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神楽坂5丁目(写真)標識ポール ID 3

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 3を見ていきましょう。降雨があるけど、男性は半袖です。撮影の方向は、神楽坂5丁目から神楽坂上交差点に向いています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありませんが、歩道は痛んで、ぼろぼろです。

神楽坂上から早稲田方向。新宿歴史博物館 ID 3

 右側に瀬戸物の河合陶器店、上に山下漆器店が並んでいます。2店は平成29年(2017年)、道路の拡幅があり、なくなりました。6丁目の最短部、河合陶器店の向かい(右手)は、果物の「田中屋」。左側の上には協和銀行の看板があります。
 右手の上に標識ポール「神楽坂」が立っています。なにか「神楽坂」ではなさそうですが、表裏の二方向が必要なので、こうなっています。
「神楽坂」交差点では、昭和35年頃までには「神楽坂」がなくなっています(新宿歴史博物館 ID 5510)。つまり街灯の「鈴蘭灯」はあるけれども、標識ポールはなくなっています。

昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 以下は地元の方が発見したことですが、新宿歴史博物館 ID 7430(撮影は昭和45年11月14日)では、標識ポールはまだ残っている。写真の左側の矢印⍈が「神楽」を隠しているけれど、標識ポールがある。

s新宿歴史博物館 ID 7430 神楽坂 坂上風景 昭和45年11月14日

 地元の方の考えでは「坂下は信号が見えにくくなるので、向きを変えた。すると角家の前に突き出すことになる。『パチンコ・ニューパリー』を建てる工事の時に苦情が出て、早い時期に撤去された」といいます。
 では、元に戻って、ID 3はいつ撮ったのか? 電柱1本は 街灯1つで、これは昭和36(1961)年以降しかわからない。車道は平坦で、歩道はでこぼこが多い。ID 4やID 5の大きな穴が開いた車道はID3の平坦の車道の前に撮ったと思います。ID3はおそらくID 17と似た時間帯(昭和36年頃)か、さらに遅くなったときに撮ったのでしょう。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

神楽坂3丁目(写真)昭和40年以前 ID 8-12

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8からID 12までを見ていきましょう。今は晴れで、半袖の人が多いので、おそらく夏。撮影の方向は、神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道にはOリングが作られて、歩道は四角いブロックを敷き詰めただけで、凸凹が目立ちます。1970年頃までにアスファルト舗装に変わったと思われます。

新宿歴史博物館 ID 12 神楽坂途中、さわや付近から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 9 神楽坂途中、さわや付近から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 8

歴史博物館 ID 10

新宿歴史博物館 ID 11

神楽坂2丁目と3丁目(坂上→坂下)
  1. 竹谷電機 ナショナル冷蔵庫テレビ
  2. 趣味の店 あざみ
  3. マーサ美容室
  4. 将来の神楽坂仲通り。2と3丁目の間
  5. 資生堂化粧品 さわや
  6. 亀井鮨
  7. (美容室ルカ)
  8. ボーラー化粧品
  9. (陶磁器 陶柿園)
  10. コーヒークラウン
  11. 「野乃木」か「かやの木」
  12. 喫茶 坂
  13. (靴 ニューイトウ)
  14. パチンコマリー
  1. ヒデ美容室
  2. 山本薬局 パンビタン
  3. 将来の神楽坂仲坂。2と3丁目の間
  4. 電柱看板で「菅理髪館⇒」
  5. 牛豚鶏 增田屋
  6. プラチナ万年筆 大川時計店
  7. エスヤ洋品 福田屋
  8. 洋装生地 林屋
  9. 十奈美 資生堂
  10. クスリ
  11. 夏目写真館

 道路標識が横断歩道の側に見えます。「横断歩道」、2つの平行線、「PEDESTRIAN CROSSING」と書かれています。

新宿歴史博物館 ID 7002 神楽坂 昭和34年頃

「マーサ美容室」は窓1枚1枚が斜めに開き、つまり冷房はなく、大きい店舗で、コールドパーマと書いてあります。ボーラー化粧品は1964年(昭和39年)ではありますが、1965年(昭和40年)にはリード商会に変わります。したがって、昭和40年が最大年度でしょう。
 下の漢字は「野乃木」でした。「野」は草書体でした。

全航空住宅地図帳 1965年


 電柱看板の「菅理髪館」は小栗横丁にあります。

1963年。住宅地図。

神楽坂3丁目(写真)昭和42年 ID 6-7

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 6とID 7を見ていきましょう。ともに今は雨は降り、撮影の方向は、神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は鈴蘭灯とは違い、円盤形の大型1個だけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道は完全に平坦になっています。歩道はカラー舗装のようです。

新宿歴史博物館 ID 6

新宿歴史博物館 ID 7

神楽坂3丁目
  1. さわや
  2. これから3丁目に。数軒はいり…
  3. ブリヂストン エバーソフト(菱屋)。エバーソフトは商標名で、ゴムや合成樹脂を加工し、柔らかく弾力性のあるようにしたもの。マットレス、クッション、座布団などに使う。
  1. 牛豚鶏 増田屋
  2. (太陽堂)
  3. 神楽坂仲坂に。これから3丁目に
  4. パンビタン 山本薬店
  5. ヒデ美容室
  6. 工事中
  7. 龍公亭

 右手の工事中については、1967年(昭和42年)までは「きらく会館」で、70年(昭和45年)になると「コーヒー5番」になります。また「ブリヂストン エバーソフト」は「福島ピアノ」「小料理 万平」「菱屋 呉服総本店」のうち、やはり「菱屋」だと思います。
 また、菱屋の写真がわずかに出ていますが、これは古い店舗です。新しいビルにかわるのは昭和42年以降でした。

昭和38年/42年 vs 45年

 一方、昭和42年2月8日の田口重久氏の写真があり「2月8日までに『Club 軽い心』の向こうで、菱屋のビルが完成しています。つまり新しいビルに変わるのは昭和42年(または前年末)でした」と地元の人。

05-14-37-1

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を 1967-02-08(昭和42年)

「撮影時期は昭和40-41年(1965-66)ごろではないでしょうか」と地元の人。

和可菜(写真)

文学と神楽坂

 「Save the Kagurazaka」という活動があります。平成28年に始まりました。雑誌「かぐらむら」は90号(平成29年)にその仕事を写真として撮っています。その写真を勝手に再録します。和可菜は隈研吾設計事務所の手を借りて、新しい形になります。これは、あくまでも、昔の和可菜です。和可菜1


