寺社」カテゴリーアーカイブ

善國寺(明治時代、昭和初期)

 明治時代の善國寺です。最初は新撰東京名所図会第41編(明治37年)の「善国寺毘沙門堂縁日の図」です。

新撰東京名所図会第41編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

 左から右に見ていきましょう。まず見えるものは縁起のいい餅花もちばなで、ヤナギやミズキなどの木の枝に、紅白の餅や団子を丸めています。鯛や小判、賽、キツネ、「当たり矢」「おたふく」「ひょっとこ」の飾りが下がり、行灯は「商人中」でしょうか。賽銭箱の前で女性2人が拝んでいます。
 その次にのぼりがあり、「奉納 明治三十五年 開運 壬寅 正月」とあり、右側の「開運 毘沙門尊天」と同じものでしよう。
 善国寺は池上本門寺の末寺に当たります。「牛込千部講」というのは法華経8巻を1000回読んで、ご先祖の精霊を供養すること。僧侶100人が2回ずつ読んで200回、これを5日間行って1000回。
 参拝客の中央、メガネの男性がひめ小判守を大事そうに持っています。その奥にはおそらくだてがさがあり、そこで何かを買っている人もいます。右側の屋台はおもちゃ屋でしょう。のぼり鬼などの面、小さな獅子舞や三味線を売っています。その手前の毛氈もうせんの台でも、手ぬぐいをかぶった男性が七福神の人形やおもちゃを柿を持った子供に説明しています。
 これらの露店の奥、本堂前には現在も残る狛虎1匹。右の入母屋の瓦屋根はお守りや縁起物の販売所でしょうか。「神楽坂」の旗、中にも「兼子」「牛込」「名台○○」などの旗があります。
 右上で見切れているのは、たくさんの小さな幟をロープか竹でつなげたものです。「御華◯◯」「牛込芸妓中」「業平吾妻の寿し」「ふくや 業平」「◯し中」「會」「牛込」「◯中形」などです。

 昭和時代になると、次の写真も残っています。

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

善国寺(写真)昭和44年頃 ID 14126-28

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126~28は、善国寺の写真を撮ったものです。撮影の年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。
 この時期、善国寺には昭和45年 ID 8299-ID 8300昭和44年 ID 8271-ID 8272などがあり、これらを元として解説します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126 善国寺

 境内の隅から斜めに撮影しています。手前右側の四角い石はおそらく建物の基礎で、戦前にはこの場所には建物があり、東京名所絵図(明治37年)の挿絵には賽銭箱なども描かれています。その奥の建物は基礎がない仮設の小屋と思われ、商店街のセールの福引所などに使われました。
 T字に並んだ敷石は参道です。戦前のものと思われ、凹凸が目立ちます。左手間は毘沙門横丁側の門につながり、左側は本堂(毘沙門堂)に、右は正門に続いています。
 参道の向こうに四角い石があります。このあたりも戦前は建物があったので、礎石の一部かもしれません。左には屋外灯と旗の掲揚塔。さらに左は石虎で、土台に「奉」の一文字が掘られています。
 その奥の手すりは、写真には写っていない石造滑り台から降りてくる子どものための安全柵です。黒っぼい角柱は日よけの支柱で、その足元は砂場。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。いずれも区立毘沙門児童遊園の施設です。
 最も左奥の建物には「易占えきせん/毘沙門天/易断所」という看板がかかり、そこで易者が占っていました。
ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14127 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14128 善国寺

 ID 14127とID 14128は、いずれも北側の正門の外から本堂を見ています。左側にはベンチと、わずかに見えるくじ引き用の抽選器。その上には「餅花もちばな」を模した小さな正月向けの飾り。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習でした。軒下には提灯が並びます。
 中央の5列の敷石は参道。右は門柱で、大きく欠けているようにも見えます。いずれも戦前から残存したものでしょう、
 屋外灯、石虎、中央奥には本堂と鈴紐すずのお、賽銭箱には右書きで「奉納」と「神楽坂振興会」。石虎の右奥は、背もたれが独特なベンチでしょう。
 参拝者はコートを着ています、時期は年末で「陽差しから見ても、ID 8299と同時撮影でしょう。本堂は昭和46年に再建されるので、その建築前、おそらく昭和44年の年末でしょう」と地元の方。

善國寺。住宅地図。1970年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

新規街灯と古い街灯

文学と神楽坂

 地元の方が「新規街灯と古い街灯」という記事を書いてくれました。新規街灯といっても普通の街灯もありますが、ユニークな街灯もあるんです。

神楽坂通1-5丁目の街灯が2022年2月に更新されたことは、このブログの記事の通りです。しかし例外的に、古い街灯が残っている場所があります。

【1】神楽坂上交差点

神楽坂通りの最も角になる位置に、古い街灯が一本だけ残っています。ここは遠からず大久保通りの拡幅で道路になる場所なので、更新しても無駄になると考えたのでしょう。

神楽坂上 新旧の街灯

なお神楽坂通りの入り口(坂下)と出口(坂上)の街灯は、他とは違って高い位置に照明があります。また照明の下の横木(神楽坂の旗)がなく、代わりに丸いリング上の金物が上下にあります。これは左右の街灯の間に横断幕をはることを想定したものです。

神楽坂上街灯

大久保通りの拡幅がすめば、神楽坂の出口は高い街灯の場所まで後退し、角の店はコンビニになるのです。

【2】毘沙門天の境内灯

毘沙門天善国寺の本堂の前には、石虎と並んで一対の境内灯があります。この境内灯が、通りの古い街灯に置き換わっています。

毘沙門天境内と街灯2022

毘沙門天境内灯2022

時期は分かりません。ただ2021年6月のストリートビューでは別の境内灯(下図)が写っています。おそらく通りの街灯を取り外したものを再利用したのでしょう。

毘沙門天境内灯2021

善国寺はID 8271-8272では、街灯が円盤形になった後に旧式のスズラン灯を境内灯として使っています。この境内灯は気まぐれ本格派(1977年)(下図)や、ID 9909-9911ID 11481(1986年)では街灯と同じ円盤形に変わっていますが、この時は街灯も円盤形でした。必ずしも街灯を再利用するわけではなさそうです。

気まぐれ本格派 第13話(1977年)

8272b善国寺


ID 8271-8272 境内灯(12)は3つありますが、旧式の鈴蘭灯は中央の青い6角形です。

小学唱歌発祥の地

文学と神楽坂

 国友温太氏が書いた『新宿回り舞台』(1977年)の中に、田村虎蔵氏について簡単にまとめた文章があります。
 この『新宿回り舞台』は、新宿区の職員報に、昭和46年6月号から毎号読切りで連載した新宿区の歴史を記録したものです。52年3月号で70話となり、そこで一冊にまとめています。

田村虎蔵

田村虎蔵

    小学唱歌発祥の地(46年11月)
 田村虎蔵、という人をあなたはご存知だろうか。しかし、“ムカシームカシーウラシマハー、タースケタカーメニーツーレラレテー“という歌は覚えておいでのはずだ。
 田村氏は亡くなるまでのおよそ40年間、新宿区に居住した小学唱歌の作曲家である。
 明治の頃、文部省編さんの教科書で子どもたちは「気はれて風新柳の髪を梳り、氷消えては浪舊苔の髭を洗ふとかや」といった時代離れしたものを歌っていた。さらに日露戦争による軍歌の流行で乱暴な歌い方がはやった。
 こうした歌の改革をと、氏は「モシモシカメヨ」の納所辨次郎、「夏は来ぬ」の小山作之助らの作曲家と、美しい声、美しい歌を主唱した言文一致体唱歌の創始者である。
 鳥取県出身。同地の師範学校を卒業後上野の音楽学校に学び、明治38年東京高師(現教育大)の助教授となり、翌39年から筑土八幡町31番地に住む。

唱歌 歌をうたうこと。その歌曲・歌詞。小学校で歌を教える授業の教科目名。
田村虎蔵 たむらとらぞう。作曲家、音楽教育家。1895年(明治28年)東京音楽学校を卒業。東京高等師範学校で教鞭。言文一致唱歌を提唱。『花咲爺』『金太郎』『一寸法師』『浦島太郎』を作曲。生年は明治6年5月24日、没年は昭和18年11月7日。享年は満71歳。
気はれて… 平安前期の漢詩人、みやこの良香よしかが羅城門を通った時「気霽れては風、新柳の髪を梳る」(天気がおだやかに晴れて、風は萌え出た柳の枝を、髪をくしけずるようだ)と漢詩を詠むと、「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」(池の氷が消えて、波は古びた苔を、髭を洗うように打ち寄せる)と楼上から詩の続きを詠む声がした。(『十訓抄』より)
時代離れしたものを歌っていた 本当にこの詩を使っていたのかは不明
納所辨次郎 納所弁次郎。のうしょ べんじろう。作曲家。音楽教育家。生年は慶応元年9月24日(1865年11月12日)。没年は昭和11年(1936年)5月11日。享年は満71歳。
小山作之助 こやま さくのすけ。教育者・作曲家。生年は文久3年12月11日(1864年1月19日)。没年は昭和2年(1927年)6月27日)。享年は満63歳。
言文一致体唱歌 言文一致唱歌。日常に用いられる話し言葉の口語体を用いて歌うこと。20世紀に入り、言文一致唱歌を作成する運動が、田村虎蔵、納所弁次郎、石原和三郎らによってすすめられた。
師範学校 小学校,国民学校の教員を養成した旧制の学校。
音楽学校 東京音楽学校。1887年、下谷区につくった唯一の官立の音楽専門学校。
筑土八幡町31番地 場所はここ。

筑土八幡町31番地

牛込区全図。昭和5年。筑土八幡町31番地


 当時緑濃い、近くの筑土八幡神社の高台を愛し、境内を散歩しながら曲想を練ったという。
 「金太郎」「浦島太郎」を始め、指に足りない、の「一寸法師」、大きな袋を肩にかけ、の「大黒様」、裏の畑でポチがなく、の「花咲爺」等、今でも愛唱される数多くの名曲がここで誕生したのである。
 氏は作曲活動と共に教育音楽界の指導にも尽力した大御所で、教え子は数千人にのぼるという。昭和18年11月7日、71歳でこの世を去った。昭和40年12月、教え子たちにより、ゆかりの筑土八幡神社の一隅に顕彰碑が建てられ、碑面には“まさかりかついできんたろう”と歌詞と楽譜が刻まれている。
 ところで、あまりにも著名な曲とは対照的に田村氏の名があまり知られないのは、小学唱歌作曲家の宿命なのであろうか。

顕彰碑 功績を記した碑。紀功碑。
まさかり… 金太郎の譜1部分

金太郎

金太郎

行元寺の仇討ち

文学と神楽坂

 鈴木貞夫氏は「行天寺の仇討とその周辺」(歴史研究。平成9年9月)で、行天寺の仇討について詳しく論評しています。

   行天寺の仇討とその周辺

         鈴木貞夫

 天明三年(1783)十月八日午前十時頃、牛込神楽坂上の行元寺境内で敵討があり、冨吉は父の仇甚内を討ち取って本懐を遂げた。
 この事件について、『視聴草』は「牛込復讐」として、行元寺門前の町役人たちが奉行所に報告した文章を記載している。……


行元寺 ぎょうがんじ。神楽坂5丁目にあった寺。明治40年、品川区西五反田に移転。神楽坂アインスタワーの場所にあった。
本懐 ほんかい。もとから抱いている願い。本来の希望。本意。本望。
視聴草 みききぐさ。江戸後期の幕臣、宮崎成身が文政13年(1830)頃から30年以上にわたって、手もとにある資料や記録から作成した雑録。
         牛込行元寺内門前
          月行事 権九郎申口
一 今昼四時分.私店前にて年来二十七八歳罷り成り候百姓体の者、年来五十歳計りに相見え候体の男を親の敵と申し打懸り、脇差にて首を切り落し候に付き、右切り候者は留置き、名・住所相尋ね候へば、松平内匠知行下総国相馬郡早尾村百姓甚内と申す者の由申し聞き候に付き、五人組名主一同御訴え申し上げ候へば御検使下し置かれ候、御役知れず

松平内匠知行所      
下総国相馬郡早尾村   
百姓平蔵兄にて
当時小普請組門名孫市郎家来
戸ヶ崎熊太郎召使    
初太郎事


[現代語訳]今日、午前10時ごろ、私の店の前で、おおむね27,8歳になる百姓と思える者が、約50歳ぐらいの者に対して、親の敵だといってから、攻めかかり、脇差で首を切り落しました。この者を留置して、氏名、住所を尋ねましたところ、松平内匠が領知する地域で、下総国の相馬郡早尾村の百姓である甚内だと言いました。五人組名主は一同訴え、調べをしないと、わからないと考えます。

月行事 月々交替で組合などの事務を取る役
申口 もうしぐち。言い分。申し立て。幕府の訴訟制度で、当人が幼少や女子などの場合に当人に代わって問答した者。
昼四 ひるよつ。今の午前10時か午後10時ころ。よつどき。
年来 としごろ。ねんらい。見た目や声の調子などから大体の年齢。
打懸 うちかかる。武器などで相手に攻めかかる。攻撃する。
留置 りゅうち。家へ帰さないでとめておくこと。
内匠 たくみ。宮廷の工匠。
知行 幕府や藩が家臣に俸禄として土地を支給したこと。土地の支配権を与えること。
下総国相馬郡 しもうさのくにそうまこおり。明治11年の相馬郡は茨城県北相馬郡利根町、守谷市、我孫子市、取手市・常総市・龍ケ崎市・つくばみらい市・千葉県柏市の一部。図でA7。
早尾村 茨城県八千代町結城郡。
下総国
五人組 江戸時代に近隣の5家が1組に編成された連帯責任の組織。
検使 江戸時代、殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
御役 おやく。役目の丁寧語。義務としてやむをえずやる仕事。役として果たさねばならないつとめ。
知れず わからない。勤めは終わったのか、わからない。
小普請 こぶしん。江戸時代、禄高三千石未満の旗本・御家人のうち、非役の者の称。

 以下は冨吉の言い分です。

冨吉申口(中略)

四五日以前所用これ有り、牛込赤城辺へ罷り越し候節、甚内をふと見掛け候処、私幼年の時分見候儘聢と見極め候内見失い候に付き.いづれこの辺に罷り有るべく存じ奉り、今昼四時分、当町内罷り越し候処、甚内を見掛け侯に付き、元同村甚内にてはこれ無きやと相尋ね候へば、その方は何者の由申すに付き、庄蔵伜冨吉の旨申し聞け、甚内御当地の居所相尋ね候上御願い申し上ぐべきと存じ、甚内へ相尋ね侯へども一向聞き申さず、帯び候刀を抜き候て威し、逃げ去り申すべき見請け侯に付き、取逃がし候てはまたぞろ尋ね当たり候も計り難く、止むことをえず私も帯び仕り候脇差を抜き、親の敵覚えこれ有るべき旨申し、甚内と打合い、右刀を打落とし候へば、甚内内門前の方へ逃げ入り候に付き、引き続き追かけ候処、脇差を抜き候に付き、手首へ打掛け恢へば脇差を捨て、うつぶしに相成り候に付き、首打落とし、私懐中より親の戒名取出し、右へ手向け候節、町役人ども立合い相尋ね侯間、右始末申し聞け候儀に御座候、親庄蔵口論の節は内済に及び候儀故、いずれへも御訴え申し上げず候、私敵打御願い申し上げ候上にて打留め中すべき処、その儀これ無く、右申し上げ候通り甚内居所相糾し候上御願い申し上ぐべく存じ奉り候処、差掛かり止むことをえず、右体に及び候段、甚だ恐れ入り存じ奉り候、何分御慈悲願い上げ奉り候、右体達し候上は何様御咎を蒙り奉り候とも後悔は仕らず候


