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神楽坂、坂と路地の変化40年

文学と神楽坂

 『神楽坂まちの手帖』第10号(2005年)に建築家の三沢浩氏が小栗横丁を主体として書いています。

神楽坂、坂と路地の変化40年

 小栗横丁は20数年の間、自宅からの通勤路だった。だから最近のこの道の変遷には、驚きひとしおである。神楽坂に外堀通りから入り、理科大への田口生花店の角を左へ、そして古い石垣と志満金厨房の間を右に入る。そこから始まり、突き当たりの西條歯科で終わるゆるいカーブの続く、200m余の路地が小栗横丁と呼ばれる。石垣の所に元禄時代1700年頃の、江戸切絵図に小栗五大夫の屋敷が見える。文政の1800年代には、西條歯科の斜め前の丸紅若宮寮の場所にも小栗仁右衛門とあり、これも路地に名を残す一因ではなかったか。
 左側の神楽坂2丁目22番に、泉鏡花明治38年まで4年間住み、並びの家北原白秋明治42年まで、2年間住んだことになっている。「からたちの花」はここで生まれたのかどうか。今は理科大附属の外人教師館だが、以前は石段の上に平屋の板張り小住宅が、草花やつりしのぶに囲まれてひっそりとあり、中からクラシック音楽が流れ出ていた。右の細い路地、夏日写真館の脇を抜けると神楽坂で、入口にガス灯つきの石の門があった。

ひとしお 一入。ほかの場合より程度が一段と増すこと。何か特別な事情や理由があって一段と程度が増していること。

小栗横丁。1983年。住宅地図

外堀通り 皇居のまわりを一周する最大8車線の都道。
理科大 東京理科大学。新宿区神楽坂一丁目に本部を置く私立大学
田口生花店 正しくは田口屋生花店
志満金厨房 志満金はうなぎ割烹を主にする日本料理。厨房とはその調理室のこと
西條歯科 最西部にある歯医者
江戸切絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。

元禄と文政。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

丸紅若宮寮 大手総合商社丸紅株式会社の共同宿舎。2001年には依然開設し、2010年には終了しています。
明治38年 泉鏡花旧居跡では、明治36年3月から明治39年7月まで住んでいたとのこと。この「泉鏡花・北原白秋旧居跡」は泉鏡花の旧居だといいます。
並びの家 道などの同じ側。神楽坂2丁目22番はかなり大きな場所です。その2軒に泉鏡花氏と北原白秋氏の2人がいたわけです。おそらく別の家に住んでいたのでしょう。

神楽坂2丁目。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

明治42年 北原白秋旧居跡では、明治41年10月末から明治42年10月まで住んでいたとのこと。
からたちの花 大正13年、「赤い鳥」で詞を発表。歌詞は「からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ/からたちのとげはいたいよ/靑い靑い針のとげだよ/からたちは畑の垣根よ/いつもいつもとほる道だよ/からたちも秋はみのるよ/まろいまろい金のたまだよ/からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ/からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」
外人教師館 地図によると「東京理科大学神楽坂客員宿舎」(右下)。その後、新宿区若宮町に移動しました。

1996年。住宅地図

つりしのぶ 釣り忍。竹や針金を芯にして山苔を巻きつけ、その上にシノブの根茎を巻き付けて、さまざまな形に仕立てたもの。
夏日写真館 以前は坂上を見て左側でした
ガス灯つき ガス灯つきの石の門に相当する門は思い出せないと、地元の人。下は商店会の街灯でした。

夏日写真館

 次の右折れの先は、藤原酒店と向き合って整美歯科、左は急坂を経ると加賀まりこさん宅へ抜ける。熱海湯前までは粋な飲食店が並び、そのうちの一軒は、やや広くなった通に店内から、客用の椅子を出して日向干し。この店の入口にはほぼ毎日、ふぐひれも干してあって、ひれ酒を誘った。熱海湯右の石段を登れば斉藤医院、突き当たりは履き物の「助六」の裏庭で、いつも池への水音が優雅。熱海湯前には煉瓦の階段がゆるく登る、手すりつきの路地があって、突き当たりには桜の古木が、すばらしい花を見せた。
 さてこれから突き当たりまでが、小栗横丁の舞台。右側は黒塀が続いて、名だたる料亭があった。まず喜久月、続いて鷹の羽、その裏に接して重の井。重の井の入口は若宮八幡の通りで右に折れ、坂を登った突き当たりが、このあたりに君臨していた松ケ枝となる。もちろん小栗横丁ではないが、道の左右には仕出屋芸妓置屋があった。

