矢来町」カテゴリーアーカイブ

矢来町|江戸、明治、現在(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 矢来町の大部分は旧酒井若狭守の下屋敷でした。

 矢来(やらい)という言葉は、竹や丸太を組み、人が通れない程度に粗く作った柵のことです。正保元年(1644年)、江戸城本丸が火災になったときに、第3代江戸将軍の家光はこの下屋敷に逃げだし、御家人衆は抜き身の槍を持って昼夜警護したといいます。以来、酒井忠勝は垣を作らず、竹矢来を組んだままにしておきます。矢来は紫の紐、朱の房があり、やりを交差した名残りといわれました。

 江戸時代での酒井家矢来屋敷を示します。なお、酒井家屋敷北の早稲田通りから天神町に下る一帯を、俗に矢来下(やらいした)といっています。

矢来屋敷

 明治5年、早稲田通りの北部、つまり12番地から63番地までの先手組、持筒組屋敷などの士地と、1番地から11番地までの酒井家の下屋敷を合併し、牛込矢来町になりました。その時代が下の絵で、明治18年ごろの同じ場所です。池はあるので、かろうじて同じ場所だと分かります。何もない荒れた土地でした。なお、以下の地図は『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会、昭和57年)を使っています。

矢来町 明治

 明治28年頃(↓)になると、番号が出てきて、新興住宅らしくなっていきます。1番地は古くからの宅地(黄)、3番地は昔は畑地。7番地(水色)は長安寺の墓地だったところ。8、9番地(赤とピンク)は山林や竹藪、11番地は池でした。それが新しく宅地になります。

矢来町color

 3番地には(あざ)として旧殿、中の丸、山里の3つができます。旧殿は御殿の跡(右下の薄紫)、中の丸は中の丸御殿の跡(右上の濃紫)、山里は庭園の跡(左の青)でした。

矢来町の3個の字

矢来町の3個の字

 11番地は矢来倶楽部の庭園で、ひたるがいけ(日下ヶ池)を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚などの由緒ある建物や、古跡などがありました。将軍家の御成も多かった名園でした。 矢来倶楽部は9番地(ピンク)にあり、明治二十五年頃に設立しました。

 最後に現代です。矢来町ハイツは日本興業銀行の寮からみずほ銀行社宅になっていきます。

矢来町 現在

 牛込中央通りを見た360°写真。上下左右を自由に動かすこともできる。正面が矢来ハイツ。


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我が黙示録|稲垣足穂

文学と神楽坂

 昭和45年、稲垣足穂氏が『海』に発表した「我が黙示録」です。ここでは「稲垣足穂全集10」(筑摩書房、2001年)から取っています。東京大空襲も、B-29爆撃機も、焼夷弾も、第二次世界大戦も、全くでていませんが、何が起こったのかは明らかです。