神楽坂2丁目(写真)昭和37年頃 ID 4-5, 13

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 4、ID 5とID 13を見ていきましょう。ともに今は雨は降らず、撮影の方向は、神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道にOリングはまだなく、凸凹が目立ち、穴もあります。Oリングは1962~63年にはつくられているので、その前の話でしょう。

新宿歴史博物館 ID 4 神楽坂途中から坂下方向

神楽坂2丁目(坂下→坂上)
  1. 志乃多寿し
  2. (山一薬品)
  3. パチンコマリーと佳作座
  4. 靴のニューイトウ
    ←洋食レストラン京屋
    ←神楽坂ビリヤード
  1. 志満金 うなぎの看板
  2. オザキヤ(靴店)
  3. たばこと☎(果実 田金)
  4. (食品 丸八)
  5. ダイヤモンド毛糸 大島糸店

 パチンコマリーとニューイトウの間に横丁があり、その奥にレストラン京屋や神楽坂ビリヤードがあります。
 車道の左側に穴がある、と見えます。ID 5にも同じ穴がある。1958年に逆転式一方通行を発令したので、発令は穴と関係はないでしょう。本来はOリングがある場所ですが、まだOリングはありません。まあ、穴は早急に直すべきでは、と思います。

新宿歴史博物館 ID 5

神楽坂2丁目 (坂下→坂上)
  1. パチンコマリー
  2. ニューイトウ
  3. 喫茶 音楽 坂
  4. (陶柿園)
  5. 野乃木。草書体の「野」
  6. 喫茶 クラウン
  1. ダイヤモンド毛糸 大島糸店
  2. 神楽屋 センベイ
  3. 松本商店
  4. 夏目写真館

「旅館 かぐら苑」は1964年(昭和39年)まで存在し、「旅館 かやの木」は1965年(昭和40年)から存在し「全航空住宅地図帳」では1973年(昭和48年)になくなっています。1962年に写真があったとすると、「かやの木」はありえません。「野乃木」は1963年には存在し、1973年になくなっています。草書体の「野」でした。

全航空住宅地図帳、1965年

新宿歴史博物館 ID 13 神楽坂途中、さわや付近から坂下方向

 穴の場所を避けて、車列が上に伸びていきます。

神楽坂|昭和36、7年(写真)観光案内 vs ID 17

文学と神楽坂

 2枚の写真を比べてみましょう。昭和36年と37年です。最初は昭和36年、1961年です。場所は神楽坂1丁目から2丁目です。図は拡大できます。

県別・写真・観光日本案内 東京都 昭和36年

 右側の前から見ると……

  1. 神楽堂。パンなどの店舗
  2. 何も書いていないけど、紀の善。甘味処です。
  3. MEN’S WEARの前に神楽小路が見える
  4. 白い建物の1階はテーラー和田屋、2階が理容バンコック。MEN’S WEARとWA⚫⚫YA。道路には床屋のサインポール
  5. ダンス。神楽小路の奥にあった小柳ダンス教室
  6. メトロ映画で「江戸っ子肌」公開は1961年2月と「兵六大臣行状記」公開は1961年2月。最初に封切りをする1番館でした。
  7. トリスバー
  8. 「志乃多寿し」
  9. 1軒が間に入り、パチンコマリー

 次は1962年です。昭和37年で、新宿歴史博物館のID 17です。場所は神楽坂1丁目から2丁目です。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

 最初は左側の前から後ろに向かっていきます。

  1. 甘味 桜井。ここは1丁目。
  2. パール ビリヤード。現在はないが、小栗横丁にあった。
  3. 小栗横丁に行く小道
  4. 壁面看板の「花 田口屋」。ここから2丁目
  5. 電柱看板で「川島歯科」。現在はないが、藁店にあった。
  6. 志満金

 次は右側の前から後ろにです。場所は2丁目です。

  1. 床屋のサインポール
  2. メトロ映画で「九ちゃん音頭」公開は1962年7月と「男度胸のあやめ笠」公開1962年6月
  3. 白い建物はスナックとバー みなみ
  4. 志乃多寿し
  5. 山一薬品
  6. パチンコマリー

 しかし、1961年と1962年の場合、もう1つ、大きな違いがあります。つまり、街灯が違っているのです。1961年はいわゆる「鈴蘭灯」で、下向きの2つ、上向きが1つの電灯がありました。おそらく1955年ごろから使ったものです。

 これは「神楽坂下の夜景(写真)」でもみられます。

 1962年は極めて簡単で、大きな電灯は1つだけです。

 1961年2月に街灯は変えられたと考えています。

神楽坂1丁目9(写真)森川ビル

文学と神楽坂

神楽坂1丁目4分割

 神楽坂下交差点を囲んで神楽坂通り(早稲田通り)と外堀通りがあり、この部分を4分割します。この1つは東の分割で、神楽河岸です。新宿区の建物だけで、誰も住んでいません。他には3か所は全て神楽坂1丁目です。このうち、南の分割(1丁目9)と「とんかつ森川」について、調べてみたいと思っています。
 最初は田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、昭和42年に牛込橋のほうから神楽坂下交差点を見ています。

05-14-37-1

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を 1967-02-08(昭和42年)

 では、南分割の看板(下図はさらに拡大可)を右から左に向かって…

  1. 袖看板。天下の銘酒 富士錦 三富酒蔵
  2. 富士錦の左側で 不明の文字
  3. 看板で隠れているが、77(喫茶店)
  4. 電柱看板で「整美歯科」と「とんかつ森川」
  5. 小柳ダンス教室は神楽小路のそば。
  6. ペプシコーラの宣伝
  7. とんかつ森川


 では神楽坂下交差点から牛込橋を眺めると……

05-14-37-2神楽坂下から牛込見附を 1967-02-08

  1. 77の看板があります
  2. ダンス教室の看板はなくなり、6枚のベニヤが建っています。この裏は小柳ダンス教室でしょう。
  3. ペプシコーラの看板が少し見え、屋号の「二⚫」が見える。
  4. 「とんかつ」が見える。
  5. あと2、3軒の店舗がある


 では地図はどうなっているのでしょう。人文社の地図 1964年版では…。

新宿区東部. 1964年改訂版。人文社

 「二⚫」は「二鶴」でした。
 また、1967年の地図(住宅協会地図部)では

地図。新宿区. 1967年度。住宅協会地図部

 では、これから6年経って、昭和48年の写真を見ましょう。新宿歴史博物館のデータベース 写真で見る新宿「飯田橋駅付近より坂上方向」ID 68 昭和48年5月22日です。