1973年、住宅地図

昔の加賀まりこ

整美歯科 正しくは臼井歯科では? 非常に短命に終わった整美歯科医か、名前だけを間違えて正しくは臼井歯科だったのでしょう。
加賀まりこ かがまりこ。女優。生年は1943月12月11日。千代田区神田小川町に生まれ、神楽坂2丁目で大きくなった。フジテレビの『東京タワーは知っている』でデビュー。和製ブリジット・バルドーとも。
若宮八幡 鎌倉時代の文治五年秋、若宮八幡宮を分社した。図の「若宮町」よりもさらに南に存在。「出羽様下」通りと同じ。
仕出屋 注文に応じて料理をつくり届けることを業とする家
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋。

 ある夕刻、この道筋を帰ってきたが、花屋から石垣の角を曲がるあたりで、脂粉の香がひと筋流れているのを感じた。この小路は巾2~3m、しかも大きくカープしながら、時にはねじれるように曲がって先が見通せない。しかも次第にゆるく登る。脂粉の流れは左右に消えることなく、家並みに沿って続いていたが、熱海湯先で消えた。料亭には置き塩のある格子戸の入口と、黒塀にとりつけた小さな木戸がある。どの入口に入ったものか。
 その格子戸を開けると、打ち水された坪庭、黒松が枝を延ばし、玄関は右か左に90度折れた所にあって、格子戸越しには全貌は見えないのが常。玄関の式台を上がると、右に折れて次の間、また90度折れて座敷に近づく。狭い敷地に小栗横丁から入り、奥行きを深くするための、日本流の入り方がそこに残っていた。植え込みに遣り水踏み石灯龍に灯、粋な庭には朝から手入れをする仲居さんの姿があり、一本ずつ格子を磨くのも仕事のうち。夕刻ともなると、ある入口には一流製鉄会社の黒い背広連、別の料亭では横山隆一等の漫画集団の姿も見た。三味線の高鳴る黒塀からは、経理関係の組合などが溢れ出したり。

脂粉 しふん。紅とおしろい。
次第にゆるく登る ノエル・ヌエット氏が描いた「若宮町」も上にのぼっています。この絵画もここでしょうか。

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

置き塩 盛り塩。もりしお。塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習。縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味があります。
格子戸 格子を組んで作った戸。
木戸 街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門。
打ち水 ほこりをしずめたり、涼をとるために水をまくこと。
坪庭 建物と建物との間や、敷地の一部につくった小さな庭。
式台 玄関の土間とホールの段差が大きい場合にその中間の高さに設けられる横板
遣り水 やりみず。水を庭の植え込みや盆栽などに与えること。
踏み石 通常は、玄関や縁側などにある、靴を脱ぎておく踏み台のような石。日本庭園にある飛び石。
灯龍 とうろう。日本古来の戸外照明用具。竹,木,石,金属などの枠に紙や布を張って,中に火をともす。
仲居 旅館や料亭などで客の接待をする女性。
横山隆一 漫画家。第2次世界大戦後『毎日新聞』に『フクちゃん』を1956年~71年まで連載。生年は1909年5月17日、没年は2001年11月8日。享年は満92歳。



再開発と神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂の交差点「神楽坂上」周辺で再開発していますが、これで終わりでしょうか。それともまだあれこれと起こりうるのでしょうか。何も起こらない場合、どうして起こらなかったのでしょうか。地元の人は概略します。