 そんな冥界のやからでなく、又、アルコール幻覚でなく、私がかつて現実に見た最も華麗壮大な物象を御紹介したい――
 戦時中、牛込横寺町にいた頃だった。午後三時すぎだったろう。私は神楽坂上を矢来の方へ歩いていて、頭上におどろくべき景観を見た。雲のまんなかが開けて、そこが赤熱化した真鍮しんちゅうさながらに光り輝いているのである。それはあのたえなる恵みやあめなるかどは、わがためひらかれたりリフレーンの付いた、讃美歌を思い合わさせた。灼熱しゃくねつのふちを備えた天の門があいているのだった。
 それから横丁へはいって、我が住いにいったん帰り、あの天の門がどうなったか見ようとして、それとも他に用事があったのか、もう一ペん矢来の通りに出てみた。
 先刻の天の輝ける門は大きなのが一つ、その他に余り目立たない五ツ六ツがあったようにおぼえているが、それらが右の方へ向って、それぞれに光に縁取られた竜になって、編隊を組んで走り出していた。天の門は崩れておのおの竜形になっていた。これはあの玉をつかんでいるシナの竜では無い。キリンビールの商標に似た、馬形の火で竜であった……。
 私はその見事さにあきれたように見上げていたが、気が付いて赤城神社境内の西に面した崖ぷちにまで出て、そこで釘付けになってしまった。
 竜群は遠くへ飛び去ってしまった。入れ代って右手の遥か向うに、大斜面の上にった、言語に絶する展望があった。
 全体が青い、幾分ぼやけた色をした広大な斜面は、そのまま大都の遠望であった。それは只の都市ではない。無限に見える傾斜面には、黄金の塔や銀の橋や宝石作りの家々が立ち詰っているように見えた。私が立ちつくしていた小一時間のあいだ、その不思議な都は少しずつ右へずれているようであったが、大体として形はくずれなかった。ド・クインシーはその著『英国阿片あへん吸飲者の告白』の中で、アヘンの夢に見た都会を挙げ、あんなものは時たまの夢の中でしか見られない。自分の下手な文章では却ってぶちこわしだと云って、その代りとしてコールリッジの詩を引用している。星々がきらめき、揺れ動く不安な空をバックにしたおどろくべき宮殿風城塞の描写なのである。私はこの都を表現するのに、さしずめ黙示録第二十一章にある所を引く以外はない――
「都は清らかなる玻璃はりのごとき純金にて造れり。都の石垣の基は、さまざまの宝石にて飾れり。第一の基は碧玉。第二は瑠璃るり。第三は玉髄。第四は緑玉。第五は紅縞べにしま瑪瑙めのう。第六は赤瑪瑙。第七は橄欖かんらん。第八は緑柱石。第九は黄玉石。第十は緑玉髄。第十一は青玉。第十二は紫水晶なり。十二の門は十二の真珠なり。おのおのの門は一つの真珠より成り、都の大路は透徹すきとおる玻璃のごとき純金なり。われ都の内にてを見ざりき。主なる全能の神および羔羊こひつじはその宮なり。都は日月の照らすを要せず、神の栄光これを照し、羔羊はその灯火なり。諸国の民は都の光のなかを歩み、地の王たちは己が光栄を此処ここたずさえきたる。都の門は終日ひねもす閉じず(此処に夜あることなし)」

雲のまんなかが開けて 米軍の爆撃機がやってきます。
〽妙なる恵みや天なる御門は、わがためひらかれたり 賛美歌505の「たえなるめぐみや」がよく似ています。賛美歌505では「たえなるめぐみや みかどは開け 救いのひかりぞ 世にかがやけり」と続きます。
リフレーン refrain。詩・音楽などで、同じ句や曲節を繰り返すこと。
黄金の塔や銀の橋や宝石作りの家々 次に火事が起こりました
ド・クインシー Thomas De Quincey。イギリスの評論家。主著『阿片服用者の告白』(1822年)では自らの阿片中毒体験を華麗に綴った。生年は1785年8月15日。没年は1859年12月8日。
英国阿片吸飲者の告白 Confessions of an English Opium-Eater。幼少期の悲哀、青春の放浪、阿片の魅惑と幻想の牢獄を知性と感性の言語で再構築した。
コールリッジ Samuel Taylor Coleridge。イギリスの詩人。詩集は『抒情歌謡集』など。
さしずめ 今の局面で。つまり。さしあたり。
黙示録第21章 ヨハネの黙示録(口語訳)の第21章は「21:18 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。21:19 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、21:20 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。21:21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。21:24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。」「The wall was constructed of jasper, while the city was pure gold, clear as glass. The foundations of the city wall were decorated with every precious stone; the first course of stones was jasper, the second sapphire, the third chalcedony, the fourth emerald, the fifth sardonyx, the sixth carnelian, the seventh chrysolite, the eighth beryl, the ninth topaz, the tenth chrysoprase, the eleventh hyacinth, and the twelfth amethyst. The twelve gates were twelve pearls, each of the gates made from a single pearl; and the street of the city was of pure gold, transparent as glass. I saw no temple in the city, for its temple is the Lord God almighty and the Lamb. The city had no need of sun or moon to shine on it, for the glory of God gave it light, and its lamp was the Lamb. The nations will walk by its light, 18 and to it the kings of the earth will bring their treasure. During the day its gates will never be shut, and there will be no night there.」
玻璃 はり。水晶のこと。
碧玉 へきぎょく、jasper、ジャスパー。微細な石英の結晶集合体。
瑠璃 るり。青色の美しい宝石。ラピスラズリ。lapis lazuli。青金石など数種の鉱物の混合物。サファイア。
玉髄 ぎょくずい。SiO2 。石英の繊維状の潜晶質の結晶集合体。
緑玉 りょくぎょく。エメラルド。緑柱石の一種。発色原因はクロムやバナジウムで、色鮮やか。
紅縞瑪瑙 べにしまめのう。サードオニックス。赤色と白色の平行な縞模様のある石英の非常に細かい結晶集合体。
赤瑪瑙 赤メノウ。玉髄(カルセドニー)の一種。小さな石英の結晶集合体
貴橄欖石 かんらん石。橄欖石。Chrysolite。マグネシウムと鉄のケイ酸塩。黄色や緑色の準宝石
緑柱石 りょくちゅうせき。beryl。発色原因は鉄で、色は爽やか。
黄玉石 トパーズ。Topaz。黄金色。ケイ酸塩鉱物。
緑玉髄 りょくぎょくずい。クリソプレーズ。玉髄(カルセドニー、繊維状の石英)の一種。翡翠
青玉 サファイア。コランダム(Al2O3、酸化アルミニウム)の変種
紫水晶 アメジスト。紫色の水晶。組成はSiO2(二酸化ケイ素)
 神社。英語ではtemple。宮殿。
羔羊 小羊。子羊。英語ではLamb(子羊)
終日 ひもすがら。ひねもす。一日中。