新宿歴史博物館のデータベース 写真で見る新宿「飯田橋駅付近より坂上方向」ID 68 昭和48年5月22日

昭和48年。全航空住宅地図帳

 後ろから前に書くと…

  1. 看板は不明
  2. 喫茶77
  3. 真っ黒な店舗で「とんかつ森川」。「とんかつ森川」は上の袖看板と下の電柱看板。
  4. 灰色の店舗で、金⚫とラーメン
  5. 立喰そば(とんかつ森川ではない)
  6. もつやきと「や⚫⚫」

 つまり「とんかつ森川」はこの間に場所が変わったのです。現在は森川ビル(モンスターコーヒー&グリル神楽坂下)です。

「とんかつ森川」について、いろいろなことを知りました。まず、地元の人から聞いたことは…

その道路向こうの1丁目の伝説の店・とんかつ森川。(廃業)

 インターネットの評判では…

神楽河岸の今は「なか卯」辺りにあった。ここのトンカツは天下一品だったんだよね。復活してほしいなぁ。
「かぐらむら。記憶の中の神楽坂」

森川 (飯田橋) – BIGLOBE
お店の基本情報

98年春頃に閉店してしまったようです。
コメント・訪問記録
フライパンに少量のラードで焼き上げる独特の調理法のかつ。何か、ポークソテーに薄ごろもを付けたような、少しカリッとした香ばしさ。とてもジューシーで、肉汁が滴るような感じでうまい。ころもがじゃましないので、肉本来のおいしさがきわだつ感じ。この店は、サラサラのウースターソースを使うが、これがとてもこの独特製法のころもに良く合う。カツ丼もこの店の目玉。昼のサービスのかつライスは、注文してから5秒で目の前に油のはじけるアツアツの物が出される。この店の主人(おかみさん)の使うマジックの仕掛けは??
印度・東南亜細亜巡礼
食べ物の話 その1(トンカツ)
蓬莱屋に似たトンカツを食べさせる店が飯田橋にありました。トンカツ森川です。しかしご主人が亡くなり家族の人達で続けていましたがだいぶ前に閉めてしまいました。

牛込華街読本|いい芸妓になる方法

文学と神楽坂

「牛込華街読本」の著者は蒔田耕、出版は牛込三業会、発行は昭和12年(1937年)でした。内容は「華街心得帳その一」、「その二」、「二業側御主人へのお話」、「女中衆へのお話」、「芸妓衆へのお話」、「営業取締規則へのお話」、「どうしたら繁昌するか〔座談会〕」、「牛込華街附近の変遷史」。
 なんというか、この本は非常に公式、正式、本式に書いていますし、きちんと正座して話を聞いていた芸者であれば、高級豪華絢爛な芸者になったと思います。
 これは「芸妓衆へのお話」の一部です。なお、本のルビはほぼやめ、旧漢字は新漢字に変わり、また、多くの「御」は「お」や「ご」に変え、ほかにもあれこれ変更しています。

     営業について

 前段に申し上げましたように芸妓は立派な婦人の職業であり、しかも意義ある営業なのです。皆さんも一たんこの社会に身を投じた以上、立派な芸妓即ち名妓になるということを心がけなければなりません。皆さんが立派な芸妓になれぱ、土地も繁昌するということになるのであります。私どもが皆さんに対し説法じみたことを申上げたり、苦言を呈したりするのも、皆この土地、否、花柳界の繁昌を念願する外、なにものもないのであります。しからばどうすれば立派な芸妓になれるかといいますと……。

     第一 芸を勉強する事

 芸は芸妓の看板でありますから、充分に勉強しなけれぱなりません。芸のあるは、顔や姿は劣りましても、非常に美しく見えます。殊におどりのある妓は身体からだにいろけがあっていいものです。
 お座敷で立派な芸をもっている年増さんなどで「私、流行歌や民謡など出来ないわ」など自慢らしくいっている方がありますが、あれは大変な心得違いです。芸妓は純粋の芸術家ではないのです。つまりサービス・ガールなのですから、お客様本位になんでも、お客様のお望みに応じ、おあわせるという心掛けが肝心です。
 芸術家の芸は、間口がせまく、奥行が深く、芸妓衆の芸は、奥行が浅くとも間口を広くという訳です。もっとも間口も広く、奥行も深ければなお結構です。
 以上のように芸妓に芸は絶対必要でありますが、ただこういうことをよく承知しておいていただきたいのです(これはサービスの項に属するのですが芸に関係をもつのでここに付け加えておきます)。お座敷の場合、お客様は皆さんの上手なおどりを見るよりも、自分で「東京音頭」や「鹿児島小原おはら」を踊る方が、より以上愉快なものです。一流の姐さんの清元きよもと常磐津ときわずを聞くよりも、ご自分で下手な「都々逸どどいつ」を唄う方が愉快なのです。
 でありますから踊なり、うたなり、三味線なりで名取になるのも結構。いや、それを目標に勉強していただきたいのですが、それ以上にお座敷でお客様に唄わせるよう、おどらせるよう「ひきだすこと」。そうしてお客様を「浮きたたせること」。これが芸妓としての至上の芸術であることをお承知置き願います。

芸妓 げいぎ。歌舞や音曲などで、酒宴の座に興を添えた女性。特に芸妓は技芸と教養を併せ持つ洗練された女性。
名妓 名高い芸妓。歌舞などにすぐれた芸者。
 酒席で、音曲・歌舞などをもって客をもてなす女。芸妓。芸者。
年増 としま。娘盛りを過ぎた女性。一般に30歳代半ばから40歳前後までの女性
サービス・ガール  飲食店などで、給仕や接待をする若い女性。
間に合わせる 当座の用にあてる。急場をしのぐ。
鹿児島小原 鹿児島おはら節。代表的な鹿児島民謡。歌い出しは「花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島」
清元 清元節。浄瑠璃(三味線音楽)の流派名。
常磐津 常磐津節。浄瑠璃(三味線音楽)の流派名。
都々逸 俗謡の形式名。最も代表的な座敷歌。典型的な歌謡調七七七五型をもつ。代表歌は〈おかめ買う奴あたまで知れる 油つけずの二つ折り〉〈そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク〉と調子のよい囃し詞がついている。
名取 芸道で、一定の技能を修得し、家元・師匠から芸名を許された人。

     第二 サービス第一義に心掛けべき事

 サービスと申しますと大変範囲が広い、たとえばおしゃくをするのも、話のお相手をするのも、三味線を弾くのもサービスの内ですが、私の申し上げますのは、主として精神的サービスとでも申しましょうか、臨機応変その時々によりお客様への応対についての心得についてでございます。これは師匠がございませんので、どなたも習ったという方はないのでございます。ほとんど生れつきと申すかも知れませんが、しかし自分の心掛け一つで、ある程度まではうまくなるものです。
 以下それについて御参考にならうかと思う事柄を、項を分けてお話し致します。

