カテゴリー別アーカイブ: 神楽坂1丁目

みちくさ横丁

文学と神楽坂

 平成10(1998)年『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では…

みちくさ横丁坂崎 神楽小路に出る前に、「大仙」の入っている建物の階段を上って神楽小路に出る、あれはおもしろいですね。
井上 あれは道というか、ひとの建物の中を通り抜けたわけですよ。本来は映画館の通りを通るべきでしょうね。
坂崎 ぼくは、夜、あの建物の中を通って神楽小路に出ることがありますよ。東南アジアの街を歩いている気分になる。新宿のゴールデン街みたいな感じもある。
林  そのミニ版みたいでね。昔は、いまのギンレイホールの隣のビルのあるあたりは湿地帯で、きれいな湖水の池があった。そして軽子坂をはさんだ向かいにある今のルコビルは升本さんの倉庫だった。その前には土俵があり、相撲大会などがあったんです。

神楽小路から見たみちくさ横丁

「大仙」とは外堀通りの2階でやっていた「玄来がゆ大仙」のことです(神楽坂青年会「神楽坂まっぷ」1985年)。外堀通りのビルから神楽小路に出る道路について、これはまだありますが、鍵かかかっていて通れません(下図の左)。また、ワインバーのル・トランブルー(Le Train Bleu)(2018年4月からは神楽坂唐揚げ製造所)は1階からでも2階からでも通れるようです(下図の左右)。「神楽小路商店街」の説明で、「神楽小路の中にさらに『みちくさ横丁』が分岐して、そこが袋小路になっているところも、とてもおもしろいのです」と書いてありますが……

左は2階のみちくさ横丁から見たもの、右は1階の外堀通りから見たもの

「みちくさ横丁」という名前も、平成7年(1995年)、ゼンリンの住宅地図にはなく(下図の左)、平成8年(1996年)にはありました。まあ、大家さんが決めて、看板をかければいいだけのことですから、これは簡単。

 平成15(2003)年には「神楽坂まちの手帖」第2号の小野塚邦子氏の「神楽小路に今宵も集う」で……

軽子坂へ行く手前、右手にみちくさ横丁がある。両手を伸ばすと本当に届きそうな(幅の)この路には、昔ながらの面影を今に残した店が所狭しと立ち並ぶ。 3坪程の「土筆」や「みっちゃん」等、新聞や雑誌の記者で賑わうお店が多い。

1990年、ゼンリン「住宅地図」

 なお、最初の「升本さんの倉庫」だった建物というのはおそらく「揚場ビル」のことなので、「ルコビル」はよくわかりません。この「揚場ビル」は神楽坂一丁目ビルの北側、つまり軽子坂を超えた北側にあります。写真では右側の真ん中です。……と書いたところ下のコメントが出てきました。飯田橋升本ビルをルコビルと呼んだようです。

神楽小路

文学と神楽坂

 平成10(1998)年『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では…

阿久津 スタートして、まず「神楽小路」に向かいましたね。
井上  これは神楽坂としては少し異質じゃないですか。粋というより、戦後のエネルギーを感じるというか。
林   あそこは昔からあまり変わっていない。

 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、震災前の当時、大正11(1922)年頃は「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

 おそらく戦後になってから「神楽小路」と名前が変わります。最初は頭上のアーチ看板でしたが、それが標石に変わったのは平成18年です。

 平成18(2006)年、「神楽坂まちの手帖」第13号「独自に生み出した”老舗”の味」では

 2006年3月末、「神楽小路」の名を刻んだ石柱が完成した。「紀の膳」さんの脇の小路に一歩足を踏み入れる時、丸みを帯びたその石柱を無意識に撫でていたとしても不思議はない。つるんと気持ちの良い触感だ。
 「さっきね、石柱にもたれて立ってる人がいたんですよ」。そんなことを、殊更嬉しそうに言うのが、ラーメン屋「黒兵衛」店主であり、神楽小路親交会の会長でもある大野雄一さん(50歳)だ。彼の店は、その神楽小路を入ってすぐのところにある。
 もともと頭上にあった神楽小路の名を示す看板が古びて、いよいよ危険になってきた去年、それに変わるものを作ろうと中心となって奔走してきた。(神楽小路)の字体は、平野甲賀さんにお願いしたというこだわりようだ。