[意訳]四、五日前に、所用があって、牛込赤城周辺に行きましたが、思いがけずに甚内を見かけました。私は幼年の時に甚内を見ただけで、もっとはっきりと見極めようとしましたが、見失いました。どうせあの辺りにでてくると思っていましたが、今日の午前10時ごろになって、甚内はこの町内に顔を出し、見かけたので「昔、同じ村に住んでいた甚内ではないのか」と尋ね、「その方は誰だ」といわれ、「庄蔵の倅の冨吉だ。よく聞け。おまえの居所はどこか」と、甚内に尋ねましたが、一向に聞く耳を持たず、かわりに帯刀を抜き、おどして、逃げる体勢になったので、ここで逃がしてはまた同じだと思い、やむなく私も脇差を抜き「親の敵だ、覚えていろ」といい、甚内と打合い、甚内の刀を打ち落とし、内門の前の方へ逃げていきました。追いかけ、脇差を抜き、手首をたたくと、甚内は脇差を捨て、うつぶせになったので、首を取り、ふところから親の戒名を取り出し、甚内のほうに向けました。町役人も立ち会って聞いていましたが、このいきさつを言いきかせました。親の庄蔵は口論の時に内々で事をすませ、訴状もなく、私の敵は殺すべきだといいましたが、これ以上のことは何もなかったのです。甚内の居所をただしてほしいといっていました。この件があり、やむをえず、殺した次第です。はなはだ恐れ入りますが、なにぶんともお慈悲をお願いたく、どんな処罰でも受ける覚悟ですが、後悔はありません。

罷る まかる。「行く」の謙譲語。
聢と しかと。確と。しっかりと。確かであるさま。
 縦書きの文章でそれより前の部分。それより前に記してある事柄。
これ無きや これしかないのでは。
申し聞かせる もうしきかせる。よくわかるように教えさとす。説教するす。話して聞かせる。
帯びる 身に着ける。腰に下げたり巻いたりする。
威す おどす。脅す。嚇す。相手を恐れさせる。脅迫する。おどかす。
 てい。体。態。外から見た物事のありさま。ようす。
見請ける みうける。見受ける。見かける。目にとまる。見てとる。見て判断する。
 ぎ。道理。条理。
脇差 わきざし。近世、町民などが道中のときに護身用に腰に差した刀。武士の大刀と小刀の中間の長さ。道中差し。
 人名や人代名詞などに付いて「に関しては」の意味を表す。
打掛ける うちかける。相手に向けて銃砲などを発射する。
うつぶし 「うつぶせ」に同じ。顔を下向きにして横たわること。
懐中 かいちゅう。ふところやポケットの中。そこに入れること。
戒名 仏式で、死者に僧侶がつける名前。
始末 いきさつ。顛末てんまつ
内済 ないさい。表沙汰にしないで内々で事をすませること。
打留む うちとどむ。戦って殺す。しとめる。
糾す ただす。物事の理非を明らかにする。罪過の有無を追及する。
差掛かる さしかける。他のものを覆うように差し出す。
達す たっする。ある場所に行き至る。到達する。物事を成しとげる。達成する。
何様  なにさま。だれかわからないが、偉い人。高貴な人。
御咎 おとがめ。江戸幕府の刑罰体系上、手鎖、叱などの身分の動かない軽微な犯罪に対する刑。

毘沙門天(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 毘沙門天を360°全天球カメラで撮りました。時間は2019年4~6月まで。

 全体をみたもの。

筑土八幡神社|由緒①

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある、今や小さい小さい神社です。

 戦前の神社は昭和20年の戦災で焼失しました。

築土山に鎮座す。明治5年村社に列せられた。東京市公園課。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯。大正12年

 しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」を始め、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財となると巨大な空間です。

 まず筑土八幡神社の由緒について。天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した「江戸名所図会」では

築土八幡宮 津久土明神の宮居に竝ぶ地主の神にして、別當は天台宗松霊山無量寺と号す。祭神応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、以上三座なり。相傳ふ、嵯峨天皇の御宇、この地に一人の老翁住めり。常に八幡宮を尊信す。或時、當社の御神、この翁が夢中に託して、永くこの地に跡を垂れ給はんとなり、老翁奇異の思ひをなす、その翌日一松樹の上に、瑞雲ずいうん靉靆あいたいして、旌旗はたの如くなるを見る。(松霊山の号こゝにおこると云ふ。)時に一羽の白鳩來つて、同じ樹間このまにやどる。郷人さとびと翁が霊夢を聞きて、直ちにこの樹下きのもと瑞籬みずがきめぐららして、八幡宮とあがむ、遙の後慈覺大師東國遊化ゆうげの頃、傳教大師彫造し給ふ所の阿彌陀如来を本地佛とし、小祠を經始けいしす、其後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき、社壇を修飾し、此地の産土神とすといふ。(或ふみにいふ、當社の地は往古管領上杉時氏の壘[トリデ]の跡にして、時氏の弓箭ゆみやを以て八幡宮に勸請なし奉ると云々)


[現代語訳]津久戸明神と並ぶ土地の神で、別当は天台宗松霊山無量寺という。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱。伝承によると、嵯峨天皇の時代、この地に一人の老人がいた。常に八幡宮を信仰していたが、ある時、当社の神が老人の夢に現れ、永くこの地に自らの跡を残すように告げた。翌日、松の木の上に瑞雲がたなびき旗のように見えた。松霊山の山号は、これに由来する。この時 一羽の白鳩が飛んで来て松の枝にとまった。里人たちは老人の夢の話を聞き、松の木の下に玉垣をめぐらして八幡宮として祀った。その後、慈覚大師が東国遊歴の頃、伝教大師が彫った阿弥陀如来を本地仏として祠が建てられ、さらに文明年間(一四六九~八七)江戸城主上杉朝興が社殿を整え、この地の鎮守とした。一説に、この場所は昔、関東管領上杉時氏の城館があり、時氏の弓矢を八幡宮に奉納したという。(多くは新宿区歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』平成12年から)

御宇 ぎょう。帝王が天下を治めている期間。御代
瑞雲 ずいうん。めでたいことの起こるきざしとして現れる雲。祥雲
靉靆 あいたい。雲のたなびくさま。雲の厚いさま。
旌旗 せいき。はた。のぼり。軍旗
瑞籬 ずいり。神社などの玉垣。みずがき。

江戸名所圖會。東京都立図書館

「江戸名所図会」の上図では、筑土八幡は右、築土神社は左の神社です。現在は右側の筑土八幡しか残っていません。左側の築土神社は千代田区九段に移動し、かわって小玉製作所やカトリックの修道院などがやって来ました。

筑土八幡(右)と筑土神社(左)

筑土八幡(右)と筑土神社(左)。東京市編纂「東京案内」(裳華房、明治40年、1907年)

筑土八幡と筑土神社(現在).

筑土八幡とカトリックの修道院(現在).

新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

 筑土八幡神社は筑土八幡町七番地卽ち筑土山に鎮座す。表門は石柱にて銅製の注連をかけ。石磴中段に石の鳥居あり。筑土八幡神社と題する銅額を掲ぐ。享保十一年丙午建る所にして。從四位下行豊前守丹治眞人黑田直邦と銘せり。山上に株の松あり。千年松といふ株の遺蘖なりとて。ここにも注連を張りぬ。社殿は土蔵造りにて。格天井。拝殿には大なる弓とうつぼとを掛け右の方に獅子頭を安じ。筑土八幡神社の扁額を打たり。殿前の石獅には文化七庚午年八月吉日。石燈篭には寛政十二庚申八月十五日とあり。左には梅右には櫻を植へぬ。

[現代語訳]筑土八幡神社は筑土八幡町七番地、つまり周辺の高台を「筑土山」といったが、ここに鎮座している。表門は石柱で銅製のしめなわをかけ、石段の中段には石の鳥居がある。筑土八幡神社という銅額を掲げている。銘は、享保十一年、従四位下行豊前守の丹治眞人黒田直邦。山上に株の松があり、千年松という株がでている。ここにもしめなわを張っている。社殿は土蔵造りで、天井は格天井、拝殿には大なる弓と矢を掛け、右の方に獅子頭をおいた。筑土八幡神社の横長の額がある。殿前の石獅には1810年8月吉日、石燈篭には1800年8月15日と書いてある。左には梅、右には桜を植えた。

山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

石磴 せきとう。石段。石の多い坂道。
中段 今も下から48段目
享保十一年 1726年
黒田直邦 上野沼田藩主。寛文6年(1666年)生れ。享保8年(1723年)奏者番。同20年(1735年)3月歿。享年は70歳
遺蘖 蘖は切り株や木の根元から出る若芽。余蘖。
格天井 太い木を井桁いげた状に組み、上に板を張った天井
 えびら。矢を入れて右腰につける武具。うつぼ(靫・空穂・靭)は矢を携帯する筒状の容器。
扁額 門戸や室内に掲げる横に長い額
文化七庚午年 1810年
寛政十二庚申 1800年

 境内には由来も書いてあります。

      筑土八幡神社由来
 昔、嵯峨さが天皇の御代(今から約1200年前)に武蔵国豊嶋こおり牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁かいた。ある時、翁の夢の中に神霊しんれいが現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそはへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人さとびとに語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連しめなわをゆいまわして、その松をまつった。
 その後、伝教でんぎょう大師だいしがこの地を訪れた畤、この由を聞いて、神像を彫刻してほこらに祀った。その時に筑紫つくしの宇佐の宮土をもとめていしずえとしたので、筑土つくど八幡はちまん神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(今から約500年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土うぶすな神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約2200平方米あり、昭和20年の戦災で焼失した社殿も、昭和38年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
 御祭神
   応神天皇
   神功皇后
   仲哀天皇
 大祭
   九月十五日

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年に再建したものである。

川柳江戸名所図会⑥|至文堂

文学と神楽坂

 神楽坂にあった万昌院に忠臣蔵の敵役、吉良上野介の墓がありました。大正10年、この万昌院も、墓も、その他をひっくるめて中野区に移転しました。
 そのほかの問題も出てきます。「申」はどう読むのでしょうか。

万 昌 院

筑土八幡の裏に当る所にあった寺で、町名は筑土八幡町であった。久宝山万昌院という。この寺は曹洞宗であって、吉良家の菩提寺で、上野介の墓もこの寺にある。
 しかし上野介への反感から、一般からは寺もいっしよに敬遠された。
   人ごゝろ万昌院へ行人なし        (天五高2)
   万昌院へ参るのは茶人也         (五〇・33)
   吉良の寺あれかと指をさした      (五〇・31)
 元禄十五年十二月十五日早暁、首級義士泉岳寺へ持ち去られたあと、吉良家からは、万昌院へ亡骸が送られた。
   首の無とむら万昌院          (筥四・29)
   万昌院引導に首がなし         (藐・7)
   牛込とへわかれる首と胴         (五〇・36)
   万松と万昌へ行首と胴           (九五・8)
 泉岳寺は万松山という。もう一つ泉岳寺との句、
   牛込と牛町寺は敵味方           (九五・23)
 そこで吉良家の頼みにより、寺から時の寺社奉行へ願い出たので、ようやく首は吉良家へ戻り、改めて万昌院へ届けられ、十九日に至ってようやく埋葬することができたという。

万昌院

万昌院、久宝山万昌院 ばんしょういん。くほうざんばんしょういん。天正2年(1574年)に創建。大正10年、中野区に移転。右図は明治20年の地図。
吉良上野介 吉良上野介。きらこうずけのすけ。旧暦元禄14年3月14日、1701年4月21日、浅野あさの内匠たくみのかみが、江戸城松之大廊下で、吉良上野介に斬りかかった。徳川綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹。元禄15年12月14日、1703年1月30日、浅野家筆頭家老の大石おおいしくら蔵助のすけ以下47人が吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった。のちに赤穂義士47人の忠臣蔵になった。
菩提寺 ボダイジ。先祖代々の墓や位牌をおき、葬式や法事を行う寺。檀那だんなでら
曹洞宗 そうとうしゅう。鎌倉仏教の1つ。黙照禅で坐禅に徹する。
人ごころ 人間らしいやさしい心。愛情や誠意のある心。正気。人間としての正常な意識。
茶人 ちゃじん。茶の湯を好む人。茶道に通じた人。茶道の宗匠。普通の人と違った好みのある人。物好き。
 きり。かぎり。だけ。しか。だけしか。
首級 しゅきゅう。討ちとった敵の首。しるし。
義士 ぎし。「赤穂あこう義士」の略。人間としての正しい道を堅く守り行う男子。義人。
泉岳寺 せんがくじ。港区高輪にある曹洞宗の寺。開基は徳川家康。赤穂あこう義士の墓がある。
吊う とむらう。弔う。人の死を悲しみいたむ。弔問する。死者のために葬儀・供養・法要を営む。
引導 人々を導いて仏の道に入れること。正しい道に導くこと。葬儀の時、僧が死者に解脱の境に入るように法語を与えること。
 東京都港区の地名、旧区名。増上寺や東京タワーがある。
万松 泉岳寺の山号は万松ばんしようざん
牛町 うしまち。港区高輪の都営泉岳寺駅の周辺です。
時の その時の。
寺社奉行 江戸幕府の職名。寺社およびその領地の人々などを管理し、その訴訟を受理・裁決した。

その時の吉良家から万昌院への送り状があって、寺の宝物の由である、その文言は、

         覚
 一 紙包 二つ
  右の通り阿部飛弾守様被仰渡候由にて、泉岳寺より使僧を以て、遣無相違諸取申候御願故と忝無く奉存候弥々上野介死体の儀御所置可被下候為其如斯御座候、以上
     午十二月十六日
            吉良左兵衛内
              左右田孫兵衛
              斎藤  宮内
      万昌院御役僧中

というのであるが、私は原文を見ていないから、誤なきを保し難い。紙包二つというのは、一つは首級、一つは上野介の守袋であるという。

被仰渡候 おおせわたされそうろう。命じられる。
使僧 しそう。使者として遣わす僧。
無相違 そういなく
申候 まをしさふらふ。もうしそうろう。
御願 ごがん。貴人の祈願・立願を敬意をこめていう語。御祈願
忝無く かたじけなく。もったいない。恐れ多い。
奉存候 ぞんじそうろう
弥々 いよいよ。その時期がついにやって来たさま。とうとう。その時期が迫っているさま。
可被下候 くださるべくそうろう。くださるようお願いします。
為其 そのため
如斯 かくのごとく
保し ほし。「保する」は「たもつ。守る。保証する」
守袋 まもりぶくろ。守り札を入れて身につけておく袋。おまもり。

 こういう珍妙な事件を、川柳子が見逃そうはずはなく、いろいろにうたわれている。
   その首を寺から貰ふごうさらし      (五〇・41)
   ぼだひ所へからだと首が二度に来ル    (天二松2二77)
   首と胴万昌院へ二度に来る        (五〇・35)
   その首の請取状がたからもの       (明二桜2)
   首壱請取申什物            (傍五・18)
 ところがこの万昌院という寺は、大正十年に、当時芝三田功運町にあった同じく曹洞宗の功運寺と合併し、中野区上高田4-14-1へ移転した。昭和通りを西へ、環状六号線を横切り、右側、正見寺と派出所との間を右へ坂を下り、やや上りになった辺り、右側落合火葬場の裏手に当り、この辺りは寺が多い。
 本堂裏の墓地に、吉良家の一画があり、同じような形をした石塔が四基あり、その右端が上野介のであって、碑面には四行に
  元禄十五年十二月十五日
  霊性寺殿実山相公大居士
  従四位上左近衛少将吉良
  前上野介源義央朝臣
と刻まれている。
 なお50篇に忠臣蔵関係の句が多いのは、「角力十結満会忠臣蔵一式題 文日堂評」というのがあり、240句ばかり拾録されているからである。また95篇に多いのも「天川屋儀平追善の会 仮名手本忠臣蔵一題 附・弐度目の清書追会」として、500句ばかりが載せられているためである。

