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松葉ぼたん|水谷八重子

文学と神楽坂

 水谷八重子氏は明治38年8月1日に神楽坂で生まれました。この文章は氏の『松葉ぼたん』(鶴書房、昭和41年)から取ったものです。
 氏が5歳(昭和43年)のとき、父は死亡し、母は、長女と一緒に住むことになりました。長女は既に劇作家・演出家の水谷竹紫氏と結婚しています。つまり、竹紫氏は氏の義兄です。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項では、大正2年(8歳)頃から4年頃までは矢来町17 、大正5年頃(11歳)は矢来町11、大正6年頃(12歳)~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年(18歳)から大正15年頃は通寺町に住んでいました。氏が小学生だった時はこの矢来町に住んでいたのです。

神楽坂の思い出
 ――かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川――啄木の歌だが、私は東京牛込生まれの牛込育ち、ふるさとへの追慕は神楽坂界わいにつながる。思い出の坂、思い出の濠(ほり)に郷愁がわくのだ。先だっての晩も、おさげで日傘をさし、長い袖の衣物で舞扇を持ち、毘沙門様の裏手にある踊りのお師匠さんの所へ通う夢をみた。
 義兄竹紫(ちくし)の母校が早稲田だったからでもあろう。水谷の家矢来町横寺町と居をえても牛込を離れなかった。学び舎は郵便局の横を赤城神社の方ヘはいった赤城小学校……千田是也さんも同窓だったのだが、年配が違わないのに覚えていない。滝沢修さんから「私も赤城出ですよ」といわれた時は、懐かしくなった。
 学校が終えると、矢来の家へ帰って着物をきかえ、肴(さかな)町から神楽坂へ出て、踊りのけいこへ……。お師匠さんは沢村流だった。藁店(わらだな)の『芸術俱楽部』が近いので松井須磨子さんもよくけいこに見えていた。それから私は坂を下り、『田原屋』のならび『赤瓢箪』(あかびょうたん・小料理屋)の横町を右に折れて、先々代富士田音蔵さんのお弟子さんのもとへ長唄の勉強に通うのが日課であった。神楽坂には本屋が多い。帰りは二、二軒寄っで立ち読みをする。あまり長く読みふけって追いたてられたことがある。その時は本気で、大きくなったら本屋の売り子になりたいと思った。乙女ごころはほほえましい。
 藁店といえば、『芸術座』を連想する。島村抱月先生の『芸術倶楽部』はいまの『文学座』でアトリエ公演を特つけいこ場ぐらいの広さでばなかったろうか? そこで“闇の力”を上演したのは確か大正五年……小学生の私はアニュートカの役に借りられた。沢田正二郎さんの二キイタ、須磨子さんのアニィシャ。初日に楽屋で赤い鼻緒(はなお)のぞうりをはいて遊んでいたら、出(で)がきた。そのまま舞台へとびだして、はたと弱った。そっとぞうりを積みわらの陰にかくし、はだしになったが、あとで島村先生からほめられた記憶がある。
 私の育った大正時代、神楽坂は山の手の盛り煬だった。『田原屋』の新鮮な果物、『紅屋』のお菓子と紅茶、『山本』のドーナッツ、それぞれ馴染みが深かった。『わかもの座』のころ私は双葉女学園に学ぶようになっていたが、麹町元園町の伴田邸が仲間の勉強室……友田恭助さんの兄さんのところへ集まっては野外劇、試演会のけいこをしたものである。帰路、外濠の土手へ出ては神楽坂をめざす。青山杉作先生も当時は矢来に住んでおられた。牛込見附の貸しボート……夏がくるたびに、あの葉桜を渡る緑の風を思い出す。
 関東大震災のあと、下町の大半が災火にあって、神楽坂が唯一の繁華境となった。早慶野球戦で早稲田が勝つと、応援団はきまってここへ流れたものである。稲門びいきの私たちは、先に球場をひきあげ、『紅屋』の二階に陣どる。旗をふりながらがいせんの人波に『都の西北』を歌ったのも、青春の一ページになるであろう。
 神楽坂の追憶が夏に結びつくのはどうしたわけだろう。やはり毘沙門様の縁日のせいだろうか? 風鈴屋の音色、走馬燈の影絵がいまだに私の目に残っている。

かにかくに あれこれと。何かにつけて。
渋民村 石川啄木の故郷。現在は岩手県盛岡市の一部。
追慕 ついぼ。死者や遠く離れて会えない人などをなつかしく思うこと。
郷愁 きょうしゅう。故郷を懐かしく思う気持ち。
おさげ 御下げ。少女の髪形。髪を左右に分けて編んで下げる。
舞扇 まいおうぎ。舞を舞うときに用いる扇。多くは、色彩の美しい大形の扇。
水谷の家 区編集の「区内に在住した文学者たち」では大正2年頃~4年頃まで矢来町17(左の赤い四角)、大正5年頃は矢来町11(中央の赤い多角形)、大正12頃~15年頃は通寺町61(右の赤い多角形)でした。
郵便局 青丸で書かれています。
赤城神社 緑の四角で。
赤城小学校 青の四角で。
千田是也 せんだこれや。演出家。俳優。1923年、築地小劇場の第1回研究生。44年、青山杉作らと俳優座を結成。戦後新劇のリーダーとして活躍。生年は明治37年7月15日。没年は平成6年12月21日。享年は満90歳。
滝沢修 たきざわおさむ。俳優、演出家。築地小劇場の第1回研究生。昭和25年、宇野重吉らと劇団民芸を結成。生年は明治39年11月13日、没年は平成12年6月22日。享年は満93歳。
沢村流 踊りの流派は現在200以上。「五大流派」は花柳流・藤間流・若柳流・西川流・坂東流。沢村流はその他の流派です。
田原屋 坂上にあった田原屋ではありません。戦前、神楽坂中腹にあった果実店です。右図では左から三番目の店舗です。現在は2店ともありません。
横町 おそらく神楽坂仲通りでしょう。
富士田音蔵 長唄唄方の名跡みょうせき。名跡とは代々継承される個人名。
長唄 三味線を伴奏楽器とする歌曲。
芸術座 新劇の劇団。大正2年、島村抱月・松井須磨子たちが結成。芸術座は藁店ではなく、横寺町にありました。
芸術倶楽部 東京牛込区横寺町にあった小劇場
アトリエ 画家、彫刻家、工芸家などの美術家の仕事場
鼻緒 下駄などの履物のひも(緒)で、足の指ではさむ部分。足にかけるひも
はたと弱った ロシアの少女が草履を履くのはおかしいでしょう。
わかもの座 水谷八重子氏は民衆座『青い鳥』のチルチル役で注目され、共演した友田恭助と「わかもの座」を創立しました。
双葉女学園 現在の雙葉中学校・高等学校。設立母体は女子修道会「幼きイエス会」。住所は東京都千代田区六番町。
麹町元園町麹町元園町 現在の一番町・麹町1~4の一部。
友田恭助 新劇俳優。本名伴田五郎。大正8年、新劇協会で初舞台。翌年、水谷八重子らとわかもの座を創立。1924年、築地小劇場に創立同人。1932年、妻の田村秋子と築地座を創立。昭和12年、文学座の創立に加わったが、上海郊外で戦没。生年は明治32年10月30日、没年は昭和12年10月6日。享年は満39歳。
青山杉作 演出家、俳優。俳優座養成所所長。1920年(大正9年)、友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」では演出家。
稲門 とうもん。早稲田大学卒業生の同窓会。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑥

