カテゴリー別アーカイブ: 毘沙門横丁

毘沙門横丁|名前

文学と神楽坂

毘沙門

 名前について「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間にある小さな路地のことです。場所はここ。明治20年も同じ呼び名の毘沙門横丁です。「毘沙門横丁」「おびしゃ様の横丁」はついこの間まで呼んでいた名前です。これ以上簡単なものはありません。
野口冨士夫の『私のなかの東京』では

三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷のおばけ横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

と書いています。昔の地図でも出ています。

 一方、「毘沙門横丁」なのに、「大手門通り」という言い方があります。これは不思議な名称です。ここ10年程昔から使ってきたようです。牛込城「大手門跡」に行くと書いていますが、この「大手門跡」は具体的にはどこなのでしょうか。本当にそれは「大手門跡」なのでしょうか?

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

神楽坂から地蔵坂を上る辺りに牛込城の大手門があったと伝えられる

 と書き、『神楽坂界隈』平成9年の水野正雄氏の「中世の神楽坂とその周辺」では

大手門…一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか

と書いています。

 また「牛込城跡」について東京都新宿区教育委員会の説明では

光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される

「御府内備考」では

おもふに今善國寺なとある邊若宮八幡と行願寺の間住古の道にてそこに向ひて城門を立てしなるべし

と推考を書いています。

 大手門はどこにあったのか、明らかになってはいません。ある学説や風説としてはいいのでしょうが、あまり使いたくはない名前です。

拝啓、父上様」の第1話では

毘沙門前
  通りをつっ切り境内へ入る一平。
  その目に――
  ザックを背負って肉マンを喰っている一人の若者。
  中川時夫。
  ――ケイタイを耳に当てている。
一平「(歩きつつ、ケイタイに)よし。お前だな。肉まんを喰ってるお前だな」
  若者の前に立ち、ケイタイを切る。
一平「時夫君か」
時夫「(変に明るい)オス! 一平か」
一平(ムッとする)
時夫「(食いつつ)この町凄えな! 外国人に逢っちやったぜ」
一平「―――」
  間
一平「ついて来い(歩き出す)」
時夫「オス! 何だそっちか。全然逆の方探してたなハハ。――いくつだ一平」
一平「(ムッと)お前は」
時夫「十九。高枚中退だ」
  短い間。
一平「俺は二十三だ」
時夫「それにしちゃ可愛いな。ヒヒッ、ま、よろしく頼まァ!」
一平「こっちだ!(曲る)」
時夫「オス!」
  音楽――「板場のテーマ」ダイナミックに、イン。

毘沙門横丁
さらに毘沙門横丁の路地を行く場合には
神楽坂の通りと坂に戻る場合

文学と神楽坂

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毘沙門横丁|路地

文学と神楽坂

「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間にある小さな路地です。名前についてはここで。すこし行くと石畳が現れます。

石畳 毘沙門横丁この通りは2つ路地があり、どちらも石畳で覆っています。最初の路地はここです。なにもなそうですが、昔はこの路地も料亭が一杯で、以前はどちらも大量の料亭がありました。


2本のうち、先が行き止まりの路地を「ひぐらし小路」(場所はここ)と名付けようと、『ここは牛込、神楽坂』は提案しています。理由は「なんか夏になると、ひぐらし蝉が鳴くような気がして」。
石畳(ひぐらし小路)

 



松ヶ枝があったマンションこのまま道を辿っていくと道は左に曲がります。この正面はアフリカ料理(でした。転居。)現在は「西洋バル フルール フィオーレ」に変わりました。右側にはマンションがあります。このマンションに以前の料亭松ヶ枝まつがえがありました。この料亭の創業は明治38年。昭和50年代にこの料亭はなくなり、現在はこのマンションに変わっています。

左に左に曲がると、路地は「出羽様下」に変わります。

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明治20年内務省地理局では「出羽様下」と書いています。『ここは牛込、神楽坂』の竹田真砂子の「振り返れば明日が見える」では同じようなことを書いていますが、違う点もあり、松平出羽守は宮坂金物店(今のお香の店「椿屋」)の横丁を入った所に屋敷を構えて、この辺りを「出羽様」といったそうです。

松平出羽守は明治7年の「東京大小區分絵図」(1874年、下図。新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」298ページを参照)では本多家に並ぶ大きさがありました。

明治7年の神楽坂

石畳

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