ごうさらし 業晒し、業曝し。前世の悪業の報いによって受けた恥を世間にさらすこと。
ぼだい所 菩提所。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達する所。死後の冥福めいふく
請取状 うけとりじょう。中世以降、ものの受領の証拠として差し出す文書。
 不明ですが、多分「そうろう」でしょう。岡田甫校正の「俳風柳多留」(三省堂、昭和51年)では「連語体ではないが、の文字は残した」と書いてあります。「連語」とは「二つ以上の単語が連結して、一つの単語と似たような働きをもつもの」だそうです。まずhttp://mojizo.nabunken.go.jp/で「くずし字」を調べてみました。作、河、酒、駿、比、斗、北などがでてきます。どうも違うようです。そこでを使った状況を調べ直しました。
べくのさみせんを見せで彈  (二三・40)
○今心も乱れ須田の土手     (四三・15)
○居能嶋がらと馬にでる      (四三・30)
○居ちとはたらく目が廻り    (四四・31)
○入聟ほどあつかわれ      (四七・30)
また「三七・19」には「居一題」として45句が載っています。たとえば
○居花より團子うちながめ      -秀
○居寢所で杖を尋ねてる       琴我
○口がるで尻のおもたひ居      志丸

これから「居」は5文字で、おそらく「いそうろう」「居候」でしょう。「居候」とは「縁者でも雇用人でもなく、他人の家で生活する同居人。雑用をしながら食事と勉学をする食客」です。また「」は「そうろう」か「コウ」であり、「申」は「申候」で、「まをしさふらふ」「もうしそうろう」「もうしそろ」になります。くずし字でも右図のようにありました
什物 じゅうもつ。日常使用する道具類。什器。寺院の所有する種々の器財。資財。
拾録 しゅうろく。集めて記録する。
追善 ついぜん。死者の苦を除き冥福を祈るため、法会などの善事を行うこと。

川柳江戸名所図会④|至文堂

文学と神楽坂

 善国寺の川柳についてです。

鎮護山善国寺
さてまたもとへ戻って、濠端から神楽坂を上り切った辺り、左側、古くは肴町、今は神楽坂五丁目という所にがある。
 そもそもは馬喰町にあり、寛文十年、麹町六丁目横町、御厩谷という所へ移った。そこでその谷を善国寺谷というように成る。
    谷の名に寺名末世置みやげ      (六六・36
いうような句のできるわけは、さらに「武江年表」寛政五年の項に「麹町善国寺去年火除のため地を召上げられ、神楽坂に代地を給はりけるが、今年二月普請成就して、二十七日毘沙門天遷座あり」と記されているようにまた移転したのである。
    あら高くなる谷から坂の上      (六六・31)
    三度目面白い地へ御鎮座       (六六・30)
    所かへてんてこまふかぐら坂     (八一・3)
 本尊毘沙門天は加藤清正守護仏であったとも伝え、尊仰篤く、芝金杉の正伝寺品川の連長寺と共に知られた。
    むりな願ひも金杉と神楽坂       (六六・29)

 日蓮宗鎮護山善国寺です。
馬喰町 東京都中央区日本橋馬喰町です。
御厩谷 おんまやだに。御厩谷坂とは千代田区三番町の大妻通りを北から南に下がる坂。
善国寺谷 現在は千代田区下二番町の間より善国寺谷に下る坂。坂上に善国寺があり、新宿通りから北へ向って左側にありました。坂下のあたりを善国寺谷といい、御厩谷とは無関係。
末世  仏教で、末法の世。仏法の衰えた世。のちの世。後世。道義のすたれた世の中。
置き土産 前任者が残した贈り物、業績、負債。
六六・36 この「川柳江戸名所図会」にはどこにも書いてありませんが、江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この本も「誹風柳多留」の句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇をまとめました。これは66篇の句集36です。ちなみにこの作者は「百河」です。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
普請 家を建築したり修理したりすること。多数の僧に呼びかけて堂塔建造などの労役に従事してもらうこと。
遷座 せんざ。神仏や天皇の座を他の場所に移すこと。
あら 驚いたり、意外に思ったり、感動した時などに発する語。
てんてこ 「てんてこ」とは里神楽などの太鼓の音で、その音に合わせた舞
まふ 舞う。音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。
加藤清正 かとうきよまさ。安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。
守護仏 守護本尊。守り仏。一生を守り続けている仏。生年の十二支を求め、8体の仏から決定する。
芝金杉の正伝寺 港区芝の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天がある。
品川の連長寺 正しくは蓮長寺。品川区南品川の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天像を祀る。
 縁日の日である。
    ゑん日が千里もひゞく神楽坂      (一五〇・10)
虎は千里行って千里かへる」ということわざをふまえている。
    寅の日におばゞへこ/\善国寺     (六六・30)
「おばゞへこ/\」というのは、当時の流行語であったらしい。ここでは老婆が腰をへなへなと動かす形容である。
 他に句もある。
    おばゞへこ/\の気あるやかましい  (天二満2)
    おばゞへこ/\の気あるでむつかしい  (二〇・26 末四・18)
    おばゞへこ/\がおすきで困り    (一〇三・4)
 これらの句は姑婆がまだ色気があって、聟を困らせるというようなことであろう。
    きざな事おばゞへこ/\罷出る     (傍三・41)
 これは吉原遣り手か。
    寅詣牛へひかれし善国寺        (六六・35)

縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
 十二支の第3番目。寅の日には婚礼などを避けたが、「虎は千里を行って千里を帰る」といい、出戻ることを避けるためだった。時刻では、午前4時の前後2時間を「寅の刻」「寅の時」という。方角は東北東。
ひびく 音が遠くまで達する。ある場所で大きな音や声が発せられて、大きく聞こえる。
虎は千里行って千里かへる 虎が、一日のうちに千里もの距離を行き、さらに戻って来ることができる。活力に満ちた、行動力のあるなどを表す言い回し。
おばば 御祖母。祖母や老年の女性を親しんでいう語
へこへこ 張りがなく、へこんだり、ゆがんだりしやすいさま。頭をしきりに下げるさま。また、へつらうさま。ぺこぺこ。
気ある  興味や関心がある。特に、恋い慕う気持ちがある。
やかましい 音や声が大きすぎて、不快に感じられる。さわがしい。
 もこ。むこ。結婚して妻の家系に入った男性。
姑婆 「こば」? 祖父の姉妹。父方の叔母。
きざな 服装・態度やものの言い方などが気取っていて、いやみだ。
罷出る まかりでる。人前に出る。出てくる。
吉原 江戸幕府が公認した遊廓。浅草寺裏の日本堤で、現在は千束4丁目付近。
遣り手 遊郭で客と遊女との取り持ちや、遊女の監督をする年配の女。
寅詣 とらまいり。寅の日に毘沙門天に参詣すること。

 神楽坂のさらに上、通寺町の右側に多くの寺があり、その一つに龍峯山保善寺というのがあった。ここは山門に「獅子窟」というがかけられていて、世俗獅子寺〉といった。この寺は今は中野区昭和通りに面した所に移っている。
 またその先隣に蒼龍山松源寺という寺があった。俗に〈猿寺〉という。この寺では猿を飼っていた。ある時、住持が江戸川の渡船に乗ろうとした時、猿に引留められて乗船を思い止まり、そのため沈没溺死を免れたという話が伝えられている。この寺も獅子寺と同様中野区昭和通りに移転しており、門前に猿の像を載せた「さる寺」という柱を立てている。
    牛込で獅々猿よりもはやる寅      (六六・35)
 この句はこれらの寺々と善国寺とを獣で比べたのである。
 さて神楽坂や善国寺関係の句が多く六六篇にあるのは、同篇に「牛込神楽坂毘沙門天奉納額面会」が催された時の句、一四八句が載っているからであって、ここにあげた外にも、いろいろあるが省略する。しかし他の篇にはあまりこの寺の句は見当らない。

明治20年「東京実測図」(新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」から)

龍峯山保善寺 盛高山保善寺(赤)。現在は中野区上高田1-31-2に移動。
獅子窟 ししくつ。「窟」はあな、ほらあなの意味。
 書画を枠に入れて室内の壁などに掛けた文句や絵画。その枠。
世俗 せぞく。俗世間。俗世間の人。世の中の風俗・習慣。世のならわし。
獅子寺 三代将軍徳川家光が牛込の酒井家邸を訪問した折り保善寺に立寄り、獅子に似た犬を拝領した。これから「獅子寺」という
蒼龍山松源寺 蒼龍山松源寺(青)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
猿を飼っていた 佐藤隆三氏や芳賀善次朗氏の「猿寺」を参照。
江戸川 これは利根川の支流です。千葉県北西端の野田市関宿せきやどで分流し、東京湾に注ぐ。
はやる ある一時期に多くの人々に愛好する。流行する。 客。


猿寺|佐藤隆三と芳賀善次朗

文学と神楽坂

 猿寺について佐藤隆三氏と芳賀善次朗氏を取り上げます。
 最初は佐藤隆三氏で、氏は昭和6年には東京市主事であり、『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)という本を書いています。ちなみに口碑こうひとは、古くからの言い伝えや伝説のことです。
 元禄の頃、住職の徳山和尚が渡船に乗ろうとすると猿が現れ、自分の裾を取り、また他の主人との話もあり、乗船できませんでした。しかし、目の前で、この渡船は沈没してしまいます。猿のおかげで難を免れたという話です。

     猿寺
 東中野桐ヶ谷の大通りに、猿寺といふがある。本名は松源寺であるが、山門の前に「さる寺」と刻付け猿の附いた大きな石標が建てゝある。この寺はもと牛込通寺町にあつたが、明治三十九年に此處に移轉したものだ。
 元祿の頃、この寺に徳山と云ふ有德の和尚が居つた。時々境内に猿がやつて來て惡戯をするので、和尚も困つてゐたが、別に人畜に害を加ふる譯でもないからその儘にして置いた。或日和尚の留守の時に、小僧と仲間ちうげんが面白半分に、猿を本堂に追ひ込んで生捕りにし、繩で縛つて置いた。そこへ淺草橋場の檀家の者がお詣りに來て、何程かの鳥目を小僧と仲間に與へて、猿を貰つて行つた。和尚はその後境内に猿の出なくなつたことを氣にも留めなかつた。
 翌年の春、花の咲く頃、和尚は向島の檀家に招かれ、小僧を連れて、竹屋渡場迄やつて行くと、花見の連中がワイ/\騒ぎながら渡舟を待ってゐる。和尚も舟に乗らうと岸に立つてゐると後より法衣の裾を引張るものがある。振り向いて見ると一匹の猿であつた。變な猿だと思つてゐる所へ、猿に逃げられたと云って駈けつけて來たのが、橋場の檀家武藏屋の主人であつた。この猿は松源寺の境内にゐた猿だと聞いて、懐かしげに思ひ、武藏屋の主人と話をしてゐるうちに、舟は多くの人を乘せて出て終つた。仕方なしにモー一舟待つてゐると、その舟は餘り多くの人が乘つたものだから、川の中程で引繰り返り、泣くやら叫ぶやら大騒ぎとなつた。無論助け舟も出たことであるが、溺死する者も尠くはなかつた。和尚と小僧は猿のお蔭で、命拾ひをしたことを喜んだ。歸りがけに武藏屋に立寄って譯を話して、その猿を貰ひ受け、寺で大事に飼ふことにした。
 五代將軍綱吉公、鷹狩の歸途この寺に立寄られた時、猿にお目がとり、和尚よりこの話を聞いていたく感心せられ、その後綱吉公より雲慶の作と稱する、猿を彫刻した扁額を賜はつたので早速その額を本堂にかゝげた。それ以来猿寺と人が呼ぶ様になつたと云ふ。

 蒼龍山松源寺(左側の青い多角形)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。

刻付け きざみつけ。材料や表面を刻む、切る、刻み込む
山門 寺院の門。寺院。寺院は元来、山中に建てられたため
石標 ある事を記念し、後世に伝えるために記しておく石。石碑。目印の石。道標に立てた石。
牛込通寺町 現在は神楽坂六丁目21番地。
元禄 1688年~1704年。江戸幕府将軍は5代目の徳川綱吉つなよし
有德 うとく。ゆうとく。徳行のすぐれていること。
仲間 ちゅうげん。中間。武家の奉公人で、城門の警固や行列の供回りなどに使った。
檀家 だんか。だんけ。寺院に属し布施する家か信者
浅草橋 東京都台東区浅草橋。秋葉原の東に位置する。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭の異称。江戸時代の銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたから。
境内 神社・寺院の敷地内
向島 むかいしま。東京都墨田区の隅田川東岸の旧区名。中小工場・住宅・商店が密集し、墨堤の桜や百花園の月見で有名だった。
竹屋の渡し 現在の言問橋のやや上流の山谷堀から、向島三囲みめぐり神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。
橋場 現在の白鬚橋付近。隅田川の渡しとしては最も古い。白鬚橋が完成し、渡しは廃止された。
尠く 「少なく」と同じ
雲慶 平安時代末期から鎌倉時代初期に活動した仏師。
稱する 称する。となえる。呼ぶ。
扁額 へんがく。門戸や室内などに掲げる横に長い額。横額

 次は芳賀善次朗氏の『新宿と伝説』(東京都新宿区教育委員会、昭和44年)の「恩返しをしたサル」です。氏については新宿区戸塚第一小学校の校長であり、新宿区の伝説や伝承をまとめています。

九 恩返しをしたサル
  場 所 神楽坂六丁目21番地
  時 代 江戸時代 元禄(1688―1703)のころ
 ここに松源寺という寺があり、徳山という高僧がいた。時々境内にサルがやってきていたずらをするので、和尚は困っていたが、別に人畜に危害を加えるわけではないので、そのままにしておいた。
 ある目、和尚の留守の時に、小僧と仲間がおもしろ半分にサルを本堂に追い込んで、生けどりにし、なわでしばった。和尚はかわいそうだから放してやれといっているところへ、浅草橋場のだん家の者がお参りにきた。その人はいくらかの金を小僧と仲間に与え、その猿をもらい受けていった。
 翌年の春の花時、和尚は向島のだん家に招かれ、小僧をつれて竹屋の渡し場までやってくると、花見の連中が大勢ワイワイ騒ぎながら渡し舟を待っていた。
 和尚も舟に乗ろうと岸に立っていると、後から衣のすそを引っ張るものがいた。振り向いて見ると、一匹のサルであった。変なサルだと思っていると、そこヘサルに逃げられたといって駆けてくる人がいた。みれば橋場のだん家武蔵屋の主人であった。
 武蔵屋の主人が、「このサルは松源寺からもらってきたものだ」と話しているうちに、舟は出てしまった。和尚はしかたなしに、つぎの舟を待っていた。ところが舟はあまり多くの人を乗せたため、川の中ほどでひっくり返り大騒ぎとなった。すぐさま助け舟は出たもののでき死者まで出る始末であった。
 サルのおかけで、結局和尚と小僧は命拾いをしたのである。帰りがけに和尚は喜んで、武蔵屋に立ちより、そのサルをもらい受け、大事に飼うことになった。
 五代将軍綱吉公は、鷹狩りの帰りに、この寺に立ち寄られ、和尚から恩返しをしたサルの話を聞いて、いたく感心されたということである。その後、綱吉公から雲慶の作と称するサルを彫刻したへん額を賜った。それ以来、この寺を土地の人々がサル寺と呼ぶようになった。
  出 典 ○江戸の口碑と伝説 佐藤隆三著 昭和6年10月 郷土研究社発行
  解 説 松源寺は、明治末年、道路拡張のため、中野区上高田一丁目に移転した。

川柳江戸名所図会①|至文堂

文学と神楽坂

 実は川柳を調べる場合、どうやって調べればいいのか、わかりませんでした。例えば新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(平成9年、1997年)に、みずのまさを氏が書いた「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」があります。たくさんの川柳が出ていますが、いったいどこで調べたのでしょう。
 ようやくわかりました。まず「切絵図と川柳…」の出典は「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年、新宿区は比企蟬人氏がまとめ)でした。また川柳の原典は当然ながら江戸時代の「誹風はいふうやなぎ多留だる」167篇11万句です。では、最初に「川柳江戸名所図会」から「神楽坂」を取り上げます。
 しかし、みずのまさを氏の「切絵図と川柳…」について、この文献は「川柳江戸名所図会」を使ったものだとはっきりと書いてはいません。まったく。