森田草平の住所

文学と神楽坂

 明治43年8月12~13日、森田草平氏は牛込矢来町62番地に転居、さく女史と家庭生活に入りました。女史は藤間勘次といい、藤間流の日本舞踊の先生でした。

 実は2年前の明治41年3月、氏は心中未遂事件を起こしています。明治40年4月、天台宗中学の英語教師になり、さらに6月、閏秀文学界の講師となり、ここで、平塚明(明子、らいてう、雷鳥)女史を聴講生として知ります。二人の中は急速に進展し、明治41年3月、塩原尾頭峠で、平塚明子女史と心中未遂の塩原事件を起こしています。

 明治42年1月1日~5月16日、氏は朝日新聞にこの事件をモデルにした「煤煙」を連載します。ここでは、最後の数部分を読んでみます。なお、この出典はおおむね「日本現代文学全集41」(講談社、昭和58年)でありますが、さらに必要があれば国立国会図書館の「煤煙」(如山堂、大正2年)を借りています。

 女は包を解いて、手紙の束を雪の上へ投出した。その上へウィスキイの殘りを注ぐ。男はしやがんで燐寸マツチを擦つた。小さな靑い火がぼぼと燃えて、その儘すうと煙を出して消えた。二たび擦る。燐寸が半ばから折れた。三たび、四度目に燃え上つた。男の戀を連ねた文字が燃える。黑くくすぶつて消えようとしては、又ぶす/\と燃え上つた。
 要吉はそれを見詰めてゐた。眼も離さず見詰めてゐた。いよ/\黑い灰となつて仕舞つたのを見濟まして、不圖女をかへり見たが、自分の顏に泛んだ失望の色が自分の眼にも見えるやうな氣がした。
 俄に山巓からどつと風が落ちて來た。灰を飛ばし、雪の粉を飛ばし、われも人も吹飛ばして仕舞ひさうな。二人はひし相抱いた。風は山を鳴らして吹きに吹く。
「死んだら何うなるか、言つて、言つて。」
 女は男の腕を掴んで、かずれた聲に叫ぶ。
「言つて、言つて。」
「私には――言へない。」
 女は凝乎ぢつと男の顏を見守つてゐる。それを見ると、男の心には又むら/\と反抗心が起った。生きるんだ、生きるんだ、自分は何處迄も生きるんだ。
 つとうち衣嚢かくしから短刀を取出して、それを握ったまゝ立上った。女はその氣色を見て、
「何うするんです」と、突走るやうに訊く。
 あなやと言ふ間もなく、要吉は谷間を目蒐めがけて短刀を投げた。
「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分ぢや死なない。貴方も殺さない。」
 二人は顔を見合せたまゝ聲を呑んだ。天上の風に吹き散らされて、雲間の星も右往左往に亂れて、見えた。女は又叫ぶ。
「歩きませう、もつと歩きませう。」
「うむ、歩きませう。」
 二人は雪明りをたよりにして、風の中を行く。風のために雪が氷り始めたやうだ。只、その上層うはかはを破れば、底迄踏み込まずには置かない。やっと半町程進んだ時、ばたりと背後で倒れる音がした。朋子は崖を踏み外したまゝ、聲も立てずにゐる。遽てて、それを引上げようとして、一緒にずる/\と摺り落ちた。三間ばかり落ちて行つたが、危く雪の洞に引かゝつた。
 二人は折重なつたまゝ動かなかった。だん/\風の音も遠くなるらしい。要吉は腹の辺りから冷たい水が沁み込んで来るのを覚えながら、ついうと/\とした。その後は何うなつたか知らない。
 不圖、誰かに喚び起されるやうな氣がして眼を開いた。朋子が凝乎ぢつと自分の顔を見守つてゐる。「ね、歩きませう、もつと歩きませう。」
 女は急に男の手を持つて、同じ事を繰返した。
 要吉は默つて立上つた。見返れば、月天心に懸つて、遠方の山々はさながら太洋のなみがその儘氷つたやうに見えた。わが居る山も、一面に雪が氷つて、きら/\と水晶のやうな光を放つた。あゝ氷獄!氷獄! 女の夢は終に成就した。到頭自分は女に件れられて氷獄のへ來た。――男の心には言ふべからざる歡喜の情が湧いた。う可い、もう可い! 二人は手を取合つたまゝ、雪の上に坐ってゐた。何にも言ふことはない!
 二人は又立上った。堅く氷つた雪を踏みしだきながら、山を登つて行く。
 山巓も間近になつた。
 だん/\月の光がぼんやりして、朝の光に變つて行く。
(明治42年1月~5月「朝日新聞」)