文学と神楽坂

   紅葉十千万堂跡

 飯塚酒店藝術倶楽部の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町を歩くと、左に箪笥町への道がわかれ、その先は都電通りに出る。その道の右側に大信寺という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど尾崎紅葉終焉の家となった十千万堂の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。
 紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。
 明冶二十二年の新著百種第一冊『二人比丘尼色懺悔』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。(中略)

都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくはここに
終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくはここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑤

文学と神楽坂

   横寺町

 筑土八幡宮裏から白銀町に出て、白銀公園の前を南へゆくと、もうそこは以前の通寺町、現在は神楽坂六丁目である。神楽坂通りを横切って、その南側の横寺町に入った。
 横寺町は尾崎紅葉島村抱月、抱月の後を追った松井須磨子劇的な終焉しゆうえんの町で、昭和八年頃わたくしもしばらく間借生活をしたことがあり、とくに『新東京文学散歩』執筆以来はしばしば訪れるようになった馴染み深い町と云ってよい。戦災がひどく、道の両側に並んだ寺々と共に商家などにも戦前の面影は更にないか、ほぼこの町の中央にあった飯塚酒店が、戦前の官許にごりの店でなく普通の酒類店としてではあるが、復興も早かったことは、横寺町に辿る文学史の一つのたしかな道標でもあった。
 戦前の飯塚酒店は貧乏な文士や画家などが、労働者に混って安心して酒にひたった店で、酒豪を以て自ら任じ、やがては板橋の養老院で孤独な老死をとげた、日本のヴェルレーヌともいえそうな詩人の兒玉花外も、その店の常連であった。それに飯塚家は坪内逍遙の弟子筋に当る演劇研究家、飯塚友一郎の生家で、牛込の旧家でもあったから、官許にごりの酒店と共に、脇には質屋と米店も営んでいて、貧乏な藝術家などに重宝がられた。その飯塚家の裏側に、坪内逍遙文藝協会を離れ早稲田大学教授を辞職した島村抱月と、女優松井須磨子との藝術座の本拠として藝術倶楽部が出現したのは大正四年秋であった。藝術座はそれより先大正二年(一九一三)九月の有楽座にける「モンナ・ワンナ」の旗揚げ興業と共に松井須磨子をプリマ・ドンナとしてスタートし、オペラ形式をとった新演劇として全国津々浦々にその名声をひろめていった。(中略)中でも須磨子の演じた「復活」で抱月が作詞した「カチューシャ唱歌」や、北原白秋作詞による「さすらひの唄」「にくいあん畜生」「こんど生れたら」などの「生ける屍」の唄、「煙草のめのめ」「酒場の唄」「恋の鳥」などの「カルメン」の唄は、抱月の書生をしていた中山晋平の作曲で、流行歌としても全国を風靡ふうびした。九州の田舎に生れたわたくしなども、幼い時分に横井須磨子のうたった「カチューシャ唱歌」のレコードから「カチューシャ可愛や別れのつらさ……」などと、つい覚え込んでしまったほどである。(後略)

劇的な終焉 島村抱月氏はインフルエンザで大正7年7月7日に死亡し、大正8年1月5日、松井須磨子氏は後を追うように縊死で自殺。
にごり 発酵した米を酒袋の中にしぼって抽出し、おりを取り除き、さらにろ過するが、にごり酒は澱を残したままにするもの。
文芸協会  1909年、劇界の刷新をはかり新芸術を振興する文化団体として発足。会長は坪内逍遥。11年第1回公演として『ハムレット』などを上演。13年、松井須磨子、島村抱月が退会し、その後、解散。芸術座、無名会、舞台協会、新国劇などに分れた。
プリマ・ドンナ prima donna(第一の女性)。オペラの主役女性歌手。ソプラノ歌手が多い。オペラ以外でも使う。
オペラ形式 歌手が扮装して演技をしつつ管弦楽と共に歌う音楽劇。芸術座は確かに一部はオペラ形式でしたが、全部が全部ではなかったと思います。
風靡 風が草木をなびかせるように、多くの者をなびき従わせること。

上田敏|『海潮音』

文学と神楽坂

 この詩は聞いたことはありますか。30代以下の人はまず知らないでしょう。

  やまのあなた
やまのあなたのそらとほ
さいはひむとひとのいふ。
あゝ、われひととめゆきて、
なみださしぐみ、かへりきぬ。
やまのあなたになほとほ
さいはひむとひとのいふ。

 もとはドイツ語からやって来ました。原文は

Über den Bergen,weit zu wandern,
sagen die Leute,wohnt das Glück.
Ach, und ich ging,im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen,weit, weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.

 一応、英語の翻訳もあります。

Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
Alas, and I went in the crowd of the others,
and returned with a tear-stained face.
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.

 有名な人が翻訳していますが、その人の姓名は知っていますか? 

 次も同じ人が訳した有名な文章です。

「秋の日の」の次は「ヸオロンの」が縦書きとして続き、それから「ためいきの」と続きます。「うら悲し」の後、一行空き、「てくてく牛込神楽坂」では改行も行い、「鐘のおとに」になります。
 すいません。あくまでも空白をつくらないと考えて、途中で改行するように決めています。

 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦の時に、BBCのフランス語放送で流れた詩でもあります。各地のレジスタンスに命令を出す暗号なのです。

 フランス語の原文、英語の翻訳も出しておきます。

 翻訳者は上田びん氏です。夏目漱石氏と比べると、年齢は8歳若く、東大には明治27年、21歳で入学しています。1905年(明治38年)、数え32歳になってから訳詞集『海潮音かいちょうおん』は発行しました。どちらの訳詞も『海潮音』からとってあります。

 では、他の『海潮音』の訳詩を知っている人は? 残念ながら、私はこれ以外の訳詩はなにも知りません。他の人も同じでは?