神 楽 坂

牛込御門から濠を渡り、真直ぐに上りになる坂である。神楽坂という名については、いろいろと説があるようであるが、ここでは省略する。坂の上に岩戸町という名の町がある。
   神楽坂上に岩戸面白し         (四六・12
   神楽坂あるで近所に岩戸丁        (三四・28)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋      (六六・36)
   御百度で岩戸もねれる神楽坂       (六六・31)
 善国寺のお百度、岩戸は女陰をさす。
   岩戸町せなァ戸隠様だんべへ       (六六・31)
 信州から来た下男。
   諸国迄音にきこへた神楽坂        (六六・32)
   御やしろのあたりにかなう神楽坂     (安七智2)
   神楽坂ひどくころんで        (一四七・8)
 お神楽の面にたとえる。
   あふげ神垣近き神楽坂         (六六・34)

岩戸町 神楽坂上から西南にある町(右図)。あまの岩戸いわととは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟で、太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台である。
四六・12 これは46篇12丁の意味です。江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この「川柳江戸名所図会」も「誹風柳多留」から取った句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇11万句をまとめました。
とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
御百度 願い事がかなうように社寺に100回お参りをする。お百度を上げる。
ねれる 寝ることができる。
だんべへ 「だろう」の意の近世東国語。だんべい。だんべえ。
やしろ  社。神をまつってある建物。神社。屋代やしろ。神が来臨する仮設の小屋や祭壇など
かなう 願望が実現する。叶う。適う。敵う
替り面 かわりめん。顔つきが以前と変わること
あふげ 「あふぐ」で、仰ぎ見る。尊敬する。
神垣 かみがき。神域を他と区別するための垣。神社の周囲の垣。玉垣たまがき瑞垣みずがき斎垣いがき

「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」では神楽坂という由来についていろいろ書き、それから川柳になります。「川柳江戸名所図会」で出た川柳がすべて出てきます。

 ○あふげ此神垣近き神楽坂
 ○御やしろのあたりにかなふ神楽坂
 この2句は前記の御やしろに囲まれた神楽坂をうたったものです。
 ○神楽坂ひどくころんで替わり面
 転ぶほど急坂であったこと、お神楽のヒョットコ面が想像されます。
 ○諸国迄音にきこへた神楽坂
 無論、音は神楽にかけたのでしょうが、それにしても、音から神楽坂は有名だったのですねえ!

 また岩戸町については、項を改め、

 善国寺も岩戸町内にあり、現神楽坂通りの眞中に岩戸町1丁目があります。現岩戸町(大久保通り東側)は明和4年(1767)から火除明地になって雑司ヶ谷の百姓の菜園拝借地となっています。(切絵図(3)参照)
○神楽坂上に岩戸は面白し
○神楽坂あるで近所に岩戸丁
○御百度で岩戸もねれる神楽坂
最後の句は善国寺のお百度詣り、岩戸は女陰をさします。

地上の楽園|杉本苑子

文学と神楽坂

 杉本その氏は東京市牛込区(現東京都新宿区)若松町に生まれた小説家です。吉川英治に師事し、歴史小説を発表。1963年、「孤愁の岸」で直木賞を受賞。現在まで大量の歴史小説は書いているのですが、それ以外の随筆やインタービューは極めて稀か、書いても全集等には載りません。生年は1925年6月26日、没年は2017年5月31日。享年は満91歳。これは神楽坂に関するインタービューです。

地上の楽園    杉本苑子 作家
 ハイカラに神楽坂でココア

   お年玉のギザ(50銭硬貨)を握りしめ、岩波文庫を読んだ。文学という病に取りつかれるまでの幸せな日々は、両親と歩いた神楽坂の縁日や新宿の雑踏の淡い記憶に彩られている。

 ――全集が刊行中ですね。
 二十二巻あっても、入るのは書いたものの半分ですね。習作時代からだと五十年。木の机なんか体の形にすり減ってるの。
 二十代の初めに小脱を書こうと志し、まっすぐにきてしまった。物語に打たれ、触発され、ものを考え出すようになってからは、どこへ行っても、何をしていても、深刻な無念や憎悪、外的・内的な怒り、屈託というものがいつも一緒だった。
 ――早熟な子だった。
 英語が敵性語とされ、短歌が必修科目になったときの女学校時代に「思うこと無げに遊べる童らよ我にもありきかかる遠き日」という歌を作った。十四、五歳の小娘が「かかる遠き日」なんていうのは生意気だけど、ちょっとおませな子どもだったら、子どもなりのもの思いが生じてくる。そういう悩みがまつたくなかったころだけが、楽園だという思いは今も同じ。
 ――楽園の風景は?
 あなたがたは戦前世代というと、もんぺで雑炊、空襲と条件反射みたいに想像するけど、大正末年生まれの子ども時代は、クリスマスだってお正月だって今と同じですよ。東京の小さな薬屋の娘だったわたしでも、よそいきは真っ赤なビロードの生地にウサギの毛のついたオーバー。赤い靴に子ども用の帽子、ハンドバッグはブロンドのフランス人形で、背中にファスナーがついていて、ハンカチとかキャンデーが入れられるの。
 ――ハイカラですね。
 神楽坂のビシャモン縁日に、両親に連れられてよく出かけたものです。お参りの人と夜店とで明るい活気があった。とくに紅家という子どもの目にもモダンな喫茶店があって、そこでケーキを食べてココアを飲むのがとっても楽しみだった。大きならせん階段があるの。その木の手すりに乗っかってツーッて滑り降りたわ。
 両親も若かったし時代にも関東大震災からの復興の雰囲気があった。あのころのビシャモンの縁日のにぎわいを思い出すと、いい雰囲気の幼児期だったなあって思いますよ。
 ――そんな子がなぜ文学へ。
 どうしてでしょうねえ。やみくもに小説が好きだった。お年玉をもらっても、岩波文庫を買って読みふけっていた。『幸福な王子』『青い鳥』だとか、子ども心にどれだけ打たれたか。小説の持つ力を、もしわたしのものにできたらと思ったのかもしれません。
 子どもの時から、長生きはしないだろうなあと予感して、自分の限られた時間は自分ひとりのためだけに使おうと決めた。夫とか子どもなど執着の対象を持つと、どうしたって時間がとられるでしよ。そういうのはいやだったの。エゴイストよね。
 ――死後は家も何もかも、熱海市に託すとか。
 ええ、本当にさっぱりした。物欲も生への執着もあまりない。もともと生存本能が淡いのかも。来世とか前世は信じてないけど、無だった状況から間違って生まれてきたような気がしてしようがない。わたしの作品にも、そんな虚無感がずっと通っている気がします。
(朝日新聞。1998.1.8.)


ビロード パイル織物の一種。綿・絹・毛などで織り、細かい毛をたて、なめらかでつやのある織り方。ポルトガル語のveludo、スペイン語のvelludoから来たもので、ベルベットvelvetと同義語。
ビシャモン 日蓮宗鎮護山善国寺毘沙門天。東京の縁日発祥の地です。
縁日 特定の神仏に縁のある日。有縁うえんの日。その日に参詣すると、特別な功徳があるという。
紅家 正しくは紅谷
『幸福な王子』 英国作家O・ワイルドの童話。1888年刊。黄金の王子像がツバメを通して黄金や宝石を貧しい人たちに配る。像は火に溶かされるが、美しい心臓だけは残ったという。
『青い鳥』 メーテルリンクの戯曲。六幕。1908年初演。チルチルとミチルの兄妹は、夢の中で幸福の使いである青い鳥を求める。翌朝目覚めて、鳥籠に青い鳥をみつけ、幸福は身近にあることを知る。

湯島の境内①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は小説「婦系図」(1907年)では入っておらず、戯曲「婦系図」(1914年)で新しく加わりました。戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻です。

早瀬 おれこれきりわかれるんだ。
お蔦 えゝ。
早瀬 思切おもひきつてわかれてくれ。
お蔦 早瀬はやせさん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんぢや、――貴方あなたささうねえ。
早瀬 洒落しゃれ串戯じょうだんで、こ、こんなことが。おれゆめれとおもつてる。
 〽あとには二人ふたりさしあひも、なみだぬぐうて三千歳みちとせが、うらめしさうにかほて、
お蔦 真個ほんたうなのねえ。
早瀬 おれがあやまる、あたまげるよ。
お蔦 れるのわかれるのッて、そんなことは、芸者げいしやときふものよ。……わたしにやねとつてください。つたにはれろ、とおつしやいましな。
  ツンとしてそがひる。
早瀬 おつた、おつたおれけつして薄情はくじやうぢやない。
お蔦 えゝ、薄情はくじやうとはおもひません。
早瀬 ちかつておまへきはしない。
お蔦 えゝ、かれてたまるもんですか。


三千歳 みちとせ。歌舞伎舞踊で、片岡直次郎と遊女三千歳の雪夜の忍び逢いをうたう。
そがい 背向。後。後ろの方角。後方。

行元寺の仇討ち|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、元は肴町(現在は神楽坂五丁目)にありました。この行元寺の柳の下で、仇討ちがおよそ250年前にありました。第10代将軍の徳川家治の頃です。
 明和4年(1767年)9月、下総国相馬郡早尾村(現在の茨城県結城郡)で百姓2人が口論になり、組頭の甚内は、百姓の庄蔵を殺しました。しかし、甚内の処罰はなく、5か月以内に甚内本人もいなくなっています。
 それから16年経ち、天明3年(1783年)、庄蔵の長男、富吉(28歳)は行元寺で甚内を発見。甚内(49歳)は御先手浅井小右衛門組同心の二見丈右衛門と称していました。一方、富吉は剣術家の戸賀崎熊太郎の下僕になり、10月8日、富吉は下図で見られるような柳の下で甚内を殺害しました。
 これは「天明の仇討」として有名になり、その結果、戸賀崎氏の門弟は3000人以上に増えたといいます。一方、富吉では、『新撰東京名所図会第41編』によれば、「初根來喜内亦麾下士也、從戸賀崎學、愛富吉爲一レ人、欲延爲臣隷、富吉固辭不就、至是、又欲祿百石」(17頁上)。うーん、よくわからない。好村兼一氏の小説「神楽坂の仇討ち」(廣済堂、平成23年)では「その後、ごろ喜内という旗本に禄百石で召抱えられた」とハッピーエンドに終わっています。

麾下 きか。将軍じきじきの家来。はたもと
臣隷 しんれい。召使い、使用人。

 事件後、「大崎富吉復讐の碑」ができ、表に法華経の「念彼観音力 還著於本人」が描かれ、さらに、法事三十三回忌(文化12年、1815年)には裏面をつけ加え…

  癸卯天明 陽月
二人 不戴 九人
同有下田 十一口
湛乎無水 納無絲
南畝子 願主 休心

 と行元寺住職の依頼を受け、大田南畝(蜀山人)が記しています。現在、この碑は品川区西五反田の行元寺の中にあります。

[現代語訳]観音菩薩の力を念ずれば かえって自分に報いをうける
天明3年10月8日  天を戴かざる仇は誰か
(討つのは)富吉  (討たれるのは)甚内
大田南畝  安心を願う

念彼観音力 ねんぴかんのんりき。「法華経」の言葉。「観音菩薩の力を念ずれば」
還著於本人 げんじゃくおほんにん。「法華経」の言葉。還って本人に著きなん。「かえって自分に報いをうける」
癸卯天明 天明年間の癸卯年。天明三年
陽月 十月の異称
 8日
二人 天という文字
九人 仇。文章は「天を戴かざる仇は誰か」
同有下田 同の下に田の文字は富
十一口 十一口の文字は吉。文章は「富吉」
湛乎無水 湛に水が無いの文字は甚。
納無絲 納に絲が無いの文字は内。文章は「甚内」
願主 神仏に願をかける当人。ねがいぬし。
休心 心を休める。安心する。

行元寺|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年以降は品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。なお、地図などでは「行願寺」と書くともありますが、正しくは「行元寺」です。

江戸名所図会』では……

 牛頭ごずさん行元寺ぎょうがんじ
千手院と号す。同所神楽坂の上、寺町道てらまちみちより右にあり。天台宗東叡山に属す。本尊千手観音大士の像は恵心僧都の作なり。(襟懸えりかけの本尊と称す。)慈覚大師を開山とすと云ふ。(土俗伝へ云ふ、当寺昔は大刹にして、総門は今の牛込御門の辺にありて、神楽坂その中門の旧跡なりしとなり。大永たいえい兵乱堂塔破壊はいす。その頃のものとて古き大般若経を秘蔵せりと云ふ。昔門の内左右に南天樹なんてんじゅ多かりしとて、世俗今も南天寺と字せり)本尊縁起に云く、右大将頼朝卿石橋山合戦の後、安房上総を歴て下総国より、この国に打ち越え給ふ頃、尊前に通夜す。その夜の夢に、頼朝卿自らこの霊像を襟にかけたてまつり、源家の武運を開くと見給ふ。後、果して天下を一統せられたりしより、頼朝襟懸の尊像と称へ奉ると云々。

[現代語訳]○牛頭山行元寺
号は千手院。その場所は神楽坂の坂上で、通寺町(現在は神楽坂6丁目)の道の右側に当たる。天台宗東叡山に属する。本尊の千手観音像は恵心僧都の作で、襟懸の本尊という。開山は慈覚大師。この土地の住民によると、かつては巨大な寺で、総門は今の牛込御門の辺りで、神楽坂は中門の旧跡だったという。大永の乱で堂塔は破壊されたが、当時のものとして、古い大般若経を所蔵する。また、昔、門の左右に南天の木が多く、南天寺と呼ばれる。本尊の言い伝えによると、石橋山合戦で源頼朝が敗れ、その後、安房、上総を経て下総国から、武蔵に入国した。頼朝は行元寺の前で夜中に祈願したが、その夜、夢の中で、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、予想通り、天下は統一し、頼朝襟懸の尊像と呼ばれたという。

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌で、神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成された。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説している。7巻20冊から成り、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版された。
恵心僧都 えしんそうず。源信げんしん。平安中期の天台宗の僧。
襟懸 衣服の首回りの部分にひっかける。ぶらさがる。
慈覚大師 平安時代前期の僧。遣唐使の船に乗って入唐。帰ってから天台宗山門派、天台密教の祖。
土俗 その土地の住民
大永 1521年~28年。室町後期の年代。
兵乱 大永の内訌ないこうでしょうか。戦国時代初期の大永年間に起こり、18代当主の宇都宮忠綱と芳賀氏の家臣団との対立で起こった下野宇都宮氏の内訌のこと
堂塔 どうとう。堂と塔。仏堂や仏塔など
大般若經 大乗経典。600巻。唐の玄奘げんじよう訳。別々に成立した般若経典類を集大成し、最高の真理(般若はんにゃ)から見るとすべてのものは実体がないくうだという教えを説く。
南天樹 ナンテン木の異称(下図を)

縁起 社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。事物の起源や由来。
石橋山合戦 平安時代末期の治承4年(1180年)、源頼朝と平氏方での戦い。敗北した源頼朝は船で安房国へ落ち延びた。
安房国、上総国、下総国 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。