平野甲賀 ひらのこうが。ブックデザイナー。1964年から1992年まで晶文社の本の装丁を一手に担ってきた。生年は1938年。

 西村和夫氏の「雑学神楽坂」第7章「神楽坂を上がる」(角川学芸出版、平成22年)では

 紀の善の角を入ると神楽小路である。軽子坂に抜けるこの道は以前「紀の善横町」と呼ばれていたが、いつしか大衆的な飲み屋、中華料理、飲食店が雑然と並び、夜は人通りが多くなり神楽小路と名を変えた。紀の善前に「神楽小路」の石碑が建っている。

 ここに入ってから、「みちくさ横丁」がでてきます。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈①


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。
 「牛込界隈」の全部は著作権の関係で、引用できません(と思います)。そこで、そのうち一部を引用します。

   神楽坂
 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、二十年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば二十年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

富士見二丁目

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。

神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。
警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。
最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治三十一年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治三十一年十月までは、東京専門学校から明治ニ十四年十月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治三十九年一月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。

東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和四年春からのことで、その後昭和八、九年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正十二年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後二十四年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。」と書いています。

飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

牛込橋

文学と神楽坂

北西の「神楽坂下」から南東の牛込見附跡までにある橋を牛込橋といいます。

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 千代田区では交番の脇の標示に…

牛込橋

牛込橋

牛 込 橋
 この橋は、「牛込橋」といいます。
『御府内備考』によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込口」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と牛込方(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
 最初の橋は、寛永十三(一六三六)年に外堀が開かれた時に阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。
 現在の橋は、平成八年三月に完成したもので、長さ四六メートル、幅一五メートルの鋼橋てす。
 平成八年三月
千代田区教育委員会

 最初は広重の「どんどんノ図」の一部です。神田川を遡る荷船はこの「どんどん」と呼ぶ牛込御門下の堰より手前に停泊し、右岸の揚場町へ荷揚げしました。天保年間(1830-44)後期の作品です。

  団扇絵3

 次は明治4年(1871)の橋で、「旧江戸城写真帖」に載っている写真です。太政官役人の蜷川式胤が写真師・横山松三郎と絵師・高橋由一の協力を得て、江戸城を記録した写真集です。湿式コロジオン法といわれる撮影技法を用い、感光能力に優れ、取り扱いも簡便、画像が鮮明で保存性もよかったといいます。

牛込門

東京実測図。明治28年

東京実測図。明治28年

 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近でした。駅の建設が終わると、下の橋もできています。翌年、飯田町駅も開業されました。

 次は明治後期で、小林清親氏の「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」



 さらに明治42年(1909年)の牛込見附です。(牛込警察署「牛込警察署の歩み」、1976年) L

 1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 また、牛込橋と関係はないですが、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。牛込橋も変更の可能性があります。新飯田橋駅

牛込見附(牛込御門)跡

文学と神楽坂

 江戸城の外郭につくった城門を橋自体も含めて「見附(みつけ)」、「見付」といいます。「牛込見附」は「牛込御門」と同じです。現在では牛込見附は千代田区の場所ですが、明治初期を見ると牛込橋の半分は新宿区のものでした。見附は要所に置かれた枡形(ますがた)(升形)がある城門の外側で、本義は城門を警固する番兵の見張所ですが、転じて城門の意味となりました。