 ちょうど1987年、俵万智氏の『サラダ記念日』は大ブームになり、中学校の教科書にも取り上げられましたが、1句あげてといわれると、うーんというのと同じです。まあ、これが詩の生き方。『海潮音』は青空文庫で全部が載っています。

 上田敏氏は東京高等師範学校教授、東大講師、京大教授を歴任し、死亡は数え43歳、満41歳で、萎縮腎と尿毒症でした。

上田敏|横寺町

文学と神楽坂

 上田敏氏について知られていない事実があり(知っている人はいる?)、子供時代は矢来町と横寺町に住んでいたのです。

 以下は安田保雄氏の『上田敏研究 増補新版-その生涯と業績』(有精堂、昭和44年)からの引用です。

明治二十年(十四歳)四月、父が大蔵省に轉任することになつたので、一家とともに上京し、牛込區矢來町三番地に移り、六月、神田區錦町の私立東京英語學校に入學した。
 明治二十一年(十五歳)、父は四十三歳で歿し、この年、彼は第一高等中學校の入學試験に合格したが、父の死のため入學を果さず、牛込區横寺町五十八番地の伯父乙骨太郎乙の邸内に移つた。(中略)
 明冶二十二年(十六歳)九月、第一高等中學校(後の第一高等學校、當時は、五年制であつた)に入學、豫科英三級ニノ組に編入され、乙骨太郎乙の弟子である本郷區西片町十番地田口卯吉方に寄寓するやうになつた。

 まず矢来町三番地です。矢来町の90%は小浜藩酒井家の矢来屋敷でした。三番地はなかでも広く、図の赤い部分です。あまりにも大きく、このどれかに住んでいたのでしょうが、これ以上は不明です。

東京実測図(明治28年)

 次は横寺町58番地です。青い場所で、将来はこの1部分を牛込中央通りが通過し、完全に西半分だけが生き残ります。現在は下の地図での所です。

 以上、住んだのは短期間でしたが、上田敏氏も矢来町や横寺町に住んでいたのです。

三百人の作家②|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「鎌倉建長寺境内」です。

 間宮茂輔氏は小説家で、「不同調」の同人から「文芸戦線」、ナップに加わり、昭和8年に投獄され、10年、転向して出獄。12年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載し、第6回芥川龍之介賞候補に選出。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に努めました。

 当時、相馬泰三は、牛込横寺町の、叢文閣書店の斜向いに新婚の夫人と住んでいた。才色兼備の夫人‥‥神垣とり子については後でふれる機会があるかもしれない。ともかくわたしは相馬家の常連みたいになって、そこの二階でいろんな作家たちに紹介された。
 或る日もわたしが遊びに行っていると、三人の作家が訪ねて来たが、頭髪のもじゃもじゃな背の低い醜男が菊池寛であり、おじさんみたような感じで顔に薄いの残つている人が加納作次郎であり、いちばん若い、五分刈の、紺ガスリを着た眼光のするどい人が広津和郎であった。三人は小説家協会という相互扶助の団体を創立するため相馬泰三を勧誘に来たのである。いうまでもなくこの小説家協会が発展して戦前の文芸家協会になり、戦争ちゅうはさらに変身して日本文芸報国会となったことはだれでも知っているが、その出発に当って菊池、広津、加納その他の人びとが、足をはこんで一人ずつ勧誘して歩いた努力は記憶されていいことだろう。
 「そう‥‥そんなものがあれば便利だろうし、べつに無くても差支えはないだろうね」
 と、相馬が一流の皮肉な答えかたをしたのをわたしはおぼえている。
 英訳ではあるが、チェーホフの飜訳紹介で功績のある秋葉俊彦にも同じ二階でひきあわされた。わたしなど新潮社版の秋葉訳でチェーホフに取りついたようなものである。有名な東海寺(品川)の住職でもあるこの人には、だれが考えたものか、アキーバ・トシヒコーフという巧い綽名があった。
 谷崎精二には神楽坂の路上で紹介された。すでに早大の講師か教授かであったこの作家は、兄の潤一郎とはちがい、見るから真面目そうであったが、駄じゃれの名人であり、矢来の奥から細身のステッキをついて現われ、神楽坂をよく散歩していた。しかし下町生れの東京児らしいところもないではなく、いつもぞろっとした風に和服を着流し中折れをちょいと横に被った長身が、何か役者のような印象であった。

叢文閣書店 大正7(1918)年から、この書店は神楽坂2-11にありました。それ以前にはよくわかりませんが、恐らく間違えています。横寺町にあった書店は文海堂(28番地、緑色)か聚英閣(43番地、青色)でした。
住んでいた 住所は横寺町36。右図で赤色。
神垣とり子 生年は1899年(明治32年)。貸座敷「住吉楼」の娘。相馬泰三氏の別れた妻。相馬氏が死亡する直前に再会し、亡くなるまで傍にいました。
紺ガスリ 紺絣。紺地に絣を白く染め抜いた模様か、その模様がある織物や染め物。耐久性があるので仕事着や普段着に普及。
小説家協会 1921年、発足。
文芸家協会 1926年、発足。小説家協会と劇作家協会が合併してできたもの。文学者の職能擁護団体。戦時中は日本文芸報国会で吸収。1945年、日本文芸家協会として再発足。
日本文芸報国会 1932年(昭和7年)内閣情報局の指導の下に結成。戦意高揚、国策宣伝が目的。45年、終戦直後に解散。
秋葉俊彦 詩人として文壇に。大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者と。
ぞろっと 羽織・袴をつけない着物だけの姿で
着流し 袴や羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり
中折れ 中折れ帽子。中折れ帽。山高帽の頂を前後にくぼませてかぶるフェルト製の紳士帽。