  再開発と神楽坂

 東京は皇居を中心に同心円状の構造をしています。環状1号線内堀通り環状2号線外堀通り。環3と環4は、いまだ建設中。環5は明治通りといった具合です。
 神楽坂は環2の外に位置します。同じ環2の外の街をぐるりと見ていくと、神田日本橋銀座虎ノ門赤坂四谷神楽坂を経て文京区の後楽本郷湯島という感じです。いずれも有名ではありますが、街の「ブランド力」を比べると、神楽坂から湯島にかけては、他の街より落ちる感じがしませんか。土地の値段やオフィスビルの賃料を比べても、神楽坂は日本橋や銀座、赤坂などより、かなり安いのが現実です。後楽よりは高いかも知れませんが。
 これは、神楽坂一帯が都心の中でも「開発の遅れた地域」であることを意味します。昔の風情を残しているとも言えるし、再開発圧力にさらされているという見方も出来る。歴史と現代が融和する神楽坂の魅力は、この「開発の遅れ」という現実の上に成り立っています。

環状1号線 東京では「千代田区日比谷公園(日比谷交差点)を起終点とし、皇居外苑を周回する総延長約6.5kmの環状道路」
内堀通り 皇居のまわりを一周する4~10車線の幅員の広い延長7kmの道路。内堀通りと環状1号線はわずかに違う(https://ja.wikipedia.org/wiki/内堀通り
環状2号線 江東区有明から中央区、港区などを経て千代田区神田佐久間町の間を結ぶ、全長約14kmの幹線道路
外堀通り 外堀に沿って作られた環状道路。環状2号線と外堀通りは現在は別々の道路です。外堀通りと環状2号線で同じ場所は赤、環状2号線のみは紫。外堀通りのみは橙。

環状1号線と2号線と外堀通り

神田、日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、四谷、神楽坂、後楽、本郷、湯島 2020年で簡単にm2あたりの公示地価(https://tochidai.info/tokyo/shinjuku/)を見ると、本郷を除いて、神楽坂は低価でした。

 ⚫ 再開発のパターン

 専門の方は先刻ご承知と思いますが、都市部の再開発には、ふたつのパターンがあります。ひとつは広い道に面していること。建築法制では前面道路の幅で建物の高さや容積率を決めています。広い道沿いほど大きな建物が建てられます。
 神楽坂の場合、「広い道沿い」の再開発の典型例が「アインスタワー」です。5丁目の寺内地区には低層の木造住宅が密集していました。それを大久保通りとつなげることで大きな利益が生み出せる。積極的な地上げで、たくさんの人が立ち退きました。他にも、昭和40年代の津久戸町熊谷組の本社ビル建設なども、広い道型の再開発です。
 都市部の再開発のもうひとつのパターンは、広い土地を持つ地権者がいることです。地上げの手間もコストもかからないので、再開発を軌道に乗せやすい。
 神楽坂の場合、「広い土地」型の再開発の典型例は、通称「軽子坂プロジェクト」で完成した一連のビル群です。外堀通り沿いの揚場町から、軽子坂を登って本多横丁の手前まで、いくつもの大きなビルが連続的に建てられました。軽子坂は決して広い道ではないので、あまり高いビルは建てられません。しかし沿道の土地の大半を升本酒店が持っていたことから、スムーズに再開発が進みました。これよりかなり前になりますが、昭和30年代の揚場町のセントラルコーポラス建設も、広大な邸の跡地を利用した「広い土地」型の再開発と言えます。
 他にも神楽坂周辺ではラムラという大型の再開発の事例があります。これは江戸城の外堀という公有水面を東京都が埋め立てて、その土地を外堀通りにつなげることで大きなビルを建てたわけです。「広い道」と「広い土地」の両方の特徴を持っています。

アインスタワー 神楽坂アインスタワー(Eins Tower)で、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションです。

アインスタワー。1967年。住宅地図。

地上げ 建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収すること
熊谷組 1974年3月、熊谷組の新本社完成。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

地権者 その土地を所有し、処分する権利をもつ者
軽子坂プロジェクト 1937年、1980年、1990年と今(2020年)。現在、小規模な住宅は極めて少ない。
セントラルコーポラス 上の中央の赤丸