     (イ)遊びは気分である
 遊ぴは気分である。即ちお客様は気分を味わいにいらっしゃるのであります。そのお客様を面白おかしくご接待して、満点の気分にしてお帰りしすること。これが営業繁昌の秘訣であります。
 しからばいかにすれば、お客様のご気分を好くし、ご満足を願えるかといえぱ.これは非常にむずかしい。いつもきまったお客様のお相手をするのではなく、多数のお客様にお目にかかるのですから、一々お客様のご気質をのみこんで、そのお心持にそうようにしなけれぱならないのですから、全く難問題でありますが、まずどなたにもご気分よく感ぜられるのはすべてが早いことです。

心得 こころえ。理解していること。常に心がけていなければならないこと。技芸を身につけていること。たしなみ。

     (ロ) スピード時代
 世はスピード時代であるから、早いということが第一要件であると思います。下町からこの土地へ来るのに電車で3, 40分かかったものが、今では円タクで10分か15分で来るし、関西から特急で7、8時聞かかったのが、今日では飛行機で2時間で来るという時代です。
 料理屋なり待合なりへお客様がいらっしやる、二階へお上りになって、おすわりになるかならぬに煙草盆が出る、お茶が出る、ご酒が出る、お盃を取るか取らぬに芸妓が来るというように、トントン拍子に息もっかせぬように早くゆけぱ、お客様は必ずこの所まではご満足なさること請け合いです。
 私どもがカフェーへ遊びにいって見ますと、外にいい所は一つもないと思いますが、腰をかけると同時に美人がサービスする、これだけでお客がくるんだなという感じがいたします。かような訳で、どうしても早いことが必要であります。
 しかるに現在の芸妓衆はこの点はなはだ不熱心であるように思います。
 現に芸妓の来方がおそくていけないというお小言を、お客様からちょいちょい伺います。お出先からも始終苦情がきます。
 全くおそいです。新旧組合合併して検番を創設いたしました時、三業者の取引規定のなかに「芸妓はお座敷を受けて20分を過ぐるも出先に到着せざる場合は、取引を受くるも止むを得ざること」というのがあったために、当時は非常に芸妓のお座敷へ行き方が早かったのです。もっとも現在でもその規定は現存していますが、なれっこになったせいか、ずるずるにおそくなってしまったようです。
 ひどいのになると、お座敷を受けて一時間も一時間半も過ぎてお出先から催促が来る、芸妓家へいくと、お詣りに行って、もう帰って来ると思ふのですが…。一寸そこまで用達しにいったのですが、もう帰ってくると思いますが…。
 おともだちと出かけたが、行先がわからない。
 かみゆいへいって、帰りにコーヒーを飲みによったとか。
 おけいこ帰りに、みつ豆をたべに行っていたとか。
いろいろの場合がある。こんな場合は、本人のわるいことはもちろんですが、家の方の所置もよくない。初めからわかっていることなのですから。受ける時検番へ断るなり、すぐお出先へことわるなりしなければなりません。

円タク 一円均一の料金で大都市を走ったタクシー。東京を走ったのは大正15年。
茶屋 待合茶屋。男女の密会や、芸妓と客との遊興のための席を貸す茶屋。
喫煙盆 喫煙具一式をのせる容器の総称。当初の形が円か楕円形の盆だった。
カフェー 大正・昭和初期で、女給のいる洋風の酒場。
出先 芸者の呼ばれる料亭や待合など。おでさき
検番 芸者と出先(待合・料理屋など)との連絡事務所。
三業者 料理屋・芸者置屋・待合の三種の業者組合。
かみゆい 髪結。髪を結う職人。
所置 処置。その場や状況に応じた判断をし手だてを講じて、物事に始末をつけること。

     (ハ)お座敷へ出るに就て
 お座敷へ出て、お客様にお目にかかる場合、第一印象が一番大切であります。唄にある「一目見た時好きになったのよ」という、あの一目みて好きになってもらうのでなけれぱならない。最初の一目で好い感じをあたえ得なければ、あとで認めていただけるとしても、それは非常な努力と日時を要するし、場合によっては、そのお客様には永久に好きになっていだたくチャンスをつかみ得ないかもしれない。かくの如く、第一印象は大切であるのです。よく心して初めお座敷へ入った時から、態度・言語・動作に注意して、緊張してお座敷を勤めることが肝要であります。
     (ニ)お客の研究
 お客榛の研究と申しますと、何だか失礼のようですが、是非とも必要があるのです。
 多数のお客様の中には、陽気な方もあれぱ、陰気な方もあり、ご身分・ご職業等により種々ご気質の違うものです。またお客様もお遊びばかりでなく、真面目なご相談事などでお出でになる場合もあるのですから、その場面を見分け、お客様のお気持をのみこんで、しかるべくお気に召すようにおもてなしして、ご愉快にお帰しするのが、芸妓衆の一番大切な仕事なのです。
     (ホ)お客様との対話について
 お座敷でお客様とお話をするには、お客様の調子を読まなければならないのです。お客様の話の調子というのは、お客様によって何かのお話を得意になって、お話になる方と、ご自分はあまりお話しにならす.芸妓にしゃべらして、それをお聞きになって、喜んでいらっしゃる方とがあります。
 この得意になってお話しになる方の場合は、上手に相槌を打って、ますます話をはずませるようにすること。ただしこの場合、あまりぎょうぎょうしいおどろき方や、感心の仕方は、いい感じを与えません。そのお話の内容により、真におどろいたよう、感心したよう、面白おかしいよう、共鳴するよう、すべてわざとらしくないようにしなけれぱなりません。
「早慶戦、まア大変な人気ね」
と話し出してみて、お客様が
「お前、どっちが好きだい」
なんて乗り出していらしゃったら、その話を進行すること。
「なに? 野球のことか」
なんて、気のなさそうなご返事をなすっていらっしゃるのに、
「私、早稲田に勝たせたいわ」
なんて話をすすめるから、
「フン」
なんてお客様は、ますます面白くない。鼻の先でお返事をなさることになります。
 また早慶戦といつたような両方対立のような場合には、初めからこのお客様が、早稲田派か慶応派かということを、よく見極めなけれぱならないわけです。
 総じてお客様は、「ヒラバ」の上手な、調子のいい、話上手なねえさんの面白い話を聴くよりも、聞き上手な――相槌をうまくうって話を引き出す――ひとを前に、得意になって喋っている方が、より以上に愉快さを感ずるものです。
     (へ)慎まねばならぬこと
 お座敷において、芸妓同志で、お客様に関係のない、勝手な話をすること、中にも役者や、芸人の話、他のお客様の噂、おかぼれ、、、、の話を暗号でするなどに至っては、最悪のものであります。断然やめて頂きたい。
 なぜいけないかということについて、一言付け加えておきます。こういう場合におけるお客様、否、男の心理というものは、おかしなもので、自分に何の関係もなく、また何の野心も持っていない相手であっても、他の男性をほめるということは、反対に自分が侮辱されたような変な感じがするものです。つまり軽いやきもち、、、、なのです。
 お客様のお相手をするに当り、たとえば、よっぱらっても粗暴な行為をしたり、乱暴な言葉使いをしたりすることは、最も醜態です。お客様に親しむのはいいが、狂れてはいけない。どこまでも、自分は商売でよんでいただいているのであるということを忘れてはいけません。すなわち失礼な言行のないよう心掛けねばなりません。