通夜 神社や仏堂にこもって終夜祈願すること。

新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、1904年)でも内容はほとんど同一です。

   ●行元寺
行元寺ぎやうげんじは。牛込肴町三十九番地に在り。牛頭山と號す。天台宗にして東叡山寛永寺の末寺たり。
當寺往古は大刹にて。總門は牛込門の内に在り。今の神樂坂は中門の内にて。其の左右に南天燭●●●行樹なみきありしを以て。俗に南天でら●●●●といひしといふ。赤城神社はもと當寺の鎭守なるよしにて。奉納の大般若經にも。行元寺鎭守と記しありしといへり。大永の兵亂に堂塔破壊せしむね。砂子に載せたり。境内今は大半人家連り。其の表門は小路を入りて。其の奥に在り。書間も之を鎖せり。荒凉想ふべし。
開山は慈覺大師にて。其の本尊千手觀音は。惠心僧都の作。俗に襟懸●●觀音●●といふ。
本尊の緣起に云。右大將賴朝卿石橋山合戰の後。安房あわ上總かずさを歴て下總國しもうさより此國に打越給ふ頃。尊前に通夜す、其夜の夢に賴朝卿自ら此靈像を襟にかけたてまつり。源家の武運を開くと見給ふ。後果して天下を一統せられらりしより。賴朝襟懸の尊像と稱へ奉る云々。

[現代語訳]行元寺は、牛込肴町(現神楽坂五丁目)39番地で、号は牛頭山。天台宗で東叡山寛永寺の末寺である。
 古くは大きい寺で、総門は牛込御門の内側、現代の神楽坂は中門の内側にある。その左右にナンテンの並木があり、俗に南天寺という。赤城神社はもとこの寺を守護する神であり、奉納した大般若経に行元寺を守護すると書いてある。大永の乱に堂塔は破壊したと、『江戸砂子』はいう。現在の境内の大半は人家がはいり、この表門は小路の奥にある。昼間も門は閉鎖中で、荒凉を想うべきだ。
 開山は慈覚大師。その本尊千手観音は、恵心僧都の作で、俗に襟懸観音という。
本尊の縁起では右大将源頼朝は石橋山合戦の後、安房、上総を歴て下総から武蔵に入国し、この尊前で通夜した。この夜、夢を見て、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、案の定、天下を統一したので、賴朝襟懸の尊像という。

牛込門 牛込御門(牛込見附)と同じ。
書間 昼間。日中。太陽の出ている間。
荒凉 荒涼。こうりょう。さびれた、荒涼とした
襟懸 えりがけ。襟がけとは、襟の中に金銭など大切な物を縫い込んだこと。
頼朝 源頼朝。みなもとのよりとも。鎌倉幕府の初代将軍。
石橋山合戦 平安時代末期に源頼朝と平氏方との戦い。頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫し、安房国へ落ち延びた。
南天燭 ナンテンの異称

行元寺|縁起

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年、品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。

 さて、江戸幕府は文政9年(1826)から「御府内風土記」の編集を始め、文政12年(1829)に完成しました。史料としては「文政ぶんせい寺社じしゃ町方まちかた書上かきあげ」を提出せさました。江戸の町々や寺社から起立や由来などの詳細な調査した報告書です。総計は寺社方121冊,町方146冊にもなりました。

 行元寺の史料もあり、国会図書館の「牛込寺社書上」のコマ番号38から50です。うちコマ番号45から50は「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。
 この略縁起は、寛政10年(1798)、当時の行元寺住持じゅうじだった法印(つまり、最高の僧位)の海澄が作成し、当寺の起立・由緒、十一面千手観世音立像の効験・霊験などをまとめたものです。ちなみに「住持」とは、一寺を管理する主僧のこと。ここには明確な事実と判断できないものもあります。それでは「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。なお、この翻訳は新宿区生涯学習財団の「行元寺跡」(平成15年)に多くを担っています。

牛頭山千手院行元ぎょうがん寺千手観世音縁起
武蔵国豊島郡牛込郷牛頭山千手院行元寺ハ、台家たいけ高祖伝教慈覚両大師の開基累代古跡なり、古へ伝教大師東遊して此地に来り、一宇を建て行元寺と号す。所謂祖師当寺を開き、行法修行のもとなるを以てなり、然るに大師開基なりといへども、台家の法いまだ弘らず、寺号のみにして一宇成がたし、其後慈覚大師また此地に来り、先師開基の故を以て再興ありしより相続し、今に至るまで九百余年、台家不易の寺院なり、依之これを開基と申伝る事誠に故ある哉、祖師伝教当寺に於て不動明上ならびにこん迦羅がらせい吒迦たかの二童子を作り給ふ、代々護摩の本尊として今に鎮座まします、霊験古今に是多し、うや/\うしおもんじれば、本堂の千手観世音恵心大僧都の御作なり、むかし千手の示現ありて堂宇を建立し奉る、よりて千手院の名あり

 寺院の創立者(開基)は 天台宗を開いた最澄(767~822)で、「行法修行の元」であるという意味から「行元寺」と名づけられました。しかし、名ばかりの寺院となっていたところ、延暦寺の円仁(794~864)は当地に下向し、相続して再興しました。実証はできませんが、開基の時期は9世紀末から10世紀頃。行元寺の本尊である十一面千手観世音立像は恵心僧都源信(942~1017)の作で、当寺を千手院と呼ぶゆえんです。

[現代語訳] 武蔵国豊島郡牛込郷にある牛頭山千手院行元寺は、天台宗の高僧である伝教大師(最澄)と慈覚大師の2人が創立したもので、代を重ね、歴史に残る遺跡になっている。かつて伝教大師は東遊して、ここで下向し、棟一軒を建て、行元寺と呼んだ。いわゆる祖師はこの寺を開き、仏道を修行する元だという。しかし、大師は天台宗の仏法を広められず、家以外には寺号しかなかった。その後、慈覚大師は再びこの土地に来て、伝教大師の創立と聞き、再興をして、名前なども受けついだ。今にいたる900年余、天台宗の変わらない寺である。つまり、寺を創立したのは誠に由緒があるといえよう。伝教大師はこの寺で不動明上と、矜迦羅童子と制吒迦童子2人を作り、代々、護摩堂の仏様として今も鎮座している。神仏などの不可思議な力は古今に数多い。恭しく思えば、本堂の千手観世音は恵心大僧都の作品である。むかし千手観音の示現があり、堂の建物を建立したので、千手院の名がついた。

観世音 かんぜおん。観世音菩薩。世の人々の音声を観じて、その苦悩から救済する菩薩
縁起 仏教用語。社寺の由来。起源、沿革や由来。
台家 たいけ。天台宗の別称。
高祖 仏教。一宗一派を開いた高僧
伝教 伝教大師。でんぎょうだいし。最澄さいちょうの諡号。平安初期の僧。767~822。日本天台宗の祖。諡号しごうとは、生前のおこないをたたえ、死後におくる贈り名。
慈覚 慈覚大師。じかくだいし。円仁の諡号。平安初期の僧。794~864。最澄の業績を発展させ、天台宗の密教化に影響を与えた。
開基 寺院を創立すること。創立した人。開山。
累代 るいだい。古くは「るいたい」。代を重ねること。
古跡 歴史に残る有名な事件や建物などのあと。遺跡。
一宇 いちう。「宇」は軒、屋根のこと。一棟の家・建物。
行法 ぎょうほう。仏道を修行すること。
相続 先代に代わって、家名などを受け継ぐこと。
不易 ふえき。いつまでも変わらないこと。
 幷(ヘイ)の異体字。あわせる。ならぶ。ならびに。
童子 寺院へ入ってまだ剃髪ていはつはなく、仏典の読み方などを習って、雑役に従事する少年
護摩 不動明王などの前に壇を築き、火炉かろを設けてヌルデの木などを燃やして、煩悩を焼却し、併せて息災・降伏ごうぶくなどを祈願する修法。
護摩堂 護摩をたき修法を行うための仏堂。
鎮座 ちんざ。神霊が一定の場所にしずまっていること。
霊験 れいげん。人の祈請に応じて神仏などが示す不可思議な力の現れ
千手観世音 せんじゅかんぜおん。千手観音。千手観音菩薩。すべてのものを同時に見で同時に救う菩薩。
恵心大僧都 平安時代中期の天台宗の僧。942~1017。源信和尚。恵心えしん僧都そうずと尊称。
示現 神仏が霊験を示し現すこと。
堂宇 堂の建物。

その右大将源頼朝公伊豆国石橋山合戦の後、安房 上総をて武蔵にいたり給ふみぎり、当寺の千手尊の霊験あらたなるきこし召、しのび通夜し、願文を宝前こめ、終夜源氏の家運を祈給ふ、願書の大意ハ、頼朝みやこ清水寺の千手尊をあがめてより、信敬此尊にあり、あおぎ願ハくハ千手千眼のちかひを以て坂東八箇国の諸士を幕下に来らしめよ、所願の如く満足せば、永く観音の檀那となり、千手の堂宇并に寺院にいたるまで建立し、仏供料を寄附せんとなり、しかるに千葉 小山 宇都宮をはじめ八州の諸士ことことく来集し、相州鎌倉に入り給ふ、其後富士川に於て源平対陣のきざし、当寺の千手また富士中禅寺の千手に終日いのりありていはく、我引卒する所の二十万兵ハ皆是大菩薩の与へ給ふ軍士なれば、平氏を退けん事掌中にあり、いよいよ加護の御ぼうしを廻し勝事を得しめ給へとなり、其夜平氏の兵十万余水鳥の羽音に驚き退散と云々、夫より鎌倉に帰入ありて、願文の如く観世音の堂宇御再興并境内はう十町と定め、仏供料の地を御寄附あり、其後代かハり時移り、旧規の如くならずといへども、代々の将軍家より御朱印寺領頂戴し今に至れり。昔ハ大寺にて惣門ハ今の牛込御門の内、神楽坂ハ寺門の内にて、左右に南天の並木あり、俗に南天寺といひしと也

 治承四年(1180年)、源頼朝氏が相模石橋山で敗戦し、養和元年(1181年)、富士川の戦いで、行元寺の千手観音像に源家の家運を祈ると、勝利を収めました。なお、品川区教育委員会の行った文化財調査では、千手観音像は鎌倉末期から南北朝期の作とわかり、現存する千手観音は源信作ではなかったと判明しています。

[現代語訳]その昔、右近衛大将 源頼朝公は伊豆国の石橋山合戦の後、安房、上総をへて武蔵に渡り、ここでこの寺の千手観音の霊験ははっきりと現れると聞き、人目を避けて夜中祈願した。仏の前に願文を置き、泊まり、終夜源氏の家運を祈ったのである。その大意は、頼朝は京都の清水寺の千手尊をあがめ、尊敬できるのはこの仏だけだという。千手千眼の誓いを聞き、関東8か国の諸士を幕下に参集を祈る願文を掲げ、結願した暁には、末永く観音の寄進者となり、千手堂や寺院にいたるまで建立し、仏具料を寄附しようという。すると、千葉・小山・宇都宮をはじめ関東8か国の在武士団が次々に参向し、相模国鎌倉に入った。その後、富士川で源平対陣があり、当寺の千手尊や富士の中禅寺の千手尊に終日祈って、引卒する二十万兵は全員、大菩薩の与えた軍士であり、平氏を退ける兆候があるという。いよいよ加護の御眸を廻し、勝事を決めたいとしたが、その夜、十万余の平氏の兵は水鳥の羽音に驚いて、退散したという。これで頼朝公は鎌倉に帰り、願文の内容と同じように、観世音の建物を再興し、境内は十町四方と定め、仏具料の土地として寄附した。その後、世代が変わり、時が移り、古い規定であるが、代々の将軍家から御朱印の寺領を頂戴して、今にいたっている。≪昔は大きな寺で、正門は現在の牛込御門の内側、神楽坂は寺門(中門)の内側にあり、左右には南天の並木がある。俗に南天寺といった≫

右大将 右近衛大将。右近衛府の長官。武器を持って宮中の警護、行幸の供奉などをつかさどった役所。
 みぎり。とき。ころ。おり。
あらたなる 神仏の霊験がはっきり現れるさま
忍て 人目を避ける。隠れ忍ぶ。
宝前 ほうぜん。神仏の前
籠む 祈念するために社寺に泊まり込む。
信敬 しんけい。信じて心から尊敬すること。
 いや。いよ。いよいよ。ますます。
坂東八箇国 関東地方の古名。相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東8か国を坂東八国という。
所願 しょがん。神仏に願っている事柄。願い。
檀那 だんな。寺院や僧侶への寄付・寄進、布施。
堂宇 堂の建物
八州 かん八州はっしゅう。江戸時代、関東8か国の総称。
相州 そうしゅう。相模国と同じ
 物事が起ころうとする気配。兆候。
掌中 てのひらの中。自分の勢力の及ぶ範囲。
 ひとみ、目を開いてよく見る。
云々 以下略の意味。
 ほう。正方形の一辺の長さを示す語。
旧規 昔からの規則。古い規定。
朱印 江戸時代、将軍の朱印状で、寺領の年貢が免除された寺院や神社
惣門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
寺門 じもん。寺の門。

中比太田備中守入道春苑道灌はじめて江戸の金城を築き、祈願寺を定めんと欲す、時に道灌おもへらく、さいわいに行元寺ハ伝教・慈覚両大師の開基、ことに右大将家祈をかけ源氏擁護の本尊たり、我また同流の源氏なり、祈願寺となすべしとて、金城堅固安鎮の法みな当寺に請て勤めしめ、又金城の落成を賀し、富士見櫓に於て当寺の院主を請じ、種々の布施を給り、自ら愛好する所の挿花瓶名を富士と称する名器を給ふ、所謂わが庵ハ松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見るの歌も此時となん、又当所赤城大明神ハ行元寺の境内にありて鎖守なり。≪其此大寺なればなり≫、応永年中当国六郷の城主松原讃岐守入道沙弥妙讚といふ武士あり、大般若経六百巻を書写せしめ、赤城の神祠に奉納す、応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日に納む、時に当寺の現住等当代なり、巻軸ことに奥書して行元寺住持法印等当とあり≪赤城の神祠はもと当寺の鎮守たる故に大般若経今に行元寺に蔵め有之≫。其後天正年中に、小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に御入あり、時に饗応人不慮に失火して古記録等多く焼失せしとぞ、
辱かたじけなくも寛永年中大猷院殿の御時、右の古跡こせきの趣を聞し召れ、残る所の領地御朱印を下し給ふ、時の住持ハ伝慶なり、

 次は3つ、新しい事実がでています。1つ目は、太田道灌は江戸城の祈願寺は行元寺に決めたこと。2つ目、松原妙讚という城主は大般若経600巻を書写し、行元寺が所蔵していること。3つ目、北条は没落し、奥様は当寺に来たが、この時に料理人が失火したことです。

[現代語訳]太田道灌は初めて江戸に堅固な城を築き、祈願寺を定めようと思った。その時に、幸いに行元寺は伝教・慈覚両大師が創立し、特に源頼朝は家祈をかける擁護の本尊で、私自身も同流の源氏だという。そこで、行元寺を祈願寺にして、金城堅固安鎮の修法を行い、全員行元寺に祈って仏道に勤め、さらに、江戸城の落成を賀して、富士見櫓で行元寺の院主を招き、種々の布施を行い、自ら愛好する生け花の瓶で名を富士という名器も与えよう。いわゆる「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る」の歌もこの時だろう。また、赤城神社は行元寺の境内にあり、守護神になっている。≪これは大きな寺だからだ≫。応永年間に当国六郷の城主の松原妙讚という武士がいて、大般若経の600巻を書写し、赤城の神祠に奉納した。応永の初めに書写をして、文安元年11月7日に納入した。時に行元寺の住職は等当で、巻軸ごとに奥書して、行元寺の最高僧正は等当だという。≪赤城の神祠はもとはこの寺の守護神で、そこで今でも大般若経は行元寺に収蔵している≫。天正年間に、小田原北条は没落し、その時、氏直の奥様は行元寺にお越しになったが、その時に饗応する人が不注意に失火して、古い記録等は多く焼失した。
 かたじけないが、寛永年間に、徳川家光はこの有名な事件を聞き、残りの領地も御朱印とした。その時の主僧は伝慶である。