尾崎紅葉の臨終①泉鏡花

文学と神楽坂

 尾崎紅葉氏は明治36年(1903年)10月30日に満35歳で死亡しました。

 まず泉鏡花氏が書いた紅葉の臨終際の文章です(鏡花全集28巻)。感極まっているのです。

   紅葉先生逝去前十五分間      明治38年7月
 明治三十六年十月三十日十一時、……形勢不穩なり。予は二階に行きて、(つゝし)みて鄰室(りんしつ)(かしこ)まれり。此處(こゝ)には、石橋丸岡久我の三氏あり。
 人々は耳より耳に、耳より耳に、(にぶ)き、弱き、稻妻の如き(さゝやき)(つた)()れり。
 病室は(たゞ)(しん)として()のもの音もなし。
 時々時計の(きし)(こゑ)とともに、すゝり(なき)(なき)ゆるあるのみ。
 室と室とを隔てたる四枚の襖、其の一端、北の方のみ細目(ほそめ)に開けたる間より、五分()き、三分措きに、白衣、(いろ)(あたら)しき(せう)看護婦、悄然(せうぜん)として()でて、(しづか)に、しかれども、ふら/\と、水の如き(ともしび)の中を()ぎりては、廊下に(たゝず)める醫師と相見(あひみ)私語(しご)す。
 雨(しきり)なり。
 (まさ)に十分、醫師は()()りて、(まゆ)憂苦(いうく)(たゝ)へつゝ、もはや、カンフルの注射無用(むよう)なる(よし)を説き聞かせり。
 風又た一層を(くは)ふ。
 雨はたゞ波の(たゞよ)ふが如き氣勢(けはひ)して降りしきる。
 これよりさき、病室に(かすか)なるしはぶきの聲あるだに、其の都度、皆慄然(りつぜん)として(たましひ)を消したるが、今や、(ひとへ)に吐息といへども聞えずなりぬ。
 時に看護婦は襖より半身を(あらは)して、ソト醫師に目くばせ()り、同時に相携(あひたづさ)へて病室に入りて見えずなれり。
 石橋氏は椅子に()りて、()()(さゝ)ふること(あた)はざるものの如く、()(あふ)ぎ、且つ()し、左を見、右を見て、心地(こゝち)()なんとするものの如くなりき。
 (角田氏入る。)
 人々の(さゝや)きは(やうや)(しげ)(こまや)かに()(きた)れり、月の(いり)引汐(ひきしほ)、といふ(こゑ)(ひらめ)(きこ)えり。
 十一時十五分、予は病室の事を語る能はず。
[現代文]明治36年10月30日午後11時……形勢は不穩である。私は二階に行き、隣の部屋に謹んで正座していた。ここには、石橋思案氏、丸岡九華氏、久我亀石氏の三氏もいた。
 鈍くて弱い、稲妻のような囁きだげが、耳から耳に、耳から耳にと伝わってくる。病室はただシンになり、ほかの音はない。
 時々時計のきしむ音とともに、すすり泣きだけが聞こえてくる。
 部屋と部屋を隔てたのは四枚の襖。その一端の北の方、細く開けたあいだから、色は新しい白衣の看護婦は、五分おき、三分おきに、元気はなく出てきて、静かに、でも、ふらふらと、水と似ている灯火のそばを過ぎていく。廊下に佇む医師と向かい合い、私語をしている。
 雨はしきりに降ってくる。
 それからちょうど十分後になった。医師は、眉に憂苦をただえ、もはやカンフルの注射は無用だと説き聞かせている。
 さらに一層、風は強くなる。
 雨はただ波が漂うような気配で、降りしきる。
 以前は、病室にささやかな尾崎先生の咳嗽があった。その都度、みんな身震いするように気力は消えていた。しかし、現在は、この吐息も聞こえないようになった。
 この時、看護婦は襖より半身を現し、そっと医師に目くばせし、一緒に病室に入って見えなくなった。
 石橋氏は椅子によりそって、身を耐え支えるのはできないように、上を見たり、下を見たり、左や右を見たりで、気持は死のうしているようだ。
 (角田竹冷氏が部屋に入った。)
 人々のささやき声もようやく出てきて、こまやかになり、月の入りや引汐という声も一瞬聞こえてくる。
 尾崎紅葉が死亡した午後11時15分、私にはこの病室のことを話す能力はない。

畏まる かしこまる。相手の威厳などを恐れて、つつしんだ態度をとる。正座する。
久我 久我龜石。硯友社の会員。詳細は不明。
悄然 元気がなく、うちしおれている様子。しょんぼり。
衝と つと。ある動作をすばやく、または、いきなりするさま。さっと。急に。不意に。
カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在まずない。
しはぶき せき。咳嗽
慄然 恐ろしくて身震いする様子。
そと 音を立てないように。静かに。人に知られないように。ひそかに。そっと。
心地 ここち。物や事に接した時の心の状態。気分。気持ち。

平田禿木|神楽坂

文学と神楽坂

 平田禿木(とくぼく)氏の『禿木随筆』(改造社、1939)です。氏は英文学者兼随筆家で、東京高等師範学校を卒業、30歳で英国オックスフォード大学に留学し、帰ってから、女子学習院、第三高等学校の教授を歴任、のちに翻訳に専心しました。

 この随筆を書いた年は昭和9年、61歳でした。

 神樂坂

 見附から見ると神樂坂は可成り急である。あの坂を見るたびに、自分はいつも羅馬の街を憶ふ。羅馬にはあゝした坂がとても多いのである、そして、登りつめたとこに、きまつてオベリスクの塔と噴水がある。自分が羅馬に遊んだのは桐の花散る初夏の候であつたが、その見物にあゝした坂を幾つも登つていくのに實に骨の折れたことを憶ひ出す。羅馬七丘の上に立つといふが、東京も髙臺が多いので、山の手となると坂道が多いのである。
 友達が矢來の交番近くにゐたので、自分はよく以前の神樂坂を知つてゐる。神樂坂は震災後ずつと繁華になつたらしい。菓子屋に壽徳庵船橋屋の名が見えるが、これ等は何れも河向ふ江東の老鋪で、あの折一時此處へ移つて来て、そのまゝ根城を据ゑたものであらうか。兩側に大抵の店が揃つてゐて、何でも手近で間に合ふやうである。自分は往日(むかし)日本橋東仲通り邊へ、東京の住居をおいたらうと思つたことがあるが、今ではあの邊はとてもごたごたしてゐ、それに、震災後の復興で、自分などにはまるで西も東も分らぬやうになつてゐる。矢來までの途中は相當賑やかであるが、ちよつと横町へ入ると、神樂坂は可成り靜かであるらしい。山の手のその靜かさと下町の調法さを兼ねてゐるとこは、廣い東京にも珍しいと思ふ。あすこの何處ぞの小さな煙草屋の店でも買つて、二階で物を書いたり、假名がきの書道の指南でもしたらと、今も時々思ふことがある。
 菓子屋には和洋のそれを賣る紅谷がある。あの窓に見る瀟洒なや趣向を凝らしたは、遺ひ物としても手軽で格好である。自分には何より嬉しい海産物の店も一二軒あるらしく、魚屋の店にも、季節には北陸の蟹が堆く積まれてゐる。客があつて、ちよつとお壽司を取つても、土地柄だけによい物をすゝめられると、 遞信省時代に中町に住んでゐた五島駿吉君の話であつたが、神樂坂は實に調法な處である。

オベリスクの塔

見附 現在「神楽坂下」という交差点は昔は「牛込見附」と呼びました。
羅馬 イタリアの首都、ローマです。
オベリスクの塔 古代エジプトの太陽の神を象徴する石柱。その形をした記念碑。欧米の主要都市の中央広場などにも建設、その地域を象徴する記念碑になっている。
桐の花 4~5月で紫色の花をつけます。右図。
ローマの七丘(しちきゅう) ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置し、ローマの基礎をつくった七つの丘。
河向う 川向こう。隅田川の東側。
根城 活動の根拠とする土地・建物
調法 ちょうほう。重宝。便利で役に立つこと。
假名がき 仮名で書くこと。一般には平仮名で書くこと。
 かご。竹で編んだかご。
 かたみ。竹製の目の細かい(かご)
遺い物 ゆいもつ。いぶつ。過去の文化を示す物品。今に残る昔のもの。
格好 ちょうどよい。適当。
五島駿吉 生年は明治15年(1881年)。郵便局長。鉱物学者。