牛込見附の図

牛込御門の図。正しくは「江戸城三十六見附絵図集成」



「枡形」とは石垣や土塁、水堀や空堀で四方を囲った防衛施設です。二方に出入口をつけ、もう二方へは進めないようにしました。高麗門(こうらいもん)をくぐって枡形に入った正面に小番所が、渡櫓(わたりやぐら)下の大門を抜けた正面に大番所が置かれ、警固の武士が昼夜詰めていました。

枡形

枡形

 外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。田安門から上州道への要衝にあたります。別名、「楓の御門」、「紅葉御門」とも呼びますが、紅葉御門の証拠はないと書かれています(東京名所図会、第41編、東陽堂、1904年)。

千代田区は……

牛込門

クリックで拡大 http://www.emuseum.jp/detail/100813/061

牛込見附(千代田区)

牛込見附。クリックで拡大

 史跡 江戸城外堀跡
   牛込見附(牛込御門)跡
 正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のようにふたつの門を直角に配置した「桝形門」という形式をとっています。
 この牛込見附は、外堀が完成した寛永13年(1636)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。 これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。%e6%9d%be%e5%b9%b3%e9%98%bf%e6%b3%a2%e5%ae%88 江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています.
 その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。
 足元には、かつての牛込見附の跡をイメ一ジし、舗装の一部に取り入れています。

千代田区   

 鈴木謙一著「江戸城三十六見附を歩く」(わらび書房、2003年)では

 牛込門の枡形は、JR飯田橋駅西口の改札口を出た左側のちょうど牛込橋を渡り終えたところにあった。
 枡形は間口一三間(約二五・六一メートル)、奥行一三間(約二五・六一メートル)の正方形で、高さは二間四尺(約五・五メートル)だった。
 枡形門に通じる橋は、両岸から土橋が突き出し、中央部のみが平木橋(ひらきばし)になっていたという。このような工法は、この牛込門のほかに市ヶ谷門や四谷門などでも採用されているが、そのわけは、江戸城の地形が西高東低であり、この間の堀の水位が異なることから土橋にしてダムの役目を与えたためで、中央部を橋にしたのは水門とするためだった。
 高麗門の間口(柱内)は二間四尺(約五・一五メートル)。渡櫓の櫓台は石垣の高さが二間三尺(約四・八五メートル)、幅が二間(約三・九四メートル)、長さが二一間(約四一・三七メートル)で、門扉の幅が二間二尺三寸(約四・六四メートル)だった。
 枡形を構築したのは阿波国徳島藩の蜂須賀忠英で、完成は寛永一三年(一六三六)。高麗門は寛永一五年(一六三八)に出来上がっている。
 橋のたもとの交番脇に、枡形に使用された石が展示されている。その石をよく見ると「阿波乃國」と彫られており、蜂須賀氏によって築かれたことを物語っている。
 牛込門の枡形は明治になって破壊されてしまったが、幸いにも両側の石垣の一部が残された。これは外堀の門では唯一の場所であるが、牛込橋側から見る石垣と、堀の内側の富士見町教会側から見る石垣とでは表面の模様が異なっているのが分かる。
石垣 一口に石垣といっても使用する石の形と、積み方によって表情を変えるのである。
 使用する石の場合だと三種類に分けられ、自然石がそのまま使用されていると「野面(のづら)」と呼び、石を打ち砕いて石と石の接着面を増やして隙間を少なくしたものを「打込接(うちこみはぎ)」と呼んでいる。この場合の「接」は「はぎ」と読み、接着とか接合といった意味で、この接着面を完全に成形し石と石の間の隙間をまったく無くしたのを「切込接(きりこみはぎ)」という。
 このような石を一個一個積み上げていくのだが、積み方にも色々あったようで、積み上げていく石の横の線(接着面)が一線になるようにしたのを「布積(ぬのづみ)」と呼び、横の線にこだわらないものを「乱積(らんづみ)」と呼んでおり、「布積」と「乱積」を併用したものを「布積(ぬのづみ)崩積(くずれづみ)」と呼んでいる。
 このほかにも、六角形に完全に成形し隙間無く規則的に積み上げた「亀甲積(きこうづみ)」、石の大小にはこだわらずに完全に成形した石を積み上げる「備前積(びぜんづみ)」などがあり、石の積み方には入手できる石の種類や地方によっても特色があるようだ。
 また、石垣の隅を積み上げる方法として「算木積(さんぎづみ)」というのがある。これは、長方形に完全に成形された石を交互に積み上げ、石垣隅の縦の縁が真っ直ぐな線を描くようにするものである。こうすることで見た目が綺麗になるばかりでなく、強度も増して崩れにくくなる。堀の内側の富士見町教会側から見える石垣は、この「算木積」と「打込接(うちこみはぎ)乱積(らんづみ)」を合わせたものといえるだろう。
石垣(写真) この牛込門は内堀の田安門から来る道と繋がっている。そして、ここから城外に出て、現在の神楽坂通りを進む道は、太田道灌の時代からあったもので、上州道と呼ばれていた。
 また田安門へ向かうと、途中の数力所で緩やかにカーブしているが、江戸切絵図を見ると当時の屈曲は現在のように緩やかでなく、はっきりとした鍵形に曲がっていたようだ。
1980年の牛込見附交差点