 ⚫ 神楽坂の強さ

 ただ神楽坂の場合、街の中心である神楽坂通り沿いには再開発の波は及びませんでした。通りの幅が広くないことと、土地が細切れになっていることが理由です。
 神楽坂通りの商店は戦前、明治以来の地主が広い土地を持ち、店に貸していたそうです。みんな店子ですから、地主の都合や家賃によって場所を移すことが珍しくなかったようです。それを大きく変えたのが第2次大戦後の「財産税」です。財産税の効果は農地解放がよく知られますが、商店街でも地主が土地を手放しました。神楽坂の場合、多くは店子がそのまま自分の店の土地を買ったと言われます。
 こうして細切れの土地に「一国一城の主」が立ち並ぶ構造が出来ました。これが神楽坂の再開発を妨げ、昔の風情を残すことに大きな役割を果たしています。古い店がつぶれれば再開発になりやすい。けれど神楽坂では多くの場合、店主が自前の低層ビルを建てて、貸しビル業や貸しマンション業に転業するわけです。店はなくてもオーナーは同じで、小さなビルの上に住んでいる。
 それだけではありません。最近の新型コロナウイルス感染症で、商店街は全国的に大きな打撃を受けています。ただ神楽坂の古くからある店は比較的、被害が小さいようです。それは土地を自分で持っていて、家賃を払わないですむからです。これも神楽坂の強さのひとつでしょう。
 例外的に、神楽坂通りの再開発事例として「ポルタ神楽坂」があります。10数軒の店が立ち退いてビルが建ったのですが、あの店の多くは升本酒店が地主だったのだそうです。戦後の財産税をくぐり抜けて、それだけの土地を持っていたわけです。だから同じような再開発が今後、続くとは考えにくいです。

店子 家主,大屋に対する借家人、借り主。テナント
財産税 財産を所有しているという事実に対して課される租税。ここで言っているのは戦後1度だけ、占領軍総司令部が発令した臨時税
農地解放 農地改革。第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。

 ⚫ これからの再開発

 それでも、神楽坂に対する再開発圧力は次第に高まっているように感じます。とくに周辺部です。
 大久保通りの拡幅工事完成間近です。沿道のいくつもの店が取り壊され、神楽坂の出口のランドマークであった「昔も今も角のせとものや」こと河合陶器店がなくなりました。拡幅によって、大久保通り沿いには今まで以上に高いビルが建てられるようになります。地上げを企画する業者も出てくることでしょう。
 一時期、街作りの立場から大久保通りの拡幅を批判する人がいましたが、感情論だと思います。拡幅計画ははるか昔からあるし、退去する店には前もっての通知と補償金がある。店主は、それを前提に店をどうするかの腹を決めます。補償金がもらえるから「早く着工して欲しい」と思っている店主だって多いんです。
 大久保通りの逆側、神楽坂下の外堀通りにも拡幅計画があります。昔の神楽坂の入り口のランドマークである赤井さんのところは、坂上の河合さん同様に全部、道路になってしまう場所です。パチンコ「オアシス」も、みちくさ横丁の主であるトウホウビルも、外堀通りが広がれば半分は道路にとられる。地主はそれが分かっているから、古い建物のまま我慢している。拡幅が動き出せば、一気に再開発が進みます。その時には神楽坂の入り口は、昔の山田紙店の跡、今の地下鉄入口になるはずです。
 もうひとつ、忘れてならないのは神楽坂6丁目の再開発です。6丁目は現在の12メートルの道が20メートルに広がる計画です。そうなると、例えば角に近い五十番の店は半分は道路にとられる。道が広がれば、再開発が起きやすくなる。大きな変化があることでしょう。もっとも、さすがにそれには時間がかかりそうです。
 神楽坂1-5丁目の神楽坂通りには拡幅計画はありません。通り沿いの中小ビルの多くは自社ビルで、オーナーは簡単には手放さない。再開発がなければ路地も残るし、町並みも維持できる。神楽坂の中心部は、周辺部の高いビル群に囲まれたまま、ずっと残るのではないかと思っています。

完成間近 完成は不明です。
外堀通りにも拡幅計画 1967年の住宅地図を示します。もともとは黒い点線で書いているのですが、赤い実線に変えています。

1967年。住宅地図

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると、下図がでてきます。

都市計画道路

神楽坂通りには拡幅計画はありません 1967年の住宅地図にまた別の点線があります。実現しなかった神楽坂通りなのですね。

1967年。住宅地図。



神楽坂下から揚場町まで

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、1962年、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの。

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