肝要 非常に大切なこと。最も必要なこと。
ぎょうぎょうしい 仰仰しい。おおげさである。
ヒラバ 平場。芸妓などが客と床を共にしない座敷だけの勤め。
おかぼれ 他人の恋人や親しい交際もない相手をわきから恋すること。

 さらに「お客様との対話について」「慎まねばならぬこと」「心得て置かねばならぬこと」が続きます。

升本総本店(写真)

文学と神楽坂

 升本ますもと総本店は、江戸時代から創業の酒類問屋です。かつて揚場町にありました。昭和47年(1972年)、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、店舗の写真を撮っています。

05-14-39-2 飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」では(ただし写真の前方にあるゴミはトリミング しています。ここに正しい写真があります)

「神楽河岸」昭和46年4月。加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

 昭和60年(1985年)、民間再開発があり、以前に揚場町だった場所は「飯田橋升本ビル」になります。やはり田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」です。

05-14-41-1 升本酒店ビル 1985-04-16

 昭和57年(1982年)、升本総本店は揚場町から津久戸町に移転します。

2009/11 津久戸町にあった升本総本店 Google

 平成24年(2012)、都道(放射第25号線)の建設のため、津久戸町から御殿坂に登る途中の、筑土八幡町5−10にまた移転します。

現在の筑土八幡町の升本総本店。Google

2020/02 現在。升本総本店だった場所

 なお、 昭和46年の升本総本店の地図と、平成22年の飯田橋升本ビルの地図を書いておきます。

昭和46年 升本総本店

2010年 飯田橋升本ビル

学校帰り、筑土八幡神社で遊ぶ。升本総本店は氏子の筆頭。新宿歴史博物館 ID7448の一部  昭和41年9月

大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由

文学と神楽坂

大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由『別冊サライ』鮨特集で、石毛直道氏が書いた「大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由」(小学館、1998年)です。なお、『別冊サライ』の氏の説明は
「いしげ・なおみち。昭和12年千葉県生まれ。高校時代までは関東で過ごすも、京都大学進学以降は関西で暮らす。甲南大学助教授を経て国立民族学博物館の創設とともに移り現在は館長。著書に『魚醤とナレズシの研究』『文化麺類学ことはじめ』などがあり、食文化に関する研究が長く「鉄の胃袋」とあだ名される」

――大阪の箱ずしは、なぜ握りずしのように全国に広まらなかったのか解明していただきたいのです。
石毛 う~ん、難題ですね(笑)。(中略)

箱ずしは二寸六分の懐石料理
石毛 酢飯を使ったすしは大阪にも伝わります。そして早くから商売として発展していく。これが箱ずしです。
 江戸はどうかと言うと18世紀の後半に「最近は江戸では箱ずしが廃れた」と書かれている文献がある。江戸で握りずしが生まれるのが19世紀の初頭です。つまり握りずし以前は江戸でも箱ずしで商売する人がいたわけです。

――しかし大坂には箱ずしが残って江戸には握りが広まる。これはどうしてでしょう。
石毛 握りずしも箱ずしも、外食産業として誕生の年代はそんなに大差はないかも知れませんが、店が相手にした客となるとまったく違います。大坂は当時は商業の町で豪商などもいて、すし屋はお金持ちも顧客にした。ところが江戸の町にいたのは大半は庶民で、その庶民を相手にすしの屋台ができた。
 つまり、外食産業が成り立つ基礎が大坂と江戸では全然違うんです。大坂で箱ずしは持ち帰り用の常店で売られ、多少高くても売れました。箱ずしは「二寸六分の懐石料理」だと称した人がいるほど美しく洗練されていった。確かに海老の赤と卵の黄色を重ね合わせた姿は大変きれいです。また大坂には北前船によって北海道の物産がもたらされ、それを料理に使い出す。典型は昆布です。昆布からとっただしを酢飯にからめるという手の込んだ芸当も箱ずしには加わっていきました。
 ところが江戸前の握りは言ってみればインスタント食品です。江戸ではこうした手軽なすしの方が受けた。なぜなら、その頃の江戸は参勤交代で諸国から江戸勤めになった下級武士はもとより、職人の丁稚、商人の番頭、丁稚などの多くは地方出身者で、ほとんどが独身でした。こうした人が女房も母親もいないので仕方なく食べるものとして高級料亭以外の江戸の外食産業は成り立っていきました。
 握りずしが出てくる時代の江戸の人口比率を見ると、男女のバランスが悪いんです。女性に比べ男性が圧倒的に多い。そのため江戸では飲食店が大発展します。おそらく飲食店の数では当時、世界一だったでしょう。それでも飲食店を支えていたのは収入の低い大衆でしたから、店に座ればすぐに食べられて安いものの方が江戸では主流になりました。
二寸六分 約10cmでした。

箱ずしは明治になると一挙に衰退
――食文化の違いは捕れる食材の違いや味そのものに対する好みもさることながら、庶民の懐具合と大いに関係してくるわけですね。
石毛 ええ、そうです。これは箱ずしと握りずしの違いにも表れていますが、関西の食文化は概して料理人がいかに手間を掛けたかという料理の技術を重んじますね。
 反対に東京はネタのよさで勝負。よけいな手を加えたらいけない。悪く言えばネタに全部頼る。こうした食文化の違いも、それを支えた庶民の懐具合が大いに影響しています。
 すしの違いでさらに言うなら、大阪の箱ずしにしろ、京都の鯖ずしにしろ、滋賀県の鮒ずしにしろ、すしは大概は祭りなどの行事と結びついています。京都の鯖ずしなどは、祭りの際に家庭で作って親類知人に配りました。かつてのすしはこのように日常の食べ物ではなくハレの日の料理だったわけです。
晴れの日 多くの人から祝福される儀式などを行う日。人生の記念すべき日。ハレとは日常的な普通の生活や状況を指すケ(褻)に対して,あらたまった特別な状態,公的なあるいはめでたい状況を指す言葉。