中比 まったくわかりません。太田道灌か、文章の一部なのか、不明です。
備中守 律令制で定めた岡山県西部の長官
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
金城 守りの固い城。堅固な城
祈願寺 神仏に願い事を行う寺社
我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る 太田道灌が詠んだ歌。意味は「私の家は松林の続く海の近くにあり、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる」
安鎮法 あんちんほう。天皇・親王・将軍の住む邸宅の新築などに際し、その建物の安全や除災、国家の平安を祈る密教の修法。
請う 神や仏に祈って求める。
勤める 仏道に励む。勤行ごんぎょうする。仏事を営む。
富士見櫓 皇居東御苑にある三重櫓。唯一残った江戸城遺構。
挿花瓶 花を生ける瓶。生け花の瓶
赤城大明神 現在の赤城神社。
鎖守 一定の地域や施設を守護する神。
松原讃岐守入道沙弥妙讚 松原妙讚が布施をした。
大般若経 大乗仏教の経典。600巻。
現住 現にそこに住んでいる。またはその住居。
住持 じゅうじ。一寺の主僧を務める。その僧。住持職。住職。
法印 ほういん。僧位の最上位。僧正に相当。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語
饗応人 きょうおう。酒や食事などを出してもてなす人
辱くする かたじけなくする。おそれ多くも…していただく。…していただいてもったいなく思う。
大猷院 だいゆういん。徳川家光の戒名。

そも/\いにしへより今にいたるまで当寺千手観世音の利益を蒙しもの、あげてかぞへがたし。≪右大将頼朝公陣中にて御祈念ありし故、俗に襟懸観音といふ≫、或ハ遠流の罪を蒙りしもの此尊を祈りて速に赦免を蒙り≪貞享年中 山角氏≫、又ハ父の流罪を哀し女、七条の袈裟を自ら縫て住持に贈り護摩を修せしめ、遂に帰国ありて父子相遇ふ事を得たり≪天野氏≫、或ハ重病に沈みし者忽本復し≪上総僧慈観≫、又ハ安産の後絶死せるもの蘇生せしなと≪元禄年中 小笠原氏≫。其外不思議の霊験等住持法印雄賢の記せる本縁起に詳なり、近くハ天明年中にも、与に天を戴ざるの難あるもの、此尊に祈誓し其志を遂げ名を揚し事、諸人のしる所、まのあたりなれば、願ふ所の事一つとして満足せざる事なし、しからばすなハち一心称名観世音菩薩の威神力にハ百千万億衆生の諸苦悩を除き、一たび礼拝供養する輩ハ無量無辺の福徳を得ん事、弘誓深如海歴却不思議の金言疑あるべからず、別してハ武運長久・怨敵退散・諸病悉除・息災延命・諸願成就の霊験響の聲に応じる如し、あおいうやまふへく俯して信ずべしと云尓
寛政十年戊午孟秋   行元教寺現住法印海澄

 最後は効能です。十一面千手観世音を襟懸そでかけ観音というようです。

[現代語訳]そもそも過去から今にいたるまで、当寺の千手観世音の利益を受ける人は、数多い。≪右大将の頼朝公が陣中で祈念をあげていて、俗に襟懸観音という≫。あるいは遠流の罪を受けた人が、この仏を前に祈ると、あっという間に赦免を受けたという ≪貞享年間で山角氏≫。父の流罪を哀しむ女性は、七条の袈裟を縫って、住持に贈り、護摩を焚くと、やっと帰国し、父と子が逢うことができたという ≪天野氏≫。さらに重病の者も治っている ≪上総僧慈観≫。また、出産時に死亡したが、生き返った人もある ≪元禄年間 小笠原氏≫。その外、人間の理解を越える霊験は最高僧正の雄賢の縁起に詳細に書いてある。近くは、天明年間、一緒にこの世に生きられない人は、この仏に祈誓し、その志を遂げ、名を揚げたことは、庶民が知っているところだ。願う所はすべて満足になる。観世音菩薩の威神力には百千万億の衆生が、あらゆる苦悩を除去し、ひとたび礼拝供養する人々は無量無辺の福徳を得て、「弘誓深如海歴却不思議」という金言には疑いはない。特に武運長久、怨敵退散、諸病悉除、息災延命、諸願成就の霊験はひびきの声に応じて、仰いでうやましく、下を見ては信じるべきだという。

 そもそも。改めて説き起こすとき、文頭に用いる語。いったい。だいたい。
弘誓 ぐぜい。衆生を救おうとしてたてた菩薩の誓願。
別して べっして。特別であるさま。とりわけ。
云尓 云爾。漢文で、文章の終わりに用いて、これにほかならない。上述のとおり。

BU・SU|内館牧子

文学と神楽坂

 内館牧子氏が書いた「BU・SU」です。主人公は森下麦子で、神楽坂で芸者になろうとやってきた高校生。妓名は鈴女すずめ。置屋はつた屋。1987年に初めて講談社X文庫で出版し、1999年に講談社文庫になっています。初版は30年も昔なのですね。

 まず本の最初は、BU・SUという言葉について……

「顔が悪い」って、とっても悲しいことなんだ。女の子にとって。
 なのに、男の子ってすごく平気で、
「BU・SU」
って言葉を使うのね。
 BU・SU。
 何て悲しい響きなんだろ。
 何で世の中には、可愛い人とBU・SUがいるんだろ。
 何で、私はBU・SUの方に入る顔で生まれちゃったんだろ。
「顔が悪い」って、本人が一番よく知ってるの。
 男の子に、
「BU・SU」
 なんて言われなくたって、本人が一番よく知ってるのよ。

 そこで麦子は神楽坂に行こうと決心し、実際に行ってしまいます。でもあまり大したものは起こらない。神楽坂についても同じです。

 神楽坂というのは、とても不思議な町。
 町のどまん中を、ズドーンと坂が通っている。
 町そのものが坂なの。
 坂のてっペんに立って、坂の下の方を見おろすと、町全部が見えちゃうみたいな。
 東京のサンフランシスコ。
 坂の両側はギッシリと商店街で、まん中へんに有名な毘沙門天びしゃもんてんまつられている善国寺ぜんこくじがあるんだけど、朝夕ここから聞こえてくる木魚の音がとってもいい。
 ポクポクポクなんていう木魚じゃない。木の板をガンガン叩くんだもの。
 だからすごくリキが入ってて、サイドギターがリズムきってるみたいな、独特のリズム。
 この坂から、もうクネクネとわけがわかんなくなるくらい路地や階段が入りくんでいるの。
 昔ながらのおセンベ屋さんもあるし、銭湯もあるし、粋な料亭もあるし、道路で子供が缶ケリなんかしていて、「新宿区」とは思えない昔風の町。
 毘沙門天の「ガンガン木魚」を朝夕聞いて生きてる人たちだから、ちょっとやそっとのことじゃ驚かない。
 でも……。
 驚いていた。
 みんな、町行く人はみんな、カナしばりにあったみたいに驚いていた。
 だって、蔦屋の姐さんたちを乗せた人力車が四台つらなるその後を、鈴女が走ってるんだもの。
 着物にスニーカーだよ。着物にスニーカー!
 町の人は誰も声さえ出せずに、鈴女を見ている。
 缶のかわりに思わず自分の足をけっちゃった子供だって、泣くのをやめて見ている。
 だけど、人力車を引くのはプロのニイさんたち。
 とても、鈴女がついていけるようなナマやさしい速度じゃない。
 鈴女は着物のすそをはためかせ、顔を真っ赤にして走るんだけど、全然ダメ。
 足はもつれるし、息はあがるし、それにみんなの視線が恥ずかしくて、顔は地面を向きっぱなし。
「ガンバレ!」
「着物、たくっちゃいなッ」
「イヨッ! 蔦屋の鈴女ッ」
 沿道から声がかかり始めた。
 そのうちに、子供たちは缶ケリよりおもしろそうだと、一緒に走り出した。
 これが鈴女より全然速いんだもの……。
 子供の数はどんどん増えて、ジョギングしていたおじいさんたちまで入ってきた。
 ほとんどパレードだ、こりゃ。
 鈴女はこのまま心臓が止まってくれればいいと思った。
 坂道を大きな夕陽が照らしている。

 2つ、わからないので、質問を出してみました。

 1つ目は「木の板をガンガン叩く」。これは、なあに? 善国寺に聞いたところ、木柾もくしょうというものでした。日蓮宗では木魚はほとんど使わず、代わりにテンポが早い読経には江戸時代より木柾という仏具を使うそうです。

木鉦

 下は実際に善国寺の木柾の音です。

 2つ目は、神楽坂で人力車を使うって、本当にできるの? 平地の浅草ならできるけれど、相手は坂が多い「山の手」だよ。

 赤城神社の結婚式をあげ、人力車に乗り、そのまま下ってアグネスホテルにいくのではできる。1回だけ人力車に乗り、神楽坂を下がるのもできる。しかし、1回が30分間以上となり、人力車の観光や旅は、神楽「坂」ではまずできない……と思う。1回か2回はやることができるけれど、数回やるともうやめた……となるはず。昔は「たちんぼ」といって荷車の後押しをして坂の頂上まで押していく人もいました。

善国寺|由来

文学と神楽坂

 善国寺の由来を調べようと思って、『江戸名所図会』を見ても「毘沙門天」「善国寺」の項はまったくありません。「神楽坂」では「高田穴八幡神社」「津久戸明神」「若宮八幡」はありますが、「善国寺」はまったくありません。「行元寺」「松源寺」はあるのですが「毘沙門天」も「善国寺」もありません。なお、挿絵はでてきます。『江府名勝志』にもありません。つまり、善国寺は江戸時代はあまり知られていなかったのです。

 まず『江戸名所図会』で「神楽坂」は…

○神楽坂
同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所たびしょあり。祭礼の時は神輿しんよこの所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)
[現代語訳。主に新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年を参照]
○神楽坂
この神楽坂は牛込御門から外に行く坂である。坂の中途の右側に、穴八幡神社の御旅所がある。祭礼の時は神輿がここに渡ってくる。その時に神楽を奏するのでこう呼ばれたという。(あるいは、津久戸明神が田安の地から現在地に移った時、この坂で神楽を奏したため、または若宮八幡が近く、いつも神楽の音が坂まで聞こえたためとも伝えられる)

 なお、画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。これだけです。

 新宿歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』(平成12年)では

 神楽坂が最も栄えたのは、明治時代になってからのことで、甲武鉄道の牛込停車場ができたのをきっかけとして商店街となり、毘沙門天の縁日の賑わいとも相まって、大正時代にかけて「山の手銀座」と呼ばれました。

 また、槌田満文氏の『東京文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)では

 神楽坂毘沙門。神楽坂上の毘沙門天は牛込区肴町〔新宿区神楽坂五丁目〕の善国寺(鎮護山・日蓮宗)境内にあり、本尊は加藤清正の守護仏と伝えられる。縁日は寅の日で、明治28年に甲武鉄道(明治39年から中央線)の牛込駅が出来てからは特に参詣者が急増した。

 つまり、明治28年、甲武鉄道の牛込停車場(つまり牛込駅)ができてから、善国寺の参詣者も増えてきたといいます。

新撰東京名所図会 第41編』(1904)では

●善國寺
善國寺は肴町三十六番地に在り。日蓮宗池上本門寺の末にして鎭護山と號す。
當寺古は馬喰町馬場西北の側に在りしが。寛文十年庚辰二月朔火災に罹り。麹町六丁目の横手に移る。(今の善國寺谷)寛政九年壬子七月二十一日麻布笄橋の大火に際し。烏有となり。同五年癸丑此地に轉ぜり。
西門を入れぱ玄關あり。日蓮宗錄所の標札を掲ぐ。東門を入れば毘砂門堂あり。其の結構大ならざるも。種々の彫鏤を施して甚だ端麗なり。左に出世稻荷の小祠右に水屋あり。
本尊毘砂門天は。加藤清正の守佛なりといふ。江戸砂子に毘砂門天土中より出現霊驗いちじるしとあり。孔雀經に云。北方有大天王名曰多聞陀羅尼集に云。北方天王像其身量一肘種々天衣。左手。右手佛塔。長一丈八尺。今の所謂毘砂門天の像は即ち是なり賢愚經等に據るに。三界に餘る程のを持ち給ひ。善根の人に之を與ふといふ。是れ我邦にて七福神の一に數ふる所以か。此本尊に参詣する者多きも亦寳を獲むとの爲めなるべし。東都歳事記に。芝金杉二丁目正傳寺と此善國寺の毘砂門詣りのことを掲記して右の二ケ所分て詣人多く。諸商人出る。正五九月の初寅開帳あり。三ツあれば中寅にあり。」とあれぱ明治以前より繁昌せしものと知られたり。
[現代語訳]善国寺は肴町36番地で、日蓮宗池上本門寺の末寺であり、号は鎮護山という。昔は馬喰町馬場の西北側にいたが、寛文10年(1669年)2月に火災が起こり、麹町六丁目の横に移動した(今の善国寺谷)。寛政9年(1797年)7月21日、麻布笄橋の大火では、全て焼失。同五年、ここに移動した。
西門を入ると玄関で、日蓮宗の登録所という標札がある。東門を入ると毘沙門堂だ。この構成は大きくはないが、種々の彫刻があり、はなはだ綺麗だ。左に出世稻荷の小さな神社があり、右に手を洗い清める所がある。
本尊の毘沙門天は、加藤清正の守護仏だという。「江戸砂子」では毘沙門天は土中より出現し、霊験はいちじるしく、「孔雀経」では、北方には大天王があり、名前は多聞天という。「陀羅尼集」では北方の天王像では背丈は前腕の長さで、種々な天衣を付け、左の腕は伸ばし、地は支え、右の肘は屈し、仏教の塔を高く持っているという。長さは一丈八尺。今のいわゆる毘沙門天の像はつまり道理にかなっている。「賢愚経」等によると三界にあまる程の宝を持ち、善行が多い人ではこの宝を与えるという。わが国で七福神の一つになる由縁だろうか。この本尊に参詣する者が多いのもこの宝を取りたいためだろう。「東都歳事記」には芝金杉二丁目の正伝寺とこの善国寺の毘沙門詣りのことを記し、この二か所の参詣人は多く、いろいろな商人も出ているという。正月、五月、九月の初寅の日に毘沙門天を開帳する。三つともあれば、「中寅」になるという。明治以前から繁昌したと、知られている。

