の色ガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑抑私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかゝるかと内心非常にびくくしながら箸を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭出してお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

安田銀行聖天様いろは 下図の「火災保険特殊地図」(昭和12年)を見てみましょう。最初に、上下の大きな道路は神楽坂通り、下の水平の道路は大久保通り、2つの道路が交わる交差点は神楽坂上交差点です。
 「安田銀行」は左にあります。その右には「聖天様」、つまり安養寺があり、そして昔の「いろは」(牛肉料理店)、当時の清進寮があります。
神楽坂上2
 現在の写真では「安田銀行」は「セイジョー」に、安養寺は同じく安養寺で、「いろは」はなくなって駐車場になりました。
神楽坂上1現在

それから少し行ったところの寄席の牛込亭は、近頃殆ど足を運んだことがないが、一時はよく行ったものだった。つい七、八年か十年位前までは、牛込で寄席といえばそこが一等ということになっていた。落語でも何でも一流所がかゝっていつも廊下へ溢み出すほどに繁盛し、活動などの盛にならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さん円右の落語を初めて聞いたのもそこであった。綾之助小土佐などの義太夫加賀太夫紫朝新内にはじめて聞きほれたのも、矢張りその牛込亭だったと思う。ところがどういうわけでか、数年前から最早そういう一流所の落語や色物がかゝらなくなって、八幡劇だの安来節だのいうようなものばかりかゝるようになった。それも一つの特色として結構なことであるし、それはそれとして又その向々の人によって、定めて大入繁昌をしていることゝ思うが、私としては往時をしのぶにつけて何となくさびしい思いをせざるを得ないのである。場所もよし、あの三尺か四尺に足らない細い路地を入って行くところなど、如何にも古風な寄席らしい感じがしたし、小さんや円右などの単独かんぱんの行燈が、屋根高く掲げられているのもよく人目を引いて、私達の寄席熱をそゝったものだった。今もその外観は以前と少しも変らないが、附近の繁華に引換え、思いなしかあまり眼に立だなくなった。今では神楽坂演芸場の方が唯一の落語の定席となったらしい。

牛込亭 先の地図では「寄席」と書いていました。現在の地図は上のように、牛込亭は消え、ど真ん中を新しい道路が通りました。なお、この道路の名前は特に付いていません
小さん 1895年3月、3代目襲名。1928年(昭和3年)4月、引退。
円右 1882年に圓右、1883年真打昇進。1924年10月、2代目圓朝に。一般的に「初代圓右」として認識。
綾之助 女性。本名は石山薗。母から義太夫の芸を仕込まれ、1885年頃、浅草の寄席で男装し丁髷姿で出演。竹本綾瀬太夫に入門し竹本綾之助を名乗る。1886年頃に両国の寄席で真打昇進。端麗な容姿と美声で学生等に人気を呼び、写真(プロマイド)が大いに売れたといいます。
小土佐 女性。竹本(たけもと)小土佐(ことさ)。女義太夫の太夫。明治の娘義太夫全盛期から昭和末まで芸歴は長大。
義太夫 義太夫節、略して義太夫は江戸時代前期から始まる浄瑠璃の一種。国の重要無形文化財。
加賀太夫 男性。富士(ふじ)(まつ)加賀(かが)太夫(たゆう)は、新内節の太夫の名跡。7代目は美声の持ち主で俗に「七代目節」と言われる。明治末から大正時代の名人。現在に通じる新内の基礎はこの人物がいたため。
紫朝 富士松ふじまつ紫朝しちょう。男性。明治大正の浄瑠璃太夫。
新内 新内(しんない)(ぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けたといいます。
色物 寄席において落語と講談以外の芸。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。
八幡劇 大衆演劇の劇団でしょうか。よくわかりません。
安来節 やすぎぶし。島根県安来地方の民謡。

そんな懐旧談をしていたら限りがないが、兎に角寺町の通りの最近の発展は非常なものである。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつゝあったわけであるが、震災以後殊に目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も、坂下からずっとこの寺町の通り全体に大道露店が一ぱいになったものだったが、それから以後次第にそれなりに、私のいわゆる神楽坂プロパーと等しなみの殷賑を見るに至り、なお次第に矢来方面に向って急激な発展をなしつゝある有様である。

殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

神楽館|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 神楽館とはどれでしょう。下図の左側には昭和12年の地図がありますが、ここの赤い4角が神楽館でした。まず神楽坂通りで神楽坂2丁目と3丁目が分かれる場所を北東に向かう「神楽坂仲通り」ではなく、反対側の南側に向かっていくと、下に行く坂になります。最初の4つ角は、左右は小栗横町ですが、ここはまっすぐ上に進み、上がったところが現在の駐車場で、ここを曲がると見えてきます。神楽館は広津和郎氏、宇野浩二氏、片岡鐵兵氏、横溝正史氏などの下宿でした。

神楽館

神楽館。火災保険特殊地図(昭和12年)と現在のGoogle

文学と神楽坂

泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花

大正元年の泉鏡花

(いずみ)(きょう)

 明治・大正期の小説家・劇作家。本名は鏡太郎。1873(明治6年)年11月4日に生まれ、没年は1939(昭和14年)9月7日。65歳、癌性肺腫瘍のため死亡。

 明治23年(17歳)、牛込横寺町の当時23歳の尾崎紅葉氏を訪ね、最初の門下になります。明治28年(21歳)、『夜行巡査」『外科室』を発表し、出世作に。明治29年5月、郷里から七七歳の祖母と弟豊春を迎えて、小石川区大塚町57番地に同居。明治32年(26歳)、神楽坂の芸妓、桃太郎(本名伊藤すゞ、当時17歳)を知り、牛込南榎町に引っ越し。明治33年(27歳)、幻想譚『高野聖』を発表。
 明治36年(30歳)1月、神楽坂に転居し、すゞと同棲。3月、紅葉はこれを知り、叱責。すゞはいったん鏡花のもとを去り、同年10月、紅葉が死亡、晴れて夫婦に。

 明治38年(32歳)、逗子に転居。明治41年(35歳)、『婦系図』を出版し、帰京。明治42年(36歳)、後藤宙外らの文芸革新会に参加し、反自然主義を標榜。

 昭和14(1939)年、66歳の『縷紅新草』が最後の作。小説は300編以上。独特の文体、女性崇拝、幻想、怪奇、耽美主義、エロチシズム、ロマンチシズムなどの世界が生まれました。

文学と神楽坂