 田原屋は銀座、日本橋邊の一流の店にも劣らぬ、優れた果物を賣る家らしく、そこの二階での洋食はあの邉の呼び物と聞いてゐるが、まだ試みたことはない。以前矢來の友達を訪ねると、いつもきまつて坂の途中を左へ入つた明進軒といふ家へ案内してくれた。雅樂寮伊太利人か、商大の佛蘭西人の肝煎りで店を出したとかで、そこの佛蘭西風の料理は下町でも味へないものであつた。近くにゐた英吉利の貴族名門出のチヤモレエ師なども、始絡パトロナイヅしてゐた。日本間の別室があつて、坐つてゆつくり食事の出來るのも嬉しく、そこには、これも來つけの人達と見えて、尾崎氏や齊藤松洲晝伯の色紙、短冊が懸つてゐた。
 この頃舊幕の旗本水野十郎左衛門邸跡三樂莊といふ料亭ができて、泉石の美を誇るその庭を見せるといふことで、暮近くなつたら一夕友達と年忘れでもしてみたい、それには何んとか、一應その樣子を探つて見ておかうと思つて、見附内の某大學へ客分として手傳ひに一 週二三囘出向いてゐるその歸るさ、或る日の午後、今講じて來たエリザ朝の花形サア・フィリップ・シドネーステラの歌の定本や、トッテル氏雑纂などの入つた重い包みを下げ、新聞の廣告で教はつた通り、牛込館の横を入つて行くと、待合や小料理屋がずらりと軒を並べてゐ、今日(けふ)何かの寄り合ひでもあるものか、見番の前には、近くの女將や主人、女中達が盛装して立ち列んでゐる。突き當つて訊いて見ると、坂を上つて右へ行き、それからまた後へ戻るのだといふ。その通り進んで行くと、住宅地のやうなとこへ出て仕舞つた。何だか狐につままれたやうな氣がしてゐるとこへ、小春日和に外套を着てゐたので、汗ばんでさへも來るのである。三樂莊といふのに日本料理、支那料理とのみあるのは、他の一つ場所柄だけに化生の者でも出て來るといふ謎か、水野邸とあるからには、幡隨院もどきに湯殿でやられでもしては堪らぬと、えつちらをつちらと、もと來た途を戻つて、表通りへ出て仕舞つた。

雅楽寮 ががくりょう。うたつかさ。律令制で宮廷音楽をつかさどった役所。明治維新後、宮内省式部職楽部(がくぶ))に改組し、1908年(明治41年)、現在の宮内庁に引継した。
肝煎り  きもいり。肝入り。双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。
伊太利、佛蘭西、英吉利 それぞれイタリア、フランス、イギリスのこと。
チヤモレエ 英国人宣教師ライオネル・チャモレー師(Lionel Berners Cholmondeley)。岩戸町25番地に住んでいました(右図)。
パトロナイヅ パトロナイズ。patronize。ひいきにする。後援する。
来つける きなれる。来慣れる。ふだんよく来て慣れている。通い慣れる。
尾崎 尾崎紅葉氏のこと。
斎藤松洲 さいとうしょうしゅう。日本画家。明治3年(1870)大阪生。鈴木松年の門に学び、特に俳画に長ずる。昭和9年(1934)存、歿年不詳。
三楽荘 場所はわかりません。次の段落では「三樂莊は横寺町にあるらしい」と書いてありますが、新宿区横寺町交友会の今昔史編集委員会『よこてらまち』(2000年)によれば、昭和10年頃の地図ではもう三楽荘はなくなっています。
泉石 せんせき。泉水と庭石。庭園。
帰るさ かえるさ。「さ」は接尾語。帰る時。帰る途中。かえさ。
サア・フィリップ・シドネー サー・フィリップ・シドニー(Sir Philip Sidney)。16世紀のエリザベス朝の英国の詩人、廷臣、軍人。
ステラの歌 原題『Astrophel and Stella』。英語で書かれた有名なソネット連作の最初のもの。
トッテル氏雑纂 リチャード・トッテル。Richard Tottel。当時のエリザベス朝詩のアンソロジー「歌とソネット」(1557)を編集、「トッテル詞華集」として知られるようになった。「雑纂(ざっさん)」とは雑多な記録や文章を集めることや、編集した書物。
見番 三業組合の事務所。三業組合とは料亭・待合茶屋・芸者屋の3業種をまとめていいました。しかし、この当時、見番は芸者新路にできていました。牛込館は藁店にできていて、この2つの場所は違います。
他の一つ 日本料理、支那料理に、他の料理があって、つまり、3つの料理があって初めて三楽という名前になる方が普通ではないでしょうか。
小春日和 晩秋から初冬にかけての暖かな日和。小春とは、旧暦十月の異称。
場所柄 藁店(わらだな)では化け地蔵が出たという言い伝えがありました。
化生の者 化けること。化け物。妖怪。

 三樂莊は横寺町にあるらしい。横寺町といふと、今からはもう何十年か前の夏、大野洒竹と一緒に同じ町のその居に尾崎紅葉氏を訪ねたことを憶ひ出す。洒竹のゐた谷中から二人乘の人力車(くるま)で神樂坂下まで來、それからぼつぼつ歩き出したが、盛夏のことでとても暑く、道を訊いてから、とある井戸端で水を汲んで汗を拭き、それから漸く探ね當てゝ案内を請ふた。早速二階の書齋へ通されて尾崎氏も直ぐ出て來たが、薄茶色の縮みの浴衣にメリンス兵古帶といふ服装(なり)で、いかにもさつぱりとしてゐたのは意外だつた。部屋も硯友社の他の人達のそれのやうに、箪笥に長火鉢をおいて、人形を飾つてゐるやうなことはなく、茶道具だけは紫檀の棚に載つてゐて、たぎらした湯を階下(した)から取り寄せ、主人自ら茶をいれるのであつた。
 その時、拭巾を取つて、額へ八の字を寄せながら、ぐいぐいと盆を拭くその姿が、今もありありと目に殘つてゐる。話はそれからそれと大分にはづんだが、小説のことになると、もう閉口だと、顏を曇らしてうつ向きになつたことを今に覺えてゐる。歸り際に、夫人もちよつと姿を見せられたが、いかにも靜かな、貞淑の方のやうに見受けられた。玄關には、「青葡萄」が讀賣へ出てから程經つてのことだから、秋聲氏や鏡花氏でなく、次の代の方々がゐたのだと思ふ。尾崎氏の訃は外遊中オックスフオードでこれを聞き、洒竹氏には歸つてから一度、築地本願寺で一葉さんの法事の折に逢つたぎりで、氏も早く他界して仕舞つた。
 肴町電車道を横切つて矢來近くへ來ると、右側に洋風の骨董を賣る小さな店や、萬年青や蘭、新春(はる)には梅の小型の盆栽を窓へ飾つてゐる家があり、交番近くへ來ると、左側に水盤や煎茶風の竹の花生けを賣つてゐる古い店があり、それ等を眺めながら、御苦勞にも自分は矢來下の停留場まで來て、そこから電車へ乘つて歸つて來る。その電車がいつも空いてゐて感じが好く、車掌までがのんびりして、親切だからである。(昭和九年十一月)