寛文十年 1670年。江戸幕府将軍は第四代、徳川家綱。
寛政九年 1797年。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。
烏有 うゆう。何も存在しないこと。
日蓮宗錄所 日蓮宗の僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職
結構 もくろみ。計画。
彫鏤 ちょうる。ちょうろう。細かい模様を彫りちりばめること。
水屋 社寺で、参詣人が口をすすぎ手を洗い清める所。みたらし。
江戸砂子 菊岡沾凉せんりよう著。1732年(享保17)万屋清兵衛刊。6巻。府内の地名、寺社、名所などを掲げて解説。
孔雀経 すべての恐れや災いを除き安楽をもたらすという孔雀明王の神呪を説いた経
北方有大天王名曰多聞 北方は大天王有り。名は多聞と曰く
陀羅尼集 諸仏菩薩の種々の陀羅尼の功徳を説いたもの
種々天衣 種々天衣を著す
天衣 てんい。天人・天女の着る衣服
臂執稍拄 臂は伸し稍は執し地は拄す。直訳では「腕は伸ばし、すこし心にかけ、地は支える」。よくわかりません。
 ヒ。肩から手首までの部分。腕
 しっす。深く心にかける。とらわれる。執着する。尊重する。大切に扱う。敬意を表する
 やや。ようやく。小さい。
 体・頭を支える
肘擎佛塔 肘は屈し、佛塔に於いて擎つ。直訳では「ひじは曲がり、仏教の塔では高く持ち続ける」。よくわかりません。
 かかげる。力をこめて物を高く持ち続ける。
是なり ぜなり。道理にかなっている。正しい
賢愚経 けんぐきょう。書跡。中国北魏ほくぎ慧覚えかく等訳の小乗経で全13巻。仏の本生ほんしょう、賢者、愚者に関する譬喩的な小話69編を集める。
 たから。宝の旧字体。貴重な物。
善根 ぜんこん。仏語。よい報いを招くもとになる行為。
東都歳事記 近世後期の江戸と近郊の年中行事を月順に配列し略説した板本。斎藤月岑げつしん編。1838年(天保9年)、江戸の須原屋茂兵衛、伊八が刊行。半紙本5冊。
初寅 正月最初の寅の日。毘沙門天に参詣する風習がある。福寅。
三ツ 正月、5月、9月の最初の寅の日でしょうか。
●毘沙門の緣日
舊暦を用ゐざる吾曹記者は。けふは寅の日なるや。はた午の日なるやを知らず。甲武線の汽車に搭し。牛込停車場に至るに隨ひ。神樂阪に當り。皷笛人を動し。燭火天を燒くのありさまを見。始て其の日なるを解す。乃ち車を下りて濠畔に出れば槖駝師の奇異草を陳じで之を鬻くあり。競賣商の高く價を呼て客を集るあり。諸店はけふを晴れと飾りて大利を博せむとし。露肆は巧みに雜貨を列ねで衆庶を釣らむとす。肩摩轂鑿、漸く阪に上り。身を挺して寺門に入れば毘砂門堂には萬燈輝き。賽貨雨の如し。境内西隅には常に改良劔舞等の看場を開き。玄関の傍にも種々の看場ありて。幾むと立錐の地なし。去て門前の勧業場靜岡館の楼上に登りて俯瞰すれば。賽者の魚貫鱗次の景況。亦一奇観なり。
境内に出世稲荷あるを以て近来午の日にも縁日を開くこととしたれば。一層の繁昌を添たり。年中この兩緣日にはか丶る景況なるも。殊に夏夜を熱閙とす。當區辯天町に辨財天ましませども。一向に參詣者なし。蓋し神の繁昌を招くにあらずして。人が神を藉りに繁昌ならしひるに因るなり。
[現代語訳] 旧暦を使っていない、われわれ記者は、今日は寅の日か、それとも午の日かわからない。そこで甲武線の汽車(今の中央本線)に乗り、牛込駅に行き、神楽坂にたどり着いて、見ると、太鼓と笛が空を舞い、燭火は天を衝き、この様子を見て、初めてその日だとわかった。お堀のほとりに出てみると、奇妙な花や変わった草を売る植木屋がいる。声高く値段を呼び、客を集める競売商もいる。今日は晴れの日だと着飾って、大利を生むとする店もいる。巧みに雑貨を売り、大衆から金を釣ろうとしている露店もある。人や車馬の往来が激しいが、なんとか神楽坂の坂に上がり、寺門に入ると、毘沙門堂には仏前に点す灯明が無数に輝き、宝の貨はまるで雨のようだ。境内の西隅には常に改良剣舞の見世物屋は開き、玄関の傍にも種々の小屋がある。立錐の余地もない。そこで門前の勧業場の静岡館の楼上に登り、俯瞰すると、お参りする人が、列をなし、並んでいる景況が見える。ほかでは見られないような風景だ。
 境内には出世稲荷があり、最近、午の日にも縁日を開くようになり、一層、繁昌している。年中、特にこの両縁日にはこんな景況が見えるが、殊に夏の夜は騒がしい。当区の弁天町にも弁財天があるが、参詣者は一向にいない。つまり神の繁昌を招くのではなく、人が神樣にいいわけをして、繁昌しているのだ。

吾曹 われわれ。われら。吾人
搭し とうする。乗る。上にのせる。積み込む。
隨ふ したがう
皷笛 こてき。太鼓と笛
槖駝師 タクダシ。植木屋の異称。ラクダの異称。
 くさ。草の総称
鬻く ひさぐ、売る
露肆 ほしみせ。露店。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
肩摩轂鑿 人や車馬の往来が激しく、混雑しているさま。
挺する 他よりぬきん出る。人の先頭に立って進む。
看場 かんば。注意してよくみる場所。見世物小屋など。
魚貫 ぎょかん。魚が串刺しに連なったように、たくさんの人々などが列をなして行くこと
鱗次 りんじ。うろこのように並びつづくこと。
近来 午の日も縁日になった日はいつなのでしょうか。『新撰東京名所図会 第41編』は明治37年(1904年)よりも昔です。区の「新宿区史・史料編」(昭和31年)の「古老談話」によれば「明治中頃」です。
熱閙 ネットウ。 人が込みあって騒がしいこと。
奇観 珍しい眺め。ほかでは見られないような風景。
藉る かりる。よる。お陰をこうむる。「藉口しゃこう」とは口実をもうけていいわけをすること。

赤城神社|赤城元町

文学と神楽坂

 牛込区赤城元町〔新宿区赤城元町〕の赤城神社は始めは赤城明神。『江戸名所図会』では

赤城神社

赤城神社

あか明神社
 同所北の裏通にあり、牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。往古そのかみ おおうじ深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫重泰しげやす、当国に移りて、牛込に住せり。又大胡を改めて、牛込を氏とし、(其居住の地は牛込わらだなの辺なり。先に弁ず。)祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり。(当社始めて勧請の地は、目白の下関口領の田の中にあり。今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり。)

[現代語訳。一部は新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年から]牛込の鎮守で、神社の境内の寺は天台宗東覚寺。祭神は上野国赤城山と同じで、本地仏は将軍地蔵菩薩という。昔、大胡氏がこの神を深く信仰し、始めは領地に祀って近戸明神と称した。その子孫重泰が武蔵国に移って牛込に住み、姓を改めて牛込氏とし(城館は牛込藁店の辺。前述した。)代々信仰してきたこの神を移し祀ったものである。祭礼は9月19日。始めに祀った場所は目白の下関口領の田圃の中であった。今も少しばかりの木立があり、これを赤城の森と呼んでいる。

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版
別当 別当寺。神社の境内にあり、供僧が祭祀・読経・加持祈禱を行い、神社の管理経営を行った寺。

 正安年(1300年)、群馬県赤城山赤城神社の分霊を早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、元赤城神社)に勧請。寛正元年(1460年)、牛込へ移動。明治6年に郷社に。郷社とは神社の社格で、府県社の下、村社の上に位置する神社。例祭日は毎年9月19日。
新撰東京名所図会』牛込区(明治37年)では

 赤城神社は赤城元町十六番地に鎮座す。社格郷社、石の鳥居あり、表門は南に面す、総朱塗、柱間二間、左に門番所あり、間口一間半奥行二間半、門内甃石一條、左に茶亭あり、赤城亭と稱し、参拝人の休憩所に充てたり。側らに藤棚一架及び桜を植ゑたり、右に卜者の宅並に格子造に住みなしたる家一と棟あり。更に進む事二十餘武、右に末社北野神社、出世稲荷、葵神社の小祠宇あり(中略)
本社間口三間奥行二間半、社の後、石の玉垣を繞らす慶応二丙寅年十一月築造する所。此辺樹木、鬱として昼猶暗し。皆年経たるなり。即ち境内の北隅、崖に臨んで清風亭あり。

新撰東京名所図会 「新撰東京名所図会」64冊(山下重民他編、明治29年9月~42年3月、「風俗画報」臨時増刊、東陽堂)
赤城亭 最近は2005年7月、神饌しんせん(お供え物)料理店が開店。2008年3月、閉店。
甃石 しきいし。道路・庭などに敷き並べた平らな石
祠宇 しう。やしろ。神社。
繞らす めぐる。周りを回る。とりまく。
慶応二丙寅年 1866年です。
 もみ。マツ科の常緑大高木。

 清風亭は貸座敷で、江戸川(現、神田川)の文京区水道町27(芳賀善次郎著『新宿の散歩道』三光社、昭和47年)に移ります。そのあとは下宿の長生館でした。明治36年、近松秋江氏は清風亭で慟く大貫ますと同棲し、明治40年6月、ますに赤城元町七番地で小間物屋を経営させていました。明治42年8月、ますに去られ、氏は『別れたる妻に送る手紙』(大正2年)を刊行し、また、大正2年10月から長生館に下宿しています。

筑土八幡神社|坂と山③

文学と神楽坂

 御殿坂、御殿山、芥坂、筑土山がでてきます。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

御殿坂(ごてんざか) 新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社の裏手、埃坂の上から東に向い、途中右にカーブして旧都電通りへ下る短い坂路で、御殿坂の名は慶安年間三代将軍家光のころ、ここに大納言家綱(世子)の御殿が造られてこのあたりの台地を御殿山と称したことによる。「東京市史稿市街篇第六」には「慶安三年十月十八日、牛込筑土御殿御普請これあるに付……」とある。また「新撰東京名所図会」には「御殿山とは今筑土山の西、万昌院の辺より旧中山備前守の邸地をいふ。寛永頃迄は御鷹野のとき御仮屋ありしなり。」と記されている。
   夕暮るる筑土八幡渡り鳥       瓊音
旧都電通り 大久保通りです
東京市史稿 明治44(1911)年以来、現在も刊行が続く江戸から東京への歴史で資料を年代順にまとめた史料集
新撰東京名所図会 『風俗画報』の臨時増刊として、明治29年から明治42年まで刊行。テーマは公園、東京総説、区、博覧会、祝典、災害、戦争など。全64編。
筑土山 現在の筑土八幡神社がある高台
万昌院 筑土八幡町34にありましたが、大正3年に中野区上高田へ移動しました。
中山備前守 現在は東京都看護協会のビルなどです。右図は「礫川牛込小日向絵図」(万延元年)から。ただし、中山備前守ではなく、地図によれば「中山備後守」です。
芥坂(ごみざか) 埃坂とも書く。御殿坂上から反対に北方東五軒町へ下る筑土八幡社裹の坂路で、坂下西側に東京都牛込専修職業学校がある。筑土八幡は往古は江戸城の平川門へんにあったのを、天正七年、二の丸普請のために現在地へ移したものといい、また田安門のあたりにあって田安明神と呼ばれていたとも伝えられる。「南向亭茶話」には「筑戸 旧は次戸と書す。往古は江戸明神とて江戸城の鎮守たり。江と次と字形相似たる故にいづれの頃よりか誤り来りしなるべし。」とある。祭神は素戔嗚尊であるが、後代に平将門を合祀したという。社殿は戦火で焼けて戦後再建された鉄筋建築である。
東京都牛込専修職業学校 現在は筑土八幡町4-27で、東京都看護協会のビルです。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔
素戔嗚尊 すさのおのみこと。須佐之男命。日本神話の神。天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐やまたの大蛇おろちを退治し、奇稲田姫くしなだひめを救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣あまのむらくものつるぎを天照大神に献じた。

 また、横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

御前坂 新宿区筑土八幡町、八幡社裏手、芥坂の頂上から、さらに南のほう、もと都電の通りへ下る坂。慶安五年のころ、徳川家綱の大納言時代、ここに牛込御殿ができた
芥坂  新宿区筑土八幡町から東五軒町へ下る坂。筑土八幡社の西わきを北へ下る坂

 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では

内田宗治著「明治大正凸凹地図」実業之日本社、2015年

筑土八幡町
(中略)津久戸八幡の西に続く高台を御殿山という。太田道濯の別館があったという説(江戸往古図説)もあるが、寛永の頃、三代将軍家光の鷹狩時の休息所として仮御殿があったという説もある(南向茶話・江戸図説)。明暦四年(一六五八)安藤対馬守が奉行となってこの山を崩し、その土でこの北の東けんちょう、西五軒町、水道すいどうちょうなどの低地を埋め立てた(町名誌)。
 筑土八幡西に上る坂を御殿坂ごてんざかという。御殿山に上る坂から名付いた。その坂を上りきり、北方の東五軒町に下る坂をごみ坂(芥坂、埃坂)という。ごみ捨て場があったので名付いた(町名誌)。



筑土八幡神社|文化財②

文学と神楽坂

 筑土八幡神社の文化財の説明です。神社に入る前の坂を登り終える途中で、鳥居が見えてきます。写真のような石造りの鳥居です。
 鳥居の左側に説明板があります。

文化財愛護シンボルマーク新宿区登録有形文化財 建造物

石造いしぞう鳥居とりい

         所 在 地 新宿区筑土八幡町二ー一
         指定年月日 平成九年三月七日
 石造の明神型みょうじんがた鳥居とりいで、享保十一年(一七二六)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ三七五センチ、幅四七〇センチ、 三五センチ。
 柱に奉納者名と奉納年が刻まれており、それにより常陸ひたち下館しもだて藩主はんしゅ黒田豊前守ぶぜんのかみ直邦により奉納されたことがわかる。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財

庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
         指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがた)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
   平成九年五月
新宿区教育委員会

明神型 柱や笠木など主要部材に照りや反りが施された鳥居。
庚申塔 庚申信仰でつくった石塔。江戸時代に流行った民間信仰で、庚申の日の夜には、長寿するように徹夜した。細かくは「道ばたの文化財 庚申塔」を参考に。
舟形光背 ふながたこうはい。仏像の光背(仏身からの光明)のうち、船首を上にして舟を縦に立てた形に似ている光背。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

34、珍らしい庚申塔
      (筑土八幡町七)
 筑土八幡境内には珍らしい庚申塔がある。高さ約1.5メートル、巾約70センチの石碑で、碑面にはオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。一猿は立って桃の実をとろうとしているところ、一猿は腰を下ろして桃の実を持っており、アダムとイブとを思わせるものである。下の方には、判読できないが、十名の男女名が刻まれている。
 寛文四年(1664)の銘が刻んであり、縁結びの神とか、交通安全守護神として、信仰が厚かった。
 またこの庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。そのような話が作られたのは、矢来町の正雪地蔵と同じように、袋町や天神町に正雪が住んだことから結びつけたものであろう(52参照)。
 庚申塔の研究家清水長輝は、これは好事家が幕末につくったものではないかといっている。
 その理由として、庚申塔としては余りにも特異であり、猿と桃との結びつきは元祿からと思われること、年号を荒削りの光背に彫ることは、普通はあり得ないこと、などをあげている。この庚申塔は、もと吉良の庭内にあったものを移したというが、廃寺になった白銀町の万昌院にあったものではないかという。
 「参考」新宿郷土研究第一号  路傍の石仏

由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。江戸へ出て塾を開き楠流軍学を講義して門弟は多数。1651年徳川家光の死に際し、幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企図。事前に露見し駿府で自殺。
清水長輝 おそらく清水長輝著「庚申塔の研究」(大日洞、1959年)でしょう。
光背 こうはい。仏身から発する光明を象徴化したもの。後光ごこう 、円光、輪光などともいう。
万昌院 明治40年の 郵便局「東京市牛込区全図」ではまだありました。(下図の赤丸)

万昌院 東亰市牛込區全圖 明治40年1月調査 郵便局

筑土八幡神社|田村虎蔵旧居跡④

文学と神楽坂

田村虎蔵

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある小さい小さい神社ですが、しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財としては巨大です。
 ここでは「田村虎蔵先生顕彰碑」について。
 筑土八幡神社の入口で「田村虎蔵先生顕彰碑 入口」とあります。

 門を通り、登りつめると、左手に「田村虎藏先生をたたえる碑」がでてきます。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があり、碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と書いてあります。

顕彰 けんしょう。隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰する。
視学 しがく。旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たった。

 以前は、文部省の唱歌教科書ではどれも漢文調で難しい歌詞が多く、一方、軍歌では乱暴な言い回しが多かったといいます。これに対して、田村虎蔵氏は優しい言葉で、優しい詩を書き、言文一致の唱歌の創始者の一人でした。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では、