1980年の地図。「牛込見附」交差点と呼んでいた。

 しかし、「牛込見附」という言葉はこれだけではありません。市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)をも指し、さらに「神楽坂下」交差点も一時「牛込見附」交差点と呼び、交差点や、この一帯の場所も「牛込見附」と呼びました。

 例えば、『東京地名小辞典』(三省堂、昭和49年)では、「牛込見附」として「江戸城外堀をまたぐ城門にちなむ地区名。江戸城内から繁華街神楽坂に至る通路上に位置する」と書いてあります。1984年になると「神楽坂下」になっていますので、おそらく1980年初頭までは地区名として「牛込見附」という言葉は使っていたようです。下の写真も「牛込見附」として使っています。

佐藤嘉尚「新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡」生活情報センター、2006年

寿徳庵[昔]|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

新宿区教育委員会が書いた『古老の記憶による関東大震災前の形』(神楽坂界隈の変遷、昭和45年)では下の左図で「菓子・寿徳庵」。場所はここ

昭和12年の『火災保険特殊地図』(都市製図社)では下の右図で「壽徳庵」です。

「昭和初期の神楽坂」(「牛込区史」昭和5年)では左側の土蔵づくりの家でした(下の写真)。
神楽坂昭和初期

安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では「壽徳庵――坂の左側角点。菓子屋の二階が喫茶室になつてゐます。簡素な中にも落付きがあつて、女學生などにも這入りよい店です」。現在は「スターバックス」です。

現在は「スターバックス」です。
スターバックス

赤井|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 新宿区『新修新宿区史』(昭和42年)で、明治40年代の神楽坂入口にあった「赤井」です。足袋のマークに大きな「人」、それから「三」でした。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では「ずんぐりした足袋の形をした白地の看板には黒い文字で山形の下に赤井と記されていた」といっています。「人」を山形と書いたわけです。

赤井

 大正時代の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」にはここです。

 昭和5年の「牛込区史」では、「昭和初期の神楽坂」として、向かって右側が赤井です。やはり赤井の「ずんぐりした足袋の形をした白地の看板」が見えます。左側は寿徳庵です。

神楽坂昭和初期

 新宿区の「ガレキの中から、30年のいま…… 写真集 新宿区30年のあゆみ」(昭和53年)で、この「現在」では「Akai」になっています。また左側はパチンコ店「ニューパリ―」ですガレキの中から、30年のいま
 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」では