不図 ふと。不斗。思いがけなく、突然起こる。不意に。これといった理由や意識もなく、物事が生じる。
泛ぶ うかぶ。浮かぶ。奥に隠れていたものが表面に現れる。
山巓 さんてん。山巓。山顚。山のいただき。山頂。
犇と ひしと。ぴったりと密着する。
つと ある動作をすばやく、いきなりする。さっと。急に。
内かくし 内隠し。洋服の内ポケット。うらかくし。
突走る つっぱしる。突っ走る。勢いよく走る。まっしぐらに進む。
あなや ひどく驚いた時に発する語。あっ。あれっ。
上層 じょうそう。層をなして重なっている物の上の方の部分。
遽てて あわてる。うろたえる。急いで…する。
摺る する。こする。印刷する。
天心 てんしん。空のまん中。中天。
氷獄 読みは「ひょうごく」(国立国会図書館「煤煙」から)。この言葉は本来ありません。勝手に作ったのでしょうか。なお「八寒地獄」は、寒冷に責められる地獄のこと。
 り。うら。うち。物のうらがわ。なか。内部。

 それから約1年後、氏は藤間勘次女史と矢来町62番地で夫婦関係になりました。

 遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」で書き

 勘次師は、二代目藤間勘右衛門(後の勘翁)の門弟で、三代目勘右衛門、後の初代勘斎(松本幸四郎)は先代市川團十郎、松本白鴎、尾上松緑三兄弟の父君です。勘次師は、また作家の森田草平先生の奥さまで、花柳界のお弟子は全く取らず、名門の子女が多く、お嬢さま方がそのころ珍しかった自家用車に乗り、ばあやさんをお供にお稽古に来ておられました。
 藤間のお三方のご兄弟ももちろんこの頃は若く、踊りの手ほどきを勘次師にしていただくためよく来られました。私はまだ小学生で、時々お稽古場で豊(松緑)さんと顔が会うと、住まいが同じ渋谷だったので、お稽古の後、付人のみどりさんという若い男の子と三人で神楽坂をぶらぶら歩いて、よく履物の助六の下にあった白十字でアイスクリームなどをごちそうになったものです。

 下の地図で二人が住んだ矢来町62番地は赤い多角形で書きました。

矢来町62番地

大正11年、東京市牛込区の地図

松葉ぼたん|水谷八重子

文学と神楽坂

 水谷八重子氏は明治38年8月1日に神楽坂で生まれました。この文章は氏の『松葉ぼたん』(鶴書房、昭和41年)から取ったものです。
 氏が5歳(昭和43年)のとき、父は死亡し、母は、長女と一緒に住むことになりました。長女は既に劇作家・演出家の水谷竹紫氏と結婚しています。つまり、竹紫氏は氏の義兄です。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項では、大正2年(8歳)頃から4年頃までは矢来町17 、大正5年頃(11歳)は矢来町11、大正6年頃(12歳)~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年(18歳)から大正15年頃は通寺町に住んでいました。氏が小学生だった時はこの矢来町に住んでいたのです。