横寺町 新宿区の北東部に位置し、神楽坂に接する町。
谷中 東京都台東区の地名。下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)や荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境にあたる。
案内 ここでは「人の来訪や用向きを伝える」こと。取り次ぎ。
縮み ちぢみ。縮織り。ちぢみおり。()りの強い横糸を用い、織り上げ、温湯でもんでちぢませ、布面全体にしぼを表した織物。

メリンス メリノ種の羊毛で織って、薄く柔らかい毛織物。
兵古帯 兵児帯。へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
硯友社 けんゆうしゃ。文学結社。 明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社に。
たぎらす 滾らす。沸騰させる。煮え立たせる。たぎらかす。
貞淑 ていしゅく。女性の操がかたく、しとやかなこと。
築地本願寺 東京築地にある浄土真宗本願寺派の別院の通称。
電車道 以前は大久保通りに都電が走っていました。
万年青 おもと。常緑の多年生草本。学名はRohdea japonica Roth。
矢来下の停留場 市電(都電)の 停留場は江戸川橋通りにありました。

昭和5年.矢来下の停留場

青葡萄①|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 『青葡萄』は明治28年9月16日から11月1日まで、尾崎紅葉氏が「読売新聞」に連載した言文一致体、つまり口語体の作品です。現代では随筆でしょう。この文は自然主義や私小説が出る時よりも、はるか昔に出ています。尾崎紅葉氏は『青葡萄』を書いた後、再び、雅俗(がぞく)折衷(せっちゅう)(たい)、つまり地の文は文語体、会話は口語体という文体に戻り、『金色夜叉』を書きました。
 なお、明治28年8月26日に小栗風葉氏が横寺町で疑似コレラになった事件が発端になっており、入院中に発表しました。
 また、本文は国立国会図書館デジタルコレクションの『青葡萄』ではなく、1994年、岩波書店の「紅葉全集」に寄っています。(つまり漢字は新字体です。)

      (一)

八月二十五日、此日(このひ)(おそ)らく自分(じぶん)一生(いつしやう)(わす)られぬ()であらう、(たしか)(わす)られぬ()である。
欧羅巴(エウロツパ)(ことわざ)に、土曜日(どえうび)(わら)ふものも日曜日(にちえうび)には()、とあるが、果然(なるほど)未来(みらい)一寸先(いつすんさき)(わか)らぬ人間(にんげん)仕事(しごと)を、(かみ)()から()たならば、(その)(あさ)ましさは幾許(いかばかり)であらう。陰陽師(おんみやうじ)さへ身上(みのうへ)()らぬものを、自分は(れい)朝寐(あさね)をして、十一()()(ころ)(せみ)(こゑ)()きて、朝飯(あさめし)昼飯(ひるめし)(あひ)掻込(かきこ)で、(つくゑ)(むか)つたが、(あつ)い、(あつ)い。(この)(あつ)(なか)俳諧(はいかい)! 風流(ふうりう)(あつ)いものであるのか、(たゞし)(あつ)いから風流(ふうりう)(すゞ)むのか、()にも(かく)にも先日来(せんじつらい)小波(せうは)西郊(せいかう)二子(にし)と「土人形(つちにんぎやう)」と()三吟(さんぎん)端書(はがき)俳諧(はいかい)(はじ)めて、(いま)名残(なごり)(つき)(ちか)(すゝ)むだ(ところ)であるから、小波(せうは)(きよう)(じよう)して、二三日前(にちぜん)から脚気(かくけ)(ため)()(しま)転地(てんち)療養(れうやう)をしてゐるのであるが、遠路(ゑんろ)(いと)はず矢継早(やつぎばや)()かけて()る。已無(やむな)(くる)しいのを()けて、西郊(せいかう)(まは)次手(ついで)午後四時(こごよじ)から獅子寺(しゝでら)矢場(やば)一拳(ひとこぶし)(あらそ)はう。連中(れんぢう)四五名(しごめい)あるからと(そゞのか)して、さて(その)時刻(じこく)出懸(でか)けた。
はや大勢(たいぜい)(あつま)つてゐる射手(いて)面々(めん/\)には、官吏(くわんり)もあれば兵士(へいし)もある、若様(わかさま)()るかと(おも)へば地主様(ぢぬしさま)もゐる、英語(えいご)教師(けうし)新聞記者(しんぶんきしや)御次男(ごじなん)やら小説家(せうせつか)やらで、矢声(やごゑ)(いさま)しく金輪(かなわ)点取(てんとり)(もよほ)してゐる。

[現代語訳]8月25日、この日はおそらく自分の一生で忘られない日だろう。確かに忘られない日だ。
 ヨーロッパの諺に、土曜日に笑う人は日曜日には泣く、とある。なるほど未来は一寸先もわからない。それが人間の仕事である。神の目から見た場合、その浅ましさはいかばかりだろう。陰陽師さえ自分の身上は知らない。自分は例の朝寝をして、11時という時間、せみの声に起きて、朝飯と昼飯の間をあっと食べ、机に向かった。しかし、暑い、暑い。この暑いなかで俳諧をやっているなんて! 風流は熱いものであるのか、熱いから風流で涼むのか。とにもかくにも先日来、小波と西郊の二人と一緒に「土人形」という三人で詠む端書の俳諧を始めた。今や名残の月に近く進んだ所だが、小波も興に乗じて、二三日前から脚気のために江の島に転地療養をしているのだが、遠路もいとわず、つぎばやに俳諧をかけてくる。やむなく苦しいのをつけて、西郊へ廻したが、ついでに、午後四時から獅子寺の矢場で一回争うことにした。二人に相手も四五名いるからとそそのかして、さてその時刻になって出かけた。 矢場には大勢があつまっている。射手の面々には、公務員や兵士、若様がいるかと思うと地主様もいる。英語の教師に新聞記者、御次男やら小説家やらで、矢声も勇ましく金属製の輪を使って得点を争そうと言っている。