32、作曲家田村虎蔵旧居跡
     (筑土八幡町三一)
 大久保通りから左手に行く路地の坂道を上る。坂を上りつめると、右が筑土八幡となるが、その左側は明治、大正時代の小学唱歌の作曲家田村虎蔵が明治39年12月から昭和18年まで住んでいたところで、新宿区の文化財となっている。
 代表的なものは、「金太郎のうた」、「花咲爺」、「大黒様」、「青葉の笛」、「一寸法師」、「浦島太郎」などで、今でも愛唱されているものが多い。
 昭和40年11月、教え子たちは、先生の23回忌を記念して、その徳をしのび、先生がよく散歩していた隣の筑土八幡境内に顕彰碑を建てた。大理石で、みかげ石台の上に据えられ、碑面には「田村庭蔵先生をたたえる碑」というタイトルの下に、「金太郎のうた」の音符と歌詞が刻みこまれ、その下に簡単に氏の略歴を刻んだスマートなものである。
 なお田村氏子孫は、昭和44年10月15日、神楽坂6の21に移転した。

〔参考〕新宿区文化財


坂道 昭和5年の「牛込区全図」。赤は筑土八幡町31(現在は筑土八幡町4の24)。青は登っていく坂道で、坂は「御殿坂」といいます。

 筑土八幡神社から筑土八幡町31番地(現在は4-24)までに行く場合は、筑土八幡神社を右に越えて、西北西に下り、神社から出ると、目の前に「新宿区指定史跡 田村虎蔵旧居跡」があります。とてもとても小さく標示されています。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定史跡
田村たむら虎蔵とらぞうきゅう居跡きょあと
          所 在 地 新宿区筑土八幡町31番地
          指定年月日 昭和60年3月1日
 作曲家田村虎蔵(1873~1943)は、明治39年(1906)から、その生涯をとじるまでの37年間、この地で暮らし、作曲活動を行った。
 虎蔵は、明治時代の言文一致げんぶんいっちの唱歌運動を石原和三郎、巌谷いわや小波さざなみ、芦田恵之助、田辺友三郎らと共に展開し、その普及に尽力した。小学唱歌を主に作曲し、「金太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「花咲はなさかじじい」など、現在も愛唱されているものが多い。
 旧居は太平洋戦争時の戦災で焼失したが、筑土八幡神社境内には虎蔵の功績をたたえた記念碑がある。
 平成25年3月  新宿区教育委員会

神楽坂若宮八幡神社

文学と神楽坂

 神楽坂若宮八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、(みなもとの)頼朝(よりとも)が戦勝を祈念して建立しました。文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願したと伝えられています。ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは単純に鎌倉を出発しここで一日の行程が終わったのでしょう。
 10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退していましたが、文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌(どうかん)が江戸城鎮護(ちんご)、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもることのため、若宮八幡宮を再興しました。なお、太田道灌が作った江戸城は康正2(1456)年開始、翌長禄1(1457)年4月完成しています。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。

江戸名所図会の若宮八幡

 明治2(1869)年の神仏混合禁止今により若宮八幡神社となりました。境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木があったようです。

明治20年

 明治20年ごろでは、若宮小路があり、これは()(れい)と若宮八幡神社を結ぶ小路です。

新撰東京名所図会」第42編 若宮小路。右側に若宮八幡神社が見える。

 ほかに下に行くと庾嶺坂。左には新坂、右は小栗横丁、上は出羽様下があります。また若宮神社の前は車は通れません。つまり、アグネスホテルから車で直接若宮小路にははいれません。アグネスホテルは右の地図では大きな「若宮町」の「宮」の場所にあります。
 さらに若宮小路では北から南に一方通行です。
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、黒塀は倒壊しました。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。

 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。その時代の写真は

若宮旧

 その後、社殿を西側に寄せ、東側は社務所を兼ねたマンションになりました。現在の神社は……

現在の若宮

内部

 例祭は9月14~15日、神事・行事で中祭は1月15日と6月15日です。

 また右側の立て看板ではこう書いています。

縁起録

縁起録

神楽坂若宮八幡神社縁起録

 若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で
   御祭神 仁徳天皇
       応神天皇
当社の御出来は
若宮八幡宮は若宮坂の上若宮町にあり(或は若宮小路ともいへり)別当は天台宗普門院と号す 傅ふに文治五年の秋右大将源頼朝公奥州の藤原泰衡を征伐せんが為に発向す其の時当所にて下馬宿願あり後奥州平沼の後当社を営鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を移し奉ると云へり(若宮は仁徳天皇なり後に応神天皇に改め祭ると云ふ)文明年間太田道灌江戸域鎭護の為当社を再興し社殿を江戸城に相対せしむるなり当社は文明の頃迄は大社にして神領等あり美れいなりしという
神域は黒板塀の神垣南に黒門あり門内十歩狛犬一対(明和八年卯年八月奉納とあり)右に天水釜あり拝殿は南に面する瓦葦破風造梁間桁行三間向拝あり松に鷹象頭に虎を彫る「若宮八幡神社」の横額源正哥謹書とあり揚蔀(アゲジトメ)にて殿内格天井を組み毎格花卉を描く神鏡晶然として銅鋼深く鎮せり以て幣殿本社に通ず本社は土蔵造りなり
本殿東南に神楽殿あり瓦葦梁間二間桁行二間半勾欄付「神楽殿」の三字を扁し樵石敬書と読ま 背景墨画(スミエ)の龍あり落款梧堂とあり境内に銀杏の老樹あり
明治二年神佛混淆(コンコウ)の禁令あるや別当光明山普門院(山州男山に同じ)復飾して神職となる
例大祭は九月十五日 中祭 5月15日
          小祭 1月15日 に行はれ社務所は本社の東に在り
現在氏子は若宮町神楽坂一丁目二丁目三丁目の四ケ町なり。


袋町|光照寺

文学と神楽坂

 光照(こうしょう)()です。はいる手前で右手は光照寺の碑、左手は新宿区登録史跡があります。場所はここです。

光照寺

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録史跡
(うし)(ごめ)(じょう)(あと)

    所 在 地  新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和六十年十二月六日

 (こう)(しょう)()一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
 堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
 牛込氏は、赤城山の(ふもと)上野国(群馬県)勢多(せた)大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とする。天文年間(一五三二~五五)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文二十四年(一五五五)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
 現在の光照寺は正保二年(一六四五年)に神田から移転してきたものである。
 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「(しょ)(こく)(りょ)(じん)()(よう)()」、「便(べん)(べん)(かん)()()()の墓」などがある。

平成七年八月     東京都新宿区教育委員会

 では中に入ってみると最初に鐘楼(しょうろう)堂が見えます。やはり説明文が出ています。

 光照寺は慶長八年(一六〇三年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保二年(一六四五年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。
 鐘楼堂は、明治元年(一八六八年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、六十年の歳月を経て昭和十二年(一九三七年)に復興を見ましたが、昭和二十年(一九四五年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。
 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。

    平成五年(一九九三年)一月 浄土宗 光照寺


鐘楼堂と本堂

水 拝啓、父上様では第9話で出てきます。

石畳の道
  除夜の鐘がゴーンと、神楽坂に流れる。
 り「2007年の元旦を、僕は1人でアパートで迎えた。
  地蔵坂にある光照寺から響く除夜の鐘が、神楽坂一帯に流れており」
神楽坂・裏路地
  門松。
  しんと眠っている。
 り「拝啓。
  父上様。
  除夜の鐘です」

 では左側から右側に見ていきましょう。まず、Google航空写真です。

 ①最初は左奥にある諸国旅人供養碑です。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 歴史資料 諸国(しょこく)旅人(りょじん)()(よう)()

         所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日  昭和61年6月6日

 神田松永町の旅籠(はたご)()紀伊(きの)(くに)()主人(しゅじん)利八(りはち)が、旅籠屋で病死者の菩提(ぼだい)をともらうため、文政八年(一八二五年)に建立(こんりゅう)した供養碑である。
 はじめは、文政二年(一八一九)から建立までの七年間に死亡した六名の名が刻まれ供養されたが、その後死亡者があるたびに追刻され、安政五年(一八五八)まで合計四十九名の俗名と生国が刻まれた。
 当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。
 なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。

   平成七年八月 東京都新宿区教育委員会

諸国旅人供養碑諸国旅人供養碑2

②狂言師「便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)」は諸国旅人供養碑のすぐ右奥に建っています。

便々館湖鯉鮒の墓文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)

  所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成二年三月二日

 江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延二年(一七四九)に生まれた。
 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高一五〇俵、牛込山伏町に居住した。
 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。
 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政二年(一八一九)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
 文化一五年(一八一八)四月五日没した。享年七〇歳であった。
 墓石は、高さ一五二センチである。

     平成三年一月 東京都新宿区教育委員会

 なお、大田南畝、別号は蜀山人はここで転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を1句詠みました。

こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしょう光照寺前

③これから少し前に行くと、奥右筆(おくゆうひつ)の「大久保北隠(ほくいん)」の墓があります。石庭のようにいくつもの石が並べてあり、一見して墓には見えません。徳川家の奥右筆であり、茶道の奥義を極めた大久保北隠の石庭風の墓です。大正6(1917)年没、享年81歳。 奥右筆という肩書きについて右筆(ゆうひつ)とは、武家の秘書役を行う文官のこと。徳川時代には一般行政文書の作成を行う既存の「表右筆」と、将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分かれます。特に奥右筆は表右筆より一段上の位です。将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっていました。 大久保北隠墓

④さらに右に進みます。奥田抱生墓 本堂の奥に三角形の形をした奥田抱生墓があります。その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者です。 著書には「今瓦譜(いまがわらふ)」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。 昭和9(1934)年没、享年75歳。
 さらに中央に進みます。 森敦の墓森敦の碑文

⑥森(あつし)は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞しました。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は

われ浮き雲の如く
放浪すれど こころざし
    常に望洋にあり
      森 敦

⑦本堂左側に東京都教育委員会が案内板2枚を書いています。

木造地蔵菩薩坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 彫刻 (もく)(ぞう)()(ぞう)()(さつ)()(ぞう)
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成9年3月7日
 (よせ)()造り、(くろ)(うるし)塗り。像高三一センチ。一三世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 寺伝によると、この像はもともと近江国()()(でら)にあり、()()()天皇の皇后が弘安(こうあん)年間(一二七八~八八)に、のちの()二条(にじょう)天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産(たいさん)地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺(ぞうじょうじ)に移され、正徳(しょうとく)年間(一七一一~一六)に増上寺の(まつ)()である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。
木造十一面観音坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 彫刻
 (もく)(ぞう)(じゅう)(いち)(めん)観音(かんのん)坐像(ざぞう)
登録年月日 平成9年3月7日
 一木(いちぼく)造り、素木(しらき)仕上げ。像高七〇センチ。一八世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食(もくじき)明満(みょうまん)である。明満(一七一八~一八一〇)は、円空(えんくう)とならび称される(ぞう)(ぶつ)(ひじり)で、全国を旅して(なた)彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成九年五月 新宿区教育委員会

 地蔵坂のいわれになっている子安地蔵は本堂に安置しています。子安地蔵は別の場所で書いています。

阿弥陀三尊来迎図文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画 ()()()(さん)(ぞん)(らい)(ごう)()
所 在 地 新宿区袋町十五番地
指定年月日 平成十年二月六日
 絹本(けんぼん)着色、木製の板に貼り付けられた状態で、厨子(ずし)に納められている。縦一〇二・二センチ、横三九・四センチ(画像寸法)。
 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る)様子を描いたもので、一四世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
法然上人画像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画
法然ほうねん上人しょうにん画像がぞう
指定年月日 平成一〇年二月六日
 絹本(けんぼん)着色、掛軸(かけじく)装されている。縦八九・五センチ、横四一・三センチ(画像寸法)。 浄土宗の宗祖(しゅうそ)法然上人の肖像で、一五世紀後半(室町時代)の作品と推定される。    平成一〇年三月 新宿区教育委員会

海ほおずき

⑦自動車が駐車する場所で光照寺の鐘楼堂の右隣には「海ほおずき供養塔」が建っています。昭和16年7月に東京のほうずき業者が建てたものです。 海ほおずきとはテングニシという巻き貝の卵嚢です。この卵嚢を口に入れてキュッキュと音を出して遊びます。神楽坂の縁日で飛ぶように売れたため業者が供養しました。 ここの檀家にその業者がいて、そこで都内販売同業者41店主が発起人になってやることになり、毎年7月の浅草でほおずき市が終わると供養をしていました。現在住職がひとりで盆に供養しています。

⑧最後に右奥にある出羽の松山藩主(山形県飽海(あくみ)松山(まつやま)(まち))酒井家(大名家)の墓です。広さ150坪におよびます。現在は出入りはできず、外から内部を覗くだけです。 出羽守酒井家の墓石

   お知らせとお願い
此れより先立ち入り禁止

墓石が古く、先の東日本大震災により1部転倒し大変不安定
で危険になっております。
関係者以外立ち入りを禁止いたします。

               当山住職

 平松南氏は2004年06月16日「神楽坂をめぐる・まち・ひと・出来事」の一章でこう書いています。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。末裔さんは恬淡として静寂であった。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。

 切支丹の仏像については別に書きます。鈴木桃野の墓石の場所はまだ不明です。


ひめ小判守|毘沙門天

文学と神楽坂

 まず「ひめ小判守」について。神楽坂アーカイブスチームの樋川豊氏は「かぐらむら」65号にこう書いています。

 江戸時代…百足は毘沙門天のお使いで、百の足で福をかきこみ、開運・招福のご利益をもたらすと信じられていました。…山の手随一の賑わいだった神楽坂の毘沙門天では、「ひめ小判守」という名の百足小判が評判で「新撰東京名所図会」にも小判を手にとる紳士が描かれています。「財布に入れると小銭に不自由しない」とされたのですが、寅の日の縁日がなくなるとともにひめ小判も姿を消します。
 昨年、私たち神楽坂アーカイブスチームは毘沙門天善国寺様を取材した際、「ひめ小判守」の事を知り残念に思っていましたが、先日、嶋田ご住職様から「ひめ小判守を復活する」というご連絡を頂きました。お聞きすると百年振りの復刻で、ご開帳の時限定でお配りするとか。

新撰東京名所図会」の絵にある善国寺毘沙門堂縁日の画(明治37年1月初寅の日)では
新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画

新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画2

 ここで中央の男性はよく見ると 「小判を手にとる紳士」なのかなと、まあそうなのかなあ、と思えます。
 で、本物の現在のひめ小判守は、結構小さく、4cm x 2.5cmで、値段は1000円です。これで交通安全……ではなくって、開運・招福は大丈夫。寺務所で買うことができます。
ひめ小判守ひめ小判守2ひめ小判守3
 紅谷研究家 谷口典子さんに感謝します。ありがとうございました。

善国寺|毘沙門天

文学と神楽坂


善國寺

 善國寺ぜんこくじです。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。

 この前に標柱があります。

かぐざか
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

となっています。詳しくはここで

 では中に入ると……

 善國寺毘沙門天(びしゃもんてん)です。別名を多聞(たもん)天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。

 明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。

 昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の仮本堂と毘沙門堂を再建します。昭和46年に新しい本堂と庫裡、書院などを建てていて、落慶式を行いました。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。

 1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。

 文化財についてはここに。4月頃、藤棚が開きます。

「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。ema 『続日本紀』には神の乗り物、(しん/じん)()を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。

 木柾もくしょうを叩いて読経します。

「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足(むかで)ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。

 中を読むと

 往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足(むかで)と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。
このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。
皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。

ひめ小判

 小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は

神楽坂
令百由旬内無諸衰患
南無 開運・除厄 大毘沙門天守
受持法華名者福不可量
善国寺

と書いてあります。
 さらにひめこばんについて、まとめてみました。

児玉誉士夫建之

山門の右側の柱に「児玉誉士夫建之」

 ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
  昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。

 もう一つは境内のトイレのそばで
 ○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主

とかかれた慰霊塔の
 昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫

と書いてありました。

ireihi

 家畜慰霊碑は

東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部

と書いてあります。

浄行菩薩jpg 本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。

 またその奥、出世稲荷に小さな社があります。
 また書院では隔月で落語をやっています。
拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では

毘沙門前
   通りをつっ切り境内へ入る一平。


毘沙門に

 最後に下図は1993年の神楽坂。

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)