神楽坂の思い出
 ――かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川――啄木の歌だが、私は東京牛込生まれの牛込育ち、ふるさとへの追慕は神楽坂界わいにつながる。思い出の坂、思い出の濠(ほり)に郷愁がわくのだ。先だっての晩も、おさげで日傘をさし、長い袖の衣物で舞扇を持ち、毘沙門様の裏手にある踊りのお師匠さんの所へ通う夢をみた。
 義兄竹紫(ちくし)の母校が早稲田だったからでもあろう。水谷の家矢来町横寺町と居をえても牛込を離れなかった。学び舎は郵便局の横を赤城神社の方ヘはいった赤城小学校……千田是也さんも同窓だったのだが、年配が違わないのに覚えていない。滝沢修さんから「私も赤城出ですよ」といわれた時は、懐かしくなった。

かにかくに あれこれと。何かにつけて。
渋民村 石川啄木の故郷。現在は岩手県盛岡市の一部。
追慕 ついぼ。死者や遠く離れて会えない人などをなつかしく思うこと。
郷愁 きょうしゅう。故郷を懐かしく思う気持ち。
おさげ 御下げ。少女の髪形。髪を左右に分けて編んで下げる。
舞扇 まいおうぎ。舞を舞うときに用いる扇。多くは、色彩の美しい大形の扇。
水谷の家 区編集の「区内に在住した文学者たち」では大正2年頃~4年頃まで矢来町17(左の赤い四角)、大正5年頃は矢来町11(中央の赤い多角形)、大正12頃~15年頃は通寺町61(右の赤い多角形)でした。
郵便局 青丸で書かれています。
赤城神社 緑の四角で。
赤城小学校 青の四角で。
千田是也 せんだこれや。演出家。俳優。1923年、築地小劇場の第1回研究生。44年、青山杉作らと俳優座を結成。戦後新劇のリーダーとして活躍。生年は明治37年7月15日。没年は平成6年12月21日。享年は満90歳。
滝沢修 たきざわおさむ。俳優、演出家。築地小劇場の第1回研究生。昭和25年、宇野重吉らと劇団民芸を結成。生年は明治39年11月13日、没年は平成12年6月22日。享年は満93歳。

 学校が終えると、矢来の家へ帰って着物をきかえ、肴(さかな)町から神楽坂へ出て、踊りのけいこへ……。お師匠さんは沢村流だった。藁店(わらだな)の『芸術俱楽部』が近いので松井須磨子さんもよくけいこに見えていた。それから私は坂を下り、『田原屋』のならび『赤瓢箪』(あかびょうたん・小料理屋)の横町を右に折れて、先々代富士田音蔵さんのお弟子さんのもとへ長唄の勉強に通うのが日課であった。神楽坂には本屋が多い。帰りは二、二軒寄っで立ち読みをする。あまり長く読みふけって追いたてられたことがある。その時は本気で、大きくなったら本屋の売り子になりたいと思った。乙女ごころはほほえましい。

沢村流 踊りの流派は現在200以上。「五大流派」は花柳流・藤間流・若柳流・西川流・坂東流。沢村流はその他の流派です。
田原屋 坂上にあった田原屋ではありません。戦前、神楽坂中腹にあった果実店です。右図では左から三番目の店舗です。現在は2店ともありません。
横町 おそらく神楽坂仲通りでしょう。
富士田音蔵 長唄唄方の名跡みょうせき。名跡とは代々継承される個人名。
長唄 三味線を伴奏楽器とする歌曲。

 藁店といえば、『芸術座』を連想する。島村抱月先生の『芸術倶楽部』はいまの『文学座』でアトリエ公演を特つけいこ場ぐらいの広さでばなかったろうか? そこで“闇の力”を上演したのは確か大正五年……小学生の私はアニュートカの役に借りられた。沢田正二郎さんの二キイタ、須磨子さんのアニィシャ。初日に楽屋で赤い鼻緒(はなお)のぞうりをはいて遊んでいたら、出(で)がきた。そのまま舞台へとびだして、はたと弱った。そっとぞうりを積みわらの陰にかくし、はだしになったが、あとで島村先生からほめられた記憶がある。

芸術座 新劇の劇団。大正2年、島村抱月・松井須磨子たちが結成。芸術座は藁店ではなく、横寺町にありました。
芸術倶楽部 東京牛込区横寺町にあった小劇場
アトリエ 画家、彫刻家、工芸家などの美術家の仕事場
鼻緒 下駄などの履物のひも(緒)で、足の指ではさむ部分。足にかけるひも
はたと弱った ロシアの少女が草履を履くのはおかしいでしょう。

