日別アーカイブ: 2024年5月4日

出羽様下 再考

文学と神楽坂

 地元の方からです。

 東京は坂と谷の町です。数多くの崖があり、その高低差が「○○上/下」という地名になった場所が多くあります。たとえば千代田区の「九段下/上」「明神下」、新宿区の「馬場下」「池ノ上」などです。神楽坂周辺では「赤城下」「矢来下」などが坂や崖の下の地名です。
 このブログには「出羽様下」という、今では聞かなくなった地名が出てきます。
 これについて、改めて考察します。

「出羽様」は現在の神楽坂3丁目3番地にあった松平定安伯爵の神楽坂邸です。屋敷があったのはさほど長い期間ではなく、明治4年から明治26年までです。松平伯爵はその後、四谷に転居しました。
 松平家は出雲松江藩の元藩主で、官位は出羽守でした。四谷の屋敷のそばに「出羽坂」があり、今もそう呼ばれています。「出羽様」という呼び名が明治以降も一般的だったことが分かります。

 神楽坂の出羽様の屋敷は、南側の裏に崖があります。崖下は江戸期まで小身しょうしん(身分が低い、俸禄の少ない身分)の旗本などの屋敷でしたが、早い時期に町家に転じたことが明治16年東京測量原図で分かります。

松平邸と出羽様下(明治16年 東京測量原図)

 地形的に、この町家一帯が「出羽様下」と呼ばれたと考えるのが自然です。現在で言うと熱海湯を含む小栗横丁の西半分です。

 新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂附近の地名」の図は、「・出羽様下」の「・」の位置を間違えてしまったのではないでしょうか。

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

 竹田真砂子の「振り返れば明日が見えるー2」「銀杏は見ている」(「ここは牛込、神楽坂 第2号」牛込倶楽部、平成6年)では

 本多の屋敷跡は、明治15, 6年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正10年10月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。反対側、今の宮坂金物店の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。

矢来下

 「矢来下」ははるか江戸時代から使っている言葉です。万延元年の「市ヶ谷牛込絵図」では「矢来下ト云」と、「小日向絵図」では「矢来下」と書かれています。場所ははっきりとしませんが、「さとし歯科クリニック」「hurakoko」や「肉和食居酒屋 からり」の三叉路の西側から、「牛込天神町交差点」まで、あるいは「牛込警察署 矢来町地域安全センター」まででしょう。なお「牛込中央通り」は江戸時代にまだできていません。
 「牛込天神町交差点」から北の道路は現在「江戸川橋通り」と呼んでいます。
 しかし、「矢来下」の通りは別の観点から見たものもあります。佐多稲子氏の「私の東京地図」の「坂」(新日本文学会、1949年)では、

戦災風景

戦災風景 牛込榎町から神楽坂方面。堀潔 作

高台という言葉は、人がここに住み始めて、平地の町との対照で言われたというふうにすでにその言葉が人の営みをにおわせているが、今、丸出しになった地形は、そういう人の気を含まない、ただ大地の上での大きな丘である。このあたりの地形はこんなにはっきりと、近い過去に誰が見ただろうか。丘の姿というものは、人間が土地を見つけてそこに住み始めた、もっとも初期の、人と大地との結びつく時を連想させる。それほど、矢来下から登ってゆく高台一帯のむき出された地肌は、それ自身の起伏を太陽にさらしていた。

 この「矢来下」は文字通り「矢来の下」あるいは「矢来町の下」から「高台」に登っていく状況を描いています。まあ「矢来町の下」と「矢来下」とはその意味が違っています。
 さらに昭和5年の「牛込区全図」を見てみると……

昭和5年 牛込区全図

と、路面電車の停留所「矢来下」はまさに「矢来町の下」の意味で使っています。つまり「矢来下」は「矢来町の下」の意味に変わりました。ちょうど「牛込見附」が本来の意味から「駅」や「駅の周辺」という意味に付け変わっていくように。
 しかし、本来の「矢来下」は「牛込天神町交差点」から「さとし歯科クリニック」などの「三叉路」までの道路を指し示すものでした。