 足袋屋
 その頃の足袋屋ってものは夏冬なしに忙がしかったものです。夏一生懸命作っておいたものを冬には全部さばききってしまいます。夏からやっておりませんと間に合わないのでございます。何しろ昔はミシンてものがありませんので皆手縫いでございますから夏からやっておりませんと時間的にも労力的にも間に合いません。そこで足袋の甲つくりなんか、全部下職に出しました。今でいうなら家庭内職とでも申しましょうか。出来上った品物は店でさばいておりましたが縁日だからといって特に売上げが多いということはありませんでした。私ども(赤井足袋店)などはむしろ縁日には植木屋にはびこられてしまいますので店商い(みせあきない)の方はさっぱりでした。ほかのところでもそうなんでしょうが町がにぎわうので皆さんが喜んでいました。考えてみるとやっぱりおおらかとてもいうんでしょうね。
 手前ともにおいで下さるお客様は、お屋敷の方が多うございました。それに数をお買い下さる方の所へは、こちらから寸法をとりにうかがったり納めに参ります。ですから親爺のお供で随分いろいろなお屋敷に伺っております。
 お屋敷回り
 お屋敷回りのきらいなことのひとつに犬に追いかけられることがありました。徳川様のまん前のお宅にきらいな犬のいるお得意がありました。誰が参りましても必らず追かけられるんです。とうにも仕方ありませんのでそのお宅に伺う前には電話をかけまして「今日は何時頃伺いますので恐れ入りますが犬をつないでおく様お願い申しあげます」なんてたのんでから出かけるようにしていました。
 早稲田の大隅さんの犬はまるでライオンみたいでした。然もそれが2匹もおりまして,はなしがいですから恐ろしうございました。でもこの犬はちっとも吠えませんで黙ってついて来まして私共がお宅の方にご挨拶をすると,すうっと帰ってしまうんです。実によく飼いならしたものでした。

 1980年には赤井商店になり、1985年にはメンズショップアカイ、1995年まではアカイですが、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では1996年には別の商店「カフェベーカリー ル・レーブ」になりました。

 現在はアパマンショップで、左はスターバックスコーヒーです。アパマン

 

牛込駅

牛込停車場

文学と神楽坂

風俗画報臨時増刊「新撰東京名所図会」の「牛込区之部 上」は明治37年に発行したもので、その「牛込停車場」です。

●牛込停車場
牛込停車場は。牛込濠の東畔を埋めて設備したる甲武鐵道線の驛にて。飯田町の次に在る停車場なり。其の結構四谷停車場と大差なし。但當所の閣道は驛の西側に在りて。直ちに牛込門南の乗車券賣場に行くべく。右に下れば四谷、新宿行のブラットホームに至るべし。飯田町行は改札所前にて。閣道を攀るの煩なし。
當所の土手には。四谷の如く多くの躑躅花なきも。秋夜叢露の中に宿りし蟲の聲ゆかしく聞ゆ。
今や電車の準備中なれば。長蛇の黒煙を噴て走るの異觀はなきに至るべきか。但隄松には電車の方よろしきか。

結構 全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
閣道 かくどう。地上高くしつらえられた廊下
 旧
攀る よじる。よじ登る。
躑躅 つつじ。

甲武鉄道 東京市内の御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿 を経由、多摩郡を横断し八王子に至る鉄道を運営しました。 1906年(明治39年)公布の鉄道国有法で同年10月1日に国有化、中央本線の一部に。
飯田町 牛込駅は明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。翌年、飯田町駅も開業し、場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。

牛込駅&飯田町駅

 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近でした。駅の建設が終わると、下の橋もできています。翌年、飯田町駅も開業されました。
 明治後期になって、小林清親氏が描いた「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。
小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」




 1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。
牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃



 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。
牛込見附雪景

牛込見附雪景



 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。
飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分