箱ずし

ところが握りずしは行事には結びつかず、保存もきかない。そんなこととは関係なく握りはスナック食品として発展していきました。世界のすしの中では例外的なものだと言えるでしょう。
――その土地固有の行事から離れたことで、逆に全国に広まりやすかったのでしょうか。
石毛 それもあると思います。しかし、握りずしがどうして全国区になったのか、大阪の箱ずしはどうして全国に広まらなかったのかを考えた時、そこには東京重視の政府の政策がからんできますね。飲食店の数が握りずしの方が群を抜いていたところに、明治になって江戸が東京に変わり日本の首府になった。これが決定打です。明治になると新政府は政治の中心である東京の文化を「国民文化」にしようとします。言葉も東京の方言が標準語と呼ばれて、あたかも標準語以外は日本語にあらずのような扱われ方をします。日本人の間に根強く残る単一民族思想なども同じですが、国威を発揚し富国強兵を目指していくために国民文化は意図的に作られたものです。

スナック食品 手軽に早く食べられる食事のことをスナックといい,この目的に合った食品をスナック食品と呼ぶ。

 また第二次大戦前後になると政府は食糧統制を敷き、外食産業での白米の売買を禁止し、それによって飲食店が全体に廃れます。そんな敗戦直後に疲弊しがちな庶民に対してお目こぽしのような政策を施す。白米一合を持ってと、なにがしかの加工賃で巻き五本と握り五個を作ってくれるという、いわゆる委託加工制度です。この政策にしたってすしといえば握り、という東京の文化を中心にしたものです。結局この制度は飲食店の衰退の時世にあって握りずしだけを衰退させずに残していきました。(中略)
 本物の箱ずしは、握りずしと違ってぽんぽん食べられません。断面を見た時にご飯の真ん中に一層あって、そこには椎茸の煮たものだとか、かんぴょうの煮たものだとかを挟んであります。そのうえご飯が圧縮されていますから、箱ずしは少し食べただけでお腹が一杯になってしまう。懐石料理の中に二切れぐらい入っていると量もちょうどいいですし、表面の彩りも断面もなかなかきれいなものです。それから握りずしは醤油を付けないと食べられませんが、箱ずしは醤油がなくても食べられる。もともと発展の仕方がまったく違いますからね。

人間直木の美醜|鷲尾雨工

鷲尾雨工

文学と神楽坂

 直木三十五氏は、文壇ゴシップ欄で毒舌を振るい、『南国太平記』で流行作家になった人です。しかし、かつての同僚鷲尾雨工氏の見方は違っており、「人間直木の美醜」(中央公論。昭和9年4月号)では……

 牛込矢来江戸屋というおでん屋をやった時分から、僕と直木関係を知っていた人々は、なぜ直木を訪ねないのか、と訝しんだ。けれども僕が飢える場合、こちらから憐みを乞うまでもなく、先方からやって来て応分なことをしてくれるのが、我々の倫理観念からは当然すぎる事柄だと、僕は考えた。そんなわけで、彼が「南国太平記」を書き出すまでは、どんなに困っても、行かなかった。「南国太平記」の筆は冴えていたし(待て、彼の作品には触れるな、触れたら長くなる)、こちらは時々自殺という観念が頭に去来する情態だったので、僕は食べ物も喉へ素直に通らないほど苦慮した末ついに、木挽町の、直木・香西菊池と三枚の標札の懸つた豪奢な三階造りの待合風な建物を訪れた。昔に変わらぬボソボソとした彼の声が、二階から聞こえていた。話相手は、新聞記者らしかった。
 昔はとにかく、これだけ偉くなっているのだから、もっと早く訪ねなかった僕が悪かったかしら? 溺るる者は藁にも槌るという。僕はなんとも浅間しい情緒に支配されながら、玄関で待っていると、今は忙しいから会えないという御挨拶だ。来ている新聞記者は二、三名らしく、どこの天ぷ羅がどうだとかいう大声が、ちょうどその時、僕の鼓膜をあやしく顫動させた。
 だが渇き切った僕は、盗泉の水でもいい飲みたかった。そこで家へ帰ると、長い手紙を書いて、窮状をつぶさに訴え、若干の助けを依頼した。そして数日後に訪ねると、訪ねる時は電話をかけてから来い、という返辞だ。
 止んぬるかな、直木は、本当に忘恩の徒であった。
 けれども必要は無慈悲にも三度び木挽町を訪わせた。勿論、電話で都合を聞いて行ったのだ。だが、行って見ると、二時間後に来い。僕はその二時間に、早法新人戦のラヂオを、築地河岸の汚いミルクホールで、実にうら悲しく聞いたことを今でも生々しく憶えている。僕がそのあとで、貰った金は、30円であった。

関係 直木氏は鷲尾氏の最も親しい友人でした。しかし、直木氏の金銭的無軌道があり、仲違いし、生涯うち解けることはなかったようです。
応分なこと 身分や能力にふさわしいこと。その程度。分相応ぶんそうおう
当然すぎる事柄 直木氏のほうが「悪いことをした。金銭を貰ってほしい」と言ってくるのが普通だったと、鷲尾氏は思っていたようです。
南国太平記 直木三十五氏の長編小説。1930年(昭和5)6月から翌年10月にかけて『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』に連載。
木挽町 こびきちょう、東京都中央区銀座の東部の地名。現在、歌舞伎座がある。
香西 香西織恵。こうざいおりえ。直木三十五の生涯の愛人。
建物 昭和4年10月、文藝春秋社は京橋区木挽町八丁目一番に「文藝春秋社倶樂部」を設置。三階建ての日本家屋で、社友、直木三十五の執筆所を兼ねていて、直木三十五は離婚後、この「文藝春秋社倶樂部」に住み続けます。
溺るる者は藁にも槌る 溺れる者は藁をも掴む。おぼれるものはわらをもつかむ。危急に際しては、頼りにならないものにもすがろうとする。
盗泉の水 「渇しても盗泉の水を飲まず」とは「いくら困窮していても、不義・不正にはいささかたりとも関わるべきではない」。「盗泉の水」は「すこし不正があってもしょうがない」でしょうか。
止んぬるかな 已んぬる哉。もうおしまいだ。今となっては、どうにもしようがない。
忘恩の徒 ぼうおんのと。世話になった人に感謝することもなく、その恩を踏みにじるような人
築地河岸 つきじがし。築地の海軍省所有地を借り受け、臨時の魚市場を開設し、築地河岸から築地市場になりました。
ミルクホール 牛乳、パン、ケーキ類などを出す、手軽な飲食店。明治後期に、新聞・雑誌を自由に閲覧し、これから昭和初期にかけて流行した。やがて喫茶店やカフェに取って代わられた。
30円 昭和元年は、公務員初任給75円、ビール大瓶42銭、コーヒー10銭、牛乳1本8銭、アイスクリーム1個20銭、映画館入場料30銭、新聞代1ケ月1円。企業物価指数では昭和2年の1円は令和元年の636円。したがって、昭和初年の30円は約2万円です。