 私の育った大正時代、神楽坂は山の手の盛り煬だった。『田原屋』の新鮮な果物、『紅屋』のお菓子と紅茶、『山本』のドーナッツ、それぞれ馴染みが深かった。『わかもの座』のころ私は双葉女学園に学ぶようになっていたが、麹町元園町の伴田邸が仲間の勉強室……友田恭助さんの兄さんのところへ集まっては野外劇、試演会のけいこをしたものである。帰路、外濠の土手へ出ては神楽坂をめざす。青山杉作先生も当時は矢来に住んでおられた。牛込見附の貸しボート……夏がくるたびに、あの葉桜を渡る緑の風を思い出す。
 関東大震災のあと、下町の大半が災火にあって、神楽坂が唯一の繁華境となった。早慶野球戦で早稲田が勝つと、応援団はきまってここへ流れたものである。稲門びいきの私たちは、先に球場をひきあげ、『紅屋』の二階に陣どる。旗をふりながらがいせんの人波に『都の西北』を歌ったのも、青春の一ページになるであろう。
 神楽坂の追憶が夏に結びつくのはどうしたわけだろう。やはり毘沙門様の縁日のせいだろうか? 風鈴屋の音色、走馬燈の影絵がいまだに私の目に残っている。

わかもの座 水谷八重子氏は民衆座『青い鳥』のチルチル役で注目され、共演した友田恭助と「わかもの座」を創立しました。
双葉女学園 現在の雙葉中学校・高等学校。設立母体は女子修道会「幼きイエス会」。住所は東京都千代田区六番町。
麹町元園町 現在の一番町・麹町1~4の一部。

麹町元園町

麹町元園町

友田恭助 新劇俳優。本名伴田五郎。大正8年、新劇協会で初舞台。翌年、水谷八重子らとわかもの座を創立。1924年、築地小劇場に創立同人。1932年、妻の田村秋子と築地座を創立。昭和12年、文学座の創立に加わったが、上海郊外で戦没。生年は明治32年10月30日、没年は昭和12年10月6日。享年は満39歳。
青山杉作 演出家、俳優。俳優座養成所所長。1920年(大正9年)、友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」では演出家。
稲門 とうもん。早稲田大学卒業生の同窓会。

上田敏|横寺町

文学と神楽坂

 上田敏氏について知られていない事実があり(知っている人はいる?)、子供時代は矢来町と横寺町に住んでいたのです。

 以下は安田保雄氏の『上田敏研究 増補新版-その生涯と業績』(有精堂、昭和44年)からの引用です。

明治二十年(十四歳)四月、父が大蔵省に轉任することになつたので、一家とともに上京し、牛込區矢來町三番地に移り、六月、神田區錦町の私立東京英語學校に入學した。
 明治二十一年(十五歳)、父は四十三歳で歿し、この年、彼は第一高等中學校の入學試験に合格したが、父の死のため入學を果さず、牛込區横寺町五十八番地の伯父乙骨太郎乙の邸内に移つた。(中略)
 明冶二十二年(十六歳)九月、第一高等中學校(後の第一高等學校、當時は、五年制であつた)に入學、豫科英三級ニノ組に編入され、乙骨太郎乙の弟子である本郷區西片町十番地田口卯吉方に寄寓するやうになつた。

 まず矢来町三番地です。矢来町の90%は小浜藩酒井家の矢来屋敷でした。三番地はなかでも広く、図の赤い部分です。あまりにも大きく、このどれかに住んでいたのでしょうが、これ以上は不明です。

東京実測図(明治28年)

 次は横寺町58番地です。青い場所で、将来はこの1部分を牛込中央通りが通過し、完全に西半分だけが生き残ります。現在は下の地図での所です。

 以上、住んだのは短期間でしたが、上田敏氏も矢来町や横寺町に住んでいたのです。

矢来町|文士罷り通る

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。これは「江戸の名残り」の「矢来町」。

文士罷り通る

 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
矢来町 左図を参照
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。
名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
その女の人は、お面をつけていた。

発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 右図を参照
学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治二十年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、二十四年からほぼ十年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治三十六年三月、本郷区千駄木町へ居を構えた。

竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて十八歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正二年のことであった。

矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