 また、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。新飯田橋駅

神楽坂|翁庵 なんたってかつそばだ

文学と神楽坂

蕎麦の「翁庵(おきなあん)」は神楽坂上を見で左側にあります。明治17年(1884)、関東大震災以前から商売を続けています。場所はここ

翁庵

朝間義隆氏は映画監督の山田洋次との共著『シナリオをつくる』(筑摩書院、1994年)でこう書いています。

「和可菜」は夕食は出さないので、神楽坂下の山田さんのお気に入りのそば屋「翁」に大体は出かける。近くの理科大学の学生でいつも賑わっている店で、おかみさんたちがすっかり山田ファンになりいつも特別の惣菜をこしらえてもてなしてくれる。主役級の俳優さんとの顔合わせの場所にも、たびたびなっている。

黒川鍾信氏の『神楽坂ホン書き旅館』(日本放送出版協会、2002年)では

神楽坂を下って外堀通りにぶつかるちょっと手前に、「(おきな)(あん)」というそば屋がある。午後は東京理科大の学生たちで賑にぎわっている。ここの「カツ(どん)ライス」を知らない者は理科大生でないといわれるほど、卵でとじたカツの皿と大盛り(どんぶり)(めし)は有名である。
 ある晩、山田(洋次氏)たちはこの店に入った。注文を取りにきたアルバイトの店員は、寅さん映画のファンだった。客のひとりが山田洋次だということに気づいた店員は、女将に耳打ちした。それでは奥の座敷に上がってもらいなさいとなり、注文した料理の他に、「これは自家用の惣菜ですがよろしかったら召し上がってください」と、小松菜をそえた厚揚げの煮物と大根のあら()きが出てきた。
 これが決め手となった。山田たちはここをすっかり気に入り、また、店の人たちも山田組のファンになった。和可菜でカズさんがやったように、翁庵の女将さんは、徐々に山田や朝間の嗜好(しこう)を覚えていった。(たい)や松坂牛は必要ない。季節の食材を惣菜風にして出せば喜ばれるのだから、親戚(しんせき)縁者が遊びにきたというあんばいで気楽に調理することができた。

また「拝啓、父上様」でも登場します。第7話で板前と仲居さんで翁庵(台本では「まるそば」)を舞台に集会があり、料亭「坂下」が廃業してしまうのでは、どうしようというものでした。

まるそば
  客で賑わっている.

まるそば
昭和56年(1981年)、神吉(かんき)拓郎(たくろう)氏の『東京気侭地図』の一節です。氏は小説家、俳人、随筆家で、昭和24年NHKにはいり、ラジオ番組「日曜娯楽版」などの放送台本を手がけ、昭和59年、都会生活の哀歓を軽妙な文体で描いた「私生活」で直木賞を受賞しました。『東京気侭地図』の神楽坂は別に書いています。

 坂の上り口から、ほんの二三軒先の左側に「おきな庵」という蕎麦屋があるが、この店は好きだ。学生にとりわけ人気のある店で、見かけも値段も、まったく並の蕎麦屋だが、今どきには珍しいほど、ちゃんとしたものを出す店だと思う。
  法政大学を出た男に教えられて入って以来、たびたびこのノレンをくぐるようになった。
 お目当ては、カツそば、という珍味なのである。
 カツそば、などというと、眉をひそめられそうだが、どうして、どうして、これが悪くない。かけそばの上に、庖丁を入れた薄いトンカツが一枚のっている。普通の感覚でいうと、どうもギラギラとして、シツコくて、とても喰えないと思うだろうが、これが淡々として軽い味わいなのである。
 食べてみて、あまりにも意外だったので、教えてくれた男に早速報告すると、その男は、しまった、と額を叩いた。
「忘れてました。温かいのを食べちゃったんでしょう」
「そうだ」
「いうのを忘れたけれど、冷たいのを喰わなくちゃ話になりません。カツそばは、冷しに限るんです」
 ますます奇妙である。冷したカツそばなんて喰えるのかしらんと思ったけれど、次に行ったとき、その、冷し、というのを註文した。食べてみて、へえ、と感心した。
 温かいのもウマかったけれど、冷し、は一段とウマい。世のなかには不思議な取合せがあるものだと、目をぱちくりして帰ってきた。
 ここのカツそばの味は保証してもいいけれど、喰いものの評価は、まったく独断と偏見によるものなので、口に合わないということだってあり得る。でも、大人が食べてみて、損をしたような気にならないことは承け合える。