神楽坂1丁目(写真)昭和20年代後半 ID 21, 23

文学と神楽坂

 昭和20年代後半の神楽坂1丁目で写真3枚を見ていきます。どれも新宿歴史博物館にあり、牛込橋からの写真です。なお、地元の方に多大な助言をもらいました。この半分以上は地元の方の言葉です。

[A]新宿区史。新宿区役所。昭和29年

新宿区史・昭和30年

[A]新宿區史(昭和30年)

 最初の[A]の1枚は、「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)に出ていますが、何年に撮影したのかはこれではわかりません。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年です。この写真は「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。一応、これは昭和29年ごろだとしましょう。ちなみにメトロ映画は現在はドラッグストア「マツモトキヨシ」にかわっています。なお、街灯は鈴蘭灯です。


[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]については、神楽坂の左側の大きな「神楽坂」の標識ポールがあります。街灯は上にひとつ、下に2つの電球があり、鈴蘭灯です。メトロ映画の「肉体の冠」の日本の公開は昭和28年。併映はおそらく「奇襲作戦命令」で、日本の公開は昭和26年。これから昭和28年には鈴蘭灯があったと考えます。右端に電柱看板があり、拡大しないとわかりませんが、5丁目の「リード商会」の広告があります。リード商会の場所は道路拡幅のため多くはなくなり、一部はセブンイレブンになりました。神楽坂の右側の壁に「茶」と書いてあり、これは昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では「東京圓茶」(新字体では「東京円茶」)になっています(現在は不二家)。現在のモスバーガーの場所には「清水衣裳店」(現在の千代田区の「清水衣裳店」)がでています。なお、IDは新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID(identification、証明番号)です。


[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]同じく神楽坂入口から坂上を見ています。標識ポールは同じですが、信号機はありません。おそらく[B]よりさらに昔の時代でしょう。ポールの下に『塵に咲く花』の広告が見えます。昭和26年11月、日本公開です。右側の電柱広告「ナカノ」は坂上の中野ボタン店(現・ブロンクス)。この広告の下に電球ひとつの簡素な街灯が見えます。左側の看板は「あなたは/右側を/通って下さい」「この道路は歩行者の/模範右側交通路/であ〇〇〇/交通事故を〇〇〇/皆様の御協力を願います」

クーデンホーフ光子

文学と神楽坂

 実はクーデンホーフ光子という名前はよく知っていました。19世紀後半にボヘミア(チェコの西部)の貴族と結婚した人です。でも、欧州に関わる逸話はあまり伝わらないし、 この事件とあの事件はどちらが先なのかともよくわからない。 随想や話はたくさん読みました。でも、結局わからない。どうしてなんだろう。1つ、理由がありました。年表がなかったのです。そのため、95%は知ってはいるけど、100%ではなく、書けない、という中途半端な状態でした。
 新宿区の「居住の地」でもいったんボヘミアに出て行くと、それからはわからない。
 でも、結局、年表はありました。なるほどそうだったんだと判明するものもありました
。年表は、折井美耶子と新宿女性史研究会編の「新宿 歴史に生きた女性100人」(ドメス出版、2005年)に出ていました。以下はその「女性100人」と年表です。

ヨーロッパ貴族と結婚した日本女性
クーデンホーフ光子(くーでんほーふ・みつこ)
 クーデンホーフ光子は、ヨーロッパ貴族に見初められ正式に結婚した初めての日本女性である。また二男リヒアルトが構想した「汎ヨーロッパ」思想とその運動が、今日のEU統合に発展したことから「欧州連盟案の母」とも呼ばれた。
 光子は、佐賀県出身の商人で骨董屋と油屋を営む父青山喜八と母津弥つやの三女みつとして、1874(明治7)年、牛込区牛込納戸町26番地に生まれた。当時の裕福な商家の町娘がそうであったように光子も稽古事を広く習得していたが、年ごろになると芝に和風の高級社交場として開業した紅葉館で働くようになり、三味線、琴、茶の湯、和歌、絵画などの素養もここで身につけたと思われる。

汎ヨーロッパ思想 汎ヨーロッパ主義。汎欧州主義。Pan-Europeanism。欧州の平和や統合を主張する思想や運動。欧州全体を一体的に捉え、1つに統合し、一体性を高める思想
EU European Union。欧州連合。外交・安全保障政策の共通化と通貨統合の実現を目的とする統合体。27か国が加盟。
牛込区牛込納戸町26番地 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)の明治20年では赤い3角形です。このなかの公園に「クーデンホーフ光子 居住の地」の史跡があります。

明治20年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「5000分1東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

 この下図を見ると。26番地には2軒か1軒しかありません。おそらく26番地は1軒で、巨大な青山家だけあるのでしょう。ちなみに、ハンガリー公使館は青い四角です。
紅葉館 芝区芝公園20号地にあった会員制の高級料亭。1881年に開設、1945年3月の東京大空襲で焼失、跡地には東京タワーが立っている

 92年2月、オーストリア・ハンガリー帝国代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵が日本に赴任した。当時ハンガリー公使館は牛込納戸町28番地にあったことから、おそらく伯爵が近くにあった光子の父親の店を訪れたのが二人の出会いになったと思われる。また納戸町の坂で落馬した伯爵を光子が助けたというエピソードもある。光子は背が高く群をぬいた美少女であったようで、二人はまもなく結婚した。光子17歳、ハインリッヒ32歳であった。
 クーデンホーフ・カレルギー家は、ヨーロッパを通じての旧家であり、ハプスブルク王家にもっとも近い名家である。夫は父の跡を継いで外交官の道を歩み、18ヵ国語を操り、政治、外交にも優れた才能に恵まれていた。二人の結婚は当然両家の猛反対にあった。