土曜日に笑ふものも日曜日には泣く フランスの諺。Ceux qui rient le vendredi, pleureront le dimanche. Those who laugh on Friday will cry on Sunday. He who laughs on Friday will weep on Sunday. 喜びの後には悲しみがやってくる。
陰陽師 おんようじ。おんみょうじ。陰陽道に基づいて卜筮(ぼくぜい)、天文、暦数を司り、疾病治療などの知識ももった者。
身上 みのうえ。身の上。その人にかかわること。境遇。人間の運命。
 ころ。頃。ころあい。時。なお、「比蝉」という単語はありません。
 昔の「む」は今の「ん」に変わっています。ここでは「掻込んで」になります。
俳諧 はいかい。滑稽とほぼ同じ意味。機知的言辞が即興的にとめどもなく口をついて出てくること。連句、発句(ほっく)、俳文、俳諧紀行、和詩など俳諧味(俳味)をもつ文学の総称。
小波 おそらく巌谷小波のこと。イワヤサザナミ。明治大正期の児童文学者。小説家。俳人。明治20年硯友社に入る。
西郊(せいこう) 誰かは不明。岩波書店が調べた初出では「青江(せいこう)」になっています。この名前も不明ですが、江見(えみ)水蔭(すいいん)氏ではないかと疑っています。
三吟 さんぎん。連歌や連句の一巻を三人の連衆で詠むこと。また、その作品。
矢継ぎ早 やつぎばや。続けざまに早く行うこと。矢を続けて射る技の早いこと。
次手に ついでに。序でに。何かをするその機会を利用して、直接には関係のないことを行うこと。
矢場 弓術を練習する所。
射手 いて。弓を射る人。弓の達人。
矢声 やごえ。矢を射当てたとき、射手が声をあげること。その叫び声。矢叫び。やさけび。
金輪 金属製の輪。
点取 てんとり。点を取ること。得点を争うこと。

(およ)諸芸(しよげい)(なに)(かぎ)らず其門(そのもん)天狗道(てんぐだう)であるが、(べつ)して(しや)(みち)劇甚(きびしい)やうに(おも)はれる。自分(じぶん)とても四年来(よねんらい)天狗(てんぐ)で、(すで)其筋(そのすぢ)から薄部(うすべ)()羽団(はうちは)をも(ゆる)されやうと沙汰(さた)するほどの(まん)(みだり)(ひと)射勢(いまへ)(なん)じて、日置(へき)(りう)秘歌(ひか)百首(ひやくしゆ)朗吟(らうぎん)するの一癖(いつぺき)(そもそ)我流(わがりう)には三教(さんけう)密伝(みつでん)ありて、などゝ()りかける(いとま)()く、此日(このひ)(ほとん)乱射(らんしや)(てい)で、矢数(やかず)二百(にひやく)(あまり)()いて、黄昏(たそがれ)となつた。自分(じぶん)(あたり)(わる)いのは、(いま)(はじ)まつたのではないが、此日(このひ)(また)格別(かくべつ)不出来(ふでき)であつた。(あせ)れば(あせ)るほど揉破(もみこは)して、心中(しんちう)さながら()ゆる(ごと)満身(まんしん)(かん)脳天(なうてん)まで亢進(たかぶ)つて、(これ)(むかし)大名(だいみやう)であつたなら、もそツと(あた)(まと)()けい、と(はげ)しい御諚(ごぢやう)のあるべき(ところ)であるが、平民(へいみん)()可悲(かなしき)には、徹骨(てつこつ)(うらみ)()むで、怏々(あう/\)(ゆみ)(ふくろ)(をさ)めてゐる(ところ)へ、明進軒(めいしんけん)近所(きんじよ)洋食店(やうしよくてん))からの使(つかひ)で、社中(しやちう)馬食(ばしよく)先生(せんせい)会食(くわいしよく)(まね)かれた。
馬食(ばしよく)先生(せんせい)洒脱(しやだつ)()諧謔(かいぎやく)(げん)とは、自分(じぶん)(つね)(よろこ)(ところ)である。(をり)こそ()けれと一躍(いちやく)して矢場(やば)()た、(イー)()(エチ)()(チー)()同行(どうかう)した。
途上(みち/\)(エチ)()自分(じぶん)(むか)つて、
「これから(きみ)皆中(そくる)だらう。」と(たはふ)れたが、(やが)五人(ごにん)(ひざ)(しよく)(かこ)むで、(さかづき)(とば)し、(かつ)(きつ)し、(かつ)(だん)じた愉快(ゆくわい)は、向者(さき)怏々(あう/\)(たのし)まざる(ひと)をして、二立目(ふたたてめ)自景(じけい)(すま)したやうな元気(げんき)にした。
やう/\ビーフステーキの肉叉(フオーク)()()かぬかに、給仕(きふじ)()て、
御宅(おたく)から御人(おひと)でござます。」
自分(じぶん)(すぐ)()つて、二階(にかい)(てすり)から(かど)(たゝず)門生(もんせい)春葉(しゆんえう)()びかけて、客来(きやくらい)か、と(たづ)ねると、「(いえ)一寸(ちよつと)………。」と(かれ)(こゝろ)()りげ自分(じぶん)目戍(まも)

[現代語訳]およそ諸芸は何でも限らず自慢な人が多いが、特に弓道は厳しいように思える。自分としても四年来の天狗だが、すでにその筋から思い上がりを許すではないかといわれた。オジロワシの尾羽でつくった「うちわ」がその証拠だという。ほかにも、みだりに他人の弓の姿勢を難じて、日置流の秘歌百首を朗吟し、ある種の癖として、そもそも日置流には三教の密伝があり、などとやっていたのだ。さて、この日はほとんど乱射で、矢数の二百余も引き、黄昏となった。自分の当たりの悪いのは、今に始まったのではないが、この日は格別に悪い。あせればあせるほど点数は悪くなり、心中は燃ゆる如く、満身の興奮は脳天までたかぶってくる。これが昔の大名であったら、もそっと 当たる的をかけい、とはげしい仰せのあるべき所だが、平民の身はかなしい。骨まで通る恨みは飲み込んで、不平不満があるが、弓は弓袋に収めた。明進軒(近所の洋食店)からの使いで、見ると、社中の馬食先生から会食に招かれた。
 馬食先生の洒脱の気と諧謔の言とは、自分の常に喜ぶ所である。おりこそ好ければと一躍して矢場を出た、E氏、H氏、T氏も同行した。
 途中H氏は自分にむかって、 「これから君はすべての矢を的に刺すだろう」と冗談をいったが、やがて五人の膝は食卓を囲み、さかづきを飛ばし、どもり、かつ、談じた愉快さは、さきの楽しむ人ではないが、自分で歌舞伎で満足するような元気が一杯になってきた。 ようやくビーフステーキのフォークをおくか、おかない時に、給仕がやってきて、 「御宅から、1人ですが、ここに来ています」
 自分はすぐ立ちあがり、二階のてすりから門にたたずむ門生の春葉をよびかけた。客が来たのか、とたづねると、「いえ、ちょっと………。」と彼は意味あるように自分をじっと見つめた。