 ここの「かつそば」は「かつ」と「そば」をあわせたもの。かつそばってはじめてだと思った人はだめだめ。食べログによれば「全国にあるカツそばに関連するお店62件を一般ユーザーの口コミをもとに集計した様々なランキングから探すことができます」とでてきます。 すごい。62件もあるんだ。ただし、「カツカレーのカツ そば大盛り」など、「カツ そば」もいれて62店なのですが。入れない場合はとても怖くって調べていません。
 かつそばは毎月5日、15日、25日は限定100食まで500円で食べることができます。さらに、毎月8日、18日、28日はいなりずし1個を無料でサービス。
でかつそばを食べてみるとなんと美味しい。かつは厚くはなくて、普通のかつの70%の厚さ。しかも油っこくはない。そばとあっている。おどろきでした。
 かつそばには、温かいかつそばと冷たいかつそばがあり、どちらも880円です。確かに「冷しかつそば」の方があっさりしていいと思いますが、それほど違いはあると思えません。

温冷かつそば

かつそばの2種。左は温かいかつそば。右は冷やしかつそば

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神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

神楽坂|紀の善 おいしいけど難点はたかい

文学と神楽坂

 「ぜん」は東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋でした。場所はここです。

 文久・慶応年間(1861-1868年)に口入れ屋(職業周旋業者)として創業。若い衆みんな桜と蝶の刺青をさせていたそうです。
 桜と蝶から名前を付けて、明治維新後は「紀の善・花蝶寿司」。それまで牛込壕端沿いに住んでいたのですが、大地主升本喜兵衛に薦められ、現在の場所に移りました。

 宮内省の御用達になると、「御膳寿司紀の善」に変更。

 なお新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、関東大震災前の当時、大正11(1922)年頃は「神楽小路」のことを「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

kinozen

 明治41年1月、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎など七人はこの2階で新詩社脱退を決めました。かわって『パンの会』を作ります。

 また出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では

 紀の善の店(さき)には印絆纒(かんはん)を着た下足番が床几に腰かけて路行(みちゆ)く人を眺めてゐる、上框(あがりかまち)には山の手式の書生下駄が四五(そく)珠數繋(じゆずつなぎ)にされてゐて、拭きこんだ板間(いたま)に梯子段が見える。田舎者で(とほ)つた早稲田の(がく)(せい)も此處のやすけが戀しくなれば()づ江戸つ子の()としたもの

印絆纒 シルシバンテン。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏
床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け
上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 たかげたとも。10センチ以上視線が高くなります
珠數繋 数珠(じゅず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎは、糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋の名は弥助やすけでした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした
 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では昭和11年2月26日、2・26事件の時に「神楽坂が鎮圧部隊の駐屯地にされた時、紀の善が鎮圧部隊の司令部になった」と書かれています。戒厳司令部は軍人会館(現九段会館)なので別で、あくまでも「鎮圧部隊」の司令部でしょう。

 建物は戦争で焼失し先々代の女将が中心となって今の甘味処「紀の善」に変わりました。刺青から甘味処に変わったのです。(内緒にしようっと。)最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)では

昔は早稲田の運動会は向島でやったものです。その時は学生達は思い思いのふん裝で会場へ乗り込むのですが、四十七士もいれば児島高徳を気取って鎧の上から蓑を着て来る学生もいました。弁当は学校から出るんですが、「紀の善」で一手にひき受けていたらしく、何でも3,000人分くらいだそうで洗い方煮方炊さ方詰め方と分業で手分けをして徹夜で戦争のような騒ぎでした。こんな騒ぎは大正の末頃まで続きました。今では近くにも大きな大学が沢山できましたが、昔の早大と神楽坂の様なつながりを持った学校は一つもありません。

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