92年2月 明治25年です。
牛込納戸町28番地 青い三角形です。
納戸町の坂 中根坂でしょう。
エピソード シュミット村眞寿美氏は「ミツコと七人の子供たち」(講談社、2001年)で…
 次男のリヒアルトは、「私たちの両親は、自分たちの出会いについての話を、全然してくれなかった。そこで私としては、私の両親や友人や、同時代の人々について詳しい木村毅の言葉を借りることにする」(『美の国』)として、有名な「落馬事件」に言及している。……凍てつく牛込の道で落馬した異国の青年を助けて看病した勇敢な美少女が光子で、これをきっかけに二人は愛し合うようになった……という伝説である。
 その木村毅は、「……出会いについては、一つの挿話が語られている」と前置きして、この出来過ぎた話を、事実だとは断言しないまでも、異人に対しても躊躇しなかったのは、紅葉館時代に受けた訓練のたまものと光子をほめて、まとめている。ほめられるような話だったら、なぜ光子自身が手記に書き残さず、子供たちにも語らなかったのだろう。
 木村毅も執筆している「国際時評」の同時代人吉岡義二などは、
「ときは今をさかのぽる明治23年の正月のこと、松飾りも凍り付くばかりの寒気の問屋町の朝まだき、騎馬の蹄の音たかく通りかかったのは、見るからに気品ある若い異国の貴公子、ある店先で馬は何に驚いたか突然跳ね上がったとたんに、氷に蹄をすべらせて人馬もろとも路上に横倒しになった。人々は傍観するまま、そこへ店舗の奥から、みめ麗しい十七、八の乙女がかけ寄って、われを忘れて介抱し……」
 と、まことしやかに書いている。
ハプスブルク王家 オーストリアの旧帝室で、中世以来ヨーロッパ随一の名家。スイス北部出自の貴族の家系で、家名は山城ハプスブルクHabsburg(たかの城の意)に由来する。

 結婚した翌年長男ハンス(光太郎)が生まれ、翌々年には二男リヒアルト(栄次郎)が生まれたが、戸籍簿には私生子として記載されている。その後夫が父の急死を機に帰国することになり、ようやく結婚の許可も得て妻、子どもとして認められた。渡欧に先立ち皇居で皇后から「日本人としての誇りを忘れないように」との言葉と象牙製の立派な扇が贈られ、これが光子の一生の支えになったという。
 96年1月、光子は牛込生まれの長男、二男とともに夫の故郷ロンスペルクヘ出発した。夫はボヘミアとハンガリーにある伯爵家の広大な上地や莫大な財産を管理するために外交官を退官し大地主としての生活を営むことになった。針のむしろに座すような周囲の目が厳しいなかで、光子は語学を始め立居振る舞いなど完全にヨーロッパ流に再教育され、七人の子どもの母となった。
 1906年、夫ハインリッヒが心筋梗塞のために46歳で急逝した。遺言状による膨大な遺産相続、子女教育の責任者という立場が光子を一変させ、優しく忍耐強かった光子は厳格で専制的にすらなったという。光子は子どもの教育のためにウィーンの宮殿近くに移住し、亡夫の精神を継いで子どもたちにヨーロッパ人としての最高の教育を受けさせる一方、自分はウィーン社交界の花として人々を魅了した。香水「ミツコ」はこうした光子をイメージして名づけられた。7人の子どもたちはみな多方面に活躍するが、とくに二男のリヒアルトは23年に『パン・ヨーロッパ』を出版、ナチスに命を狙われながらも欧州統合運動に奔走した。
 光子は、病と孤独のなかで再び日本の地を踏むことなくウィーン郊外で67歳の生涯を終えた。(藤目幸子)

ロンスペルク Ronsperk。西ボヘミア(現チェコ共和国)のロンスペルク村。ドイツ国境に近いこの小さな町は、チェコ語で正式名称を「ポビェジョヴィツェ」という。

Ronsperk

BS日テレの「大人のヨーロッパ街歩き」から

香水「ミツコ」 ゲラン社の香水「Mitsouko」はクーデンホーフ光子に由来するものではなく、1909年に発行されたクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』に登場するミツコという。しかし、ジャック・ゲランが1919年にこの香水を製作した際、クーデンホーフ光子の名前を知らなかったということはなかろうと、ゲラン社フレグランス・エキスパートの社員が自社のコラムに記述しています。

* クーデンホーフ光子居住の地

 この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子[青山みつ](1874~1941)が、明治29年(1896)に渡欧するまで住んでいた。
 光子は、明治七年(1874)骨董商と油商を営んでいた青山喜八と妻つねの三女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと知り合い、明治25年(1892)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。
 渡欧までの間、光子と共にこの地で暮らした次男のリヒャルト[栄次郎](1894~1972)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」と呼ばれている。

年日年齢出来事
1874(明治7年)7.160歳東京市牛込区牛込納戸町で、青山喜八と津弥の三女として生まれる。
1881(M14)7歳 高級社交場である紅葉館が東京芝に開業。光子、一時働く
1891(M24)16歳紅葉館退職。光子、家業の骨董屋を手伝う
1892.2(M25)17歳ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵、オーストリア・ハンガリー帝国駐日代理公使として来日。3月ハインリッヒと光子結婚。ハインリッヒ32歳、光子17歳
1893.9(M26)19歳長男ハンス東京で生まれる。ハインリッヒの父フランツ・カール死去
1894.11(M27)20歳二男リヒアルト東京で生まれる
1895(M28)21歳教会で結婚式を挙げる。3月正式入籍。7月カトリックの洗礼(マリア・テクラ)を受ける
1896.1(M29)21歳宮中参賀で皇后に拝謁。夫の領地ロンスペルクヘ。三男ゲロルフ出産
1898(M31)24歳長女エリザベート出産
1900(M33)26歳 二女オルガ出産
1901(M34)27歳三女イダ出産
1903(M36)29歳四女カール出産。光子、喀血し肺結核と診断
1904(M37)30歳南チロルの結核療養所に入る
1905(M38)31歳修復の終わったロンスペルク城に戻る
1906.5(M37)31歳ハインリッヒ急逝、46歳。遺言により包括相続人、および子どもたちの後見入になる
1908(M41)34歳ウィーンに転居。社交界で活躍
1914(T3)40歳第一次世界大戦勃発。ストッカウの城に戻る仮設病院で娘だちと奉仕活動。長男、三男は戦場へ。二男リヒアルト、女優イダ・ロ-ランと結婚
1920(T9)前後46歳二女オルガを伴ってウィーン郊外のメードリンクへ移住。日本の要人が頻繁に光子を訪ねる
1923.10(T10)49歳リヒアルト著『パン・ヨーロッパ』出版
1924(T11) 秋50歳脳卒中の発作で右腕が麻庫、右足弱る、以後、娘オルガが代筆
1926(T15)1052歳第1回パン・ヨーロッパ会議開催。リヒアルト、パン・ヨーロッパ連盟の会長に選出
1941(S16)8.2867歳2度目の脳卒中発作にて死去。ウィーンのカレルギー家の墓地に葬られる