天狗道 自慢し高慢な人が多い世界。
劇甚 はなはだしいこと。非常に激しいこと。
薄部尾 うすべお。薄黒い斑点のあるオジロワシの尾羽。的中するため矢羽に用いる。
羽団 鳥の羽で作ったうちわ。右図を。
 まん。仏教で説く煩悩(ぼんのう)の一つ。思い上がり。自分を高くみて他を軽視すること。
射勢 弓を射る時の姿勢。
日置流 弓術の一派。近世弓術の祖といわれる日置弾正正次が室町中期に創始。尾崎紅葉氏もこの一派に属しています。
一癖 一つの癖。ちょっとした癖。普通の人とは違っていて扱いにくい性格。
遣り掛ける やりかける。あることをしはじめる。
乱射 的を定めず、むちゃくちゃに発射すること。
 あたり。物のまんなか。中央。
揉破 やわらかくして、悪くなる。
 ちょっとしたことにも興奮し、いらいらする性質や気持ち。
御諚 貴人の命令。仰せ。お言葉。
徹骨 てっこつ。骨までとおること。物事の中核・真底にまで達すること。
 うらみ。残念に思う気持ち。心残り。未練。
怏々 おうおう。不平不満のあること。
 ゆみぶくろ。弓袋。
社中 詩歌・邦楽などで同門の仲間。
洒脱 俗気がなく、さっぱりしていること。あかぬけしていること。
一躍 いっぺんに評価が上がること。
皆中 束る。そくる。総射数の全ての矢を的に刺す。
 さかずき。酒を飲む容器。「さかずき」には杯、盃、坏、盞、爵、觚、鍾など多くの字をあてる。
吃する きっする。言葉がなめらかに出ない。どもる。
二立目 ふたたてめ。江戸歌舞伎で、序開きの次に演じられた一幕。下級俳優によって行われた一種の開幕劇。二つ目。
自景 自分で満足すること。
擱く おく。措く。やめる。中止する。控える。
 それ。かれ。第三人称の代名詞。
意ありげ 心ありげ。意味があるように。
目戍る じっと見つめる。注意深く見る。熟視する。

 なお、この文章の前に、青葡萄を使った理由が書いてあります。簡単に訳すと、「この篇について、表題は青葡萄になっているが、庭の前に青葡萄があって、その味を試してみたところ、不測の病気になった。結局、青葡萄が原因だと、書いてはいない。腹案では後編に出すものだった。理由があって前篇で終了した。蛇足だという弁もあり、すぐれた者のあとに劣った者が続く場合ではないか。恥ではなかろうか」。

 此篇題して青葡萄といふは、庭前に其物ありしを人の仮初に味ひて、不測の病を獲しに拠るなり、畢竟巻中の之を説かざるは、後編に出すべき腹案なりしを、故ありて筆を前篇に止めしが為のみ、世に蛇足の辯あり、如此きは更に狗尾の続ぐを慙ぢざらむや、
         去年事のありける其日
                葡萄簷のあるじ

青葡萄➆|尾崎紅葉

文学と神楽坂

祖父(そふ)祖母(そぼ)(ころ)げるやうに一度(いちど)蹶起(はねお)きて、蚊帳(かや)(ごし)(おもて)(そろ)へて自分(じぶん)()る。
病人(びやうにん)様子(やうす)()くないやうだから、病院(びやうゐん)(おく)ることにしたよ。(しか)し、心配(しんぱい)するほどのことは()い。」
()病院(びやうゐん)へかい。」
祖母(そぼ)(あき)れる。祖父(そふ)戦々兢々(おろ/\)と、
大丈夫(だいじやうぶ)かい、大丈夫(だいじやうぶ)かい。」
(とゞろ)(むね)(しづ)めかねてゐた。
大丈夫(だいじやうぶ)だよ。明朝(あした)まであゝして()くと、(かへ)つて険難(けんのん)だから、手後(ておくれ)にならない(うち)送院(そうゐん)した(はう)()いのさ。それから、(いま)巡査(じゆんさ)警部(けいぶ)()るから、(こゝ)往来(わうらい)になるかも()れないから、二階(にかい)()つてお(やすみ)なさい。」
祖父母(そふぼ)(ます/\)(おどろ)いて、はや蚊帳(かや)()やうとする。
(すこ)()つて、(いま)二階(にかい)片附(かたづ)けるから。」
自分(じぶん)二階(にかい)(あが)つた。(ケー)()()らぬ。病室(びやうしつ)春葉(しゆんえふ)()(こゑ)がした。国手(ドクトル)第二回(だいにくわい)皮下(ひか)注射(ちゆうしや)(ほどこ)してゐるのであつた。
[現代語訳]祖父も祖母もころげるように一度に跳ね起きて、蚊帳ごしに顔をそろえて自分を見る。
「病人の様子がよくないようだから、病院へ送ることにしたよ。しかし、心配するほどのことはない。」
「伝染病院へかい。」
と祖母はあきれる。祖父は戦々兢々として、
「大丈夫かい、大丈夫かい。」
ととどろく胸を静めかねていた。
「大丈夫だよ。明朝までああしておくと、かえって不安だから、手遅れにならないうちに病院に行った方がいいのさ。それから、今に巡査や警部が来て、ここは他人のほうが大勢来るかもしれないから、二階へ行っておやすみなさい。」
 祖父母はますます驚いて、はや蚊帳からでようとする。
「すこし待って、今、二階を片付けるから。」
と自分は二階へあがった。K氏は不在。病室に春葉を呼ぶ声がした。医師は二回目の皮下注射をしていたのであった。

避病院 以前は法定伝染病患者を隔離する伝染病院を避病院と呼びました。現在は感染症法で規定する感染症病院で、避病院とはいいません。東京23区では駒込病院、荏原病院、墨東病院、豊島病院の4病院で、うち駒込病院、荏原病院、墨東病院は避病院でした。
険難 けんのん。剣呑。危険な感じがする。不安を覚える様子。
往来 おうらい。行ったり来たりすること。行き来。人や乗り物が行き来する場所。
はや すぐに。さっさと。はやく。ある事柄の実現が意外に早い。
K氏 加藤医師で、紅葉氏の学友でした。
国手 こくしゅ。医者を敬っていう語。名医。上医。ここではK氏のこと。
皮下注射 おそらくカンフル注射でしょうか。